6 ガルム・スファンギ
レヴィアは跳躍し、空中に着地する。浮いている。いや、違う。眼を凝らせば見えるだろう。彼女の足元に極薄の氷が出現している。その薄氷を足場に、レヴィアは宙に立つ。水精魔は水と氷を自在に操る。
「僕の獲物だ。お前は血魔と戯れてろよ」
「御言葉に甘えて、そうさせてもらおう」
ザラチェンコは宙を駆けるレヴィアの背に、最後の忠告を投げる。
「油断するな。相手は最強の人狼だ」
レヴィアは答えるかわりに、中指を立てる。そして月夜に消える。
「下品な水精魔だ」ザラチェンコは嘆息する。「顔は悪くないんだが、むしろ俺の好みでね、是非ベッドを共にしたいくらいだが、いかんせん性格がな。少しじゃじゃ馬過ぎる」
ザラチェンコは岩剣を肩に担ぐと血魔たちを見回す。ドラキスを筆頭に、全員が臨戦態勢に入っている。
「俺の血を嘲笑ったんだ」ザラチェンコの蛇眼が鋭く光る。「特に闇王、貴様らはただで死ねると思うな。ゆっくりと悲惨に殺してやる」
そうして鏖殺が始まる。
ガルドラクは地疾る。滑るように高台を降り、雪原を駆け、死の町に踏み入る。血生臭い空気が漂い、死体の悪臭が鼻を突く。ガルドラクは違和感に眼を細める。食人鬼の姿が見えない。吸血鬼の気配がない。町は静寂に沈んでいる。
「お前が魔獣狩りか」
頭上から少女のような声が聞こえた。眼を向けた瞬間
豪雨が降り注ぐ。
空に雲はない。とすれば雨ではない。そもそも雨であるはずがない。降り注ぐ水滴は雪を抉り、地面を穿つ。まるで幾千もの剣が降っているかのようだ。
水魔法【雨穿ち】
ガルドラクの周囲数十メートルに深い深い穴が開く。だが、その豪雨の中心に立つガルドラクは無傷だ。全身を覆う豪銀毛はあらゆる攻撃から肉を守る。120年前ならいざ知らず、現在の魔獣狩りの体毛は飛竜の牙すら通さない。
不意に雨が止む。ガルドラクはびしょ濡れだ。指先から水が滴る。視界が水煙でけぶる。
「堅いな。水も滴るイイ狼ってヤツだ」少女のような嘲り声。次いで冷酷な魔語。「凍れ」
ガルドラクの周囲が凍結する。水魔法から氷魔法への転換。巨大な氷塊にガルドラクは閉じ込められる。だがそれも数秒だ。ガルドラクを覆う氷面に亀裂が走り、次の瞬間には粉々に砕け飛ぶ。ガルドラクの筋肉は膨れ、銀毛は逆立っている。毛に付着した氷片を身震いで弾く。この身震いだ。ガルドラクは身震いだけでレヴィアの氷魔法を粉々に砕いた。金色の瞳が頭上のレヴィアを捉える。唸り、牙を剥き、人狼は睨む。
「誰だテメェ。血魔じゃねぇな」
「どーも。地獄に堕つ五芒星でーす」
レヴィアは髪をかき上げうなじを晒す。逆五芒星の刻印。
ガルドラクはその刻印を知っている。殲滅騎士団ザラチェンコの羊皮紙に描かれていた刻印。そして50年以上前、黒い焔を統べる魔女の右眼を覆っていた象徴。ガルドラクの眼がすわる。あの魔女は強かった。ガルドラクが楽しめるほどに。目の前の少女とも少年とも取れる魔物は、あの獄炎の魔女と同じ象徴を刻んでいる。という事はつまり、あの魔女の関係者か、あるいは同胞か・・・どちらにせよ、ただの魔物ではあるまい。
「おっかない顔すんなよ。ちょっと試しただけ」
「ああ?」
「お前が僕らの仲間足りうるか、確認したかったんだよね。まさか防御もせずにアレを食らって無傷だとは驚いたよ。ジュリアーヌが言うように怪物てわけだ」レヴィアは宙に張った薄氷から跳び、ガルドラクの前に降り立つ。彼女は軽やかに人狼に右手を差し出す。「僕はお前に二つ提案がある。一つはこの手を取り組織の一員になること。二つ目はこの手を払い、僕の申し出を拒否すること」
「組織?」
「そう。殺戮を愛し生者を憎む異形の化け物。圧倒的な力を持ちながら世界に虐げられてきた魔の住人。超越魔物のみが所属を許される闇の組織、それこそが地獄に堕つ五芒星。僕たちはね、これから世界を征服する」レヴィアは屈託なく言う。「楽しそうでしょ?」
「興味がねえな」
「それは拒むって解釈でいいわけ?」
「好きにしろよ」
「拒むとなると、お前は邪魔な存在になる。僕らは障害を全て排除する。つまり、今、この場で、お前を殺す」
「オレを殺す?」レヴィアの発言にガルドラクの口がつり上がる。「そいつはイイ。血魔より数倍楽しめそうだ」
獰猛な笑いが静寂を破る。
「頭のイカれた狂犬ってのは本当らしいな」
「オレを殺してみろよ。そうしたらオメェの組織に入ってやる」
「言ってる事が無茶苦茶だな。お前みたいなイカれは殺処分だ」
レヴィアの右肩から海巨触の触腕が八本飛び出したかと思うと、鋭利な鉤爪が立ち、超速度でガルドラクに襲いかかる。岩盤を粉々にする威力と、到底眼で追えないほどの速度を持つ猛攻が上下左右から迫る。だがガルドラクは平然とその攻撃を捉える。あらゆる角度から、タイミングをずらして打ち込まれる触手を軽々と捌く。八本の触手はガルドラクに届くことなくミンチになる。人狼の動体視力は数いる魔獣の中でも最強だ。325年前の種族全面戦争時、【狼王ボロス】率いる人狼集団【魔狼月牙隊】は竜血族、そして異種族殲滅用生体兵器相手に生き残った唯一の種族だ。人狼には三つの武器がある。そのうちのひとつが【眼】、動体視力だ。ドラゴンの魔力の流れを読み、ドラゴンキラーの魔剣を見切る双眸があったからこそ、人狼は戦場で生き残る事ができた。ゆえに長寿人狼の魔眼は【天眼】と称され恐れられる。敵の動き全てをことごとく捉えるその眼はまさしく千里眼。ガルドラクに追えないモノなどない。
触腕の傷口が泡立ち、そこから新たな触腕が生える。海巨触は非常に生命力が強く、触腕などの器官なら血魔並みの超速度で再生する。再生と同時に追撃。そして飛び散る血肉。再生。血肉。再生。血肉。血肉。血肉・・・ガルドラクの攻撃回数に再生が追い付かなくなる。凄まじい連撃。たまらず海巨触はレヴィアの体内に逃げる。それを追うようにガルドラクは地を蹴る。一瞬、という表現すらなまぬるい。それほどの速度でガルドラクはレヴィアとの間合いを詰める。
人狼には三つの武器がある。そのひとつが【疾さ】だ。圧倒的な速度。常軌を逸した攻撃回数。瞬きする間にガルドラクの爪が数十回、レヴィアを切り裂く。しかしその連撃は『ずぷり』とすり抜ける。レヴィアの身体が液状に変化する。上位水魔法【水の血肉】だ。全身を液状化し物理攻撃を無効にする。これはクシャルネディアの扱う霧状変化に近く、つまり肉体希釈に分類される魔技だ。水精魔のように肉体の脆い種族はこうしてその欠点を補う。
「残念でした」
レヴィアは嗤う。
「気にするな。すぐに死なれちゃ楽しめねえ」
応えるようにガルドラクも嗤う。
水精魔と月の狼の戦いが始まる。
「騎士は男に剣を突きつけて『コイツをテメぇのケツの穴に突き刺してやる』すると男はガタガタ震えながら蚊の鳴くような声でこう言った。『やめてくれ。そんな物を尻に入れられたら死ぬ前にイッちまう』ってな」そこまで言うとザラチェンコは声を上げて笑った。しばらくそうしてひとり笑っていたが、血魔は何の反応も示さず、やがて興が削がれたように彼は笑うのを止めた。
「人のジョークには笑って応えるのが礼儀ってものだ。君たちはそんなことも知らないのか?」
やれやれ、とザラチェンコは首を振り、ドラキスの首をはね飛ばす。頭部はすぐに再生する。
「便利な身体だな。しかし俺の君たちへの行いはまさしく誅戮だ。痛みもなく、欠損を瞬時に再生されては罰にならない」ザラチェンコは剣の柄に手を当てる。「これを知っているかな?」
腰から短剣を抜き、跪く三体の闇王の鼻面に晒す。周囲には石化し砕かれた血魔の死骸が無数に広がっている。ドラキスはザラチェンコを睨み、しかし身体は言うことをきかない。腰から下、そして肩から先が石化している。完全に身動きを封じられた。
「この短剣は【神聖なる杭】と言ってね、シュラメール魔術王国の極秘魔武具だ。我が国の諜報員がシュラメールから製法を盗み出し、帝国随一の職人と魔術師達に作らせたのがコレだ。溶かした純銀に砕いた魔水晶を練り込みそこに光魔法を何重にも掛け・・・まあ、詳しいことは知らないが、ようはこの短剣には膨大な光属性が宿っている。まさしく夜の種族を殺すための武器だ。一本作るのに金と時間が掛かり過ぎるらしくてね、支給されているのは第三戦魔騎士団、第五聖光騎士団、そして俺の第八殲滅騎士団のみだ」ザラチェンコはドラキスの右眼に剣を突き刺す。肉の焦げる臭いと黒い煙が立ち上る。闇王は絶叫する。血魔は絶え間ない損壊と再生の果てに痛覚を失う。だが神聖への耐性だけはそうはいかない。「痛いか?皮膚ならまだしも、体内に直接光魔法を流されているんだ、さぞ苦しいだろう。俺への侮蔑を謝罪すれば、楽に殺してやらんこともない」
ドラキスは悶えながらザラチェンコの顔面に唾を吐く。
「そうか」ザラチェンコは残念そうに顔を拭い、ドラキスの眼窩から短剣を引き抜くと、耳を斬り、鼻を削ぎ、首を抉る。光魔法により血魔の魔力系統が乱され、再生が遅れ、苦痛が増す。ザラチェンコは最後に左胸に短剣を突き刺す。深々と肉を焼き、刃先が心臓に届く。先ほどとは比べ物にならないほどの慟哭が寒空を掻き乱す。ザラチェンコはドラキスの眼を覗き込み、そこに苦悶を見てとると、愉悦に口元を歪める。「さすが闇王だ。すぐには死なないな」
魔人の快活な笑い声。
ミロとリロは恐怖に震える。目の前の男は魔人でありながら、間違いなく超越魔物だ。あれだけの眷属をやすやすと石に変え、ドラキスを子供のように跪かせ、拷問を加えている。双子はこの場から逃げる方法を考える。だが石の四肢でどうすればいいというのか。
「いや失礼。君たちの相手がまだだった」すまなそうな表情でザラチェンコが双子の前に立つ。「安心してくれ神聖なる杭ならもう一本ある」ザラチェンコは短剣で双子の頬をなぞる。肉が溶ける。煙が漂う。二人は震える。拷虐の双子と呼ばれる二人だが、まさか自らが犠牲者になるなど考えたこともなかった。双子は哀願をたたえた瞳をザラチェンコに向け、震える唇を開き、しかし魔人の冷たい声に遮られる。
「それじゃあ、どちらから始めようか?」




