エピローグ『蠢動する五芒星』
暗黒を纏った男がひとり、薄闇の彼方を見ている。地平線は瑠璃色に色づき、夜の終わりを予感させる。
闇を羽織った男が立っているのは朽ち果てた塔だ。巨塔だ。天を貫くようにそびえた旧世界の遺物。神の時代か、竜の時代か、あるいは人の時代か・・・その塔がいつ建てられたのか、もう知るものはいない。もはや不要の産物。見棄てられ、崩壊を待つだけの、無用の長物。それゆえここには瘴気が溜まり、妖気が満ち、邪が生まれる。【魔】が棲み付いたのは、半ば必然であろう。
「よう、イビルヘイム」
名を呼ばれ、男は振り返る。歪曲した二本の角を持つ髑髏。強欲なる探求者、死霊魔導師 イビルヘイム・ユベール。
「ベルゼーニグルか」
「そう、我だ」
金属質な、薄気味悪い声が嗤う。不気味な魔物だ。どう形容すればいいのか・・・蠅と獣を混ぜ合わせ、人の型に流し込めば、あるいはこの魔物の姿を垣間見れるかもしれない。大きな複眼を持ち、昆虫の口器と獣の牙を融合させたような口。節のある六本の腕。それは確かに蠅の物だが、跗節からは六本の指が生えている。背には四枚の羽があり、時おり空気を震わせる。
冒涜なる魔物。
悪魔 ベルゼーニグル・ニグニング。
「禁足地を見に行ってきたぜ」
「どうだった?」
「噂は本当かもな」
「クシャルネディアが討滅されたと?」
イビルヘイムの問いにベルゼーニグルは肩をすくめる。
「確信は、無い。だが『何か』と争ったのは確かだ。クシャルネディアの領域は」悪魔は六本の腕を大きく広げ「見るも、無惨に、消え失せてた」
「噂によればユリシールの人間たちがクシャルネディアを仕留めたと」
「あり得ないな。戦いの爪跡を見る限り、クシャルネディアと殺り合ったのは人間じゃあない。間違いなく魔の側に属す者だ。超越魔物、あるいはそれに匹敵する力を持つ『何か』だ」
その噂が囁かれはじめてから、すでに二度、月が満ちている。
曰く真祖が滅ぼされた。
曰くユリシール王国が祖なる血魔の領域に攻め要り、これを仕留めた。
曰く禁足地はついに人の領地となった。
そして恐らくこの噂がもっとも眉唾物であろう。
曰くクシャルネディアが人に仕えた。
「偽装の可能性は?」
「偽装?」
「我々から逃れる為に、クシャルネディアが死を装った可能性は?」
「あの血魔がそんな事をすると思うか?」
自ら質問しておきながら、イビルヘイムは答えをわかっていた。
あり得ない。
クシャルネディアが恐れをなし、逃げることなどあり得ない。
そのような魔物なら、はなから仲間に引き込もうなどしない。
再び地の彼方を遠望するイビルヘイムに
「まあ、イイじゃねえか」
ベルゼーニグルが愉しそうに言う。
「クシャルネディアの生死なんて、もうどうでもイイだろ。誰が殺ったのか知らないが、死んでるなら御の字だ。もし生きてるのだとすれば、いずれ相見える。我たちは、これから暴れるんだからよ」ベルゼーニグルは甲高い嗤い声を上げる。「強大な魔力は強大な魔力を引き寄せる。あの女が生きてるなら、もう一度我たちの前に現れる。その時に殺せばイイ。障害は全て排除する。それが【地獄に堕つ五芒星】なんだろ?」
「その通りだ」
「なら、消えた真祖にかかずらってる暇はねえだろ。障害足りうる存在は他にもいるんだからよ」
「貴様に説教をされるとは、私も堕ちたものだ」
「安心しろ。悪魔である我以上に、堕ちた存在なんかイヤしない」
クックッ、とベルゼーニグルは嗤い
「とりあえず予定通り、ジュルグ帝国の【アイツ】を殺すべきだろ」
「殺すと決まった訳じゃない。是非ヘル・ペンタグラムに引き込みたい。あの人狼は欲しい」
ジュルグ帝国には一匹の人狼がいる。辺境の地を縄張りとし、魔獣でありながら同族を狩る事こそを至上の喜びとする、戦闘狂の狩人。長寿人狼、月の狼、呼び方は様々だがジュルグ帝国領ではこう呼ばれる。
【魔獣狩り】と。
「数十年前に、ジュリアーヌが魔獣狩りと一戦交えている」
「ヘェ、あの魔女がね」
「彼女曰く『二度と戦いたくない相手』だそうだ」
「ヘェヘェヘェ、【獄炎の魔女】にそこまでいわしめるとは、なかなかの野郎だ」
「欲しいだろう?」
「手に入るなら、な」
「数日前に我等が同胞が帝国へ向かった。吉報を待とう。そして」イビルヘイムは骸の腕を掲げ、拳を握る。「魔獣狩りの件が片付けば、遂に我々は表舞台へ躍り出る。神の世に蔑まれ、竜の世に嘲笑され、人の世では奈落に潜み・・・しかしそれも御仕舞いだ。これより我々【魔】が世界を統べる。現世と幽世を反転させ、この世に地獄を生じさせる。あらゆる種族は我等に隷属し、魔を崇め、邪悪を誇る」
「イイね。愉しそうだ」ベルゼーニグルは興奮したように語尾を上擦らせる。「と、いうことはつまり、全員集合ってわけだ」
「そうだ。隔絶した力を持つ超越魔物。殺戮を愛し生者を憎む異形の化け物ども。我々【地獄に堕つ五芒星】が、ついに一堂に会する」
イビルヘイムの嗤い声が高らかに響く。感情を表に出さないこの死霊魔導師があからさまな歓喜を示すなど珍しい。
地平線の彼方から太陽が現れる。
世界は朝を迎える。
その陽光を見つめながらイビルヘイムは告げる。
あたかもそれが宣戦布告のように。
決然と言い放つ。
「始めよう。これより世界は悪夢に魘される」
【第二話 真祖・クシャルネディア討伐編 了】




