8 サヴェッジ
赤い瞳の男はミロなど存在しないかのように傍らを通りすぎ、死の町を見る。夥しい巨海獣の死骸、破壊し尽くされた町並み、蹂躙された大地、それらは全て裂かれ、裂かれ、裂かれている。
男の不気味な空気に気圧され、ミロはしばらくその背を見ていたが、徐々に彼女の内奥で屈辱の炎が燃え上がりはじめる。禍々しい気配を纏っているとはいえ、あの男からは欠片の魔力も感じない。間違いなく人間だ。その事実にミロの屈辱が煮えたぎる。餌であり、玩具である下等な人間に、一瞬とはいえ畏れを抱くなど・・・彼女は気づいていないが、この憎悪は間違いなくザラチェンコに植え付けられた恐怖が関係している。穢れた血の魔人。闇王が人間に蔑まされるなど、あってはならない。
ミロの前方の空間が歪む。 上位闇魔法【永えの闇】。裂かれた空間から牙蝙蝠が無数に飛び立つ。歪な三本の牙を持つ巨大な蝙蝠。彼女の扱う奴隷魔物。ミロは憎悪を込めて命ずる。
「あの人間を殺して」
牙蝙蝠は鳴き声を上げ、男に向け加速する。
だが。
「闇王風情が、サツキ様に何をしようとしているの?」
ゾッとするほど冷たい声が響いた。
牙蝙蝠が灰に変わる。
ミロは眼を凝らす。月光の薄明かりの中に、黒い霧が漂っている。
その霧が一瞬でインプを滅したのだ。
彼女の中を流れる血魔の血が、まるで凍りついたように冷えていく。
「貴女のように愚劣な存在が私の眷属に名を連ねているのかと思うと、筆舌に尽くしがたい怒りを感じるわ」
黒い霧から『ずるり』と女が現れる。美しい女だ。足元まで届く潤沢な黒髪、闇夜に発光する蒼白い肌。凄惨な美を湛えた顔には、侮蔑とも憤怒とも思える陰が射している。
ミロの全身が震え始める。彼女はその女を知っている。その名を知っている。知らないわけがない。【始まりの血】と呼ばれる血魔の原点。
「ク、クシャルネディア様・・・」
クシャルネディアは怯える彼女に笑いかける。
「わかってるわ。知らなかったのよね。あの方が誰なのか、わからなかったのよね。でも、無知とは罪を指し示す言葉なの」クシャルネディアの蒼い瞳がギラリと光る。「たかだか闇王の小娘が、サツキ様に敵意を向けるなど、あってはならない事なのよ」
膨れ上がるおぞましい魔力に、ミロの頬を涙が滂沱として流れた。始祖を前にすれば、どのような血魔も無力だ。各地で反乱を起こしている闇王たちも、その頂点で浮かれていたドラキスも、クシャルネディアが消えたからこそ騒いでいたに過ぎず、ひとたび祖なる血魔が玉座に戻れば、彼等に赦されるのは跪く事だけだ。もはやミロに自由意思は無い。全てはクシャルネディアの意のままだ。
「いかがしますか?」
クシャルネディアはミロの処置を赤い眼の男に、サツキに求める。
サツキは少女を一瞥し
「喰え」
残忍に言い放つ。
「その血魔だけじゃない。この町に散らばる死人の血も、巨海獣の血も、全てを喰らい尽くせ。お前が俺の【殺戮の剣】を自認するならば、さらなる力とさらなる魔力を手に入れろ」
サツキの両眼が混沌とした殺意に染まる。
「俺の目的こそがお前の目的と知れ」
「心得ております。たとえこの身が灰になろうと、たとえこの魂が塵になろうと、必ずやサツキ様を黒竜の前に。必ず、そこに至る道を切り開きます」
クシャルネディアは、ミロの首筋に喰らいつく。
鮮血が迸る。
真祖の食事が始まる。
サツキは月の狼と水精魔の激闘の結末を眺める。
「この爪痕、奴等を思い出す」
かつてサツキに立ち向かった人狼たち。最強の異種族殲滅用生体兵器を前に一歩も退かず、戦い、散っていた魔狼の群れ。狼王ボロスと魔狼月牙隊。数いる魔獣の中で、今なおサツキの記憶に傷痕を残した強者ども。
「魔獣狩りか」
サツキは呟く。
月下に潰滅した町。
吹きすさぶ寒風。
漂うは血と魔と獣の臭い。
その臭いは、まさしく戦場の臭い。
異種族殲滅用生体兵器にふさわしい、死の臭い。
魔獣狩り、地獄に堕つ五芒星、そしてドラゴンキラーがジュルグの地に降り立った。
これより帝国には血の雨が降る。
だがそれは、少し先の話。
その前に、刻はいったん遡る。
※※※※※
数十日前。
ユリシール王国 王都 第四区画。




