6 狂乱、凶乱、恐乱
最初に死んだのは三兄弟の長男、アルスルンだった。彼は油断し、それが死を呼び込んだ。続いて次男のバドマ、三男のデルグルが死んだ。よってたかって喰い殺された。
最初にその異変に気付いたのはミーシャだった。
メンバーは順調に森を進んでいた。生い茂る草々を踏み分け、大樹を迂回し、禁足地の奥へと踏みいっていく。途中、広い道を発見した。樹々が少なく、背の低い草の生い茂った森道。方角から考えて、この道は城館まで続いている可能性がある。歩きやすい場所だった。彼等はそこを歩き始めた。敵の気配は無く、頭上を覆う葉の隙間から陽光がこぼれ、風は心地よい。おだやかな雰囲気が流れていた。
「なんつーか、拍子抜けだな」
アニーシャルカはだるそうに言う。
「退屈だぜ」
「「何も起きなければ、それにこしたことはないと思いますが」」
アニーシャルカに付き従う奴隷、エルドとミルドが声を出す。
「「標的は真祖です。極力体力は温存しておいた方が」」
「その通りですよ」
背後からボリスの声がする。
「クシャルネディアに到達したときに、死にかけてたら洒落にならないでしょう」
「そりゃそうだけどさ、ここは禁足地だぜ?もっとこうイカれたお出迎えを」
「何か変」
アニーシャルカの言葉を遮るようにミーシャが割り込む。不安を含んだ声だ。メンバーの身体に緊張が走る。臨戦態勢をとる。ミーシャは精霊使いだ。古来より精霊は災いの【予兆】と見なされ、精霊使いは【預言者】と呼ばれる。その彼女が異変を察知したのだ。皆武器を抜き、周囲を警戒する。
「リアン」
バルガスの声に
「わかってます」
リアンは魔眼を発動する。
ロイクはミーシャの隣に立つ。
「精霊かい?」
「そう、森の奥でみんなが騒いでる。警告してる」
ミーシャは眼を凝らす。
「何かが、近づいてくる」
バルガスは森の中を睨み付ける。
鬱蒼とした森林。
薄暗い樹々の間で、光沢のある赤い何かが蠢いたように思えた。
「バルガスさん、ヤバいです」
顔面蒼白になりながらリアンが声を荒げた。魔眼が何かを捉えたのだ。
「何がいる」
「化け物です!そこら中にうようよいます!十や二十じゃすまない、数が多すぎます!さっきまではいなかったのに!」
「何かの腐ったような、すえた臭いがしやがる。いったい何処から出てきやがった」
顔をしかめるアニーシャルカに「しますね」ボリスが同意する。
「この臭いには覚えがあります。嗅ぎ慣れた臭いだ。毒と唾液と体臭の混ざりあった、悪臭・・・巨大百足だ」
「ムカデだと」ネルグイの声。「猛毒持ちか。解毒剤は?」
「俺は一流の狩人ですよ。当然全員分用意してます。ただこの感じだと、足りるかどうか」
「チッ、囲まれてるぞ」
バルガスは毒づく。
樹々が揺れ、藪が蠢く。いたるところで赤い外骨格がうねり、大顎脚を打ち鳴らす威嚇音が響く。大量の脚が地を這う不気味な旋律が緊張感を高める。ジリジリと包囲網が狭められているのがわかる。バルガスは両手の鎌を握り締める。身体の中で凶暴性が膨らむのがわかる。敵を殺せ。敵を切り刻め。射し込んだ陽光に、鎌がギラリと光る。カルネの短杖の先に炎が出現し、アニーシャルカの曲剣が雷を纏い、ネルグイはロングソードを片手に低く構える。張り詰めた空気がメンバーを包み込む。全員が息を止め、瞬きを忘れ、ゆっくりと唾を呑む。
不意に巨大百足の音が消えた。
突然の静寂。
その静寂が、メンバーの緊張感をいやがうえにも高める。
風に揺れる葉擦れの音だけが、微かに聞こえる。
嵐の前の静けさ。
「そろそろだ」ざらついた声がする。全員が声の方に意識を向ける。この状況で、平時とまるで変わらぬ声音。赤い瞳が暗く輝いている。サツキは指の骨を鳴らし、首をゆっくり回し、そして淡々と告げる。「来るぞ」
そして
「アルスルン!!」
ネルグイが隊列の先頭に立つ三兄弟、その長男の名を全力で叫んだ。
同時に、茂みからアルスルン目掛け巨大百足が飛び出した。体長七メートルを越す長大な身体、光沢のある真っ赤な外骨格、幾百もの脚を蠢かせ、猛毒の滴る大顎脚がアルスルンに襲いかかる。その頭部目掛け、彼は大槌を振り下ろした。通常の人間には到底振るうことの出来ない鉄塊、しかし巨人族を思わせる強靭な両腕は、その大槌を軽々と扱うことが出来る。
ぐちゃり、と巨大百足の頭部が潰れ、緑色の血液が飛び散る。しかしこの魔物は尋常ならざる生命力を有する。頭を失った胴体が、それでもなお獲物を求め、アルスルンに飛びかかる。彼はその身体に何度も大槌を振り下ろす。全身が粉々になるまで砕き続ける。血と肉が飛び散り、ようやくムカデは動かなくなる。
「まずは、一匹目、だ!」
アルスルンは獣のような雄叫びを上げた。
数瞬の油断。
次の瞬間、二十匹ほどの巨大百足が襲いかかり、アルスルンの身体をズタズタに食い千切った。
「兄じゃ!」
アルスルンを助けようと駆け寄ったバドマとデルグル、その二人も左右から現れた赤い長虫の群れに呑まれ、消えた。大槌を振るい何匹かの敵を潰したが、数の暴力には勝てなかった。血と断末魔が噴き上がった。
森から大量の巨大百足が溢れ出す。メンバーは各々行動に移る。距離を取る者、迎え撃つ者、退却する者。赤く蠢く激流がメンバーを襲い、囲み、分断する。全員が散り散りになる。
「ちくしょう、なんて数だ!」
ネルグイは次々と飛び出してくる巨大百足を避け、そして捌く。前方から迫る敵の頭部を切断し、返す刃で後方のムカデの胴体を両断する。返り血が顔を汚し、それをぬぐう暇なく、数匹が襲い来る。とっさにネルグイは群がるムカデの隙間から転がり出る。素早く体勢を建て直すが、眼前には大顎脚。ネルグイはロングソードを盾のように構え、その牙を受け止めた。
「クソッ!」
「まかせろ」
バルガスはネルグイを襲う巨大百足の背に飛び乗ると、二本の鎌で首を切断した。出血呪術により通常では考えられないほど血が噴き出す。急速に死に向かうムカデ、しかしその身体はいまだ獲物を求め蠢く。切断されようと容易に死ぬことのない、尋常ならざる生命力。
「俺たちじゃ分が悪いな」
「しかたねえ。俺にはコレしかねえ」
ロングソードを握る手に力がこもる。
二人は武器の血液を振り払い、毒づき、襲い来る敵と向かい合う。殺し、殺し、殺す。死骸を積み重ねる。たが、ムカデは増える一方だ。
「ひでぇ悪夢だ。醜鬼の糞に首まで浸かってる気分だぜ」
「もう少し耐えろ。じき夢から醒める」
バルガスの視線の先には魔法剣士の姿がある。
雷を纏うアニーシャルカの曲剣が凄まじい音を立てた。練り上げた魔力を曲剣へ送る。刃が光輝く。曲剣に近付いたムカデの表面が焦げるほど、電力が上昇している。「テメーら」彼女はバルガスとネルグイに向かって叫ぶ。「避けろよ」言葉と同時に剣を横一文字に振り抜いた。蒼い剣筋が空中に残像を描き、それが一瞬で十数本の矢に変わる。下位雷魔法【雷矢】。
「焦がせ」
空気を切り裂くような速度で放たれた雷の矢が、二人の周囲を囲む巨大百足を貫き、焼き、焦がした。
後方から数十匹の群れが迫る。
「「アニーシャルカ様!」」
エルドとミルドの掌で雷球が膨らむ。中位雷魔法【強雷塊】。双子は魔術師、それも魔力量にすぐれたエルフ族だ。二人は雷球をアニーシャルカの敵に投擲しようとする。だが
「わたしの事を気にする余裕なんかねーだろ」
アニーシャルカは残忍な笑みを浮かべ
「十闘級なめんな」
赤い長虫の一群に斬り込む。
「気を付けろネルグイ」バルガスは焦げたムカデを踏み潰しながら警告する。「アニーシャルカの奴、暴れる気だ」
舞うように、軽やかに、彼女は一匹、五匹、十匹とムカデを切り刻む。雷を帯びた刃は敵を切断すると同時に、瞬時に肉体を焼き尽くす。雷と剣の饗宴。アニーシャルカは踊るような独特な剣術を用いる。直感的に敵の隙を感じ取り、死角を見つけ、不可視の連撃を叩き込む。かと思えばネルグイ仕込みの荒々しい斬撃が飛び出し、重い一撃を正面から浴びせかける。そしてどこに隠していたのか、大量のナイフが巨大百足を地面に、樹々に縫いつける。これこそが彼女の真骨頂。王国唯一の魔法剣士、雷と剣戟の乱舞、暗器による不意討ち。【王国の雷刃】と呼ばれ恐れられる最凶の女剣士・アニーシャルカ。
おぞましい長虫の壁が彼女の前方に出現する。悪臭が顔面を殴り付け、顎を打ち鳴らす音が耳をろうする。
「気色悪いクソ虫どもが」
右手の剣を突き出し、左手で右腕を支える。脚を開き、体勢を低くする。曲剣に刻まれた魔方陣が濃く浮き上がり、蒼白い光が膨れ上がる。大技を発動するためのチャージ。圧縮された魔力と恐ろしい電撃が刃の周りで螺旋をかき、轟音が空気を震わせる。長虫の壁を十分引きつけ
「弾ぜろや」
その言葉と同時に、曲剣が大放電を巻き起こす。上位雷魔法【雷霆】。扇状に放たれた電撃は一瞬でムカデの壁を呑み込み、森林ごと消し炭に変える。あまりの威力に身体を支える軸足が地面にめり込む。アニーシャルカはその脚に掛かる力をずらす。そんな事をすれば転倒し、下手をすれば逃げ場を失った力で靭帯が千切れ脛骨が粉々になる。しかし驚異的なバランス感覚を持つアニーシャルカは完璧な重心移動をやってのける。剣を水平に構えなおすし、雷霆の威力を利用し、凄まじい速度で周囲をなぎ払う。大放電しながらの回転斬り。辺り一帯のムカデたちをことごとく焼き焦がす。
「もう一発くれてやるよ」
嗤いながら立て続けに【雷霆】。蒼い閃光。
「ガキの頃から戦闘センスは頭抜けていたが」咄嗟に地面に伏せたネルグイは、感慨深げにバルガスに言う。「あいつめ、とんでもない怪物に育ちやがって。雷刃なんて大仰な二つ名が付く理由がわかるってなもんだ」
「こと戦闘に関していえば、アイツほど頼もしい奴を俺は知らない。十闘級は伊達ではないさ」
「人格に難ありだがな」
「完璧な人間などいない。それに天は二物を与えても、それ以上は与えない。アイツの性格が悪いのは、いわば必然だ」
「テメーら、聞こえてんだよ」
曲剣を肩に担いだアニーシャルカが叫ぶ。
バルガスは立ち上がる。ネルグイもそれに続く。
焦げ、弾ぜ、煙と悪臭の立ち上る巨大百足の死骸が散乱している。
「あらかた片付いたぜ」
「そうらしいな」
バルガスは深く息を吐く。
「まったく、これ以上ないってほど熱烈な歓迎だ」
スキットルをあおるネルグイ。
「完全に分断されちまったな。他の奴等は生きてんのかね」
ケラケラ嗤うアニーシャルカ。
「そう簡単に死ぬ奴等じゃないはずだ」そう言ったあとにバルガスは三兄弟の末路を思いだし「まあ、どうだかな」
バルガスは連れの二人を思い浮かべる。おそらくカルネは大丈夫だ。彼女は天才魔術師であり、また炎魔法をもっとも得意とする。虫どもがもっとも恐れるのが炎、ついで雷だ。カルネがそう簡単にくたばるとは思えない。問題はリアンだ。彼はメンバーの中でもっとも低い六闘級だ。そこそこの経験を積んでいるとはいえ、危険度6の魔物を相手に生き残れる保証はない。そもそも数が多すぎる。バルガスでさえアニーシャルカがいなかったら、今ごろムカデの腹の中だ。大量の魔物を相手取る場合、魔術師ほど頼もしい存在はいない。
「テメーらも死にかけてたし、たるんでるんじゃねーのか?魔術くらい覚えろよ」
「俺に魔術の才能が無い事くらい知っているだろ。それにたとえ覚えられたとしても、発動までに時間が掛かりすぎる。だれもがお前のように魔法を短縮できるわけじゃない」
「短縮術式は五等級以上の必須項目だぜ?」
「そういうことは生来の魔術師に言え。俺は狩人だ」
突然、森の中で火柱が立ち上る。距離はそう遠くない。
「「炎魔法のようです」」
エルドとミルドが炎の上がった方を見つめている。
地を蹴る音、そして荒い息づかいが聞こえてくる。藪をかき分け、カルネとリアンが飛び出してきた。炎魔法で酷使したのだろう、カルネの短杖の先端が燃えている。二人とも血と泥で汚れている。こちらの姿を認めると、二人はバルガスたちに手を振り、凄まじい形相で走り出した。
「お前の仲間は生きてたらしいな」
ネルグイは顔に付着した血液を拭いながらバルガスを見る。
「そのようだ」
バルガスは手を振り替えしてやる。だが、何かがおかしい。二人の背後からおぞましい音が聞こえてくる。大顎脚の震える威嚇音が。幾千もの脚が地を這う音が。硬い外骨格を擦り合わせる音が。そこでバルガスは違和感の正体に気づく。確かに今現在、状況はクソだ。クソったれだ。だが、だからといってダムドのメンバーが仲間を見つけた安堵感から手を振るなどありえない。そんな楽しげな集団なら、はじめから闇ギルドなどと関わりはしない。それに二人の表情、そこに安心感など欠片もない。眼を見開き、恐怖に頬の引きつった、絶望の表情だ。
「大迷惑の臭いがするぜ」
アニーシャルカは眉をひそめ、曲剣を構える。
「奇遇だな」バルガスは二本の鎌を打ち鳴らし「俺もそう思っていたところだ」
カルネとリアンの背後の森から凄まじい量の巨大百足が現れる。その量は先程までの比ではない。もはやそれは赤い津波だ。
「クソッ、金貨五万枚じゃ安く思えてきたぜ」
酒の無くなったスキットルを放り捨て、ネルグイが嘯いた。
「一応確認しておく」
アニーシャルカの方を向き、バルガスは淡々と聞いた。
「どうにかなるか?」
「あの数をか?」
アニーシャルカは嗤い、そして表情を消した。
「どうにもなんねーよ」
そう言うとアニーシャルカは曲剣を地面に突き刺した。
「ま、つっても死にたくねーし」彼女は走ってくる二人にも聞こえるように叫んだ。「お前ら、死にたくなきゃわたしの周りに集まれ!」
冷たい眼が、迫り来るムカデの大津波を見つめる。
「ったくよー、ロイクの野郎に騙されたぜ」
アニーシャルカは捨て鉢になったような口調で毒づいた。
「囲まれていると面倒だ。私が道を開く」
「わかった」
二人の周囲を囲む巨大百足の群。
ロイクは背から大剣を抜いた。身の丈ほどもある、重厚な刃が鈍く光る。人が扱うにはいささか無謀に思える武器だが、ロイクはそれを平然と構える。両の腕が異様な盛上がりをみせる。この大剣を振るうために鍛え抜かれた腕筋だ。爽やかな風貌とは裏腹に、ロイクの身体は傷と鍛練で磨き抜かれている。長い金髪から覗く両眼が闘気で充溢する。十闘級の洗練された闘気は、傍らのミーシャに伝染する。
ミーシャは腰から二本の短剣を手に取る。魔水晶を削り作られた魔術武器。短剣の周りに魔力が集まりだし、一瞬で風の刃を形成する。精霊使いの特権、中位風魔法【精霊の剣】。
「用意は?」
「出来てる」
「そうか」血管が浮き出し、ロイクの両腕がさらに太くなる。「なら始めよう」
二人を補食しようと、一斉に飛びかかる巨大百足たちを、ロイクはなぎ払った。大槌のような重々しさと、戦斧のような荒々しさ、その二つをそなえた斬撃は、たった一振りで数十匹のムカデを裂き、砕き、吹き飛ばした。ロイクは一気に踏み込み、敵との距離を縮めると、密集した長虫に大剣を叩きこむ。吹き飛ぶムカデ。さらに追撃。赤い身体が舞い、緑の血が飛び散り、道が開ける。
「走れ!」
その声が聞こえる前に、ミーシャは駆け出していた。ロイクの作った道を塞ごうと数匹のムカデが現れる。ミーシャは跳躍した。ふわりと身体が宙を舞う。通常の人間ではあり得ない跳躍力。精霊の加護だ。彼女は風を味方につけている。
眼下には蠢く虫。
「力を貸して」
精霊が魔力をミーシャに与える。短剣を纏う精霊が唸り、彼女の手元で風が渦巻く。
「ボクの敵を潰して!」
ミーシャは両手を突き出した。風の塊が放たれる。中位風魔法【風魔人の鉄槌】。不可視の鉄槌が巨大百足の身体を押し潰す。外骨格は粉々に砕け、血と内臓が爆発し、彼女はその上に着地する。すぐさま走る。
背後から凄まじい斬撃の音が轟き、ついでミーシャを追う足音。
「これは罠だ」
彼女の隣に並んだロイクが神妙な顔をする。
「恐らく早い段階でギルシュとアンニーナは死んでいた。私たちに届いた共鳴皮紙の内容は全てデタラメだ。我々はクシャルネディアに誘き寄せられた。事態は最悪の方向に転がり始めている」
ロイクの表情が苦々しげに崩れる。
「私のミスだ。むざむざと敵の罠に皆を放り込んでしまった。禁足地前で君は『引き返すべき』だと忠告してくれた。私はその言葉を無視した。すまない」
「戦場で後悔するなんて、ロイクらしくないよ」
ミーシャはつとめて明るげな声を出す。
「ボクたちが集めたのは猛者ばかりでしょ?皆きっと大丈夫。ルガル傭兵団、弧影猟団、雷刃のアニーシャルカ、その彼女が連れてきたダムド。そして、あの男」
彼女の脳裡にその姿が浮かび上がる。おぞましい殺気を身に纏う、赤い瞳の男。たとえこの地でメンバーが全滅しようと、あの男だけは生き残るのではないか、なぜかミーシャにはそう思えた。
「きっと大丈夫。だからまずは、ボクたちが生き残る事を考えよう」
ロイクの口元に笑みが戻った。
「ああ、そうだ、そうだね。全く君の言うとおりだ。まずは生き残ることが優先だ。ありがとう」
「お礼なんてやめてよ」
そこで二人はあることに気づき、立ち止まった。ミーシャは背後を振り返る。
「追って来ていない?」
いぶかしげに、そう呟く。背後には巨大百足の影も形もない。鬱蒼とした森と、風に揺れる葉擦れの音だけが耳に届く。
「ミーシャ!」
唐突に、激しい声で呼ばれ、彼女は前を向いた。ロイクは背に戻していた大剣を再び抜き、構えている。だがその身体から発せられる緊張感は、先ほどムカデに囲まれた時とは段違いだ。眼を凝らし、耳をたて、剣に殺気がのっている。本気を出したロイクの姿だ。ミーシャもすぐに短剣を構える。
二人の前方で精霊が騒ぎ始めた。
何かが歩いてくる。
そして数秒後
「そんな・・・」
ミーシャが絶望的な声を発した。
「あんなモノまで」ロイクは一度深呼吸する。肺が空気で満たされ、酸素が血中を運ばれていく。精神を落ち着け、心臓の鼓動を一定に保ち、目の前に現れた敵を睨み付ける。「あんなモノまで飼っているというのか」
のそりのそりと茂みを踏み分け、樹々を押し倒し、褐色の魔獣が姿を表す。地を踏む四本の足は分厚い筋肉、その上を剛毛が覆っている。手先には大樹すら数振りで抉り倒す剛爪。頭部が三つあり、見開かれた計六つの眼球が、二人を凝視している。剥き出された牙は鋭く、岩巨人さえやすやすと噛み砕くほどの威力をたたえる。尾のかわりに生えているのは凶暴な大蛇。鎌首をもたげ、赤い舌をチロチロと出している。体長は五メートル超と巨大百足よりも小さい。だが筋肉の塊のような身体が放つ威圧感は、大きさを超越しており、その戦闘力は並みではない。この一匹でこの森の巨大百足を全滅させられるほどの力を宿している。
「だから、ガデルムカデは追って来なかったんだ・・・」
ミーシャはぼそりと呟く。
追って来る必要などないのだ。
こんな魔獣が控えていたのだから。
「ミーシャ」ロイクは決意を込めて言った。「生き残るぞ」
危険度9 超危険指定魔獣 多頭獄犬。
ミーシャは短剣を握り直し、頷いた。
「絶対に咬まれるな」
ボリスの言葉に、ブルーノとカルロッテは当然とばかりに頷く。巨大百足の毒は非常に強力で咬まれれば最後、全身に激痛が走り皮膚が焼け爛れる。即死することはないが放っておけばそう長くは持たない。何より痛みで身動きがとれなくなる。そうなればムカデに食い殺されて終わりだ。
ボリスは腰から炎水晶玉を取り、ムカデたちに投げつける。水晶にはあらかじめ切れ込みが入れられており、地面にぶつかると砕ける。瞬間、爆発が起こる。爆炎が長虫をなめていく。中位炎魔法【強炎塊】の封じ込められた魔水晶だ。下位魔法でさえ金貨100枚はくだらない代物。中位魔法となるとこれひとつで250枚は必要だろう。
「出し惜しみは無しだ。死んだら元もこもない」
次々に放られる魔術道具、そして爆炎の嵐。炎は樹々に移り、森を焼いていく。ムカデはボリスたちに近づくことが出来ない。熱を恐れる虫たちからすれば、この豪炎はとてつもない脅威だ。
「ボリス、見ろ。巨大百足が退いていく」
ブルーノが野太い声で言った。炎水晶玉の握られた両手を下ろし、炎の隙間を見つめている。赤い長虫たちが藪の中に、森の奥に逃げていく。
「やけにあっさりしてるね」
カルロッテが眼を細めた。
「奴等の弱点は火だ。この炎は越えられない。諦めたんだろう」
ブルーノの声。
「こんなに簡単に?奴隷魔物ってのは主人のためには平気で命を投げ出すんでしょ?」
「野生だったのかもしれない」
「いや、野性はありえない」ボリスが二人の会話を遮る。「あの量のガデルムカデが集まれば、必ず共食いが起き、群れは崩壊する。そもそも奴等は単独で行動するのがほとんどだ。まれに群れを作る個体群も現れるが、せいぜい二十匹程度の集団に落ち着いている。俺たちが眼にした物は明らかに異常だ。アレは奴隷魔物だ」
「だとしたらどうして」
ムカデの這う音がする。音量からして数は少ない。だが、炎に囲まれたボリスたちを狙って何かが近づいている。ボリスは炎の向こう側を眺めるが、揺らめく熱は空気を歪め、鮮明さを欠いている。舌打ちをし、それでも彼は観察する。
不意に光沢のある黒い外骨格を視界が捉えた。
瞬間、ボリスの顔から血の気が引いていく。
「馬鹿なッ」彼は腰からショーテルを引き抜いた。「最上位種だと!?」
ぐちゃり、と湿った音が聞こえた。
「ボ・・・リス・・・」
か細い声が背後からする。
彼は振り向く。
そして言葉を失う。
カルロッテが宙に浮いている。いや、それは正確ではない。彼女の胸からは黒く、鋭い大顎脚が飛び出している。胸骨が弾ぜ、肉と皮膚が爆発したように飛び出している。大量に吐血し、身体が震え、眼が焦点を失っていく。
「カルロッテ!」
ボリスが悲痛な叫びを上げたと同時に、彼女の身体が上下に千切れた。血が噴き出し、内臓がぼとぼと地面に落ちる。ボリスはカルロッテが浮いていた場所をまだ見ている。左右に動く大顎脚。黒く輝く鎧のような外骨格は並大抵の刃を通さず、弱点の炎魔法を受け流すほどの硬度を有する。巨大百足を遥かに凌ぐ全長、太さ、そして毒性。危険度8、その中でも上級吸血鬼についで恐れられる最上位種。
黒鎧百足。
カルロッテは黒鎧に咬み切られていた。
「冗談だろ・・・?」
呆気にとられたような表情でブルーノは言った。黒鎧百足を捕獲するのに、弧影猟団は半日の時間を費やした。作戦を立て、罠を張り、自分たちの経験を総動員してようやく捕獲できた化け物だ。その化け物が目の前にいる。巨大百足に強襲され、魔術道具を大量に使い、なんとか生き延びた。そこに、そこにこの化け物が現れた。
「勘弁してくれよ」
それがブルーノの最後の言葉になった。彼の背後から、炎を突き破ってもう一匹の黒鎧百足が現れた。ブルーノは凄まじい速度で連れ去られた。断末魔だけが炎の向こうから響いた。
「何匹、何匹いやがる!」
カルロッテを殺した黒鎧がボリスに襲いかかる。彼は地を蹴り、すんでの所で一撃を避ける。だが着地と同時に炎の向こうから別の黒鎧が現れる。迫る大顎脚をショーテルで受け止めるが、黒鎧の力は巨大百足の非ではない。それでも何とか攻撃の軌道を逸らすことには成功した。だが、その代償はあまりにも大きい。
彼の右腕は、食い千切られていた。
「オオオオッッ!!」
血が噴き出す。骨が飛び出す。だがそんな事は問題ではない。彼は大顎で腕を食い千切られたのだ。それはつまり
「毒がッ!!」
全身の血管を刃物でズタズタに切り裂かれているような激しい痛みが爪先から脳天までを駆け抜け始めた。皮膚が熱く、痒く、痛い。ボリスは仰向けに倒れる。右腕からの出血は止まらない。毒が全身に回っている。黒鎧の毒は劇毒だ。あと少しで彼は死ぬ。
ぼやける視界の中、ボリスは地面を這い回る黒い影を眺めた。一匹、二匹、三匹、少なく見積もっても十匹以上いる。
(なるほど・・・最初から負け戦だったわけだ)
『これを成し遂げれば俺も十闘級に上がれますよね?』
自分の発言を思いだし、彼は笑った。
(これだけの奴隷魔物を使役する存在を殺そうとしていたのか。俺は思い上がっていたらしい)
笑いが止まらない。息が苦しい。それでも笑い続けた。
(こりゃ全員死ぬな。十闘級のロイクとアニーシャルカがいようが関係ない。無理だ。クシャルネディアには勝てない。人間が手を出していいような相手じゃなかったんだ)
ボリスは空を眺めた。樹々の隙間から青空が見えた。抜けるような、澄みきった空だった。
「馬鹿みたいな事をしたな・・・」
呟いた。
眼を瞑った。
眠ろうと思った。
その時、音がした。聞き慣れた音だ。先ほどから何度も聞いた音だ。外骨格の擦れる音。ムカデが地を這う音。大顎脚を打ち鳴らす威嚇音。そして
外骨格の砕ける音。
「巨大に黒鎧か」
ざらついた声が聞こえた。
「鬱陶しい虫どもが」
そしてまた、何かの砕ける音。抉られる音。裂かれる音。
「来いよ。遊んでやる」
嘲笑を含んだ物言い。
ボリスは最後の力を振り絞り、瞼を開けた。揺らめく炎。霞む視界。その奥にひとりの男が立っている。灰色の髪。赤い瞳。そしてその男の行動を目の当たりにし、ボリスは思わず声を漏らした。
「なんだよそれ」
そしてボリスは死んだ。出血多量で、毒に侵され、あの世へ旅立った。
彼が最後に見た光景、それは
サツキが素手で、やすやすと黒鎧百足を引き千切っている場面だった。




