35 死闘 邪悪 到来
【35】
眼前に迫る刃を、ザラチェンコは弾く。
白い火花が散り、その火花が消えるよりも素速く、新たな斬撃がザラチェンコの生命に迫る。
刃、刃、また刃。
それらすべてを弾き、凌ぎ、受け止めながら、ザラチェンコは心の内で、聖騎士の実力を称賛する。
そう、称賛する。
〈聖騎士〉アルトリウスの剣技は、まさに”正道”。これぞ騎士のかくあるべき姿と、そう納得させられてしまうほどに、アルトリウスの佇まいは完璧な均整に裏打ちされている。己が正中線上に利き腕を据え、固く握り締めた純白の大剣を突き出すように構え、その鋒は相対するザラチェンコの魂を射貫くが如く、確然と心臓に擬する。
凛然たる構えより放たれるのは、まさに”正道”。
実直にして正確無比な剣技。
アルトリウスの操る聖刃は、どこまでも謹厳に、どこまでも厳粛に、そしてどこまでも直線的だった。上段より振り下ろされる刃は力強く、左右より振り抜かれる剣筋に迷いはない。放たれる刺突には渾身の力が乗せられ、その鋒は、絶えず相対する者の急所を的確に狙い澄ます。士官学校の訓練生が手解きに受ける剣術の基礎教練のような、あるいは祝祭において武人が主君の前で披露する演武の型のような、聖騎士の剣技には搦め手が──敵を翻弄するフェイントや、攻撃のタイミングを崩すパリィなど──一切、見受けられない。
実直にして、正確無比。
まさに王道。まさに正道。
だからこそザラチェンコは、アルトリウスを称賛する。一切の小細工を削ぎ落とした正道の剣術、その類い稀なる腕前に、感嘆すら覚える。
そして、だからこそ、ザラチェンコの血は滾り立つ。
──こうでなくては。次々に飛来する聖騎士の剣技、整然と刻まれる白き刃の律動を打ち合う毎に感じながら、ザラチェンコは心の底から頷く。──まったく、こうでなくては。
ザラチェンコの頬から血が沫く。鱗の幾枚かが削り取られる。蒼い胸当てに疵が走り、聖魔力を纏った白き刃の猛攻が、魔人の皮膚を鎧ごと炙る。
血に、痛みに、しかしザラチェンコは口許を撓める。
嬉しいのだ。
父上と母上を殺した男。神という大義名分を笠に着た狂信者。あの日以来一日たりとも忘れたことのない、憎き憎き両親の仇。
「素晴らしいじゃないか」ザラチェンコの眸が、絶対零度の殺意に凍り──相反するように、その躯を流れる血潮は、さらに熱く沸騰する。「相手にとって不足は無い」殺すに値する敵を前に、父上と母上の墓前に捧げるに足る敵を前に、だからこそザラチェンコは、敢えて強気に嗤う。「まったく、貴様が殺し甲斐のある敵で俺は心底嬉しいよ、アルトリウス」
「ほざくな、蛇」鉄のように硬質な声色が、魔人の言葉を断ち切る。
アルトリウスの表情は、相対するザラチェンコとは対照を成している。
険しく顰められた眉根、針のように鋭い眦、固く引き結ばれた口許。
聖騎士の美貌に泛ぶのは、ただひたすらに烈しく燃え盛る、瞋恚。
「穢らわしい魔人が」剣戟の火花が散りゆく中、アルトリウスは唾棄するように吐き捨てる。「貴様如き劣等種が、一体いつまで粘るつもりだ」
赦しがたかった。いまだ息をしている魔人が、神の騎士たる自分と刃を交えながら、いまだ生き延びている魔人のその実力が、アルトリウスには到底赦し得ないものだった。
魔人は巨大な刃を手にしていた。剣身は自身の身長を遙か凌駕し、刃幅は己を軽々と隠せるほどに幅広く、緩やかな弧を描く分厚い刃は荒々しい剥き出しの断崖を思わせた。それは、巌だった。岩塊だった。到底剣とは呼べぬ代物──そう、それはまさしく巨刃だった。そしてその巨刃より繰り出されるのは、聖騎士の正道の剣技とは相反するものだった。
魔人に構えのようなものは存在しなかった。巨大な刃は肩に担ぎ上げられている時もあれば、その重量を地に預けている時もあった。右手で握られていると思えば左手に移り、両手で握られていると思えば片手に戻っている。
従来の型に縛られぬ構えとも云えぬその構えは、正統たる神の剣技を重んずるアルトリウスからすれば、まさに”邪道”。
そして、邪道なのはその構えだけではない。
側面より襲い来る巨刃を、アルトリウスは禦ぐ。火花。籠もった音響。純白の大剣ごと叩き斬ろうとするかのような重い一撃。その一撃が、次から次、淀みない刃の流れとなって、白銀の聖騎士の生命を矢継ぎ早につけ狙う。
正確無比な剣捌きによって、アルトリウスは巨刃の襲来を禦ぎ、捌き、受け流す。
白磁の額を血が伝う。銀糸の髪がはらりと落ちる。巨刃の衝撃に、アルトリウスの骨肉が打ち震える。魔人の剣筋は聖騎士のように直線的なものではない。巌の如き巨刃の重量は、たとえ超越魔物の膂力を以てしても、力任せに振るうには重すぎる。ゆえにザラチェンコは、遠心力と重心移動を利用する。操るのではなく”振り廻す”。御するのではなく”暴れさせる”。ザラチェンコに構えが無いのも頷ける。彼は巨刃の重心を絶えず移動させることで遠心力を生み、その遠心力を味方につけることで勢いを得、超重量級の刃の暴々しい軌道を、剣術にまで昇華させている。そしてその独特な剣術がゆえに、魔人の剣筋は非常に読みづらい。あらゆる態勢、あらゆる角度から、縦横無尽、巨大な刃が奇襲を仕掛ける。無形の構え。不規則な剣筋。それはまさに邪道の剣技。
瞬く火花。空を裂く音響。絶えず交わされる刃と刃。ル・シャイル広場で繰り広げられる、互い以外何者も介入することの出来ぬ苛烈な死闘。
正道と邪道、双方の剣技の方向性は異なれど、その技倆、その実力は、間違いなく拮抗している。
一際耳を引く大音響と共に、アルトリウスとザラチェンコは、会敵後、二度目の鍔糶合いを演じる。
再び交わされる視線。ぶつかり合う魔力装甲。そうして再び、両者は同時に距離を取る。
着々と増える双方の疵──しかし、致命傷には到らない。
実力が拮抗しているがゆえに膠着する戦い。
だが、彼等の有する”武器”は剣だけではない。
ザラチェンコは巨刃を地面に突き立てる。
冷気のような魔力が地面に流れ込み、
途端、地響きが広場を揺らす。アルトリウスの周囲の地面が間欠泉のように噴き上がり、砂埃の只中から、八体の石像が顕れ出でる。全長は、聖騎士のゆうに二倍。砂色の鎧に身を包み、右手には巨大な直剣を、左手には堅固な盾を構えている。そして、蛇の頭部を持っている。頸当より上を形作るのは、くわと大口を開いた獰猛な蟒蛇。
この石像は〈岩の従者〉だ。石化魔法により生成された、魔人の従者だ。
ザラチェンコは甃を強く蹴る。蒼い残像が尾を引く。地を這うように、魔人はぬるりとアルトリウスに迫り、呼応するように蛇の騎士たちが高々と剣を振りあげる。
ザラチェンコの狙いは波状攻撃。巨刃を含め計九本に及ぶ岩剣による息つく暇もない連撃。聖騎士といえど、躱し切れまい。
ザラチェンコがアルトリウスの間合いに踏み込んだのを合図に、ゴーレムたちは一斉に剣を振り下ろす。振り下ろし、
瞬間──閃光。
眼を灼くような眩い耀きが周囲一帯の影という影を消失させ、すべての”魔”を照らし出す。
岩剣は速度を失い、その鋒が聖騎士の額に触れる直前、ごとりとゴーレムは剣を取り落とす。次いで左手の盾が足許に落下し、両腕が地面で砕け散り──ゴーレムの全身に無数の罅割れが拡がり、あまりにも呆気なく、石像の従者は崩潰する。
上位光魔法〈聖なる眩耀〉。
神聖属性には及ばないまでも、光属性もまた、あらゆる魔力を乱し、中和し、相殺する性質を持つ。〈聖なる眩耀〉は高出力の光属性を炸裂させ、照射範囲内のすべての魔力を相殺する。魔法攻撃を掻き消し、霊体を蒸発させ、低級の魔物であればその肉体ごと灼き尽くす。この魔法を用いてアルトリウスは呪いである〈虎鬼〉の軍勢を討ち祓い、そしてゴーレムの駆動源であるザラチェンコの魔力を消し去り、蛇の騎士たちを無力化した。
そう、ザラチェンコとアルトリウスの武器は剣だけではない。
石像が瓦解した衝撃によって砂埃が立ち込める。その状況をザラチェンコは利用する。蛇が草叢を隠れ蓑に獲物に近づくように、砂塵の緞帳を煙幕に、ザラチェンコはぬるりと聖騎士の背後に廻り込む。
しかし、それを見逃すアルトリウスではない。魔人の動向を見切ったアルトリウスは、純白の大剣を上段に構え、背後に方向を転じる。
三度の鍔糶合い、
そこから流れるように剣戟に傾れ込み、
さらに、魔法。
ザラチェンコの背後で、巨大な蛇が鎌首を擡げる。巌を卵とし産み落とされたのは、荒々しい岩石の体躯の一匹の大蛇。新たに創り出されたゴーレム。顎門は家屋をひと呑みにできるほど大きく、胴体は聖都の神殿が備える鐘塔のように丸々と太い。眼を瞠るほどの巨体は、さながら〈尾を呑む蛇〉。氷柱石のような牙を剥き出し、その巨体からは想像もつかないほどの猛速で、大蛇はアルトリウスに襲い掛かる。
同時に、アルトリウスの頭上より砂色の影が降り注ぐ。
剣、槍、矛、斧、鎚──大量に降り注ぐのは、岩石より削り出された魔の刀槍矛戟。形こそ異なれど、これらも歴としたザラチェンコのゴーレム。
銀の胸当てに、疵が走る。肩当てが欠け、手甲が軋む。無垢なまでに清潔だった聖騎士の銀鎧が、舞い上がる砂礫に擦れ、灰白に曇る。
ザラチェンコの苛烈な猛攻に、アルトリウスは思わず退り、
その一瞬、わずかに生じた隙を、ザラチェンコが捉える。
聖騎士の美貌より、鮮血が迸る。
左の眦から頸元までを、ざっくりと、
巨刃の鋒が、白磁の膚を、切り裂いた。
滾々と、鮮血の糸が数条、銀の鉄靴に垂れ落ちる。足許に拡がる血溜り。わずかに鈍る聖騎士の剣筋。
すかさず追撃。戦槌の如き巨岩を備えた大蛇の尾部が、したたか聖騎士の躯幹を打ち据える。
燦めく銀の粒子。砕け散った銀鎧の欠片。ぐらりと態勢を崩す聖騎士。美姫の如き艶やかな唇を伝う、一筋の血。
昂揚と歓喜。震えるほどの悦び。胸奥に兆した昏い感情を、しかしザラチェンコは押し込める。勝利の美酒に酔いしれるのはまだ早い。アルトリウスの息の根を止めて初めて、彼の復讐は成就をみる。
まだ終わりではない。ザラチェンコはさらに大量の武器を生成し、驟雨のように降らせる。同時に、聖騎士との間合いを詰める。
あくまでも狙いは波状攻撃。物量と手数を活かし、このまま圧し潰す。
そう、まだ終わりではない。終わってなどいない。
──だがそれは、アルトリウスにしても同じ。
「……雑種が」瞋りに奮える聖騎士の声が、ザラチェンコの耳朶を震わせた。「調子に乗るな」
──閃光。〈聖なる眩耀〉。
岩石の刀槍矛戟が、粉と砕け散る。
ザラチェンコの頬から白い煙があがり、大蛇の表皮に細かな罅が走り──しかしザラチェンコと大蛇は止まらない。超越魔物としての肉体強度と高密度の魔力装甲を纏うザラチェンコが、この程度の魔法で怯むことはない。大蛇も同様だ。先ほどの一幕を踏まえ、大蛇は光属性が浸潤出来ぬほどに頑強な、岩盤のような〈岩の皮膚〉でその身を分厚く鎧っている。〈聖なる眩耀〉といえど、彼等の動きを止めることは不可能。
だが、一瞬とはいえ閃光が彼等の視界を眩ませのも、また事実。
そして聖騎士を相手にその一瞬は、致命的だ。
泰然と構えるアルトリウスの聖刃、かねてより白熱していたその剣身が、さらなる耀きに消失する。
──一閃。
血が、沫く。
くすんだ藍鉄色の鎧、その胸当てを斜めに過るようにして、細く精確な一本の直線が、未踏破の雪原に残された轍のように、深々と刻まれている。その轍はザラチェンコの異貌へと続き、鼻筋を貫くように額へと走り抜け、その軌跡から、白い蒸気を伴った魔人の穢血が、烈しい血飛沫を上げる。
〈眩耀刃〉。
ザラチェンコの背後で、巨岩が大崩落を起こす。
〈眩耀刃〉、それは指向性を絞った〈聖なる眩耀〉。魔を討ち祓う眩耀を剣身に集中し、圧縮、そして剣を振るうと同時に、解放。周囲一帯を眩ませる烈しい耀きは、剣筋という細い切れ目より放たれることによってその出力を何十倍にも増幅し、その一閃は立ち塞がる”魔”を、あたかも水圧カッターのように、一刀のもと両断する。
魔力装甲を斬り断ち、鎧と異貌に創を腐刻し、しかし、殺し切ることは叶わない。
それでいい。もとより聖騎士の狙いは魔人にない。
ザラチェンコの背後で崩落したのは、ゴーレムの大蛇。そう、こちらが本命。瞬いた一閃は大蛇の巨体を軽々とすり抜け、牛酪のように滑らかに切断し、動力源たる魔人の魔力を、完全に戮した。いや、祓した。
「神より賜ったこの血肉を、貴様如き穢れた雑種が損なうなどと」
予想外の展開によりわずかに生じた意識の空隙、その空隙に、瞋りを湛えた聖騎士の声が辷り込む。
刹那、ザラチェンコは跳ねるように後方に跳ぶ。
視たのだ。己に擬せられた聖刃、その鋒で耀く凄絶な光を。
「死を以て償え」
月影のように清冽な声が響き、
──瞬閃。
眩い衝撃が、真正面からザラチェンコを貫いた。
腕が痺れる。躯が後退する。踏み砕いた鉄靴が地面にめり込み、砕けた甃が深々と轍を描く。
ぼたりと、血の塊が足許に朱い花を咲かせる。
灼けつく痛みに奥歯を嚼む。口中に鉄錆の味が拡がる。痺れを紛らわすように、拳を強く握る。
ザラチェンコの左胸が、藍鉄の鎧ごと穿たれている。抉られた胸当てから、もうひと塊、血が溢れる。
後方に跳ねたと同時に、ザラチェンコは聖騎士と自分とを分厚い岩壁を以て隔てた。それも一枚ではない、三枚。城門に据え付けられた門扉ほどの巨大さの岩壁を三枚、地面より喚び出し、堅牢堅固な城塞として自身の護りを固めた。さらには巨刃を盾のように突き立て、重心を落とし、全身に魔力を廻らせた。転瞬の間に、ザラチェンコは防備を整えた。完璧だった。そのはずだった。
瞬閃が、すべてを貫いた。
〈眩耀槍〉。
〈眩耀刃〉が剣ならば、こちらは槍。聖刃に集中させた魔力をさらに圧縮し、鋒ただ一点に収斂、限界まで励起し、撃ち出す。より指向性を絞り込まれた光の槍は、範囲、取り回し共に〈眩耀刃〉には遙かに劣り、しかし針の突端ほどに研ぎ澄まされた光の槍の威力は、その速度も相まって、至近距離で放たれた場合、あらゆる”魔”を貫通する回避不能の死の一撃と化す。
しかも、扱うのは現存する最後の大天使、〈聖騎士〉アルトリウス・ル・アクエス。
三重の岩壁を貫き、巨刃の刃面に風穴を開け、鎧を穿ち、死の一撃はザラチェンコの左胸を抉った。
そう、聖騎士が狙ったのは左胸。魔力の源泉、魂の鎮座する場所、心臓。
創口から、白い蒸気が立ちのぼる。魔の消失反応。ただ抉られたのではない。灼き抉られたのだ。
防禦を固めていなければ、貫かれていた。
「……これほどとはな」ザラチェンコは口中の血を吐き捨てる。魔力を祓された三重の岩壁が、粉々に崩潰する。震動。衝撃。立ち込める砂埃。低い稜線を描く砂礫の山を踏み越え、純白の翼を展げた聖騎士が姿を顕す。
血染めの美貌。疵だらけの鎧。しかし、瞋恚に燃える銀の眸には、一切の揺らぎがない。
剣術に劣らず、魔法の腕前も超一流。実直。直線的。その技のすべてが、つけ入る隙のないほど正確無比。
まさに神の剣。神の騎士。
だからこそザラチェンコは、先ほど同様強気に、不敵に──嗤う。嗤ってみせる。
「……それでこそだ」
ザラチェンコは巨刃を肩に担ぎ上げる。刃面の風穴は、すでに修復されている。左胸の創傷も〈岩の皮膚〉によって塞いだ。戦いはまだ終わっていない。双方、手の内をすべて晒してはいない。大尾にはほど遠い。これは復讐だ。死闘だ。どちらかの”死”を以てのみ決着とする、凄絶極まる戮し合いだ。
指先で左胸に触れ、そのまま貌に向かって一直線に刻まれた轍を擦り、目許の血を拭い取る。
凛然と鋒を突き出すように聖騎士が剣を構える。受けて立つように、魔人は鉄靴を踏み出す。
「本当に、心の底から思うよ」
殺すべき敵を前に、殺すに値する敵を前に、ザラチェンコは今一度、その想いを味わい尽くすように嚼み締める。
「貴様が俺の宿敵で良かった、アルトリウス」
*****
「身の程を辨える気になったか?」
口許に嗤笑を泛べ、ギグはベルゼーニグルを握り込む。鎧の如き堅固な外骨格が軋みを上げ、ベルゼーニグルの咽喉から苦痛の唸りが漏れ出る。愉しげに、ギグは指先に力を込める。鈍い破砕音と共に蟲竜の外骨格が砕け、その砕片が肉体を深々と抉る。ベルゼーニグルの唸りは劇痛の咆吼と化し、その様が可笑しくてたまらないと、ギグはさらに力を込める。枯木が折れたような乾いた音。破壊の余波は内骨格にまで及んでいる。
「無謀だって云ったろ?」蟲竜の眸を覗きながら、ギグは噛んで含めるように云い聞かせる。「お前等みたいな蟲螻が、おれの相手になるわけないだろ。おれは神の化身たる〈勇者〉だぞ? 少しは常識ってものを持ってほしいもんだな」
「……クソ野郎が……ぶち殺してやる」
「その減らず口は死ぬまで直らないらしいな」態とらしく肩を竦め、「なら、さっさと死んどけ」
「ベルゼーニグルッ!」カ・アンクの怒号が散乱した瓦礫の稜線に反響する。カ・アンクは全身に力を込める。今の彼は、大量の獸の群れによって地面に抑えつけられている。蠢く影、獰猛な唸り。カ・アンクは怒りを糧に、爆発的に魔力を練り上げる。全身に力が漲り、カ・アンクは伸し掛かる影獸の重みを強引に押し退ける。
カ・アンクの眼が、異様な〈勇者〉の姿を見出す。
醜かった。
勇者の左腕が、巨大化していた。上膊は腸詰めのようにパンパンに膨れ、下膊は隆々たる筋肉にこれでもかと張り詰めている。五指は丸太のように太く、また長く、指先に生えた爪は岩盤のように巨きく分厚い。
そして、醜い。
巨大化した左腕は、白濁した皮膚に被われている。放たれた直後の精液のような、腥く、穢らしい、それは眼を背けたくなるような汚濁した白。そして、鏤められた悍ましい皮疹の数々。岩のように鞏固な疣贅に、深く断裂したかのような潰瘍。人間の頭部ほどもある瘢痕と、酷く糜爛した炎症──それら皮疹の数々が、白い皮膚の上から、巨大な左腕を被い尽くしている。
悍ましい左腕。病に冒された醜い左腕。
ギグは嗤い声をあげる。白い皮膚に蛇のような血管が浮き出す。ベルゼーニグルの咽喉が戦慄く。
左腕の肩から先は、ほつれている。そう、それ以外の表現が見当たらない。使い古された縄の先端が毳立つように、左腕の肩口から先はばらばらにほどけ、柔らかな筋繊維となって無数に枝分かれし、その筋繊維が、ギグの頸元から項を、支柱に絡みつく薔薇の蔦のように、ゆるやかに這い進み、聖衣の中に消えていく。
筋繊維の行き着く先は、勇者の背中。そこに、一本の剣がある。ギグの背筋、躯の中心を貫く脊柱の中に、その剣は埋め込まれている。
北方の凶剣〈巨神の脊柱〉。
その名が示すとおり、その凶剣の形状は巨きな脊柱を模している。頸椎、胸椎、腰椎、仙尾骨が描く生態的な湾曲は、なるほど確かに曲剣の類いに見えなくもない。しかし〈影獸の奴隷剣〉同様、この邪遺物も、剣としての使い道はない。〈巨神の脊柱〉は装着することによってその力を発揮する。より正確を期すれば、融合──いや、寄生だ。〈巨神の脊柱〉の能力は〈変貌〉。持ち主の肉体──つまりは脊柱──と一体化し、持ち主の魔力を糧に強靱な筋繊維に生成、その筋繊維を利用して持ち主を、この世でもっとも醜いと蔑まれた巨人族の王、巨神へと変貌させる。
ギグの醜い左腕は巨神のもの。
巨神の有する最大の武器は、膂力だ。
ギグは蟲竜を凄まじい力で握り込み、「じゃあな、ベルゼーニグル」
カ・アンクの眼の前で、ベルゼーニグルはギグに握り潰される。丸太の指の隙間から、鮮烈なまでに朱い液体が噴き出す。外骨格の破壊される音に、肉の擂り潰される音。骨の擦れる音、血の滴る音。ゆっくりと開かれた巨神の掌は血潮にぬめり、原形を留めぬベルゼーニグルの残骸がぼろぼろとこぼれ落ちる。ギグは鷹揚と蟲竜を見やり、「あとはお前だけだな、カ・アンク」
怒号と共に、蒼い稻妻が迸る。雷鳴が瓦礫の稜線を吹き飛ばす。その身に纏った蒼雷によって獸の拘束を灼き払い、カ・アンクはギグに躍りかかる。
すべて戮された。
工業区の到る処に、獰乱の蟲騎士の屍体が斃れている。灼け焦げ、喰い荒らされ、擂り潰され、バラバラに解体され……原形を留めた屍体は一体たりとも存在しない。
同胞を、戦友を、この男にすべて殺された。
凄まじい蒼雷を背後に背負い、カ・アンクは、蒼い怒りの赴くままにギグに襲い掛かり、
刹那、炸裂した爆焰に呑まれる。
ギグの右手、烈烈と灼熱する凶剣の鋒が、カ・アンクに差し向けられている。
吹き飛ばされたカ・アンクは、瓦礫の散乱する地面を転がりながらもすぐさま態勢を立て直し、
その視界一面で火花が弾け、
──再び、炸裂。
二度三度と連続する焰の炸裂。現在、聖都各地を燃え上がらせる黒い焰とは様相を異にする、明るく鮮烈な燈色の焰。その眩い耀きが周囲一帯を黄昏色に染め上げる。
その焰はすでに失われて久しい魔の法則。
引き始める熱の只中に、カ・アンクは這いつくばっている。蒼い外骨格は黒く灼け焦げ、背中の薄翅はどろどろに熔解し、鋭い穂先を備えた槍の如き尻尾は、痛々しげに燃え落ちている。ジンライネル直属騎士たるカ・アンクを、魔力装甲の上から圧倒するその火力。間違いなく凶剣の能力。
熱波に揺らめく視界越しに、勇者が近づいてくる。
カ・アンクは焼け爛れた両腕で身を起こす。立ち上がろうと膝に力を入れ──力が、入らない。両脚、その膝から下が、完全に焼失している。
影が落ちかかる。
カ・アンクは顔を上げる。ギグがこちらを瞰下している。白濁した双眸に、邪悪な光が泛ぶ。剣戟を思わせる金属音と共に、勇者の周囲で燈色の火花が乱れ散る。この現象こそが南方の凶剣〈燼滅する刃〉の能力。〈燼滅する刃〉は持ち主の魔力を燃料に燃え上がり、立ちのぼる焰は微細な魔力粒子となって周辺一帯へと瀰漫する。粒子は、その一粒一粒が煮え立つような熱量を内包し、かつ、金剛石のような堅牢な硬度を誇る。その粒子同士が擦れ合うことで火花が生じ、その火花を口火として、粒子の散布密度の高い空間を、魔力の粉塵爆発で薙ぎ払う。
〈燼滅魔法〉。焰魔法の原型と目される、すでに失われて久しい消失魔法のうちのひとつ。
「嗤えるくらい無様な姿だな、カ・アンク」
「……貴様、殺してやる」
「威勢だけは一人前だな。そういや、そんな調子でマシュズを諫めてなかったか? それとも諫めてたのはお前じゃなくておれが握り潰したコイツだったか?」
開かれた巨大な掌にこびりつく、戦友の血と残骸。
烈火の如き怒りにカ・アンクは再び跳び起き、しかし下方から伸ばされた黒い腕に、地面へと引き戻される。影だ。勇者の落ちかかる影の中から獸の強靱な腕が無数に飛び出し、頸を、肩を、腕を、肩を、腰を──獸がカ・アンクの全身に摑みかかり、爪を喰い込ませ、その身を強引に捩じ伏せる。影による二度目の拘束。
「どうしてお前とベルゼーニグルを最後まで生かしておいたか、わかるか?」ギグの腰部の裏側から、幾筋もの白い筋繊維が顔を覗かせる。筋繊維は手近な筋繊維と接触し、素速く綯い交ざり、結合し、強靱な筋繊維の束となる。その束は瞬く間にギグの右大腿部を被い尽くし、そのまま膝下から爪先までを、白く醜い皮疹で鎧う。
巨大な右脚。巨神の右脚。
分厚い足裏が、カ・アンクを踏みつける。
「お前等の殺し方は最初から決めている。圧殺だ」巨大な右脚に力がかかる。みしみしと、外骨格の鎧が軋む音がする。「相応しいと思わないか?」ギグが選んだのは、いたってシンプルな暴力。力任せに掌で握り潰し、甚振るように足で踏み潰す。ギグは僅かに足を浮かせ、
「お前等みたいな蟲螻には、お誂え向きな死に方だと思わないか?」
カ・アンクが末期の言葉を吐き捨てるよりも速く、
巨神の右脚が、勢いよく振り下ろされる。
衝撃に、ギグを中心に周囲の地面が隆起する。甃を踏み砕き、基礎の混凝土を突き抜け、右脚は岩盤までをも破壊している。同心円状に地面の隆起は拡がり、陥没が起こり、周囲一帯が崩潰の渦に呑まれる。カ・アンクの毀れる音は、地形の破壊音によって完璧に掻き消された。ゆっくりとあげられた右脚、その足裏を濡らす赤黒い血液だけが、カ・アンクが先ほどまで確かにこの世界に存在していたことを示す、最後の縁となる。
「まったく、無謀もいいところだな」
ギグの左腕と右脚が、ゆっくりとほどけていく。極細の紐状に戻った数万もの筋繊維は、するするとギグの背後に消えてゆく。
火花が止む。熱が薄れる。燃え盛る刃は火勢を弱める。ギグは南方の凶剣を鞘に戻す。
「まあ、暇つぶしにはなったか」
獸に暴され、熱に灼かれ、気刃に断たれ、巨神に蹂躙され──完膚無きまでに崩潰した工業区、その惨状。もはやこの場所にギグの感興をそそるものは何ひとつ存在しない。
聖衣を翻し、ギグは歩き出す。
蟲騎士の屍体を漁っていた獸どもが、主の元へと集い、蠢く長い影となって勇者に付き従う。
「次の暇つぶしを見つけないとな」
面倒臭そうに蓬髪を掻き、
「そうだな……ベリアルとシャルルアーサでも見つけ出して、殺すか」
そう云って、嗤い、
そこでふと、ギグは気づく。
気配に。前兆に。強大な魔法が発動する時に特有の、空気の震動に。
頭上を見上げる。そして、眉を顰める。
シャルルアーサは歩みを止め、頭上を仰ぎ見た。
「……あれは、一体……」呟いた彼女の顔を、漣のような不安が過る。聖都の天蓋をなす蒼穹の一画を、一条の亀裂が貫いている。シャルルアーサは脳裡を掠めた〈魔の廻廊〉の可能性に慄然とした。現在聖都を蹂躙している十体の魔物たちが、地獄に堕つ五芒星の全貌とは限らない。もしやこの十体以外にも、逆五芒星に連なる魔物はいるのかもしれない。あの亀裂は、新たな魔物の出現を意味するのでは……あまりに恐ろしい考えにシャルルアーサは小さな手をギュっと握り締め……しかし、すぐさまその考えが間違いだったと知る。
蒼穹の亀裂が、蜘蛛の巣状に拡がり始めたのだ。
亀裂は愕くほど正確な円形状を描きながら蒼穹を蚕食し、急速に拡大していく。
「……馬鹿な、あの魔方陣はまさかッ」
シャルルアーサの傍らで、ベリアルが息を呑んだ。その様子に、彼女の背筋に緊張が走る。平素より泰然自若とした態度を崩したことのない〈堕天使〉ベリアル・シルフォルフの躯が、異様なほど強張っている。こんな様相のベリアルを、シャルルアーサは今まで見たことがない。それは背後に控えている人々にしても同じ。人々はベリアルの気配を敏感に感じ取り、無意識のうちに身を寄せ合い、手を繋ぎ、不安と恐怖にその表情を引き攣らせる。
シャルルアーサたち一行は聖都脱出を図るため、騎士団の拠点を目指していた。聖都は刻一刻と悪化の一途を辿っている。ル・シャイル広場の方向からはおどろおどろしい怨嗟の大絶叫が響めき、かと思えば強烈な暴風と雷が蒼い飆と相成って天に立ち上り、巻き上げられた建造物の残骸が幾つも幾つも、空高くから降り注いだ。巨塔を隔てた遠方に位置する〈工業区〉からは、何が起こっているのか想像すらつかないような凄まじい地鳴りが断続的に響き渡り、空気は烈しく震動し、魔力残滓の分厚いベールを通してさえ、凶凶しい魔力の余波によって人々の心胆を慄えあがらせる。
聖都はもはや、人類の要衝ではない。神の、信徒の為の楽園ではない。
此処はもはや、地獄。魔が蔓延り、死と破壊が大手を振って闊歩する、超越魔物の為の戦場。南部の〈居住区〉で、西部の〈商業区〉で、東部の〈工業区〉で、北部の〈特別区〉で、そして聖都の中心たる〈中枢区〉で人々が塵芥のように死んでいく。床面に薄く積もった埃を箒で掃き散らすように、呆気ないほど簡単に、一切の良心の呵責を感じることなく、逆五芒星に連なる化け物どもは、愉悦のために、衝動の赴くままに、野望を実現させるために、人々を塵芥のように殺戮していく。
すべての住民を助けることは不可能。どころか、この先聖都を存続させることさえ……だからこそ、聖女と堕天使は、今此処にいる人々だけでも護り切らねばならないと胸に誓った。何があろうと、この身に代えてでも、彼等を聖都から脱出させる。
各地に点在する騎士団の拠点には、転移装置が据え付けられている。装置を使えば人々を迅速に二重城壁の緩衝地帯〈守護区〉へと送り出すことができる。〈守護区〉にまで辿り着くことができれば、脱出は容易。ゆえに一行は騎士団拠点に続く街路を、ただひたすらに突き進んでいたのであった。
「あの魔方陣を、知っておられるのですか」
シャルルアーサの問い掛けに、
「あれは、〈門〉だ」
ベリアルは頷き、険しい声色で答える。明らかに人間の扱うものとは異なる奇妙な記号の連なり、抽象画めいた曲線と、鋭角的な直線の組み合わさった幾何学模様。それらすべてが幾重にも重なり合い、複雑に錯綜し、複雑怪奇な重層の魔方陣の〈門〉を、蒼穹に刻み込んでいる。
あたかも背後の人々を庇うように、ベリアルはその巨躯に魔力を漲らせ、人々の傍へと歩み寄る。そうしてシャルルアーサを見やり、「魔方陣を〈門〉に見立てた極大召喚術。先の大戦において、私はあの〈門〉を幾度となく目撃している」
その言葉にシャルルアーサは眼を瞠り、静かに固唾を呑む。「……そんな……では、あれは」
「そうだ」いつも通りの泰然自若とした態度を取り戻し、しかし咽喉から絞り出したかのような苦々しい声で、ベリアルは告げる。「あれは、〈蟲竜〉の〈門〉だ」
〈門〉から、大量の黒い影がどっと噴き出す。
巨きな影だ。通常の馬の五倍の体躯を誇る巨大馬、その巨大馬二頭分とでもいえば、その重量感が伝わるだろうか。天幕のような翼を展げ、鋭い鉤爪を備えた後ろ脚をぴしりと揃え、幾体もの巨影が、聖都上空を荒々しく群舞する。
鳥、ではない。これほど巨大な鳥類は在り得ない。
風切音のような鋭い啼き声が、蒼穹の天蓋に谺する。顎門を開き、咽喉を震わせ、群舞する巨影は狂乱したように啼き声を重ね続ける。
群舞する影の正体は、巨大な有鱗目だ。
蛇のように長い頸、蜥蜴のようにずんぐりとした胴体。巨体は黒みを帯びた銅色の鱗に被い尽くされ、その貌は蛇と蜥蜴と鰐──およそ考えられるすべての爬虫類を丹念に混ぜ合わせたかのような、兇悪な面構えをしている。
竜──その眷属。〈飛竜〉。
聖都上空を群舞しているのは、黒銅色の飛竜の群れだ。
「まったく、不躾な輩もいるものだな」
屍骸の玉座から腰を上げ、イビルへイムは辷るような足取りで屋上の縁へと向かう。
天空に接するが如き威容を誇る聖都の巨塔、その頂上部のさらに上空、無辺の蒼穹に泛びあがる魔方陣によって開かれた巨大な〈門〉。その周辺を渦巻くように翔び交う獰猛な飛竜の群れ。その光景を眺めながらイビルへイムはやれやれと頸を振り、「招待状も無しに私の主催する〈聖都落とし〉に闖入するとは、まったくもって竜血族というものは、無礼千万な種族だな」不快感を露わに長々と嘆息し、「いや、それとも……むしろ光栄と捉えるべきかな?」朗らかな調子に声色を豹変させ、イビルへイムは虚ろな眼窩で飛竜の群れを透かし視る。凝視する。
「貴方のような位高き御方の興味を惹くことがでた事実を、この宴の主催として、私は誇らしく思うべきなのかな?」
渦巻く飛竜の中心に、一匹、群れの中でも一際強大な魔力を発散する飛竜がいる。魔力の強大さに比例するように、その飛竜の体躯は周囲の飛竜たちよりも一回りは巨きく、またその身を鎧う鱗は明らかに分厚く頑健に成長し、その色合いは光沢を帯びた黒銅色ではなく、ざらざらと錆び付いた赤銅色をしている。群れを監視するように頸を伸ばし、威厳漂う眼差しで周囲を睥睨するその威容は、さながら軍隊の司令官。間違いなく、赤銅色の飛竜がこの群れの統率者。
しかしイビルへイムが凝視しているのは、赤銅色の飛竜ではない。
死霊の感興を掻き立てるのは、馬に跨がるように赤銅色の飛竜の背に騎乗する、一匹の白き竜血族。
イビルへイムは知識という図書館に足を踏み入れ、記憶という蔵書を繙き、その特徴に合致する竜血族の名を──いや、竜の名を、的確に選び取る。
「〈五統守護竜〉が一柱、ミル・カムイ」イビルへイムは態とらしく威儀を正し、白骨の右手を鷹揚に胸元に押し当て、慇懃無礼に頭を下げ、皮肉げに感謝の言葉を宣べる。「いやはや、貴方のような位高き御方に興味を持っていただいて、本当に幸甚の極みだよ、ミル・カムイ閣下」