9 皆殺しだ
「スゲぇ炎だったな」
アニーシャルカが口笛を吹く。先ほどまで巨大百足の蠢いていた場所には、何もない。広範囲殲滅型の極大魔法【滅炎の巨塔】が全てを呑み込んだのだ。もともと炎に弱いムカデは、その死骸すら残さず消え去った。眼前の焼け野を眺めながら
「完璧な魔法だったよ」
カルネは哄笑する。生贄魔法と極大魔法を同時に発動する機会など滅多にない。魔術師には探求者という側面もあるが、何より高度な魔法を扱いたいという、純粋な欲求も存在する。カルネはそれが顕著だ。全身の魔力を使い果たし、気力も体力も限界だ。ぐにゃりとへたり込み、立つことすらままならない。それでも彼女は満足そうだ。
「最高だね。またやりたいくらいだ」
「お前には悪いが俺は遠慮する」
バルガスはカルネを見下ろす。
「僕も勘弁願いたいですね」
リアンの同意。
「そりゃそうか」仰向けに寝転がり、なおも笑い続けるカルネ。だが、その声が急にひきつった物になる。寝転がったことにより、彼女の視界は極大魔法で焼き払った正面の真後ろを向いている。薄暗い森が広がっている。暗がりに光るモノがある。ギョロりとした球状のモノだ。森がざわめく。何かが高速で震えるような、不気味な音がする。
「なんの音です?」
リアンは不安そうにカルネの視線の先を追う。表情が固まる。薄闇の中から、ずるりと巨大な影が現れる。ギョロりとした目玉、黒い鱗に覆われたぬめりのある身体、手足には鋭い爪。咽喉が震えるたび、気色悪い音が鳴る。巨大な蜥蜴だ。
「マジかよ」
アニーシャルカは舌打ちし、曲剣を抜く。
「嘘だろ?」座り込んでいたネルグイはすぐに立ち上がる。「毒霧蜥蜴だと」
黒霧を吐く大蜥蜴。洞窟や湿地などに生息し、毒霧で獲物を仕留め、丸呑みにする。その巨体からは想像もつかないほど素早く動き、硬い鱗は斬撃を、それを覆うぬめりは打撃を受け流す。黒鎧百足ほどの凶暴性を備えているわけではない。しかし同等の危険度8、恐ろしい魔物に変わりはない。繁殖期になると複数の個体が一ヶ所に集まり交尾をするが、基本的にムカデ同様、単独で行動する魔物だ。しかし
森の中から、幾つもの、幾つもの鳴き声が上がり始める。
喉を震わせる独特の鳴き声。
聞く者に不吉を刻み付ける、死の合唱。
「ロイクが言っていた通り」さすがにバルガスの表情から余裕が消える。「まさにここは地獄だったわけだ」
森の中から次々と姿を表す大蜥蜴。突き出た目玉でバルガスたちを見ている。無機質な視線だ。奴隷魔物の視線だ。長い舌をチロチロと出し、獲物の臭いを嗅いでいる。毒霧蜥蜴は口腔に鋤鼻器がある。彼等はこの部分で臭いと魔力を嗅ぐ。目の前の人間たちがクシャルネディアの敵であると認識する。敵を喰い殺すのが彼等の役目だ。いつもであれば、巨大百足で簡単にカタがつく。だが今回は違う。ムカデたちは一匹残らず焼き尽くされた。つまり、ただの人間ではない。強者だ。それはすなわち、毒霧蜥蜴の登場を意味する。
森から這い出してくる大蜥蜴がバルガスたちの前で黒い山になっていく。巨大百足の数も異常であったが、こちらの数も異常だ。自然の摂理に反している。
バルガスはへたり込むカルネを見る。魔力を使いきり、脱け殻のようになっている。天才魔術師とはいえ、魔力がなければどうしようもない。アニーシャルカも表にこそ出さないが、疲弊している。当然だ。ひとりでアレだけの魔虫を相手にしたのだ。いくら十闘級といえど、魔力と体力には限界がある。ましてこれから相手取るのは危険度8の魔物の大群。
「こんなことは言いたくねーが」アニーシャルカは嘲る。「勝ち目はねーぞ」
「だろうな」とバルガス。
「本当に終わりみたいですね」諦めたようなリアン。
「あんなのに食われるくらいなら、自分で死ぬよ」カルネの嘆き。
「こんな場所まで来て、無駄死にするハメになるとはな」苦々しげなネルグイの声。
「無駄死にはムカつくな」
アニーシャルカの曲剣から雷が迸り始める。
「お前ら気張れよ。こうなったら一匹でも多く道連れにしてやる」
彼女の言葉に、各々覚悟を決める。
「焦がしてやる」
膨れ上がった魔力を、魔法に転換しようとアニーシャルカが剣を構えたその時
毒霧蜥蜴たちが一斉に上体を起こした。ギョロりとした目玉がある一方向に向けられる。その視線は、すでにアニーシャルカたちを捉えていない。舌を高速で出し入れし、しきりに臭いを嗅いでいる。異様な臭いが近づいてくる。毒霧蜥蜴はそれが死の臭いだと本能で察知する。眼前の人間たちとは比べ物にならないほど危険な『何か』が向かってくる。一匹の大蜥蜴が喉を鳴らす。それは連鎖的に広がっていき、辺り一面は毒霧蜥蜴の重奏で満たされる。
「どうなってやがる」
異質な光景に、ネルグイは呆気にとられる。
「知るかよ」
吐き捨てたアニーシャルカの耳に
「毒霧蜥蜴か」
ざらついた声が届いた。
彼女の全身が総毛立つ。反射的に振り返り、曲剣を突き出す。雷霆を放ちそうになり、寸前でとどまる。アニーシャルカの眼に、ひとりの男が映っている。全身が緑色の血で染まり、肘から指先にかけて特に酷く血を浴びている。灰色の髪が風に揺れ、赤い瞳が爛々と輝いている。彼は極大魔法の残り火の上を平然と歩いてくる。彼女は剣を下ろす。アレは味方だ、とアニーシャルカは思う。サツキという名の男で、クシャルネディア討伐のメンバーだ。敵ではない。警戒する必要はない。だが、彼女の本能は警戒を発している。
王都ですれ違ったとき、デデル荒野で言葉を交わした時から危険な男だとは思っていた。
だが、これまでとは比較にならないほどおぞましい気配をサツキは纏っている。
禍々しい殺気が、彼の全身から溢れ出ている。
天性の戦闘センスを持つアニーシャルカは、その毒気を敏感に感じ取った。
「血まみれかよ。酷い格好だぜ」
それでも彼女は、飄々とした体で軽口を叩いた。
サツキはアニーシャルカを、次いで他の面々を見る。
「あれだけの量の巨大百足を殺したのか」サツキは淡々と言う。「思ったより強いんだな」
サツキの出現に、毒霧蜥蜴の鳴き声はさらに高まる。彼等の咽喉を膨らませる。これには二重の意味がある。毒霧を精製し、さらに頭部を大きく見せ威嚇する。臨戦態勢に入った証拠だ。
「煩い蜥蜴どもだ」
サツキはアニーシャルカたちを通りすぎると、黒い大蜥蜴の群に向かっていく。
「お前何やってやがる。死ぬぞ」
サツキの背に手を伸ばすネルグイを
「やめろ」
バルガスが止める。
「好きにさせろ。奴に近づくな」
「バルガス、テメーアイツを知ってるのか?」
アニーシャルカの流し目に
「詳しくは知らない」
応じる。
「俺は一度、ヌルドの森で奴を見たことがある」バルガスは遠ざかるサツキの背を見る。「俺が知っているのは、奴が化け物だということだけだ」
唐突に、毒霧蜥蜴の合唱が止む。サツキの草を踏む音だけが聞こえる。黒い群れの敵意がサツキに集中する。大きな口が、顎の限界を越えたように、さらに開かれる。あらゆる獲物を丸呑みにする食道が晒される。大蜥蜴の肢体で力が膨張する。後ろ足を折り曲げ、足の鉤爪が地面にめり込む。毒霧蜥蜴の意識に主の命令が鮮やかに浮かび上がる。『私の敵を喰らい尽くしなさい』。あの人間は敵だ。あの人間は危険だ。あの人間を殺さねばならない。大蜥蜴は狙いを定め、そして最初の一匹目がサツキめがけ跳躍する。
毒霧蜥蜴はサツキを捉え、その蛇のように柔軟な身体を巻き付け、動きを封じる。鉤爪を突き立て、噛みつき、呑み込もうとする。最初の一匹が呼び水となり、次から次へとサツキめがけ毒霧蜥蜴が躍りかかってゆく。大量の黒い巨体が彼に絡み付く。蜥蜴たちは幾重にも折り重なり、灰色の髪はその中に埋もれていく。数秒で巨大な毒霧蜥蜴の球体が出来上がる。
「いくら化け物でも、アレじゃ死ぬぞ」
ネルグイが呟く。
黒い球体の隙間から紫色の煙が立ち上る。毒霧だ。どう考えても、あの状態で生きていられる人間など存在しない。魔物の重さで圧死するだろう。だが毒霧蜥蜴は、一向に拘束をとかず、むしろトドメとばかりに毒霧を吐いていく。
「今のうちにアタシを抱えて逃げるってのはどう?」
霧を吸わないよう、口元を押さえながらカルネはバルガスを見る。
彼は何も言わない。ただ状況を観察している。
ダークエルフの村での出来事が思い出される。
危険度8最上位の上級吸血鬼、様々な国で食事という名の殺戮を繰り返してきた高額賞金首、死の三姉妹が一瞬で塵に還された光景はなかなか忘れられるモノではない。
「俺はここにいる」バルガスは言う。「もしかしたら、生き残れるかもしれない」
「バルガスさ、アタシに『トパーズ』で言ったよね、あの男はドラゴンキラーかもしれないって。それってやっぱり本気なの?」カルネは何とか身を起こす。「もしそれが本当なら、確かにアタシたちは助かるかもしれない。でもそんなわけない。あいつは普通の、毒霧蜥蜴の群に突っ込んでく馬鹿な人間だよ。もう死んでる」
「いや、生きてるぜ」
アニーシャルカが言う。
「あの野郎は生きてる」
常人を遥かに凌駕するアニーシャルカの五感は、サツキの生存を感知している。それは臭いであり、空気の流れであり、毒霧蜥蜴の動きであり、何より声だ。森のざわめき、蜥蜴の鳴き声、それらに混じって微かだが、彼女はサツキのざらついた声を聞いた。
「必ずだ・・・任せろ・・・任せておけ」
その言葉が何を意味するのか、彼女にはわからない。そう、それは彼にしかわからない。果たしてサツキは正気なのだろうか。呪いにより眠りに落ちていたからといって、325年前の戦争をまるで昨日のことのように、同胞の死をあたかも数刻前のように、過去を現実に溶け込ませている。サツキの精神状態は正常ではない。そして、それでいい。127人のドラゴンキラーが狂気を纏っていたように、サツキも煮えたぎる狂気を宿している。その狂気が、黒竜を殺せと駆り立てる。その狂気が、彼に力を与える。狂気のみが、サツキを充たしている。
「目障りな蜥蜴だ」
濃縮された殺意が、声と共に迸る。
瞬間、毒霧蜥蜴の球体が内側から破裂した。黒い肉塊と大量の血液が宙を舞う。さらに破裂、破裂、破裂。サツキの振るった腕が連鎖的な肉体破壊を引き起こす。周囲を覆っていた大量の毒霧蜥蜴は千切れ、舞い上がり、そして落下する。肉と骨が地面を叩く。血雨が肌を打つ。血と死の臭いが鼻腔を満たす。サツキは空を見る。陽が傾き始めている。赤い空。そして降り注ぐ死骸。
異種族殲滅用生体兵器の行くところ
血と
死と
骨で
汚される。
「一匹たりとも逃がしはしない」
サツキの嗤い声が響く。
黒い蜥蜴どもが殺意を剥き出しにする。
森が蠢く。
続々と毒霧蜥蜴が飛び出してくる。
サツキは両腕を広げる。
赤い眼は見開かれ、全身を血で染め、嗤う。
そして、眼前の敵に告げる。
325年前、赤い殺戮者どもを率いてもっとも多く使った言葉を。
「皆殺しだ」




