33 聖魔の鏡像
【33】
「覚えているか、だと?」
冷たい蛇の視線など意に介さず、むしろそれ以上に凍てついた眼差しを以て、アルトリウスは蒼鎧の騎士を睨み返す。
この魔人は、瑕疵だ。彼にとっての、瑕疵。
アルトリウスの”魔人狩り”は、常に完璧な手順に則って執り行われてきた。獲物を見つけ出し、追い立て、狩猟する。捕らえた獲物に痛みを与え、絶望を植え付け、最後にその大天使自らがその頸を刎ね飛ばす。アルトリウスは常に完璧な狩りを求めた。非の打ち所の無い、完全無欠の神罰を与えることを至上とした。彼にとって魔人狩りは、世界の秩序を護る為の重要な”聖務”であり、自らに流れる神の血が命じる絶対的な”神勅”だった。
その絶対的な神勅に、あの日、瑕疵がついた。
「忘れたと思うか」
アルトリウスの美貌に冷酷な翳が射す。
「私が貴様を、忘れたと思うか」大剣を握る銀の手甲が、込められた力に軋りを上げる。「貴様だけだ」抑えきれぬ瞋恚に聖騎士の声尻が打ち奮える。「永きに渡る我が聖務の中で、私が取り逃がした魔人は、貴様だけだ、蛇」
純白の聖刃が、刃の形に消失する、そう見る者に錯覚を起こさせるほどに、白熱する。
この魔人が地獄に堕つ五芒星の一員であるということは、ベリアルから聞き及んでいた。そしてその魔人の目的が、自分への復讐であることも。ゆえに斯様な状況が訪れることを、アルトリウスはなかば予期していた。しかし、アルトリウス自ら魔人の捜索に乗り出す気は、端から彼には無かった。怒りはある。雪辱を果たしたくはある。だが、所詮は魔人だ。此度の敵はあのヘル・ペンタグラム。何れもブラックリストに名を連ねる比類無き超越魔物の集団。そしてその中には〈勇者〉の姿さえ……そのような集団を相手取らねばならぬ状況で、なぜ魔人の討滅などを最優先事項に据えなければならない。
魔人など所詮、雑種だ。
穢れ血。血雑じり。忌々しき劣等種。
狩りの獲物としてみれば上等だが、聖戦の露払いとしての獲物にしては、あまりに──
「……否」
脳裡を掠めた考えを、
「寧ろ、相応しいか」
そう断じ、アルトリウスは銀の鉄靴を蒼鎧の騎士に向かって一歩踏み出す。
「なるほど、確かに相応しい獲物だ」アルトリウスは銀の鉄靴をさらに踏み出す。神の血を冒涜する劣等種を、だからこそ聖戦の露払いとして誅戮する。それは同時にあの日の雪辱を果たし、仕損じた魔人狩りを、彼に課せられた聖なる使命を、完璧なる神勅へと昇華することを意味する。白熱する聖刃を魔人へと擬し、アルトリウスは決然と宣告する。「いいだろう、まずは貴様の生命を以て反撃の狼煙としよう、蛇」
「やる気を出してくれて嬉しいよ、アルトリウス」聖騎士に倣うように、ザラチェンコも蒼い鉄靴を踏み出す。「腑抜けた獲物など興醒めだ。全身全霊、本気を出した貴様を仕留めてこそ、俺の復讐は成就する。せいぜい死力を尽くしてくれ」そこで不意にザラチェンコは眼前の”獲物”から視線を外す。彼の視線が聖騎士から逸らされたのは、これが初めてだ。魔人の視線の行き着く先は、彼等から幾分離れた場所でまごつく七人の冒険者たち。「やあ諸君、揃いも揃って熟々俺と縁があるらしいな」冷たい眼差しはそのままに、ザラチェンコは口元を歪め、快活な口調で七人に嗤いかける。「できればひとりひとり、懇切丁寧に挨拶を交わしたいところだが、生憎今の俺にそんな余裕はなくてね。命が惜しいなら、早々に逃げることをお勧めする。それとも、特等席で見届けるか? 俺が聖騎士を殺す瞬間を」
「口を慎め」アルトリウスの美貌、その総体たる銀眸に、苛烈な怒りが燃える。「貴様如き蛇が、この私を本気で殺せると思うか」
「悪いが今日の俺は冗談を云う気分じゃない」視線を聖騎士に戻し、ザラチェンコは口元から嗤いを消す。「勿論本気だ。俺はこれから貴様を殺す。父上と母上の名に誓って、今日此処で貴様の頸を貰い受ける」
一歩、また一歩と、両者は歩を進める。
突き出すように構えられた聖刃と、雄々しく肩に担がれた巨刃。
白耀く殺意と、蒼く冷たい憎悪。
聖騎士と、魔人。
銀と蒼、歩み寄るふたりの騎士は、まさに姿見に映し出された聖魔の鏡像。
刹那、遠巻きに成り行きを見守っていた七人の視界が、炸裂した火花によって白く眩む。空気を切り裂くような大音響が、一同の耳を聾する。
凄まじい衝撃波が周囲一帯を吹き抜け、薄らと漂っていた砂埃の煙幕を彼方へと吹き飛ばす。
視界を取り戻した七人が目撃したのは、烈しい鍔糶合いを演じる聖魔の鏡像。斬り結ばれているのは刃だけではない。至近距離で拮抗する、両者の魔力装甲。高密度魔力が衝突する度に発生する衝撃波に二度、三度とその身を打たれた七人は、我に返ったように踵を返し、重い躯を引きずるように走り出す。
これ以上、此処にはいられない。これ以上こんな戦いに付き合ってはいられない。あの化け物どもの殺し合いに巻き込まれるのは、金輪際願い下げだ。
遠ざかる七人の背後で、いまだアルトリウスとザラチェンコは、刃を交えている。
両者は譲らない。一歩たりとも引き退がらない。
剣を握る両者の腕に、あらん限りの力が込められる。銀と蒼の鉄靴が、甃を踏み砕く。
斬り結ばれた刃越しに、聖騎士と魔人の視線が交差し、
刹那、劈くような音響と共に、両者の刃が別たれる。
刃を弾いたのはアルトリウスが先か、ザラチェンコが先か、あるいは同時か。
「覚悟しろ蛇」
「貴様を殺すアルトリウス」
鍔糶合いによる拮抗状態は終わりを迎え、それゆえに、聖騎士と魔人による凄絶極まる殺し合いが、これより幕を開ける。
*****
男が最後に見た光景は、頭上で羽撃く一対の鷲の翼だった。
男は〈工業区〉の工員だった。建国記念日は聖都の住民総てにあまねく休暇を与えるが、工業区においてはその限りではない。聖都の生活基盤を支える工業区に休日の二文字は存在しない。工業区で働く工員たちは、聖都各地で浮かれ騒ぐ住民たちを尻目に、早朝より出勤し、己が職務に全力で取り組んでいた。工員たちに不満はなかった。聖都の住人は〈教会〉の教義に忠実だ。”己を顧みぬ善行こそが、神へと到る道”。自らの欲求を捨て去り、隣人のために身を粉にして働く、それはセイリーネスの住民にとって最大最高の美徳だった。ゆえに彼等に不満はなかった。今日一日職務を全うすることによって齎される心地よい疲労感は、そのまま聖都の安寧、人々の悦びへと繋がり、ひいては神への道程を歩むことを意味する。感謝こそすれ、不満など抱くはずがない。
正午と共に地獄の門が開け放たれ、魔の侵寇が始まった後も、彼の考えは変わらなかった。
浄水場、食糧生産工場、魔力生成機関……様々な建造物の建ち並ぶ工業区の中で、男が務めていたのはパイプラインを管理する、魔力供給局だった。この施設無くして聖都への魔力供給は成り立たない、聖都インフラの要衝とも云うべき最重要施設、それこそが魔力供給局。だからこそ、男を含む施設の工員たちは、自らの命を顧みず、己に課せられた務めを必死に全うしようとした。魔力供給が滞れば、聖都の諸機関の業務に甚大な支障を来すのは必定。襲撃を受けている状態といえど、いやだからこそ、聖都のインフラだけはなんとしても維持しなければならない。仕事への誇りと神への信仰心を胸に、男は仲間たちと共にパイプラインの管理室で懸命に働いていた。
そうやってどれ程の間、男は働いていたのだろう。
気づいた時には、彼は惨劇の只中で尻餅をついてた。
そう、それはまさに惨劇だった。
陽光が男の顔を斜めに照らし出す。天井が無くなっていた。果てしない蒼空と、天に聳える〈神の代理人〉の巨塔が眼前に拡がる。巨塔は中腹部が上下何階層にもわたり抉れていたが、凄まじい衝撃波に襲われた男は完全に放心状態にあり、巨塔の異常事態には一切注意を払わなかった。彼の関心は、自分の周囲に向けられていた。
見るも無惨な計器類、陥没した床面、瓦解した壁面。先ほどまで確かに存在した管理室、完璧なまでに整然と片付けられていたその一室が、完膚無いほど無残に、崩潰している。
じわりと、生暖かい液体が男の臀部を包み込んでいる。床についていた両手が、ぬるつく液体に滑る。遅ればせながら、男は鼻孔を執拗に撫で上げる臭気に気づく。
鉄錆の臭い。生命の臭い。
血だ。
いや、男は気づいていた。だが、気づきたくなかった。知りたくなかった。認めたくなかったのだ。
男の周囲には、仲間の屍体が散乱していた。ある者は四肢が引き千切れ、ある者は瓦礫に圧し潰され、ある者は上半身と下半身が切断され……眼を覆いたくなるほど酷たらしい、吐き気を催すような、凄惨たる仲間の屍体の数々が周囲に散らばり、そこから溢れ出した血と臓物が錆色の湖面として拡がり、その只中に、男は尻餅をついていた。
一体何が起きたのか、男は理解できていなかった。そして男には、理解する為の猶予も残されていなかった。
バサッ、バサッと、鳥の羽撃く音が男の耳を撃った。陽光が遮られ、男の全身が巨大な翳に呑まれた。いまだ放心状態から脱しきれずにいる男は、無意識の内に頭上を見上げた。
そしてそこに”魔”を見出した。
「生き残りがいやがったのか」
頭上にいたのは、獰猛な獣の嵌合体だった。頭部は牙を剥く獅子であり、体躯は頑強な熊。背より伸び上がる翼は雄々しい鷲を思わせ、手足より伸びる鋭い鉤爪も猛禽のそれ。獣のキマイラが羽撃く度、周囲に強風が吹き荒れる。そしてその強風が、頭頂から頸部までを分厚く覆う獅子の鬣を、大きく、荒々しく、靡かせる。
その鬣は王の証。百獣ではなく、風の王の証。
精霊の支配者〈颱の獅鷲〉。
男の胸奥から、恐怖が迫り上がる。絶対的な”魔”を前に、放心していた男はようやく我を取り戻す。ガタガタ慄えながら悲鳴を上げ、取り乱したように四肢を振り、血に滑りながら四つん這いで逃げ出し……しかしすでに遅すぎる。そもそも、一体何処に逃げるというのか。
次の瞬間、男は死んでいる。四肢は断たれ、胴は引き千切られ、ごろりと頭部が転がり落ち、男は大量の血液と色とりどりの臓物を放り出す新鮮な肉袋と化している。
獅鷲は、三兄弟の末弟マシュズは、死に絶えた男を残忍な眼差しで瞰下ろした。
聖都上空で翼馬部隊の戦列を壊滅させた三兄弟は、各々好きなように暴れ回っていた。魁たる長兄のズグが弟たちに命じたのはただ一言『片端から殺し尽くせ』。次兄のバズロは歓喜の雄叫びを上げ、マシュズも躯中の血潮が熱く沸き立つのを感じた。これまで”魔”は汚物であるかのように虐げられてきた。圧倒的な力を持ちながら蔑まれ、絶対的な強者でありながら世界の隅に追いやられ、あたかもこの世界に存在しないかのように闇の奥底に押し込められてきた。それもすべて、この都、〈神聖都市国家セイリーネス〉のせいだ。人間など蟲螻だ。人間など取るに足らない塵芥でしかない。猿に毛の生えたような脆弱な種族が権勢を揮い世界を我が物顔で支配して来られたのは、ひとえに聖都という後ろ盾があったからこそだ。神の騎士たる〈聖騎士〉と〈堕天使〉、不可侵の結界たる〈神聖魔防壁〉、そして聖都が誇る絶対的な神の切り札〈勇者〉。神聖都市国家セイリーネスの存在は、虎視眈々と世界転覆を目論むすべての魔物の頭を鷲摑みにし、強引に抑えつけ、〈神〉という軛で以てその身動きを、完膚無きまでに封じていた。
その軛から、今日、マシュズは解き放たれた。
恐れる必要は無い。我慢する必要は無い。
すべてが自由だ。すべてが思いのままだ。
これで血が沸き立たない方がどうかしている。
好きなように、思うままに、マシュズは眼についた聖都の住人を片端から殺して廻った。凄まじい烈風で人間どもを天高く抛り投げ、そのまま地面に叩きつけられるに任せた。猛烈な飆で砂塵を巻き上げ、砂礫混じりの竜巻によって逃げ惑う騎士団を血霧になるまで擂り潰した。そしてこの工業区を、マシュズは風の刃を以て無差別に切断した。放たれたのは中位風魔法〈風百刃の飆〉。中位魔法といえど、超越魔物の魔力量から繰り出されたとなれば、その威力も範囲も、人間の扱う魔法とは比較にならない。一瞬の内にマシュズの前方にあった建造物群はバラバラに切断され、波に浚われた砂の城の如く、大量の粉塵を巻き上げながら崩潰した。建造物は勿論、範囲内のすべての人間も、風の刃に断たれ、息絶えた。そのはずだった。
「蟲螻が、さっさと死んどけよ」不快そうにマシュズは吐き捨てた。
眼下の男は幸運にも風の刃の間隙にいた為に難を逃れた、唯一の人間だった。そしてその事実がマシュズを酷く苛立たせた。蟲螻の如き人間が、たとえ偶然であったとしても俺の魔法を生き残るなど、あってはならない。すでに生命の消え失せた男の残骸に向け、マシュズは追撃を放つ。屍体はさらに細切れになり、巻き込まれた建造物が再度の崩落を引き起こし、砂塵が舞い、轟音が工業区の空気を烈しく震わせる。
マシュズの苛立ちは収まらない。これまで溜め込んできた人間への憎悪と、世界の在り方への鬱屈、そういったすべてが先ほどの男の幸運を皮切りに、マシュズの中から次から次へと噴き出してくる。
「殺してやる」鋭い牙を剥きだし、獅子は獰猛に吼える。「噫、全員ぶち殺してやる。聖都にいる人間という人間を、この世界に蔓延る人間という人間を、この手で皆殺しにしてやる」
マシュズは哮る。哮り狂っている。
だからだろうか、彼がその魔物たちの接近に気づかなかったのは。
『随分と荒れているな、マシュズ』
唐突に背後から響いた声に、マシュズは全身の毛を逆立て、
「……なんだよ、生きてやがったのか軍蟲」
そう云って、躯から立ち上る殺気を解いた。
背後に、羽蟲の群れによって形を成す一匹の魔蟲がいた。
この魔蟲のことなら知っている。三兄弟の根城、メルドポルダ荒野を〈地獄に堕つ五芒星〉の使者として訪れた、逆五芒星に連なる者のひとり。
「てっきりテメーは魔獣狩りに殺されたのかと思ってたぜ、カ・アンク」
『そう思われるのも無理はないな』羽蟲の依り代に漣が走る。羽音が耳障りなほど音量を増す。嗤いだ。軍蟲の将は全身を震わせることで、嗤いを表現している。
数月前に勃発したオルマ領ゼルジー大森林での大規模戦闘以来、カ・アンクの消息は杳としてしれなかった。戦闘の殿を買って出たカ・アンクはヘル・ペンタグラムの中では半ば死亡したものと見做され、今回の襲撃の戦力にも含まれていなかった。
「テメー、今まで何処にいやがったんだ。生きてたんなら俺たちに顔を見せるのが筋じゃねぇのか」
『死んだと思わせておいた方が都合が良かったんでな。何せその方が楽に動ける』
「何の話だ」
『私の──いや、我々の使命の話だ。そうだろう、ベルゼーニグル』
「噫、全くその通りだ」金属を擦り合わせたような金切り声がマシュズの頭上で響いた。耳障りな羽音と共に、こちらも一匹の魔蟲が姿を顕す。その姿は、さながら人の鋳型に無理矢理押し込められた褐色の蠅。〈悪魔〉ベルゼーニグル・ニグニングは、ゆっくりとカ・アンクの傍らまで降下し、感慨深げに口を開く。「全く、永かったよなぁ、アンク。三百年……三百年だぞ? 魂を欺き、正体を偽り、己を押し殺し、身の程を辨えないクソどもを、オレたちは三百年もの間、監視し続けてきたんだ。噫、本当に永かったよなぁ、アンク」
『だが、それも今日までの話だ』
「いいのか? 口火を切るのはミル・カムイ様のはずだ」
『問題ない。私の設えた〈門〉、その開門権限は、すでに侍従たるカラミットに譲渡してある。確かに開門まで行動を慎むよう云い含められてはいるが、ここまで来てしまえば誤差の範囲だ。分かるだろうベルゼーニグル。現在の聖都は混迷を極めている。この混迷に乗じない手はない。一足早く始めてしまっても構わないだろう』
「そうか……ククッ、確かにそうだな」
「オイ、一体何の話をしてるかって訊いてんだよ」苛立ったように二体の魔蟲を睨んだマシュズに、
『云っただろう、我々の使命の話だ』カ・アンクは鷹揚に答え、
「なあ、そう苛つくなよマシュズ」ベルゼーニグルは大袈裟なほど肩を揺すって嗤い、「急かさなくても、今すぐお前に教えてやる」
──刹那、蒼い閃光がマシュズを呑み込んだ。
音は遅れてやって来る。雷鳴、霹靂。それは耳を劈く神鳴り。
上位雷魔法〈雷霆〉。
ゆっくりと消えゆく蒼い残光の中で、獅子鷲が荒い息をついている。
地面に散乱する瓦礫の山に、ボタボタと血の雨が降り注ぐ。灼け爛れた咽喉から獰猛な唸りが漏れる。堅牢な獣毛に被われた獅子鷲の躯、その左半身が、黒く灼け焦げている。鬣は縮れ、左翼は根元から燃え落ち、そして一際酷い有り様なのが、その左腕だ。
「オイオイ、戦場で魔力装甲を解くなと兄貴たちに教わらなかったのか?」マシュズの有り様を、ベルゼーニグルが嘲笑う。「全く、これだからお前は三流なんだよ、マシュズ。口と態度だけは一丁前だが、実力がまったく伴っていない。お前は三兄弟の中で一番の雑魚だし、ヘル・ペンタグラムの中でも最弱だ。まあ、だからお前を選んだわけだけどな」
「テメェ、何のつもりだッ」左腕を押さえながら、マシュズは吼える。昂奮に、鮮血が噴き出す。血の雨が勢いを増す。獅子鷲の左腕、その肘から先が、完全に消滅している。痛みに唸りながらマシュズは、血走った眼で悪魔を凝視する。「ベルゼーニグルッ テメェ、まさか裏切る気かッ!」
「人聞きの悪いことを云うなよ」クックッと咽喉を鳴らし、ベルゼーニグルは蟲の複眼に愉悦を浮かべる。「勘違いしてほしくないんだが、オレは別にお前を裏切っちゃいない。そもそも、オレはお前の仲間じゃない。オレがヘル・ペンタグラムであったことなど、これまで一度もないんだからな」
告げられた事実にマシュズは驚愕の表情を浮かべ、
「じゃあ、テメーは一体……」
溢された呟きは、その身を貫いた衝撃に一瞬で掻き消された。
胸郭が罅ぜる。獣皮が裂ける。左腕以上の鮮血が傷口から迸り、口腔が鉄色の液体に充たされる。胸元から、槍の穂先が突き出していた。痛みではなく驚愕に、マシュズは胸から突き出した槍を見下ろし──そこでそれが槍でないことに気づく。血に塗れた穂先は、節足動物に特有の、刺々しい尾節だった。
「お前のその姿を見るのも実に三百年ぶりだな、アンク」
串刺しにされたマシュズを眺めていたベルゼーニグルの外見が、ゆっくりと解けていく。頭頂から、指先から、爪先から、ベルゼーニグルを被い隠していた悪魔の偽装が、幼蟲が蛹を脱ぎ捨てる如く、ベルゼーニグルの全身から、ボロボロと落剥していく。
蟲にとって擬態と変態は本質に根ざしたもの。魔法によって姿を偽ることなど、彼からすれば造作もない。
蛹より顕れ出でたのは、一匹の魔蟲。いや、ひとりの騎士。
刀剣のようにそそり立つ頭角。槍のように鋭い尻尾。蒼みを帯びた甲冑の如き外殻。節くれ立った四肢は手甲を思わせる外骨格に包まれ、しかしその手足が備える鉤爪は、間違いなく竜のそれ。
兜から覗く双眸も、間違いなく、竜。
ベルゼーニグルは己が正体を誇るように告げる。「ヘル・ペンタグラムじゃない。オレたちは〈騎士〉だ」
「その通りだ」マシュズの耳元でカ・アンクが囁き、同時に、竜の鉤爪がマシュズの頸筋を深々と掻き切る。間欠泉のように噴き上がる獅子鷲の血潮。マシュズの四肢が断末魔の痙攣に引きつり、頭ががくりと垂れ下がり、その耳元に再度、「冥土の土産に教えてやろう。私たちは〈獰乱の蟲騎士〉だ」
〈雷霆〉が、再びマシュズの全身を包み込む。
蒼雷は二度三度と瞬き、雷鳴が周囲一帯を駆け抜け、そして静寂が訪れる。
黒く灼け焦げた肉塊が、先ほどまでマシュズだったものが、ボロボロと、空中で分解されながら地面に落下する。
その様を、空に浮かんだふたりの騎士が無慈悲に睨めつける。
彼等の周囲を、細い筋のような蒼い稲妻が発散的に走り抜ける。〈蒼き雷神〉、雷竜ジンライネル直属騎士の彼等は、すべからく主君と同じ雷魔法を自在に操る。
「まずはひとりだ」そう云ってカ・アンクは、ベルゼーニグルに顔を向ける。その姿は、まさしく〈騎士〉そのもの。三百年ぶりの実体を伴った顕現に、カ・アンクは満足そうに自身の躯を見やりながら、「やはり肉体があるというのは良いものだな。仕方がなかったとはいえ、軍蟲を使役しての戦闘にはいい加減倦き倦きしていたところだ」
「先陣を切ってこそのオレたちさ。尾節で貫き、鉤爪で引き裂き、蒼雷を以て敵を灼き滅ぼす。それこそがオレたち獰乱の蟲騎士の戦いだ」
「直、ミル・カムイ様が聖都を急襲する」
「噫、それまでにもう何体か狩っておきたいところだ」
「同意するが、先刻のように簡単にはいかないぞ。他の奴等はマシュズほど容易には仕留められない。イビルへイムの鑑識眼は確かだ。奴の集めた手勢は、文字通り選りすぐりの化け物どもだ。誰を相手にしようと、骨を折ることになる」
「らしくねぇなアンク。三百年ぶりの戦場で腰が引けてるのか? オレたちはジンライネル様より騎士団の全権を委任された師団長だぞ。そんな弱腰でどうする」
「油断は禁物だと云っているだけだ。分かっているはずだ、我々に無様な敗北は赦されないと」そう云って、カ・アンクは眼下のセイリーネスを睥睨する。黒焰、石化、飆、呪い。神という名の純白のベールに包まれた聖都が、眼を覆いたくなるほど狂悖暴戻な”魔”によって蹂躙されている。地獄の如き様相を呈する街並みに、カ・アンクはゼルジー大森林で勃発した大規模戦闘の情景を重ね合わせる。あの戦闘によって、カ・アンクは自らの未熟さを痛感させられた。あの時彼は、理性ではなく感情を優先させてしまった。生かしておくにはあまりに危険な”狼”を前に、カ・アンクは大局を見据えず、私情を以て雷竜の騎士団を召喚した。戦う必要など無かったというのに。あの場で取り得る最善の選択は、間違いなく撤退だったというのに。
結果、ミル・カムイによる聖都強襲の為に温存していた戦力、その内の十体を、カ・アンクはあの場で失うこととなった。
「私はゼルジー大森林での失態を再び演じる気は無い」カ・アンクは力強い顔つきでベルゼーニグルを見つめる。「”魔獣狩り”は明らかにイレギュラーな存在だ。すべての超越魔物が、あれほどの戦闘能力を有しているわけではない。だが、だからと云ってヘル・ペンタグラムを侮る理由にはならない。油断は命取りだベルゼーニグル。混乱に乗じ、一体ずつ、確実に奴等の数を減らすべきだ。我々は戦場を愉しむ為に此処にいるのではない。我々の使命は、あくまでも」
「露払い、だろ。分かってるさ。ジンライネル様の騎士である以前に、オレたち竜血族はゾラペドラス様の忠実なる僕だ。あの方が眼を醒まされる前に、ヘル・ペンタグラムのクソどもは皆殺しにしておかないとな」
「そうだ。だからこそ、我々は慎重に──」
会話を、ふたりは続けることが出来なかった。
頭部より生える二本の触角が、弓の弦のようにピンと張り詰める。
蟲独自の防禦反応。獣が毛を逆立てるように、人が項を粟立てるように、蟲は強大な存在を感知すると、その触角を硬直させる。
ふたりの視線が地を睨める。
瓦礫と屍体が散乱する惨状、崩潰した工業区を、ひとりの男が此方に向かって歩いてくる。
「アンク、マズいことになったぞ」
「そのようだ、ベルゼーニグル」
「”奴”の接近に、今まで気づかなかったとはな」
「魔力残滓の影響だ」超越魔物が野放図に放つ魔力の影響によって、現在の聖都は流れの堰き止められた河川のようにねっとりと澱んでいる。堆く積み重なり、幾重にも折り重なった高密度の魔力残滓は、厚ぼったい澱みの重層を成して魔力透過率を引き下げ、第六感を鈍麻させる。「とはいえ、我々が迂闊だったのは事実だ」苦々しげに、カ・アンクは吐き捨てる。「冷静なつもりでいたが久々の”狩り”に、貴様同様私も昂揚していたらしい。クソッ、想定しうる限り最悪の展開だ。何があろうと奴との会敵だけは避けなければならなかったというのに……」
その間にも、男はゆっくりと、しかし確実に、ふたりに向かって進んでくる。
カ・アンクとベルゼーニグルはチラリと一瞥を交わし合い、その男の到着を待ち受ける。
隠修士のような蓬髪、血に汚れたボロボロの聖衣、皮膚にのたくる百足のような縫い痕。
「一体どういうことだ?」 白濁した勇者の眸が、異形の騎士を見上げる。「何でこんな処に蟲竜がいやがる」