13 ボロス
いびつな三日月が夜空に浮いている。
眼下には第四区画の下劣な喧騒と絢爛。
その向こうに広がるエーデル平原は夜闇に沈黙している。
サツキは首筋の呪いに指を這わせる。
蛇のようにのたくった、邪竜の呪術。
黒竜は死んでいない。
サツキの指先が首筋にめり込む。血が溢れ、腕を流れていく。サツキの指先が黒竜の魔力を感じ取る。心臓のごとく、呪術の中には黒竜の忌まわしい魔力が根付き、微かに、だが確かな鼓動をサツキの指先に伝える。黒竜の放った呪いには膨大な魔力が宿っていた。それは黒竜という存在が死滅しては維持できないほど強大な呪術だった。サツキは黒竜の片腕を斬り飛ばし、片眼を抉り、その心臓の大部分を『消滅』させた。だが、それでもなお黒竜は死なず、サツキに呪術を刻みつけた。
それにより制限されたサツキの力。
呪いは消えていない。黒竜は生きている。
325年前、サツキは見ている。
瀕死の黒竜の元に降り立つ五体の最上級竜を。その五体の守護竜も死の淵をさ迷っていた。翼は千切れ、腕は抉れ、あらゆる場所が切り裂かれている。サツキの名と血と魂に【殺戮の剣】であることを誓った異種族殲滅用生体兵器を相手にしたのだ。いくら五統守護竜といえど、無事ではすむはずがない。だが、壮絶な傷をその身に刻みながらも、守護竜は生き残った。
しかし、一体誰が生体兵器たちを非難できるというのか。
彼等は五統守護竜を抑えながら、数百体の竜血族を相手取り、これを殲滅したのだ。竜を、飛竜を、竜魔獣を、殺し尽くした。
同胞を殺され、黒竜を仕留め損なったサツキから放たれる禍々しい殺気は、たとえ魔力が封じられていようと五統守護竜に撤退を余儀なくさせるほどの、途方もない凶兆を含んでいた。
【たとえ呪いによりこの身が滅びようとも、黒竜を道連れにする】
言外に込められたサツキの殺意の迸りは、黒竜の生命こそを至上とする五統守護竜を刺激し、結果、竜血族の撤退をうながしてしまった。
サツキは黒竜を追うことが出来なかった。ゾラペドラスとの戦いによりその身に受けた傷と呪いがサツキから300年もの時間を奪った。
目覚めた時、竜血族は姿を消していた。
黒竜の行方は、ようとして知れない。
「寂寞とした、涼しげな場所ですね。月と闇がよく望めます」
「クシャルネディアか」
気がつけば、サツキの背後に血魔が立っていた。潤沢な黒髪が夜風に揺れ、月光に蒼白い肌が映える。サツキがいるのは王都を外界と隔てる壁の上だ。サツキは自閉的な傾向が強い。ひとりを好む。
クシャルネディアはサツキに歩み寄るが、不意に立ち止まる。サツキを中心におぞましい気配がドーム場に渦巻いている。彼女の肌が粟立ち、本能が警戒を発する。だがクシャルネディアの所作に異変は見られない。彼女はサツキの【剣】だ。何があろうと、畏れをみせるなど赦されない。
無造作に漏れ出す殺気。その意味を、クシャルネディアは理解する。
「竜血族について、黒竜について、考えていたのですか」
クシャルネディアは慎重に言葉を選ぶ。一月前、クシャルネディアはサツキの目の前で【ゾラペドラス】という黒竜の真名を口走ってしまった。瞬間、爆発的な赤い魔力に包まれたかと思うと、彼女の下半身が吹き飛び、両腕が抉れ、髪を鷲掴まれた。目の前に、緋色に染まった眼球が浮いていた。極限まで開かれた赤い瞳孔が、クシャルネディアの魂を射抜くように見つめていた。
『俺の前で、軽々しく奴の真名を呼ぶな』
底のない殺意に溢れた、ざらついた声がクシャルネディアに忠告した。
以来、彼女がその名を口にしたことはない。
「死臭がするな」サツキはクシャルネディアの質問を無視する。「血でも啜っていたのか」
「はい。バルガスに食事を用意させています」
「血を啜れ。力を蓄えろ。お前の魔力量は驚嘆に値するが、それでも俺の【剣】としてはまだ不十分だ」
クシャルネディアは頷く。
風が吹き抜ける。平原の匂いがする。
しばしの沈黙ののち。
「黒竜について何か分かったことはあるか?」
クシャルネディアに、サツキは問う。
「申し訳ありませんが」
粛々とした真祖の言葉に「そうか」と平坦な声が投げられる。
種族全面戦争で人類の人口は六割がた死滅した。国は崩壊し、都市は崩落し、文明は瀕死に追いやられた。様々な過去文明の遺産は消滅していき、今やそのほとんどが消失魔法技術と呼ばれ、わずかに残された文献は最重要機密指定文献として隔離されている。ユリシール王国の場合、この機密文献はすべて王立図書館特別資料室で閲覧することができる。入室条件は様々であり、少なくとも王国ギルド登録者の場合それ相応の闘級が必要になるが、クシャルネディア討伐隊の一員であったサツキには、無条件での閲覧が許された。サツキはここで資料を読み漁ったが、黒竜はおろか五統守護竜も、竜血族についてさえほとんど情報が得られなかった。
クシャルネディアも奈落に潜り、闇の情報を貪ったが、やはり竜血族について得られる事何もなかった。おそらく様々な超越魔物の所属する地獄に堕つ五芒星ならば、黒竜について何かしら情報を持っている可能性がある。奴等は【何か】を企んでおり、世界の情報を集めている。だがクシャルネディアの知る逆五芒星のメンバーは死霊魔導師と悪魔、あとは噂で聞いた獄炎の魔女だけであり、その行方もわからない。
「まあいい」サツキの瞳が濃紅に染まる。「俺にとって最大の敵が奴であるように、黒竜にとって最大の敵は俺だ。呪いを介して俺の生存は確認できる。奴が目覚めれば、必ず俺の前に現れる。必ずな」
ひりつくような緊張感が、空間を支配する。
「300年待ったんだ。今さら急ぐ必要もない。何であれ、黒竜は殺す。これ以上ないというほど、完璧に殺し尽くす」
一拍の間を置き。
サツキを包んでいた禍々しい殺気が霧散した。
黒竜を思考から追い出したのだ。
爆発的。
サツキに仕え、クシャルネディアが抱いた感情はそれである。サツキはあらゆることに、ほとんど興味がない。人類にも、異種族にも、魔物にさえほとんど関心を示さない。その顔色や動作からサツキの心中を読み取るのは難しい。冷静で、投げやりで、虚無的な男という周囲の評価は間違っていない。だが、クシャルネディアは知っている。サツキが激烈な男だと。憎悪、憤怒、愉悦、狂気・・・それらの感情が、冷水から熱湯に一瞬で沸騰する。とりわけ黒竜の事になると、サツキの内部であらゆる負の感情が連鎖爆発を起こし、煮えたぎる狂気は禍々しい殺気となって彼の奥から溢れでる。その状態のサツキは絶妙な均衡で、しかし同時に強固な意思をもって精神を支えており、その瞳で揺れる殺意の炎は全てを殺戮せんと蠢き、緋色の瞳孔は収縮を繰り返す。クシャルネディアはそういったサツキの前で【ゾラペドラス】と口にしてしまったのだ。下半身を吹き飛ばされるだけですんだのは、僥倖といえる。
冷水が熱湯になるのなら、その逆もまた然り。
サツキの憎悪は一瞬で氷結する。
彼は平静を取り戻す。
この病的な感情移動は、意図的なものだ。自身の内奥に潜む殺戮本能をコントロールする為に、サツキが身に付けた理性だ。理性とは重要なものだ。目にうつるモノ全てを殺していては、獣とかわらない。俺は獣ではない。同胞が英雄と崇めた最強の兵器、赤い鬼神と畏れられたNo.11、まさしく竜殺しだ。俺には誇りがある。127人の名と血と魂で形作られた誇りが。いや、俺そのものがドラゴンキラーの矜持そのものだ。そのような俺が、獣に堕するなど、赦されない。
第四区画が、さらなる喧騒に包まれる。
それに比例して、エーデル平原はより深く、闇に沈む。
「小耳に挟んだのですが、サツキ様にユリシール王国から依頼が舞い込んだと」
「そうだ」
「下等な魔物の討伐など、バルガスやアニーシャルカで事足ります。貴方の剣である私もいます。わざわざ人界の些末事にサツキ様が干渉する必要はないかと」
「そうかもな」サツキは腰の剣に手を当てる。「だが話を聞く限り、なかなか面白そうな相手だ」
「獲物は何なのですか」
「魔獣狩り」
サツキの返答に、クシャルネディアは沈黙する。
「知っているか?」
「はい」クシャルネディアは重々しく口を開く。「おそらく現世において、その名を知らぬ魔物はおりません。月夜に吼ゆる黄金の狂狼、夜の種族の牙と爪を受け継いだ、最強の狩人。悪名高い【獄炎の魔女】の極大魔法を咆哮だけで相殺せしめた、【軍蟲主カ・アンク】が放った千をも越える兵蟲を嗤いながら鏖殺した、何より有名なのがこの話です。魔獣狩りはジャルガ山岳を縄張りとする飛竜の群れを、たった一匹で喰らい尽くしました。竜血の末裔さえ、あの人狼からすれば餌です。魔獣狩りの逸話はとどまるところを知らず、その異名は三千世界に轟きわたり、あの人狼を目撃した者たちは口をそろえてこう呟きます。曰く『魔狼月牙隊の再来だ』と」
「懐かしい名だ」感慨深げに、サツキは口を開く。「魔狼月牙隊と狼王ボロス。全面戦争時、魔獣の中で唯一俺に血を流させた人狼どもだ」
「戦ったのですか」
「奴等を殺したのは俺だ」
サツキの嗤い声が漏れる。
「壮絶な獣どもだった。俺の記憶に爪痕を残すほどにな」
サツキは腰から剣を抜く。だがその剣には刃がない。漆黒の柄に刻まれた魔方陣だけが夜闇に浮かび上がる。
晴れ渡る夜空。
不気味な三日月。
だが、あの夜は雨だった。豪雨だ。フューラルド丘陵に打ちつける雨音が耳を聾する。
『我らの血は、跡絶えん』
死の直前、狼王はそう言った。
巨躯の獣。狼の頂点に君臨する、人狼の王。だがその魂は、もはや風前の灯火だ。左腕は千切れ、右脚は斬り落とされ、体毛は血に濡れている。その身は幾重にも弾ぜ、抉れ、血と臓物が足元を汚す。もはや死は避けられぬ身、しかしボロスの殺意と闘志は揺るがない。黄金の瞳は目の前のサツキに注がれている。数多の裂傷を抱えた生体兵器。裂かれた皮膚から血が滴る。傷は骨にまで達している。狼王率いる人狼の群れを相手にしたのだ。サツキといえど、無傷ではない。
『俺がここまで血を流したのはザルトニア砦防衛戦で五統守護竜を二体、相手取って以来だ』サツキは裂かれた頬をなぞる。指先にべっとりと血がまとわりつき、雨に流されていく。『お前等の戦闘能力は最上級竜に匹敵する』
サツキの周囲には人狼の死骸が散乱している。
魔狼月牙隊の亡骸が。
『それでも、貴様には届かない』
ボロスは血の塊を吐く。
『この魔力量、まるで黒竜だな』ボロスは牙を剥き、サツキから立ち上る赤い力場を睨む。高密度の魔力は空間を緋色に染めている。『なるほどな・・・これが噂に名高いNo.11か・・・異種族殲滅用生体兵器とは何度か争ったが、貴様は文字通り格が違うようだ。魔語で鬼神を意味する【サツキ】、それが貴様の名前らしいな・・・名は魂を写す鏡・・・人間が鬼神をかたるか・・・だが、貴様にはふさわしい』
傷が開く。ボロスの全身から血が吹き出す。
サツキは右腕をかかげる。その手の先には、赤い刃が、魔剣が握られている。
『何か言い残すことはあるか?』
今際の際にサツキが声をかけるなど、これまで無いことだった。サツキ自身、驚いていた。
(まさか俺が人狼に敬意を払うとはな)
だが、それだけの戦いだった。竜血族でさえ畏れるサツキを相手に一歩も退かず、一時も揺るがず、一瞬も弛まなかった。群れを逃がすために、黒竜と並び称されるドラゴンキラーに立ち向かったのだ。
ボロスの瞳に後悔の色はない。
いまだ燃えるのは敵意のみ。
その眼を、サツキは気に入った。
『我らの血は、跡絶えん』
決然と、吼えるように、ボロスはいい放った。
『我らの血は滅びない。魔狼月牙隊の血は滅びない。逃げのびた子供たちが、必ず血を繋ぐ』
『お前を殺して俺が追えば、それで終わりだ。月の狼といえど、女子供が俺から逃れることなど不可能だ』
『それでも、繋がるさ。ガルムスファンギの、狼王の血だからな』
ボロスは血に濡れた唇を歪め、最後に笑った。
『必ず繋がる』
サツキの降り下ろした魔剣が、狼王の存在を斬り飛ばした。
とてつもない衝撃波が大地を蹂躙した。
一瞬、雨が消し飛んだ。
すべての音が消失した。
人狼の肉体は原型をとどめず、散らばった肉と骨だけが、ボロスの魂の余韻となった。
雨が、また降り始める。
『血を繋ぐ、か』サツキは虚無に沈んだ瞳で死骸を見る。『俺には理解できない感情だ』
軍部からの命令は月の狼の殲滅。すべての血を絶やせ、それが異種族殲滅用生体兵器に与えられた使命。だが、戦場でサツキに指図できる者などいない。軍部だろうと国だろうと、戦禍の中心に立つサツキに異議を唱える事など赦されない。
『血の為に死ぬか』
魔剣から赤い刃が消失する。
吹き荒ぶ赤い魔力が、薄れていく。
『逃げたところで、竜血族に喰われて種は滅ぶだろう』
サツキは若輩の月の狼が逃げ去った丘陵を見据える。夜は豪雨に煙る。鏖殺は簡単だ。年若い人狼を殺すなど、あまりにも容易い。
だが、サツキは追撃をやめた。
これは敬意だ。
魔狼月牙隊は、それだけの闘志をサツキに示した。
狼王は、それだけの殺意をサツキに見せつけた。
気まぐれかもしれない。
明日には気が変わるかもしれない。
だがこの場において、サツキは剣を納める。
彼等の名と、血と、魂を代償に、追撃を取りやめる。
『だが、もしこの戦争を生き抜くことが出来たなら』
サツキの嗤い声が雨空にこだまする。
『繋げてみろ』
先ほどと変わらぬ、不気味な三日月。第四区画の喧騒。エーデル平原のざわめき。眼下にうつるは、325年後のユリシール王国。
「魔獣狩り」
サツキはその名を呟く。
魔狼月牙隊の再来と謳われる、一匹の獣。飛竜さえ餌とする、最強の戦闘種族。
「繋がったらしいな」
サツキは右手に握る剣の柄を眺める。二月前のあの日、クシャルネディアが忠誠の誓いをたて、サツキに献上した一本の剣。消失魔法技術に指定される異種族殲滅生体兵器の為の刃。
超高密度魔力圧縮形状固定武器【魔剣】
サツキの禍々しい魔力を刃の形に固定し、絶大な破壊力を生み出す殲滅の剣。
雑魚を斬る為の剣ではない。現状のサツキでは、刃を形成することはできない。魔剣は膨大な高密度魔力を必要とする。つまり、サツキは『解放状態』でのみ、魔剣を振るうことができる。そしてサツキは、まだ一度も魔剣を使っていない。相手がいないのだ。せめてクシャルネディア級の存在でなければならない。隔絶した超越魔物でなければならない。そう、それ相応の
「化け物でないとな」
圧し殺したサツキの嗤い声が、ゆっくりと風に溶けていく。
「その依頼を、受けるのですか」
クシャルネディアの声に、はじめてサツキは振り返る。クシャルネディアはサツキの表情に、肯定を見出だす。
「でしたら、どうか私の同行をお赦しください」
彼女は膝を折ろうと思った。頭を下げようと思った。懇願しようと思った。だが、それらをサツキは好まない事を彼女は知っている。種の頂点に君臨する者が跪くなど、祖なる血魔が無様に頭をたれるなど、何より殺戮の剣が哀願に顔を歪めるなど・・・たとえこの身が灰に還ろうと、そんなことはあってはならない。もしそのような愚劣な行為に身を落とせば、サツキは平然とクシャルネディアを殺すだろう。
だからこそ、クシャルネディアは赤い瞳を直視する。
言葉と視線のみで訴える。
しばらくの間、サツキはクシャルネディアを眺め
「好きにしろ」
ざらついた声が答えた。
三日後、魔獣狩り討伐依頼をサツキが受諾する。




