14 アンチ・ヒーローズ 魔獣狩りの人狼編 前編(了)
そして、現在。
「酷い有り様だ」
ロイクは蹂躙された村を眺める。濁流に呑まれ倒壊した家屋。崩れ、山となった氷壁の一部。人狼によって裂かれた大地。死人と巨海獣の、大量の死骸。その中心で血を啜る祖なる血魔。そして薄闇の中で赤く光る異種族殲滅用生体兵器の双眸。
「あの様子じゃ、生存者はいないだろうね」
ロイクは白い息を吐く。ジュルグ帝国 フューラルド地方は雪深い。
「魔獣狩りがここにいたのは間違いねーな」アニーシャルカがロイクの隣に立つ。「問題は野郎が『何』と戦ってたか、だ」
「アウグストの話じゃ、魔獣狩りは血魔を狩るためにここを訪れていたらしい」
二人の背後からバルガスが顔を出す。
「まあ、なんにしろ化け物同士の戦いだったわけだ。そして一足遅かった。そういえば俺たちが亜人の坩堝を訪れたときも、魔獣狩りと入れ違いだったらしい。とことんすれ違う運命だな」
バルガスは肩をすくめる。
サツキが魔獣狩り討伐を受諾したことで、ロイクとアニーシャルカもこれを了承した。二人はバルガスを同行させた。帝国領に侵入する。必要最低限の集団が望ましい。サツキ、クシャルネディア、ロイク、アニーシャルカ、せいぜいがあともう一人だ。本来なら帝国に詳しく実力も申し分ないアストリッドを仲間に引き込みたかったが、二度と帝国の地を踏むつもりはないと一蹴され、話し合った結果、バルガスに白羽の矢が立った。バルガスは帝国での仕事を多くこなし、ジュルグの裏社会との繋がりも深い。何よりクシャルネディア討伐を共に生き残った仲間だ。危険な仕事となれば、やはり信頼できる仲間に背中を預けたい。
帝国に侵入した彼等は、まず始めに亜人の坩堝を訪れ、そしてこの地に導かれた。
「ま、わたしは月の狼なんかに会いたくねーけどな。クシャルネディアよりヤバい怪物なんて勘弁してもらいたいぜ」
「俺から見ればお前もロイクも化け物だ。これで俺も九闘級に昇格したんだが、お前らといると肩身がせまい」
「そうだ、バルガスくん」ロイクが白い息を吐きながら振り返る。「亜人ギルドはなぜ魔獣狩りの居場所を、ああもあっさり教えてくれたんだ?」
「隠す必要が無いらしい」バルガスはにやりとする。「アウグストがいうには、魔獣狩りは挑戦者を歓迎しているそうだ。『オレを狩ろうとするなんて大馬鹿は歓迎しろ』それがガルドラク・ド・ガルガンジュの言いつけらしい。数々の逸話を知りながら自分に挑んでくるような馬鹿には、相手が何であれ、魔獣狩りは全力で殺り合うそうだ。さすがは序列第二層の化け物だ」
「戦闘狂ってのは本当らしいな。嫌いじゃねーぜそういう野郎は」
「アレを目の前にすれば、いくら君でもそんな軽口を叩けなくなるよ」
ロイクは苦笑する。彼は一度、魔獣狩りと対峙したことがある。ジュルグ帝国との国境紛争の折りだ。混沌渦巻く戦場で、ロイクは魔獣狩りを目撃した。くすんだ銀毛。極限まで鍛え抜かれた四肢。すべてを切り裂く鉤爪。剥かれた牙。そして獲物を物色するように戦場を見渡す黄金の瞳。体長は三メートルほどか。クシャルネディアの領域で五メートルの多頭獄犬と対峙した彼からすれば小さく・・・しかしロイクの記憶の中の人狼は、いまだ絶大な存在感を放っている。身体の大きさではない。巨人や巨大鬼のような物理的な圧力ではなく、ならばクシャルネディアのように膨大な魔力が生み出す絶望的な圧力かといえば、それも違う。
魔獣狩りの威圧感は、ただひたすらに狂暴だ。
その姿を見た瞬間、ロイクは殺された。全身を裂かれ、肉片となって地に落ちた。だが、それは魔獣狩りの殺気が見せた幻だ。くらましだった。戦場にいた全員がその幻に囚われ、一瞬我を忘れた。人狼は退屈そうに吼え、消えた。なぜ魔獣狩りが現れたのかわからない。戦場の熱気に引き寄せられたのか、あるいはジュルグ帝国に雇われたのか・・・なんにせよ、魔獣狩りは眼前の人間たちに何の興味も抱かなかった。殺す価値すらないと思ったのだろう。
圧倒的な強者。
最強の戦闘種族。
血に飢え、獲物を求める、原初的な獰乱さ。
闘いを求め、強敵を喰らい、殺戮を宿す魂。
(魔獣狩りの気配は)
ロイクはサツキを見る。最凶の異種族殲滅用生体兵器を。
(彼に似ている)
狩りという狂気。殺戮という凶気。それらに執り憑かれた獣ども。
「魔獣狩りとサツキくんの闘いか」ロイクは呟く。がらにもなく口調に熱がこもる。「凄まじい闘いになるだろうね」
「クシャルネディアの時もそうだ。特等席で見れるのはわたしたちだけだぜ」
「頬が上気しているぞ。闘いを想像して興奮しているのか?」
「そうだぜバルガス。濡れてきた」アニーシャルカは唇をなめる。「ま、化け物の相手はもうこりごりでね、やっぱり人間は身の丈にあった敵と殺し合うのが一番愉しいんだよ。せっかくジュルグに来たんだ。第八殲滅騎士団と闘りたい」
「アストリッドに言われただろう?猟犬とは闘うなと」
「わかってるよ。ここは帝国領で、あくまで獲物は魔獣狩りだ。できるだけ目立たず、問題を起こさず、スマートにな」アニーシャルカは血を啜る血魔の背を眺める。「なんせあんまりサツキの邪魔をすると、魔獣狩りに合う前に、クシャルネディアに殺されそうだ」
「禁足地から無事に生還できたのに、彼女の脅威は去らないらしいね」
「あんたにしては面白いことをいうな、ロイク」バルガスはため息をつく。「だが悲しいかな。あまり笑えない」
「まったくだ」
アニーシャルカもそう吐き捨てたが、こちらはどこか楽しげだった。
「野良犬が。殺してやる。絶対に殺してやる」
レヴィアは右腕の切断面を弄る。すでに血は止まっていたが、指先が傷口を抉ると、また出血がはじまる。噴き出す血が、傷口の痛みが、彼女の憎悪を膨らませていく。ガルドラクの姿がレヴィアの脳裏で再生される。鋭利な爪が右腕を斬り飛ばす。獣の牙が奴隷魔物を鏖殺する。魔獣狩りの顎が海竜を喰い千切る。
屈辱が甦る。
「たかが犬ごときがっ!」
レヴィアの叫びが寒空に響く。
彼女の周囲の雪が血に染まっている。肉片が所々に落ちている。散在する家屋は沈黙している。
ザラチェンコと別れ、レヴィアは雪の中をさ迷った。途中、帝国ギルドの集団や下級騎士団などに遭遇し、これを皆殺しにした。たいした理由はない。ただ彼女の中で燃え上がる憎悪が、全てを殺せと囁くのだ。レヴィアは修羅のごとき形相で歩み続け、小さな集落を見つける。人間の匂いがする。当然、殺し尽くした。
「アレは僕の獲物だ」
レヴィアは静かに月を見る。
月の狼の月を。
彼女の全身から巨海獣の咆哮が上がる。
レヴィアの奴隷魔物たちも主を傷つけられ、仲間を殺され、怒りにうち震えている。
「お前たちも怒ってるんだね」レヴィアは憎悪を込めて口を開く。「殺そうね。みんなでさ、あの人狼をなぶり殺すんだよ」
「ザラチェンコ騎士長が消えた」
窓外を眺めていたゲルマンはそう言うと、椅子に腰かけた。都市とはいえ、所詮は辺境の地だ。深夜ともなれば街は夜闇に沈む。ゲルマンの座る椅子が悲鳴のように軋む。彼は巨躯の男だ。筋骨隆々のその身体は鬼人に、あるいは巨人にさえ例えられる。のっぺりとした顔に、高い鷲鼻が目立つ。非常に特徴的な男であり、一度でもゲルマンを見た者はその姿を忘れない。
ジュルグ帝国 第八殲滅騎士団 副騎士長 ゲルマン。
「昨夜、国境砦に出向いて以来、行方不明だ」
「問題ないだろう。あの人が死ぬとは思えない」
ゲルマンの正面に座る青年が答えた。ゲルマンとは対照的な男だ。すらりとした肢体、引き締まった上半身、なにより眼を見張るほどの美青年。まるで一本のカミソリのような印象を与える男。
ジュルグ帝国 第八殲滅騎士団 副騎士長 ツァギール。
ザラチェンコの両腕と呼ばれる、二人の副騎士長。
大得物の扱いを得意とし、あらゆる敵を一撃のもと粉砕するゲルマン。
天才的な剣術により、返り血すら浴びず敵を切り刻むツァギール。
二人の技量は帝国騎士団の中でも図抜けており、その実力はユリシール王国ギルド十闘級に匹敵する。ザラチェンコさえいなければ、間違いなくどちらかひとりが騎士長の座に収まっていただろう。
「確かに、ザラチェンコ騎士長は化け物だ」ゲルマンは無表情にうなずく。「だが、現在のフューラルドは危険だ。血魔が蠢き、正体不明の存在に村や砦が荒らされている。敵の正体がわからない以上、やはり騎士長自らが赴くのは間違いではなかったのか」
「あの人が決めたことだ。僕たちが口を挟むことじゃない。それに血魔の件はもうすぐ片付く。魔獣狩りが動くんだ。もしかしたら、もう終っているかもしれない。・・・もっとも、騎士長からすれば闇王の血魔でさえ相手ではないかもしれない」ツァギールはゲルマンに笑いかける。「あの人の実力は、僕たち二人が一番よく知ってるはずだ。騎士長が負けるところを想像できるか?」
ツァギールの言葉に、ゲルマンは数秒押し黙り
「あり得んな」
「だろう?」
「だが、姿を消したのは事実だ」
「昨夜だろう?明日には戻るかもしれない」
「確かに。だが気になることがある」ただでさえ表情の薄いゲルマンの顔から、さらに感情が削ぎ落ちていく。「国境砦で二体の帝国騎士の死体が発見された。奇妙な死体だ。黒く変色し、液状化し、およそ嗅いだことのない刺激臭を立ち上らせていた。立ち合った魔術師の話によると、この死体は闇魔法の依り代として使われた可能性が高いそうだ。死体から身元を特定することは不可能だったが、少し離れた場所に頭部が二つ転がっていた。俺はその顔を知っている。昨夜ザラチェンコ騎士長の護衛として同行した者たちだ。どうやら一撃のもと、首をはね飛ばされたらしい」
「帝国最強を自負する僕たち騎士団の人間が、一撃で屠られたと?」
「鮮やかな、完璧な斬り口だ。俺はその切断面に見覚えがある」
ゲルマンは重々しく呟く。
「あれはザラチェンコ騎士長の太刀筋だ」
「ゲルマン、口を慎め」
ツァギールが鋭く眼を細める。
「騎士長に対するその発言、いくら貴様といえど赦される限度を越えている。帝国騎士団の秩序たる第八殲滅騎士団、その副騎士長の貴様が、我等が騎士長を疑うだと?」
「お前の言い分は理解できる。だがザラチェンコ騎士長がジュルグ帝国に忠誠を誓っているなど、まさかお前も本気で信じているわけではあるまい。騎士長はそんな男ではない。あの人は帝国を嘲り、仲間を嗤い、全てを冷笑している。上層部はその事に気づいていないが、長年側近とした仕えていた俺たちにはわかっているはずだ。ザラチェンコ騎士長は危険な男だ。下手をすれば帝国に仇なす存在になりえる」
ゲルマンの発言にツァギールはさらに眼を細めるが、今度は何も言わない。
「もし、騎士長が護衛を斬り捨て、姿を消したのだとしたら、これはまぎれもない反逆行為だ」ゲルマンは鉛のように重たい視線をツァギールに注ぐ。「そうだとしたら、お前はどうする?」
「狩らねばなるまい」ツァギールは間髪いれず答える。「たとえ騎士長といえど、逆賊を粛清するのが僕たち猟犬の使命だ。あの人の実力は恐ろしいほど身に染みている。だがそれでも喰らいつき、その喉笛を喰いちぎる、それこそが第八殲滅騎士団だ」
しばし二人の間に重苦しい沈黙が漂う。
口を開いたのはゲルマンだった。
「くだらない俺の推測に付き合わせて悪かった。忘れてくれ」
彼が椅子から立ち上がろうとした時
「実は僕もひとつ、気になることがある」
ツァギールが言った。
「なんだ」
「先ほど部下から報告があった。昨日ベルミヤル山脈の麓で、下級騎士が不審な人物を見かけたと」
「ベルミヤル・・・あの辺りは亜人の坩堝の縄張りだったな。大方どこぞの小国の人間が、仕事でも求めてやって来たんだろう」
「それなら僕まで報告は上がらない。下級騎士から報告を受けた僕の部下は、どうやらその人影の容姿が気になったらしい。女だ。茶色の癖毛に、蛇のような冷たい眼、そして魔方陣の浮いた曲剣をぶら下げていたそうだ」
ゲルマンの眉がピクリと動く。
「心当たりがないか?」
ツァギールの言葉に
「雷刃か」
ゲルマンは静かに答える。
「そうだ。ユリシール王国ギルドの十闘級魔法剣士 アニーシャルカ・デュム・ルガル。超危険指定魔物に分類される上級吸血鬼【血魔喰らい】を殺した女だ。王国でも随一の実力者、クシャルネディア討伐にも参加している」
「王国ギルドの十闘級が帝国領に侵入したと?」
「確証はない。下級騎士の目撃情報など、あてにはならない。だが、何かが引っかかる。血魔の集団、砦を襲った正体不明の殺戮者、魔獣狩りへの仕事の依頼、消えたザラチェンコ騎士長、そして目撃された王国ギルドの人間・・・もちろん、これらの凶事は偶然に重なっただけだろう。だが凶事は重なれば重なるほどより大きな災厄を生む。様々なことがこの辺境の地に集まりすぎている。嫌な予感がする。なにか」
ツァギールの言葉を遮るように、扉を叩く音がした。ツァギールが声をかけると、扉が開き、藍鉄色の鎧の男が入ってくる。彼は二人の副騎士長に敬礼すると、たった今届いたばかりの速報を伝えた。
「フューラルド地方を隔離していた警備団の駐屯地が何者かに襲われ、壊滅しました。生存者は無し、死体はすべて魔法により『吹き飛ばされた』ような悲惨な有り様ですが、魔術的痕跡は発見されていないようです。また無気味なことに現場には一滴の血液も確認されておらず、血魔のしわざと考えられましたが、しかし殺し方に疑問が残ります。なによりこの虐殺が起きた時にはすでに魔獣狩りが『町』に到着していたとのことで、いくら闇王といえど、我が国最強の魔狼 ガルドラク・ド・ガルガンジュから逃げられるとは到底思えません」
報告を聞き、ツァギールはゲルマンに視線を流し
「まったく、次から次へと」
ため息をつく。
「この地はどうなっている?」
「誤解しないでほしいんだが、俺は別に殺しが好きなわけじゃないんだ」
ザラチェンコは岩の剣を雪に突き刺すと、死体の上に腰かけた。大きな猿の死体だ。彼の周りには無惨に斬り殺された一角猿の群れが横たわっている。
「この雪の中、野宿をするなんて考えられないだろ?だから俺は少しだけ君たちの巣を間借りできないかと、そう思って近づいただけなんだ。そうしたらどうだ?いきなり襲いかかられた。群れ長は君だろう?部下の躾がなっていないんじゃないか?」
「貴様ハ人間・・・マシテ帝国ノ猟犬ダ・・・我々ノ敵ダ」
ゴルドドは血の泡とともに叫んだ。上半身に深い裂傷が刻まれている。
「人間?そう見えるのか?」
ザラチェンコは楽しそうに笑うと、眼を閉じ、そして開く。縦に裂けた蛇の瞳孔が現れる。絶対零度の視線が、ゴルドドの魂を凍りつかせる。
野生の魔獣であるゴルドドは、存在自体の格の差にすぐに気づく。
「貴様、一体ナニモノダ」
「地獄に堕つ五芒星だ」ザラチェンコは右手の甲を見せる。刻まれた逆五芒星。「まあ、覚える必要はない」
ザラチェンコが腕を軽く振ると、ゴルドドの全身が石化した。
「いい星空だ」
ザラチェンコはしばらく夜空を眺めていたが、立ち上がり、岩剣を引き抜く。
「いい加減、この剣にも飽きたな。それにガルドラクを殺すんだ。それ相応の武器でないとな」ザラチェンコは魔法を解く。岩剣がボロボロと崩れ落ち、風に吹かれ砂のように消えていく。「帝国を裏切るんだ。そろそろ父上の剣を返してもらうとするか」
蛮勇の騎士の死後、彼の振るった特大剣は皇族の手に渡り、様々な貴族や骨董家を廻りまわって、現在はある辺境伯が所有している。豚のように太った、肉袋のような男だ。ザラチェンコが最初にその侯爵に会ったとき、奴は幼い少年に『アレ』をしゃぶらせていた。侯爵の趣味は子供で、性別に興味は無いようだった。一目見て、ザラチェンコはその侯爵に嫌悪感を抱いた。奴の性癖などどうでもいいが、あのような男が父上の剣を所有し、汚らわしい手で父の魂を愛でるなど、本来赦されるわけがない。
いつか殺そうと思った。心の中で残虐な死を約束した。どうやらその時が来たようだ。
剣を取り戻し。
魔獣狩りを殺し。
イビルヘイムの棲まう古の塔へ向かう。
「なるほど。忙しくなりそうだ」
ザラチェンコは楽しそうに口元を歪めた。
「人狼の件はどうなってんだ?」
金属質な声が空気を震わせた。
忘れ去られた巨塔の上層、半壊した壁面から月光が射し込み、声の主を照らし出す。蠅と獣をどろどろに混ぜ、人の型に流し込んだような、冒涜的な魔物が嗤っている。
悪魔 ベルゼーニグル。
「話を聞く限り、魔物狩りが我たちに与するとは思えねえな。そもそも月の狼ってのはいつの世も戦闘狂と相場が決まってんだ。300年前の戦争でもそうだった。なあイビルヘイム、魔狼月牙隊を知ってるか?」
「もちろんだ」
闇の中からヌルりと髑髏が現れる。頭部から前方に、歪曲した角がせり出している。眼窩や口腔は塗り潰されたように黒く、身体は闇に溶けている。まるで塔の闇そのものがこの死霊魔導師を形作っているかのようだ。
「まあ、見たことはないがね。私の暮らしていた国は戦争初期に、黒竜によって滅ぼされている。死種転生の魔導術式を完成させておいたから蘇れたが、私が受肉したのは戦後だ。種族全面戦争、特に苛烈を極めた中、後期の事は文献でしか知らないんだ」
「もったいない奴だ。生体兵器が投入されてからの戦争は、まさしく地獄と呼ぶに相応しい様相を呈していたんだぜ?種族全面戦争なんて言ってるがな、アレは竜血族と異種族殲滅用生体兵器の為の戦争だ。天を埋め尽くす竜の影と、地を赤く染める殺戮者の集団。さながら1200年前の神魔戦争だ。イヤ、それ以上に酷かったかもな」ベルゼーニグルは快活に、かつ不気味に嗤う。「そんな二大勢力に、唯一正面切って喰らいついたのが狼王ボロスの魔狼月牙隊だ。イイねえ、バカでクソでイカれてるが、月の狼ってのはそうでないといけねえ。魔獣狩りもそういう手合いだろ?仲間になんかならねえよ。必ず我たちに牙を剥く。殺すしかねえ」
「そのためにレヴィアを送ったのだ」
「あの水魔精で大丈夫か?弱いわけじゃねえが、月の狼と殺り合うには、少しばかり力不足じゃねえか?」
「そのためにザラチェンコがいる」
「魔人だろ?」
「ただの魔人じゃない。英雄と闇蛇の血を継いだ魔物だ。ザラチェンコは敵の実力は正確に把握できる反面、自分の事を過小評価する男でね、つまらないジョークを飛ばし、無駄口ばかり叩いているから小物と思われがちだ。それに自分より格上を相手にすると、すぐに撤退を選ぶ。敗北や逃走に恥じらいがない。軽薄な男だ。だが奴の実力を、私はよく知っている。恐ろしいよあの魔人は。本気を出せば彼の剣は魔獣狩りに届きうる」
「オマエがそこまで評価してるんなら、期待できそうだ」
「吉報を待とう」
そういうとイビルヘイムはベルゼーニグルに背を向ける。
「お出掛けか?」
「そうだ」
「また悪巧みか」
「いや、大事な用事だ。我等が【王】に拝謁する。手土産もしっかり用意した」イビルヘイムは闇の中から一本の剣を引きずり出す。そう呼称されなければおよそ剣には見えぬ、黒ずんだ骨のような、腐敗した肉塊のような、あるいは獣の顎のような・・・一言では表現しきれぬ、おぞましい剣。刃から立ち上る凶々しい瘴気が空間を満たしていく。「これで四本すべてが【ギグ・ザ・デッド】の元に還る」
「オイオイ、現存する凶剣をすべて操るってのか?魔神の邪遺物を?ハハッ、さすがは【運命に選ばれし者】だ」
「我々地獄に堕つ五芒星を率いるに相応しい男だと思わないか?」
「まさしくな」ベルゼーニグルは六本の腕を広げ、歓迎を表現する。「何より選ばれし者が我たちの王になる、その皮肉の利き方が我好みだ。拝謁するのが楽しみだぜ」
「じきに会えるさ。魔獣狩りの件が片付けば、全員がこの塔に集結するのだから」イビルヘイムの存在が、完璧に闇に溶ける。「それまでは、暴れるのはもう少し辛抱してくれ」
そう言うと、イビルヘイムは完全に消えた。
「アア、我慢するさ」
虚空に向け、ベルゼーニグルは嘲笑う。
「これから死ぬほど暴れられるんだからよ」
体内から飢餓感が押し寄せる。亜人の坩堝でエルフを喰ってから、丸一日たった。先ほど海竜の首を喰いちぎったが、あんな少量で満たされるほど、オレの胃袋は貧弱じゃない。新鮮な肉を喰らいたい。熱い血潮を呑みたい。うまい臓物を貪りたい。水魔精との闘いにより消耗した身体が、獲物を求めている。
だが、ガルドラクはフューラルド丘陵の高台で、じっとしている。
飢餓感が全身に広がっていく。涎が溢れる。咽が渇く。牙が鳴る。獣の本性が鎌首をもたげる。強烈な本能を、ガルドラクは強靭な自我で抑え込む。
狂おしいほどの食欲。
狼の瞳が、殺意をおびる。
ガルドラクは嗤う。
「これでいい」
飢餓感は肉体を、精神を、魔力を研ぎ澄ましていく。
人狼の脳裏に水魔精と魔人が浮かび上がる。
「イイじゃねえか」
久しぶりに満足できそうな敵が現れた。
完璧な状態で相手をしなければならない。
最高の狩りにしなければならない。
肉体の飢餓感など、どうとでもなる。むしろ、それはガルドラクの闘争心を浮き彫りにし、殺戮本能を限界まで引き出す。だが、魂の飢餓感は、ガルドラクが求めるものは、そう簡単に埋まらない。120年前、飛竜と対峙したあの瞬間、ガルドラクは魂の欲望を完璧に自覚した。『強敵との死闘、それこそがオレの全て』その欲望の為に、群れを、仲間を、女を捨てた。同族が飛竜に喰い殺されていくのを眺めながら、ガルドラクは嗤っていた。愛も、友情も、彼にはもう必要ないモノだった。ただひたすらに、闘いを求めた。殺戮と死闘のみがガルドラクの飢餓感を満たすことができた。ガルドラクには何もない。狼王ボロスにさえ、群れがあった。魔狼月牙隊でさえ、仲間のために闘った。だが、ガルドラクは、自分のためだけに、己が欲望のためだけに、そして自らが最強だと、証明するためだけに、闘う。
狼王ボロスの誇りとは違う。
ひたすら利己的に、冷徹に、貪欲に。
ガルドラクは、孤高の矜持のために闘う。
夜空に腕をかざす。
掌と月が重なる。
ガルドラクの魂は、どこかで気付いているのかもしれない。極限まで研ぎ澄まされた人狼の無意識が、水魔精でも魔人でもない、第三者の存在を捉えていることを。自身を凌駕する『圧倒的存在』が、ジュルグ帝国に侵入したことを。
ゆえに、ガルドラクは言葉を紡ぐのかもしれない。
「何が来ようと、関係ねえ」
静かに、だが獰猛さを剥き出しに、一切の迷いなく断言する。
「最強」
月を握り潰すように、拳をつくる。
「そう、オレこそが、最強だ」
これより帝国に血の雨が降る。
【第三話 魔獣狩りの人狼編 前編(了)】




