10 狂戦の前
「ロイク!」
切迫したミーシャの叫び声と、側面から獰猛な気配が現れたのは同時だった。ロイクは多頭獄犬と死闘を繰り広げていた。強烈な突進をなんとか避け、すばやく起き上がった瞬間だった。真横から剛爪が迫っていた。咄嗟に大剣で防御したが、振り抜かれた豪腕に彼は吹き飛ばされ、地面を転がった。大剣を突き立て、ロイクは立ち上がる。肩の肉が抉れている。脇腹が青く変色する。肋骨にヒビが入っている。ロイクは痛みを無視し、視線を上げ
目の前に獄犬の牙。
彼は横に飛ぶ。受け身をとる。肩から血が吹き出す。
追撃。巨体でののし掛かり。
地面を転がり寸前で回避する。
だが、その先には前肢を切断され頭部をひとつ落とされた血塗れの多頭獄犬。
「くっ!」
頭と心臓を守るように、大剣を盾にする。だがその程度で防げないことなど、彼にはわかっている。二頭の獄犬の猛攻を凌ぐなど、不可能だ。
「精霊の堅風盾!」
強風の盾がロイクを覆う。剛爪と牙がその風に阻まれる。が、獄犬の凄まじい腕力が盾を引き裂こうとする。それでも生まれた一瞬の隙に、風を纏ったミーシャが滑り込む。ロイクの手を取り風に乗るのと、盾が貫かれたのはほぼ同時だった。ミーシャはロイクを庇いながら跳躍する。吹き抜ける風が二人を押し流し、獄犬から距離をあける。地を滑りながら短剣を二頭に向け、複数の風の刃を放つ。さらに【精霊の鉄槌】を頭上から叩きつける。それらは剛毛に阻まれ掻き消えたが、獄犬の歩みを牽制する効果はあった。
「大丈夫?ロイク・・・」
彼女の声に苦痛が混じっている。
「ああ、助かっ」そう言いかけたロイクは、ミーシャの身体を見て言葉を詰まらせた。彼女の脇腹が抉れていた。ロイクを連れ出すさい、一瞬早く風の盾は貫かれていたのだ。下半身は血に濡れ、小腸などが飛び出している。血の塊を吐き、ミーシャはふらつく。その肩をロイクが抱く。
「ロイク、ボクが時間を稼ぐ」
血の泡の混じるミーシャの声。
それはつまり、自分が多頭獄犬の餌になる、と言っているのだ。その隙に逃げろと。
「ふざけるな」ロイクは怒りを露にする。「君を置いて逃げるような人間だと思っているのか?」
「二人とも死ぬよりいいよ・・・」
「仲間を捨てて生きるなら、戦って死んだ方がましだ」
ロイクはミーシャを地面に横たえる。その間も、彼の視線は獄犬から離れない。手当てをしてやりたいが、そんな事をしてやれる暇はない。ミーシャは自分で傷口を押さえる。温かい血が溢れている。その温もりとは裏腹に、彼女の身体は冷えていく。
「君は死なない。大丈夫だ」
近いはずのロイクの声が、ひどく遠くの方から聞こえる。多頭獄犬の唸り声が響く。かすむミーシャの視界に剥き出された牙と、長い舌が見える。褐色の肉塊が二頭、ゆっくりと近づいてくる。一頭でさえ苦戦を強いられる相手、それが二頭、さらにロイクは負傷している。彼女は血塗れの手を彼に伸ばすが力が入らない。だらりと落ちる。「逃げて・・・」声を絞り出すがロイクは耳を貸さない。こうなってしまうとロイクは頑固だ。絶対に退かない。あんな風に言うべきじゃなかった、と彼女は後悔する。もっと別の言い方をしていれば、あるいはロイクは逃げてくれたかもしれない・・・いまさら考えても、もう遅い。
多頭獄犬はすぐ目の前だ。
その背後で、精霊が騒いでいる。
ミーシャの視界に緑光の乱舞が映る。
風魔力の狂乱。
「ロイク・・・精霊たちが・・・」
多頭獄犬が歩みを止める。
「蟲に、蜥蜴に、そしてケルベロスか。これほど大量の奴隷魔物を操る血魔が存在するとはな」
耳障りな声が聞こえた。
獄犬はゆっくりと方向転換する。
ミーシャは声の主を知っている。
赤い瞳の男だ。
人間とは思えない殺気を放つ化け物。
クエスト案内所で、彼女はその男に殺されかけた。
いや、もしかしたら。
「ねえ、ロイク・・・」
ミーシャは血と共に言葉を紡いだ。
「ボクはあの時、死んでいたのかもしれないね・・・」
それが彼女の最後の言葉だった。
「イカれてやがる」
アニーシャルカは乾いた笑みを浮かべながら、サツキの消えた場所を眺めた。彼の通った後にはおびただしい量の血と肉が散乱していた。黒い死骸が山のように積み上がり、毒霧がゆるやかに漂っている。アニーシャルカは先程見た光景を思い出した。一匹の毒霧蜥蜴がサツキを前でじりじりと後退をはじめ、背を向けて走り出した。奴隷魔物が主の命令に背くなど、本来あり得ないことだ。サツキは逃亡する毒霧蜥蜴の尻尾を掴んだ。黒い巨体が一瞬で引き戻された。暴れる蜥蜴の頭部を、サツキは踏み潰した。頭蓋骨が砕け、皮膚が破れ、脳漿が飛び散った。死骸を放り投げる。これが最後の一体だった。
皆殺しだった。
毒霧蜥蜴は全滅した。
「あの野郎、人間じゃねえ」
ネルグイの顔が歪んでいる。
「かもな」アニーシャルカは肩をすくめ「ま、どっちでもいーぜ。助かったことに変わりねーし。ここにいてもしかたねぇ。アイツを追おうぜ」
「こりゃアンタの言ってた事もあながち間違ってないかもね」
カルネはぽつりと呟く。
「最初からそう言っている」
バルガスは目の前の惨状を眺めながら言う。その中心にいた男は、森の奥へと消えていた。あたかも新たな獲物を見つけたとでも言うように。
「奴は、正真正銘の化け物」バルガスは確信する。「ドラゴンキラーだ」
ロイクは目の前の光景が信じられなかった。
そこにはサツキが立っている。第四区画で傭兵の指をむしり取り、クエスト案内所で異質な殺気を放った男。普通の人間ではないと思っていた。圧倒的な強者だと思っていた。だからこそクシャルネディア討伐などという常軌を逸した仕事に誘った。だが、ロイクはサツキを『人間』という範疇で捉えていた。十闘級に匹敵、あるいはそれ以上の戦闘力を持っていると確信していた。が、それでも人間だと。
「さすがに堅いか」
サツキの両腕は二頭の多頭獄犬の胸に深々と突き刺さっている。獄犬は苦痛に唸りながらも剛爪を突き立て、強靭な顎で咬みつく。サツキは腕に力を込める。肉を抉り骨を砕く。だが、なかなか心臓まで到達しない。さすがは危険度9に属される魔獣ケルベロス。恐ろしい肉体強度だ。魔力の一切を封じられているとはいえ、ドラゴンキラー相手にここまで持ちこたえるとは。
右側から三つの首が、左側から二つの首が、サツキの上半身に食らいつく。軽々と岩を穿つ牙、岩巨人を易々と砕く咬合力はサツキの皮膚に食い込む。本来であればドラゴンキラーの肉体がこの程度で傷付くことはない。だが全身の身体強化魔方陣は魔力が通うことによって真価を発揮する。現在そのほとんどの魔力を封じられているサツキの肉体強度は、全快時からは程遠い。わずかだが皮膚が破れ、肉が裂け、肩から血が一筋流れた。サツキが血を流すのは実に325年ぶり、黒竜との戦い以来だ。
サツキは自分の血を見る。瞬間、殺意が膨れ上がる。
彼は異種族殲滅用生体兵器だ。
同胞が英雄と称えた男だ。
それはつまり、全ドラゴンキラーの誇りその物だ。
黒竜に傷を負わされるならわかる。
魔物の中でも、超越存在に傷を負わされるならわかる。
祖なる血魔に傷を負わされるなら、まだわかる。
だが、たかが犬ごときに傷を負わされるなど。
「野良犬が」
黒竜の呪術を封じる魔力が、サツキの怒りに呼応して漏れ出る。それは瞬きよりもさらに一瞬の出来事だったが、赤い魔力が獄犬を覆い尽くし
「調子に乗るなよ」
多頭獄犬の全身が破裂した。頭部が爆発し、骨が皮膚を貫き、血と内臓が飛び散る。肉塊が足元を転がっていく。サツキの両手には獄犬の心臓。
「魔物奴隷は奴隷魔物らしく、無様に死んでいろ」
サツキは心臓を握り潰した。
「あり得ん」
ロートレクは眉間にシワを寄せ、呟いた。たった今、二つの魔力が消滅した。窓外から夕陽が射し込む。ロートレクは森を眺める。巨大百足が全滅した。これはわかる。人間どもの中に優秀な炎魔術師がいたのだろう、極大魔法で焼き付くされた。毒霧蜥蜴と黒鎧百足の群れが壊滅した。これもまだわかる。何れも比類なき怪物だが、かつてこれ等の奴隷魔物を退け、ジュルグ帝国第八殲滅騎士団が城館までたどり着いた事がある。だが、多頭獄犬は上級吸血鬼を、さらには下層血魔すら餌にしてしまうほどの魔獣だ。その獄犬が葬られるなど。
「私の奴隷魔物が敗れたようね」
冷たい声が響いた。
ロートレクは振り返る。
クシャルネディアが立っていた。
彼は深々と頭を下げ「申し訳ありません」重々しい声を出す。
「あなたが謝る必要はないわ」クシャルネディアは微笑する。「それより、ケルベロスが殺されたわね」
「はい、それも」
「一瞬ね」
「そのようです」
「訪問者は?」
「エルフ族を含む十六人の集団でしたが、半分ほどに減っていると思われます。人間にしては手強いですが、しかし人間がケルベロスを瞬殺するなど考えられません。そのような事が出来るのはクシャルネディア様のような上位存在、そう」
ロートレクは真祖の眼を見る。
「死霊魔導師イビルヘイム、奴の言っていた地獄に堕つ五芒星ならば、ケルベロスを滅ぼすなど容易かもしれません」
「かもしれないわね」
クシャルネディアの体内から魔力が滲んでいく。唇から鋭い牙が覗く。蒼い瞳が凶暴に冴える。ロートレクの皮膚が粟立つ。周囲の温度が下がったと錯覚するほど、真祖は冷徹な雰囲気を醸し出している。
「何が来たにせよ、私自ら出迎える必要がありそうね」
夜の迫る空を見ながら、彼女は楽しげにそう告げた。
「ようロイク」
その声に顔を上げた彼の顔面に衝撃が走る。鋭い痛みに尻餅をつく。
「ようやく一発殴れたぜ」
「アニーシャルカ」
ロイクは鼻面を押さえながら立ち上がる。
「こっちはテメーのクソ情報で死ぬところだったんだ。殴られて当然だろ?状況が不確定なのはしょうがねーが、限度ってもんがあんだよ。三兄弟とわたしの奴隷が死に、弧影猟団も消えちまった、そしてそこの精霊使いも死んでやがる」アニーシャルカはロイクの傍に横たえられたミーシャを指す。腹の抉れた血まみれの死体。「クシャルネディアはおろか禁足地に入っただけでこの様だ。ま、わたしもこの仕事を甘く見すぎてたってのは否定しねーが、オメーの見通しもガタガタだぜ」
「返す言葉もないな」
ロイクは静かに呟いた。ミーシャを見下ろす顔には悲壮感が漂う。
彼はしゃがみこむと、ミーシャの手から二本の短剣を取り上げる。ギルド登録者は仲間の死体から形見を貰い受ける事が、半ば常識になっている。それは教訓であり、供養であり、単純に思い出のためかもしれない。遺品は家族の元へ届けられる時もあれば、武器商に売り払われる時もある。危険な場所での活動が主なギルド登録者は、仲間の死体を持ち帰ることがほぼ不可能だ。その為にこういう習慣が出来たのだろう。
魔水晶の短剣を腰に差すと、ロイクは立ち上がる。もうその顔に悲しみはなかった。感情を切り替えたのだろう。
「ロイクを責めてもしかたない。もはや過ぎたことだ。それよりこれからの事を決めるぞ。今すぐに」バルガスは空を見上げる。樹々の隙間から見える空は赤く爛れている。「じき陽が沈む。真祖の領域で夜を過ごすなんてのは、巨海獣のいる海で泳ぐのと変わらない」
「普通の神経なら撤退を選ぶぜ。命に比べりゃ十闘級の名誉なんて軽いもんだ。だが、真祖が化け物のように、こっちにも化け物がいやがる」
アニーシャルカは顎をしゃくる。
「オメーはどうする気だ?」
ケルベロスの血で汚れたサツキを見る。
「仕事を続けるか?」
「俺の知る限り」サツキは腕の血を振り払い、遠くを見る。森の向こうに城館の屋根が見える。彼は淡々と続ける。「ここまで質と量を兼ね揃えた奴隷魔物を御しきる真祖 は見たことがない。血魔は危険な魔物だったが、戦争中は竜血族の餌になっていた。だがドラゴンが消え人間が衰退し生態系も変わっただろう。300年という年月が祖なる血魔をどのような存在に変えたのか興味がある。目覚めてからこっち、雑魚ばかりで退屈している。俺は俺の現状を正確に把握する為に『全力』を出したい。俺の魔力に耐えうる存在を相手に、少し暴れたい」
サツキは嗤う。
「この地の血魔が超越存在であることを願う」
「頼もしい回答だな」
アニーシャルカはため息をつき
「オメーが止まらないならわたしも止まらねーよ。命を救われた。デカい借りだ。わたしは色々クソみたいな事ばかりやってきたが、命の恩人を一人残してこそこそ逃げ帰るほど腐っちゃいねぇ。最後まで付き合うぜ。何よりオメーとクシャルネディアの戦いを特等席で見たいからな」
「まあ、そうだな。撤退するにしろ、もう夜だ。闇の中で真祖から逃げ切ることなどできん。あの男と一緒にいた方が安全かもしれない」
バルガスの言葉に「違いねえ」とネルグイが同意する。
「どうせ一度は死ぬ覚悟を決めたんだ。化け物同士の戦いを見るくらいわけねえな」
「元々は私が持ち込んだ仕事だ。当然同行するよ」ロイクが毅然とした調子で言う。
「いっこ質問」
そう声を上げたのはカルネだ。リアンにおぶさった彼女は小さく手を挙げ、一瞬の逡巡の後
「アンタがドラゴンキラーってのは本当?」
と赤い眼を見た。
その質問に、全員の視線がサツキに集中する。
サツキは右腕にこびりついた血液を拭い落とす。【No.11】の刻印が現れる。
「俺は生体兵器だ」
「最強の異種族殲滅用生体兵器と呼ばれた男だよ」
バルガスの肩を借りながら歩くカルネは、興奮している。
「消失魔法技術の極致だよ。常軌を逸した魔導生体技術の集大成だ。アタシら魔術師からすれば、どんな魔導書よりも価値ある存在だ。まさかそんな物がずっと目の前にいたなんて」
「声が大きいですよ。もう城館に着くんですよ」
リアンが嗜める。
「どうせバレてんだ。関係ねーだろ」
アニーシャルカが言う。
メンバーは城館を目指し歩いている。アニーシャルカを先頭に、ロイク、バルガス、ネルグイ、カルネ、リアン、そして少し離れしんがりをサツキがつとめている。十六人いたメンバーは、九人を失い半数以下になっている。何れも手練れ達であったが、禁足地は彼等の想像を遥かに上回っていた。
濃い闇の充満する森が不意に開けた。
そこは広大な庭園だった。各地方の希少な樹木が植えられ、極色彩の花々が咲き乱れている。石畳が複雑な模様を描き、それは巨大な城館まで伸びている。薄暮の空に不気味なほど大きな三日月が浮かんでいる。月光に照らされた庭園は幻想的な絢爛に包まれ、しかしどこか寒々しい印象をメンバーに与えた。
「スゲー場所だな。そこらの貴族の城館が民家に思えるぜ」
アニーシャルカは口笛を吹き、庭園に踏み出す。皆それに続く。
少し遅れてサツキが到着した。その時。
「貴様だな」
しわがれた声が聞こえたと思うと、サツキの周囲を闇が塗りつくしていく。
「闇棺か」
サツキは暗闇に手を伸ばす。森と庭園が消えている。闇棺は闇属性で空間を埋め尽くし光を遮断する下位魔法であり、物質を消滅させたりはしない。だがこの闇は明らかに空間に干渉している。おそらく闇棺と闇魔法【永えの闇】の合わせ技だろう。
「多頭獄犬を仕留めた人間だな?」
サツキの正面の闇が泡立ち、みるみるうちに人の形を作り出す。初老の男が現れる。深い皺の刻まれた顔は、驚くほど蒼白い。クシャルネディアに仕える上位吸血鬼、ロートレク。彼の左右の空間が歪み、捻れ、闇の中でもわかるほどさらに黒い塊が現れる。上位闇魔法【呑む闇塊】。
「一体何者だ?貴様の纏う空気、それは人間の物ではない。数えきれないほどの死と、膨大な魔力が作り出す異質な影、まるでクシャルネディア様のような、あるいはこの例えは実に不愉快だが、死霊魔導師や悪魔から漂い出る気配に酷似している。やはり貴様【地獄に堕つ五芒星】の手の者か」
手をかざすと彼の周辺にさらに多くの呑む闇塊が現れる。
「危険な存在だ。今、ここで、私が貴様を殺す」
ロートレクが指を鳴らしたと同時に闇塊がサツキに降り注ぐ。
黒い爆発が連鎖する。
「私をただの上位吸血鬼と思うな。クシャルネディア様に仕える事を許された数少ない吸血鬼の一人だ。私の力は多頭獄犬を凌駕している。この命に代えても、貴様をここで殺す。下賤な」
ロートレクの言葉は続かない。爆煙が吹き飛んだかと思うと、ロートレクの右肩から向こうが消し飛んでいた。咄嗟に後方へ退こうと跳躍するが、サツキに首を掴まれ動きが止まる。
「長々と煩いんだよ」
サツキはロートレクを地面に叩きつけると、胸の上に足を乗せ、身動きを封じる。
「貴様、本当に何者だ・・・?私の魔法を直撃して無傷などあり得」
「黙れ」サツキは吐き捨てる。「お前になど興味はない。すぐに殺してやる」
唐突に立ち止まると、アニーシャルカは曲剣を抜いた。それに呼応してロイクも大剣を構える。
「どうした」
バルガスは鎌に手をかけながらアニーシャルカの横に並ぶ。
「お出ましだぜ」
ひとりの女がこちらに歩いてくる。美しい女だ。純白のドレスを着ている。踵に届くほど長い黒髪が、歩調に合わせ揺れている。発光しているかのような白い顔に燃えるような蒼い瞳が映える。メンバーがその眼を見た瞬間、身体の自由を奪われる。誘惑眼だ。
「ようこそ私の領域へ」
メンバーの前で立ち止まると、クシャルネディアは艶然とした笑みを浮かべ、そして少し驚いたような声を出す。
「へぇ、そこの二人はまだ動けるのね。面白いわ」
「そりゃどーも」
「祖なる血魔にそう言って頂けるとは、光栄だね」
アニーシャルカとロイクが応える。
アニーシャルカはナイフを掌に突き刺し、ロイクは先程の戦闘で折れた肋骨に大剣の柄頭を当てていた。誘惑眼から逃れる方法はいくつかあるが、もっとも簡単なモノは自傷行為だ。激痛は体内の魔力を乱し、脳を刺激し、意識を明瞭にする。だが、二人は自分の身体が鉛のように重いことに気づく。十闘級の精神力によりなんとか完全支配は免れたが、隔絶した魔力を有するクシャルネディアの誘惑眼から完璧に逃れることなど不可能だ。それでも二人は臨戦体勢を維持する。
「なかなか見所のある人間ね。実は最近物騒でね、厭な奴等が動き出したわ。それで私も眷属を増やそうと思っていたところなの。貴方たちのような人間なら申し分ないわ。どう?仲良く『転化』してみない?きっとすぐに上級になれるわよ」
「悪いが遠慮するぜ」
アニーシャルカは曲剣をクシャルネディアに向ける。蒼白い雷が迸り、剣先から雷霆が放たれる。激烈な閃光がクシャルネディアを包み込む。だが
「それは残念ね」
冷たい声と共に雷撃が掻き消える。クシャルネディアの肌はおろか純白のドレスにすら焦げ跡はない。彼女を覆い尽くす魔力はアニーシャルカの上位魔法を一切受け付けなかった。
「いい技ね。でも私を傷付けるには出力が足りないわ。せめて極大魔法でないと」クシャルネディアはアニーシャルカの前まで歩き、その顔に手を当てる。蒼い瞳が彼女を、次いでロイクを観察する。「本当に良い素材ね。人間の中でも上位に位置付けられる存在かしら。特に貴女、いい魔力を持っているわ。数十年新鮮な血液を食していけば、もしかしたら下層血魔にまで進化できるかもしれない。出来れば生きたまま転化させたいのだけれど、断られてしまったから仕方ないわ。殺してから私の血を飲ませてあげる。・・・ところで」
クシャルネディアは首をかしげる。
「誰が多頭獄犬を殺したのかしら?」




