2 誓いの記憶、そして闇に蠢く者
「しっかしさ、相手は祖なる血魔、そう簡単に近づけないんじゃねーの?上位存在だ、当然奴隷魔物や従者がいるはずでしょ?どんな奴等がいるか把握してるわけ?」
アニーシャルカが言う。
「偵察に出ているアンニーナとギルシュの報告によると」ロイクは仲間二人から送られてきた共鳴皮紙の内容を思い出す。「禁足地やクシャルネディアの城館周辺には奴隷魔物がいないそうだ。だがクシャルネディア本人の周囲に何がいるかまでは分かっていない」
「普通に考えれば、上級吸血鬼がいるだろうな。そもそも吸血鬼とは血魔の眷族だろう?ならば側に置いておくはずだ。数が少なければいいが」
ネルグイのその言葉に
「少なくとも三体、クシャルネディアに使えている吸血鬼を知っている」
とバルガスが答えた。
「なぜそんな事を知ってるんです?」
ボリスが不思議そうに聞く。
「クシャルネディアの眷族の上級吸血鬼に会ったことがあるからだ」
バルガスは淡々と言う。
「これをいうと反感を買う場合もあるが、この面子にそんな狭量な奴はいないだろう。俺は普段闇ギルドを中心に活動している。暗殺、虐殺、人身売買、暗いイメージが付きまとう裏の仕事だが、まあ実際そんな仕事がほとんどだが、裏と表で決定的に違う所はそこじゃない。二つの決定的な違いは、依頼主が人間とは限らないって事だ。金さえ払えば異種族だろうが何だろうが、闇ギルドを通して仕事を依頼できる。俺は何回か上級吸血鬼の仕事を受けたことがある。三姉妹の吸血鬼だ。有名な奴等さ」
「死の三姉妹?」
眉をひそめながらボリスが口を開く。
「そうだ」
「ブラッド・シスターズっていえば、かなりの賞金首じゃねーか」
アニーシャルカが割り込んでくる。
「確かひとりにつき金貨五千枚がその首にかかってたと思うけど、なーに、あんた知り合いだったわけ?なんでわたしに黙ってんだよ」
「お前に言うと事がややこしくなるからだ。アンデッドとはいえ仕事相手だ。勝手に手を出されては困る。・・・話を戻そう。俺は三姉妹の長女シャルロッテの口から真祖の名を聞いたことがある。彼女は自分たち三姉妹はクシャルネディアの配下だと、そういう旨の事を言っていた」
「少なくとも上級が三体に真祖が一体か。こりゃあ帝国との国境紛争の時よりキツくなりそうだ」
ネルグイは首筋を撫でながら、苦笑する。
「なーに、大丈夫よ。死んだら骨くらい拾ってやるからさ、死ぬときは安心して死にな」
「そうだ、たとえネルグイさんが死んでも、死体は俺たち兄弟が、責任を持って、ソロモンさんの元に、届ける。大丈夫」
「お前らなあ、縁起でもねぇこと言うんじゃねーよ」
ネルグイが怒鳴る。
「そう怒るなよネルグイ。それに死の三姉妹だが、奴等は」
そこまで言って、バルガスは言葉を切りサツキを見た。サツキは交わされる会話に興味が無いのか、無関心な表情で室内を眺めている。彼の赤い瞳には何も映っていない。バルガスの姿も、アニーシャルカの姿も、ネルグイもボリスもロイクも、彼の視界に入り込んでいなかった。異種族殲滅用生体兵器からすれば、ただの人間などこの部屋の調度品とさして変わらない、気にとめる必要すらない存在なのだ。一瞬、バルガスはサツキと視線を交わした。なぜだか背筋に冷たいものが走った。
『三姉妹は死んだ』
バルガスはその言葉を飲み込んだ。
彼はサツキがどういう男なのか掴めていない。もしあの夜自分がダークエルフの村にいて、サツキを目撃したと知れたら、何をされるかわからない。いや、もしかしたら何も起こらないかもしれない。だが、無駄な危険はおかすべきではない。
バルガスは黙りこんだ。
不自然な沈黙が部屋に降りる。
先程から軽口を叩いているが、皆クシャルネディアを恐れている。ここに集まられたのは猛者どもだが、その者たちをもってしても、危険度9のモンスターを殺せる確証などない。まして祖なる血魔、存在が永遠とまでいわれる魔物だ。バルガスの沈黙が、彼等に本能的な恐怖を蘇らせたのだろう。もっとも彼の沈黙はクシャルネディアに向けられた物ではなかったのだが。
「私たちは真祖を殺そうとしている」
静寂を破ったのはロイクだ。
「恐らくこの闘いに確実な事はひとつもない。不測の事態は避けられないだろう。だからここでいくら考えようと結論は出ない。私たちに出来るのは最良の準備をし、最善を尽くす事だけだ」
彼は真祖討伐に乗り出す面々をひとりひとり見つめる。
「七日後の早朝、第四区画北門から出発する。水、食料、馬車はこちらで用意する。君たちは技を磨き、最高の装備を用意し、そしてゆっくり休んでくれ。想像を絶する死闘が待ち受けているはずだ。身体の一部を失うかもしれない。下手をすれば死ぬだろう。だからこの七日間を楽しんでくれ。旨い食事を取り、極上の酒を飲み、高級娼婦を買ってくれ。それが終われば、私たちは禁足地に向かう。恐らく地獄が待ってるだろう」
地獄。
その言葉を聞き、各々頭の中に過去の光景が甦る。それは各人たちの体験した『地獄』だ。
ネルグイはジュルグ帝国との国境紛争で帝国第八殲滅騎士団に囲まれた時の事を思い出し
アニーシャルカとバルガスは十五年前のユリシール王国異種族大量虐殺の折に見た数千数万の死骸の山を思い出し
ボリスたち弧影猟団は黒鎧百足を半日かけて捕獲した時の事を思い出し
そしてサツキの脳裏には、ある光景が甦る。
『雑魚どもと、守護竜は任せろ。必ず我等が黒竜までの道を切り開く。五体満足、完璧な状態で、お前を黒竜の前に立たせてやる』
ヌルドの森での総力戦が始まる数時間前、目の前に立つ大勢のドラゴンキラーたちは、赤い瞳を爛々と輝かせながらサツキを見ていた。彼等の内側には爆発寸前の、禍々しい魔力が充溢していた。これからドラゴンと最後の戦いが始まる。これまでとは比較にならないほど大規模な、ドラゴンが滅びるか人間が滅びるかするまで終わらない最終決戦。人類側の切り札は、これまでの激戦でこの時89体にまでその数を減らしていた異種族殲滅用生体兵器、その中でも人造強化骨格・略式魔方陣・半永久魔力精製炉にほぼ完璧な適合率を見せた最強のNo.11・サツキ。対するドラゴン族の要は、火・雷・水・氷・光の五属性を統べる五体の眷属竜、五統守護竜。そして圧倒的な魔力と闇魔法で全てを蹂躙し尽くす破壊と滅亡の竜帝、黒竜・ゾラペドラス。
強い風が吹いた。すぐそこはヌルドの森だ。この向こう側に、ドラゴンが集結している。吹き抜ける風に血と死の臭いが混じっている。空は焼け、大気は焦げ、ヌルドの森の彼方はドラゴンの魔力で陽炎のように揺らいでいる。ドラゴンキラーの白髪がたなびく。彼等は魔剣を地面に突き立てると、膝を折り、剥き出しの刀身を握り締める。血が刀身を伝って流れ、草花を汚していく。血に染まった掌を左胸に当て、彼等は自らの名を口にする。古くから伝わる誓いの儀だ。掌を血で濡らし、心臓を魂に見立て、誓いをたてる。
『我等これより殺戮の剣となり、お前の前に立ち塞がる全ての敵を尽く殲滅する。何が相手だろうと、我等は怯まず、動じず、恐れない。神だろうが魔神だろうが、そして竜だろうが関係ない。最後まで抗い、最後まで戦う。腕が千切れようと脚がもげようと、その身が塵の一片になるまで剣を振り続ける。我等は殺意と鏖殺の螺旋となって、全ての敵を斬り刻む。ドラゴンキラーの、そして我等が英雄、サツキの名と血と魂に誓い、必ず・・・必ず黒竜までお前を護り抜く』
咆哮があがる。
ドラゴンキラーたちの咽喉が震え、凄まじい吼え声がエーデル平原に響き渡る。彼等の後方に控える数万の兵士と魔術師、その全ての人間の耳に異種族殲滅用生体兵器の吼え声が届く。
決意の咆哮が。
誓いの咆哮が。
魂の咆哮が。
サツキの胸には、今もその咆哮が刻みついている。
忘れることなどできない。
できるはずがない。
サツキは魔剣を地面に突き立て、膝を折り、刀身を握る。血で濡れた掌を見つめたあと、左胸に当てる。目の前に立つ88人の異種族殲滅用生体兵器。戦場で散っていった33人の異種族殲滅用生体兵器。127人の同胞、その名と、血と、魂に。
『俺も今ここで誓う』
サツキは静かに、しかし決意に満ちた声を発する。
『何があろうと、必ず、俺が黒竜を』
サツキは追憶から現実に戻る。
そこは豪奢な部屋の中だ。目の前には十三人の人間と、二人のエルフ族。彼等は真祖討伐の為に意見を出し合い、熟考し、険しい表情で話し合っている。
「地獄だ」
サツキは呟く。
「何か言いました?」
ボリスがサツキを見る。
「いや、何でもない」
彼は薄笑いでボリスに答える。
(この現実こそが俺の地獄だ)
サツキの同胞は戦いの中で死んでいった。彼等は誓いを守った。最後まで抗い、戦い、黒竜までサツキを護り抜いた。ひとつの傷も負うことなく、彼は黒竜の眼前に立つことが出来た。彼の背後にはおびただしい血が流れている。仲間の血だ。戦友の血だ。同胞の血だ。
彼等の命と引き換えに、黒竜を殺し全てを終わらせる機会を得た。得たのだ。そう、得たのに。
(黒竜を殺し損ね、誓いを破り、それでも俺は生きている)
眼が毒々しい緋色に変色する。混沌とした感情が胸の中で渦を巻く。爪が皮膚に食い込み、握り締めた拳から血が滴り落ちる。サツキの中で膨れ上がる怒りはドラゴン族に、黒竜に、しかしその矛先がもっとも向けられているのは、自分自身だ。サツキがもっとも赦せないのは己の不甲斐なさだ。
彼は記憶の中の同胞に語りかける。
(必ずだ。必ず誓いは果たす。どれだけ血が流れようと、どれだけ屍を積み重ねようと、必ず俺が黒竜を)
サツキは立ち上がると出口に向かって歩き出す。
部屋の中の全員の視線が彼に集中する。
「帰るのかい?」
背後からロイクが呼び掛ける。
「ああ、用はすんだ。五日後だったな」
「七日後の早朝、王都の北門だ」
「安心しろ。次は遅れない」
そう言うと、サツキは扉の向こう側に消えた。
*****
クシャルネディアは唇を舐める。エルフ族の甘い血液が舌先に広がる。彼女の足元はエルフ族の死体で溢れている。ゆるやかに吐息を洩らし、空を見上げる。煌々と輝く大きな三日月が彼女を見下ろしている。月光は血を黒く見せる。クシャルネディアの口元と両手は漆黒に染まっている。
「月下で食事をするのも悪くないわね。血の味も申し分ないわ」
「オルマ国に住まう、今では稀少な純血の耳長です。おきに召して頂けましたか」
「素晴らしい味よ。魔力濃度も高い。良い食材を見つけたわね」
その言葉を聞くと、ロートレクは笑みを浮かべ、深々と頭を下げる。
「片付けは任せるわ」
足元には転がる十数体の死体を軽く一別すると、彼女は城館の中に戻った。不気味な魔力を感じた。寝室に入ると、一人の男がこちらに背を向け立っていた。世界の影という影を凝縮したかのような、底の無い闇色のローブに全身を包み込んだ男だ。頭部からせり出した、異様なほど歪曲した山羊のような角だけが、闇の中で白く浮き上がっている。
「やあ、食事を邪魔するのも悪いと思ってね、終わるまで待たせてもらったよ」
「淑女の寝室に忍び込む方が、よほどたちが悪いと思うけれど?」
「なるほど、言われてみればそうだな。次から気を付けよう」
快活な調子でそう答えると、男は振り返る。深い闇を全身に纏った男、その顔を覆い尽くす闇が溶けていき、その顔が露になる。
骸だ。歪曲した山羊の角を持つ髑髏。何もない眼窩が、しかしはっきりと彼女の姿を捉えている。人ではない。生物でもない。この男には命が無い。クシャルネディアと同じ屍鬼、不死者、そして魔術師。
死霊魔導師・イビルヘイム。
「私を覚えているかな?真祖クシャルネディア」
「もちろん、忘れるわけがないわ。私が殺し損ねた獲物なんて、そう何体もいないもの」
「それは光栄だ。嬉しいね。しかし相変わらず君は無防備だ。城館の庭にケルベロスが二頭いるだけとは」
「いつもは森に奴隷魔物を放しているわよ。でも今は少し事情が違うの。人間たちが遊びに来るらしいのよ。せっかく足を運んでもらうのに、森であの子達を見て引き返されたら困るでしょ?」
「それにしてもだよ。結界魔法で城館を護ることも、空間魔法で時空を歪める事もしていない。低級存在なら奴隷魔物でどうにでもなるだろうが、私のような上位存在ならば侵入は容易。いつ寝首をかかれるとも限らないよ?」
「あら、関係ないわ」
クシャルネディアは笑う。
「どんな存在であれ、私を殺す事なんて出来ないわ。それに私の前に立てば、どうせ死ぬんだから」
「確かに君の力は私もよく味わったが、それは些か奢りが過ぎるんじゃないかな?」
「悪魔と二人ががりで私を殺しきれなかった貴方が言うと、些か説得力に欠けるわ」
数十年前、クシャルネディアはこのリッチと対峙している。その時は死霊魔導師の他に、もう一体悪魔がいた。幾万もの蠅を従えた悪魔だ。肉の腐る臭いを漂わせ、金属質な笑い声が鼻につく男。蝿の羽音が不快だった。クシャルネディアは二人の申し出を拒否し、すると彼等はクシャルネディアに襲い掛かったのだ。
「あの時は、確かに殺しきれなかった」
「まるで今は違うと言いたげね」
「言外にそう言ったつもりなんだが」
「あらそう。なら試してみてもいいかしら?」
クシャルネディアの蒼い瞳がギラリと輝き、全身から黒い魔力が立ち上る。
「申し訳ないが、今日は会話を楽しむ為に来たんだよ」
「会話?貴方と話す事なんて何もないわ」
「あるさ」
イビルヘイムはクシャルネディアを見つめ、厳然とした口調で言葉を紡ぐ。
「奈落に沈んでいた『我々』は、これより表舞台に躍り出る。かつて竜が神を滅ぼしたように、そして人が竜の時代を終わらせたように、次は【魔】が人の世を終焉に導く。『我々』が世界を統べる刻が来たのだよ、クシャルネディア」
死霊魔導師を覆う闇の中から白い腕が現れる。もちろん骸だ。彼はクシャルネディアに手を差し出す。
「今一度、問わせてもらう。この手を取り『我々』と共に覇道を歩む気はないか?」
その問いにクシャルネディアは笑顔を浮かべ
「あの時も言ったと思うけど」
彼女の言葉と同時に、イビルヘイムの周囲に無数の槍が現れる。赤黒い血液で作り出された槍だ。上位闇魔法・血闇の槍だ。計六十六本の鋭い槍が上下左右、死霊魔導師を取り囲んでいる。
クシャルネディアはゆらりと片腕をイビルヘイムに向け
「興味がないわ」
指先で空を切る。
次の瞬間、血闇の槍がイビルヘイムを襲う。四方八方から放たれる血闇の槍がリッチの身体を貫き、抉り、引き裂く。さらにクシャルネディアは目の前を指先で横一文字になぞる。空間が歪み、黒い亀裂が現れる。亀裂はみるみる押し広がり、そこから一斉に黒い外殻の長虫が飛び出し、串刺しの死霊魔導師目掛けて躍りかかる。大量の黒鎧百足だ。いくつもの大顎と長い脚がイビルヘイムを捉える。黒鎧百足はそのまま寝室の壁をぶち破り、イビルヘイムを夜の中に追い出す。死霊魔導師は浮遊魔法でも使っているのか、宙に浮いている。その身体に次々と黒鎧百足が絡み付いていく。
「おかしいわね」
クシャルネディアはそう言うと、右腕に魔力を集中する。指先から肘までが赤黒く染まる。彼女は腕を高く掲げ獲物に狙いをさだめると、勢いよく振り下ろした。あたかも蛇のように黒い前腕が凄まじい速度で伸び、それが鞭の如くしなりながら死霊魔導師の身体を奴隷魔物ごと縦に切り裂いた。黒鎧百足は緑色の血液を撒き散らし切断されれるが、強力な生命力を有する彼等はその程度では死なない。むしろ驚くべきは死霊魔導師だ。槍に貫かれ、ムカデがに咬み砕かれ、いましがた袈裟斬りにされたはずのイビルヘイムは、なぜか無傷だ。
「いやはや、話し合いに来ただけだというのに、酷い仕打ちだ」
イビルヘイムに絡み付いていた黒鎧百足たちが一斉に燃え上がる。彼等は大顎を打ち鳴らしながら苦痛に身を歪め、それでもリッチを殺そうとその身を離さない。巨大百足と違い、黒鎧百足の黒い外殻は炎に対して並々ならぬ耐性を持つ。
「鬱陶しい虫だ」
今度は黒鎧百足の周囲に冷気が漂い、次の瞬間、長虫たちは氷結する。薄い氷に覆われ、脚一本動かすことができない。イビルヘイムは凍りついた黒鎧百足の外殻にそっと手を乗せると
「砕け散れ」
その言葉と同時に死霊魔導師の周辺を目映い雷が走り抜ける。耳をつんざくような雷鳴。氷結していた黒鎧百足の身体が粉々に砕け、キラキラと輝く。それらは雪のように庭園に降り注いだ。
この一連の流れの中で、イビルヘイムは炎・氷・雷の魔法を、一切の予備動作も無しに発動している。永い年月を魔導の探求についやして来た死霊魔導師からすれば、六属性魔法を使いこなすなど造作もない。
「ずいぶんと悪趣味なペットだ。品性を疑うよ」
「貴方のくだらない価値観で私を測らないでくれる?」
イビルヘイムの身体に強い衝撃が走る。彼は胸元を見る。クシャルネディアの腕が胸を貫いていた。だが、彼女はいまだ寝室の中にいる。クシャルネディアは右腕の肘から先だけを黒い霧に変化させ、死霊魔導師の正面で実体化させたのだ。【形態変化】は血魔の特権だ。死を呼ぶ蝙蝠に、無明の霧に、影を食らう蛇に、彼女は自由自在に変化する。
「やっぱりおかしいわ」
クシャルネディアは首をかしげながら呟く。
「手応えはあるのにダメージを与えられない。不思議な感覚だわ。『物理結界』?それとも『肉体希釈』でもしているのかしら?」
「少し違う。これは空間魔法だ」
「ああ、なるほど。貴方、存在を『ズラして』いるのね」
「ご名答」
彼は両腕を広げると、薄く笑った。
「あの時はそんな芸当出来なかったはずだけれど」
「言ったろう?『昔とは違う』と」
「そうらしいわね」
クシャルネディアは死霊魔導師から腕を引き抜く。腕はすぐに黒い霧に変わり、彼女の本体に戻っていく。
「存在そのものがズれている。殺すのに時間がかかりそうだわ」
「それはこちらの台詞だよクシャルネディア。この数十年で、さらに魔力保有量を上げたようだ。先ほどの血闇の槍、六十六の上位魔法を同時発動など、一体どれだけ膨大な力を蓄えている?それだけの魔力があれば、もはや肉体再生速度は通常の真祖を遥かに凌駕しているだろう。まさに不死者だ」
イビルヘイムの足元が緩やかに溶けていく。黒い身体が夜の闇と同化していく。
「今日の所は退かせてもらう。もともと『答え』を聞きに訪ねただけだからね。それに私としても、君を殺しきるには些か準備不足だ」
「今日のところは?また来るつもり?」
「もちろん。障害に成りうる存在は全て排除するのが『我々』の方針でね。味方に引き込めぬなら滅ぼすまでだ。もっとも私が君を殺すとは限らない。だが『我々』の誰かが必ず君を殺し、血魔の永遠に終止符を打つよ。まったく、同族を殺すことほど悲しい事はないね」
死霊魔導師の身体はすでにほとんどが溶けている。かろうじて頭部だけが形を保っている。消えかけのイビルヘイムは最後に嗤う。
「それでは、その刻までごきげんよう、真祖クシャルネディア。我々【地獄に堕つ五芒星】と道を違えたことを、せいぜい後悔するといい」
そして男は跡形もなく消え去る。
存在の残滓すら残さず。
死霊魔導師の消えた空間を眺めながら、クシャルネディアは嗤う。にちゃりと、邪悪な笑みが月光に照らし出される。
「来るなら来なさい。歓迎するわ」
その声は禍々しさを湛えていた。




