32 冷たい殺意
【32】
がらがらと、神殿が崩壊する。
純白の壁面は剥落し、建物を支えていた石柱や梁は崩れ落ち、神殿に威厳を与えていた宗教的意匠は見る影もないほど粉々に砕け散る。落下の衝撃によって砂塵が巻き上がり、もくもくと、周囲一帯に砂色の濃霧が立ち込める。
そんな砂塵の只中から、複数の人影が立ち上がる。
最初に顕れたのは、レオパルドだ。ゆっくりとした足取りで、黒豹の獣人は砂色の垂布を潜り抜ける。丸太のように屈強な両腕は、オーギュスタを抱きかかえている。先の戦闘により完全に魔力を使い果たした彼女は、病魔に冒された子供のように、その身をレオパルドに預けている。
「申し訳ありません……レオパルドさんも疲弊しているというのに」
「気にするなオーギュスタ。君ひとり抱えるくらい何でもない」
ふたりに追随するように、男女のエルフ族が顔を出す。
おぼつかない足取りで歩を進めるヴォルフラムと、その隣で肩を貸すディアナ。
「ちょっと、もう少しシャキッとしなさいよ」
「無茶云うな。今の俺は絞り滓だ」ヴォルフラムは力ない手つきで懐から煙草入れを取り出す。抜き出した一本を口に咥え、震える指先で燧火をディアナに差し出す。「悪いが、火、つけてくれ」
「なに、こんな状態の時に吸うわけ?」
「……こんな状態だからだよ」
呆れたようにぐるりと眼を廻し、それでもディアナは煙草に火をつけてやる。
無言で頷き、ヴォルフラムは深々と紫煙を吸い込む。その顔色に、僅かながら血色が甦る。満足げなヴォルフラムを横顔を見ながら、ディアナは溜め息をつく。
そんなふたりの背後から、三人の男女が顕れる。ヴォルフラムたち同様、彼等は互いの身を支え合いながらゆっくりと歩を進める。
「クソッ」困憊した顔つきのアニーシャルカが、自らの蹌踉とした足取りに毒づく。「……最悪だ。完全に躯ん中がすっからかんになっちまいやがった。三日三晩ぶっ通しで寝たって恢復するか分からねぇ」
アニーシャルカの右肩を支えるロイクが苦笑する。「生憎、ベッドに横になれるのはまだまだ先の話だよ」
「わたしはもうヘロヘロなんだよ」
「それはそうだろうけど、でもこんな処で休むわけにはいかないだろ? 休むなら聖都を出てからだよ」
「生きて出られたらな」
「らしくないね、随分弱気じゃないか」
「この状況で楽観できるほど、わたしは脳天気じゃねぇぞ」
「……雷刃、少しは自分の足で歩け」黙然とアニーシャルカの左肩を支えていたツァギールが会話に割り込む。アニーシャルカから一歩身を離し、剣呑な眼つきで彼女を横睨みする。「貴様、僕に体重を乗せすぎだ。もっとロイクに寄れ」
「何だよ、恥ずかしいのか?」
「貴様だけが疲れていると思うな」
「そうツンケンすんなよ」アニーシャルカはツァギールに腕を廻し、態とらしく撓垂れかかる。「わたしがいなきゃ今頃オメーはお陀仏だったんだぜ、少しは感謝しろよ。それとも何か? その程度の礼儀も忘れちまったほど、オメーは堕落しちまったのか? 騎士の誇りはどうしたんだよ」
ツァギールは反論しようと口を開きかけ、しかし寸前で眼を逸らし、舌打ちする。「……まあいい。貴様に借りを作るのは癪だからな。いいか、今回だけだぞ」
「こんな機会、そう何回もあってたまるかよ」
その後一同は黙々と足を進めていたが、
「いやあ、しかし凄いね」
不意にロイクが口を開いた。周囲を見廻しながら、彼は感に堪えないというようにしきりと頷く。「本当に、すごい光景だよ」
「確かに、凄まじい眺めだな」瓦解した神殿から幾分距離を置いた場所で立ち止まっていたレオパルドが、ロイクの言葉に賛同する。「先ほどまで貓鬼に埋め尽くされていた場所だとは、到底思えん」
「それどころか、広場があったとさえ思えないよ」レオパルドの背後で足を止めたディアナが、傍らの相棒を一瞥する。「派手にやるつもりなのは分かってたけど、まさかアンタ等がここまでド派手にやるつもりだとは思ってなかった」
「俺だって、正直予想外だ」
紫煙を吐きながらヴォルフラムは呟き、
「ホントにな、まさかこんなことになるとは思わなかったぜ」
乾いた嗤いと共に、アニーシャルカは自分たちが作り出した光景を、なかば唖然と眺める。
先ほどアニーシャルカが発動した極大魔法は〈雷竜を象る蒼極刃〉。一極集中された魔力により形成される雷の刃を以て、触れるものすべてを灰燼に帰す、近接撃滅型の極大魔法。数ある雷魔法の中でも最大威力を誇るこの魔法には、しかしひとつ致命的な欠陥があった。
範囲だ。
云うまでもなく、近接撃滅型の極大魔法は、その効果範囲が極端に短い。アニーシャルカが好んで使用する中位雷魔法〈雷魔人の剣〉、この魔法の刀身の長さが刀剣十本分もあるとすれば、〈蒼極刃〉の刀身はその半分にも満たない。迫撃戦に特化したこの極大魔法は、大量の敵を相手取る殲滅戦とは絶望的に相性が悪い。
その相性を覆したのが、ヴォルフラムの極大魔法だった。
アニーシャルカが一種類の極大魔法しか扱えないことは、ヴォルフラムは予め分かっていた。集団を組むとなった以上、メンバー間での情報共有は必須。ふたりは騎士団での業務の隙を見つけては、様々なことを話し合った。その情報を元に、ヴォルフラムは自分が発動するべき極大魔法を選び出した。
それが極大魔法〈颶王の大狂飆〉だ。
極限まで圧縮した精霊を一斉に解き放つことで狂飆を発生させ、周囲一帯を吹き飛ばす、広範囲殲滅型の極大魔法。ヴォルフラムはこの〈大狂飆〉をアニーシャルカの〈蒼極刃〉に付与することによって、その攻撃範囲の狭さを補おうとした。同時に、それは〈大狂飆〉の弱点の克服にも繋がる。〈大狂飆〉はその有効範囲の広さがゆえに精霊の密度が不安定になる為、極大魔法にしては些か威力が弱い。その威力の弱さを〈蒼極刃〉の威力で補い──アニーシャルカへのエンチャントが、逆説的にヴォルフラムにエンチャントを与える──そしてその雷飆を以て、貓鬼の軍勢を一掃する。それこそが、ヴォルフラムの策だった。
無論、成功の保証はなかった。貓鬼との交戦中に咄嗟に思いついた、その場凌ぎのアイデアに過ぎない。ゆえにこれは賭けだった。ぶっつけ本番で、七人の命を賭け金に、一か八かの大博打に打って出たのだ。──そして勝った。ヴォルフラムのエンチャントが完了した瞬間、アニーシャルカは二重の極大魔法を纏った曲剣で、全方位を薙ぎ払った。
その結果が、現在一同の眼前に拡がっている光景だ。
ヴォルフラムは正しかった。彼の考えは、ものの見事に的中した。
……その威力以外は。
一同の周囲には、乱立する瓦礫の山と、風に舞う砂埃しかなかった。
神聖都市国家セイリーネス最大の憩いの場であるル・シャイル広場は、見る影もないほど、完膚無きまでに破壊し尽くされていた。
「極大魔法の拡張増幅現象、ですね」レオパルドに凭りかかるようにして立っていたオーギュスタが、ぽつりと呟いた。「近接撃滅型の極大魔法は、あらゆる魔法の中でも最上位に位置する威力を誇ります。その極大魔法の効果範囲を広場全域に拡張したのです。この被害規模は、半ば当然の帰結だと思います。……ですが、皆さんの気持ちも分かります。この光景を前にすると、確かに唖然としてしまいますね」
「……俺の想定が甘すぎた」
「ま、結果的に良かったじゃねぇか」アニーシャルカがヴォルフラムを見る。「確かに想像以上にヤバかったが、中途半端な威力でクソ貓が生き残ってるより百倍マシだろ、何が気にいらねぇんだよ」
「……住民を巻き込んだ可能性がある」
「オイ、冗談よせよ。そんなもん考えてる余裕あったか? ぶっ放さなきゃわたし等が殺られてたんだ、他人のことなんざ気にしてられるかよ」
「雷刃の云うとおりだよ」ディアナが頷く。「ああする意外に、アタシたちが生き残るすべはなかった。それに考えてもみてよ、あの状況で広場に生き残りがいたなんて、アンタ本当に思ってる? 十中八九アタシたち以外全滅してたよ」ディアナはヴォルフラムの背中をとんとんと叩き、「アンタは間違ったことはしてない。おかげでアタシたちは今もこうして生きていられる。感謝してるよ」
彼女の言葉に、周囲の一同は頷く。
ヴォルフラムは吸いさしを抛り捨て最後の紫煙を吐き出し、「……まあ、そうだな。お前等が生きているなら、それでいい」
「アンタってさ、悪ぶってるわりに根は善人よね。いい加減裏社会から足を洗えばいいのに」
「買い被るな。俺は堅気を巻き込むのが好きじゃないだけだ」
「ま、そういうことにしといたげる」
つかの間、一同の間に張り詰めていた緊張感が弛む。
暫しの間、彼等は荒涼とした景色を眺めていたが、
「さて」一同の注目を集めるように、ロイクが大きな声を上げる。「休憩はこの辺にして、そろそろ行動を開始しないかい? 貓鬼を一掃したとはいえ、聖都が戦場であることに変わりはない。一処に留まりすぎるのは危険だ」
「そうだな」レオパルドが頷く。「正直、聖都の現状は俺たちの手に余る。援軍として来ておいてなんだが、俺たちは今すぐ聖都からの脱出を図るべきだ」
「賛成だな」とアニーシャルカ。「さっきも云ったが、他人のことなんざ気にしてられる状況じゃねぇよ。こんな地獄みたいな街には一秒だって長居したくねぇ、さっさとずらかろうぜ」
「貴様もたまには真面なことを云う」ツァギールが鼻を鳴らす。「僕としても、こんな処で死ぬのは御免だ。今すぐ撤退すべきだ」
「そういうことなら、騎士団の拠点を目指すのが良いと思います」オーギュスタが口を開く。「聖都各地の騎士団の拠点には、緊急時にのみ起動する転移装置が置かれているといいます。現在の聖都の状況を鑑みれば、装置は起動されているはずです。その装置を使えば、即座に〈守護区〉の拠点に移動できると思います」
「それいいね」ディアナが笑みを浮かべる。「転移装置なんて、今のアタシたちにはお誂えじゃない。守護区まで行ければ、脱出も簡単。とりあえず、拠点を目指そうよ」
ディアナの提案に一同は各々賛成の意を示し、
各々が歩みを再開し、
──次の瞬間、彼等は身動きを止めた。
虎だ。
一同の背筋を、戦慄が貫く。
巨大な虎の生頸が、一同を包囲していた。
貓鬼の五倍はあろうか、人など一口で丸呑みしてしまいそうな巨大な顎、獲物の魂を引き裂く長大な牙。そして呪いに特有の、生者を羨み、嫉み、憎悪する、血走った眸。
数は百か、二百か。先ほどの貓鬼の大群に比すれば、その群れの規模は、明らかに小さい。しかし一同が肌に受ける圧威は、貓鬼と対峙した時とは比較にならないほど重々しい。魔力体はその性質上、高い透過性を有する。先ほどの貓鬼の大群も、どこかその姿形には薄霧めいた不明瞭さがついて回っていた。しかし、一同を取り囲む虎の生頸の軍勢にそのような不明瞭さは一切見受けられない。あたかも現実の魔物のように、あたかも実体があるかのように、確固たる現実感を以てそこに存在している。
高密度の魔力体。それはつまり、そのまま虎の生頸の危険度を顕している。
「そんな……この呪いは……」オーギュスタは手の震えを隠すように杖を握り締め、苦しげにその名を絞り出す。「……これは……〈虎鬼〉」
貓鬼が人蠱によって産み出されるのなら、虎鬼は魔蠱によってこの世界に産み落とされる。
魔蠱、つまり魔物を用いた蠱毒。
オーギュスタ以外の顔ぶれも、指先の震えを抑えることが出来ない。彼等は虎の生頸の正体を知らない。だが、知らなくとも分かる。今自分たち包囲しているこの呪いは、貓鬼などとは比較にならぬほど恐ろしい、強大な呪いである、と。
ようやく死線を潜り抜けた。自分たちが持ちうるすべてを出し切り、絶体絶命の状況を、なんとか切り抜けることが出来た。
助かったと思った。思ってしまった。
甘すぎた。馬鹿だった。今現在聖都を襲っている厄災を思えば、先ほどの修羅場など、単なる序章に過ぎないと気づけたはずなのに。
再び一同は、自らの得物に手を掛ける。
もはや躯は自由に動かない。腕は鉛のように重く、膝頭はガクガクと震え、立っているのさえやっとという態だ。
それでも彼等は、戦うつもりだ。十闘級の称号を背負っている以上、聖銀級の冒険者である以上、いまだ猟犬の誇りを捨てきれずにいる以上、背を向けて死ぬことなどあり得ない。
死ぬのなら、戦って死ぬ。
──しかし、もはや彼等にはそのような散り様すら赦されてはいなかった。
「いやぁ、凄かったねぇ」
虎鬼によって生じた戦慄が、一同の全身から一瞬で消し飛んだ。
「まさか僕の〈呪貓渦〉が破られるとは、思ってもみなかったよ」
粘り着くような声が響き渡る。凶々しい影が、頭上から一同に投げ掛けられる。
生ぬるい脂汗が額に滲む。息がうまく出来ない。全身の毛が総毛立つ。巨大な舌で全身を舐め廻されているかのような生理的嫌悪感に、一同の表情が、苦悶に歪む。
上空から呪いが噴き出す直前、ル・シャイル広場全域に響いたのと同じ声。
最初に意を決したのは、アニーシャルカだ。
生ぬるい嫌悪感を無理やり振り払い、彼女は頭上を見上げる。
狐が、いた。
毒々しい赤紫色の被毛に全身を覆われた、一匹の妖狐。聖都上空を駆けていた翼馬と同程度の体躯だろうか、魔物としてみれば、それほど大きいというわけではない。だが、体躯とは裏腹に、その姿は見る者に凄まじい威圧感を与える。原因は、その尻尾だ。優に体躯の三、四倍はあるであろう、太く長い一本の尻尾が、妖狐の背後で蝋燭の焰のように揺れ動いている。そしてその尾の付け根から、枝分かれするように数本の尾が天に向かって──いや、違う。尾ではない。
魔力だ。あるいは妖狐の生息圏の言葉で云えば、それは”気”だ。
妖狐の尾は赤紫と呼ぶにはあまりにも濃ゆい。その色彩は殆ど黒に近く、しかし光の加減か、時折鮮烈な紅の残像に尾は縁取られ、ゆえにそれは闇の如き深紫に揺らめき、まさに至極色と呼ぶに相応しい凄絶な色合いを帯びる。そしてその尾と遜色のない至極色の気が、寛ぐように中空で身を丸める妖狐の背後に、後光のように拡がっている。
ひとり、またひとりと、彼等は顔を上げ、凶々しい妖狐の姿に息を呑む。
無数の尾を優雅にくねらせる姿から、この魔物はこう呼ばれる。
〈九尾〉。名を、忌髏九々麗。
「本当、見事な戦い振りだったよ。簡単に殺すのは惜しいって僕に思わせるくらいには、見事なね」キルククリはにちゃりと嗤う。表情そのものが粘ついた糸を引きそうな、あまりにも悍ましい笑み。
一同は喘ぐ。心臓が早鐘を打つ。臓腑の底から止めようのない恐怖が沸き上がる。
「何で僕がいまだに君たちを殺してないか、分かる?」
人間たちの恐れを見て取ったキルククリは、愉悦に咽喉を鳴らし、
「君たちを使うためだよ」
ゆっくりと身を起こし、キルククリは口を開く。「君たちを使って、蠱毒をやることに決めたんだ。というか君たちが〈呪貓渦〉を生き残った時点で、すでに蠱毒は始まっていたんだよ。わかる? 生き残るっていうのは蠱毒においてもっとも重要な要素のひとつなんだ。そして蠱毒である以上、生き残るのはひとりだけ。仕上げはここからだよ。……いやぁ、嬉しいなぁ。君たちならイイ呪いになれるよ。憎悪と怨嗟に満ち満ちた、生あるすべてを呪わずにはいられない、イイ貓鬼になれるよ。いや、君たちなら虎鬼にだってなれるかもしれない。人間が虎鬼に変わるなんて、滅多に起きない珍事だよ。いやぁ、本当に愉しみだなぁ」
周囲の虎鬼たちが、一斉に唸り声を上げる。
血走った双眸で一同を睨み、威嚇するように毛を逆立てる。
「それじゃ、殺し合ってもらおうか」キルククリの眸が、陰惨な耀きを帯びる。「ほら、何してるの? 早くその手に持ってる刃物で隣の人間の咽喉を掻き切ってよ。四肢を斬り飛ばして、腹を掻っ捌いて、腸を引きずりだしてよ。蟲螻の共喰いみたいに酸鼻を極める殺し合いを演じて、この僕を愉しませてよ。云っておくけど、ちょっとでも手を抜いたりしたら、虎鬼たちが君たちを喰らい殺すよ。生きながらに魂を貪られる感覚って、知らないでしょ? 君たちがこれまでの人生で感じてきた苦しみなんてちっぽけに思えるほど、想像を絶する苦しみだよ。それが嫌なら、さあ、早くしてよ。さあさあさあ、さっさと殺し合って僕を満足させてよ人間ども」
詰みだった。
逃げようにも退路はない。戦ったところで勝ち目もない。だが、殺し合うなど言語道断。国や種族、主義主張は違えど、彼等は共に死線を潜り抜けた、正真正銘の仲間、戦友。
声には出さずとも、全員の決意は一致している。
戦友を手に掛けるくらいなら、このまま死ぬ。
そしてその決意は、一同を瞰下ろしているキルククリにも伝わっている。
「つまらないなぁ」キルククリの口元から、笑みが消え去る。「蠱毒っていうのはさ、ある程度自発的に殺し合ってもらわないと出来上がった呪いの質が下がるんだよ。生への執着が強ければ強いほど、それが裏返った時、強烈な怨嗟を産み出すんだ。それなのに、君たちのその顔つきはなに? くだらない、つまらない、完全に興が削がれたよ」
苛立たしげな妖狐の気配に応えるように、虎鬼の軍勢が歯牙を剥き出す。
「殺していいよ」キルククリの冷め切った声が、配下に命じる。「ただし、すぐに殺しちゃダメだよ。僕を失望させた罪は重い。ゆっくりと、時間を掛けて、そいつ等の苦痛を最大まで長引かせながら、魂を──」
不意に、キルククリの声が途切れた。
獲物を睨みつけていた虎鬼たちの視線が、一同から逸れた。
跫音が、広場に響いた。ひび割れた大理石の敷石と、完璧に鍛造された金属が打ち合う時の、玲瓏な響き。
それは鉄靴の跫音だった。
「穢らわしい”魔”め」
周囲を呪いに囲まれた一同には、声の持ち主の姿は見えなかった。しかし彼等には、その声に聞き覚えがあった。
ある騎士の声だ。
聖都を訪れた日、援軍激励の場において、一同はその声の持ち主と相見えた。とはいえ、その騎士が何かを語ったというわけではない。会話の殆どは傍らの堕天使が引き受け、その騎士は聖都の様々な処に飾られた荘厳な天使像のように、沈黙を保っていた。
騎士が口を開いたのは、去り際の一度だけだ。
『これは聖戦だ。殉教の覚悟を以て臨め』
その一言だけで、一同の脳裡には、騎士の声が完全に刻み込まれた。
山巓の空気のように透徹していながら、断頭台の刃の如き鋭さを備えた、冷酷な声。
「貴様等のような汚物を、神の剣たるこの私が赦すと思うか」冷酷な声が、再び広場の空気を震わせる。鉄靴の跫音が近づく。強大な気配が周囲に満ち満ちる。「討滅だ」放たれた言葉の鋭さは、さながら空を裂く鏃。「我が聖刃を以て貴様等を討滅すること、今此処で神に誓おう」
瞬間、一同の左翼側を埋めていた虎鬼の一群が、消し飛んだ。
驚愕に左に顔を向けた一同の傍らに、すでにその騎士の姿が在った。
銀鎧。銀糸の髪。銀の眸。
その眸が、呆然と佇む一同を一瞥する。
次の瞬間には、騎士の姿は消えている。鉄靴の置かれていた地面が弾け飛ぶ。散乱する砂礫。衝撃波に、一同は反射的に両腕で顔を守る。銀の残像が、暗い眼裏に焼き付く。
白い閃光が、数回、一同の頭上で瞬く。
怨嗟の大絶叫が周囲一帯に響めく。
何が起きたのか一同が理解する間もなく、彼等の前方に、白銀の騎士が着地する。
気がつけば、一同を包囲していた呪いの軍勢が一掃されている。
ぽたりと、一滴の血液が騎士の足下に滴り落ちる。
騎士が右手に握る純白の大剣、その鋒が、黒ずんだ血に濡れている。騎士は不快げに眉を顰め、刃から血を振り払う。
「なかなかやるじゃないか」嘲りの声が頭上から上がった。赤紫の被毛に被われた妖狐の上半身、その胸元から下腹部にかけて、一筋の創傷が刻まれている。キルククリは身繕いをするように身を丸め、艶めかしい仕草で垂れ落ちる血液を舐め取る。「僕が血を流すのなんて久しぶりだよ。一瞬で僕の呪いも全部祓われちゃったし、さすがはセイリーネスの誇る大天使、聖騎士アルトリウス様だ」
「身の程を辨えろ」アルトリウスの鋭い眼差しが、上空の妖狐を鋭く射貫く。「貴様のような穢らわしき”魔”が、軽々しく私の名を口に出来ると思うな」
「結界に引き籠もっていただけの臆病者が、何様のつもりだ?」
「黙れ。貴様の声を聞くのも不愉快だ」
「噂通り苛つく奴だなぁ。あの魔人が憎んでいる理由が分かってきたよ」
「口を閉じろ。貴様のような愚物とこれ以上言葉を交わすつもりはない」そこで徐に、アルトリウスは振り返る。まざまざと晒されたその素顔に、一同は思わず息を呑む。一度は眼にしていた。美しいことは分かっていた。しかしあらためて目の辺りにする聖騎士の貌は、想像を絶する美を以て一同の胸に迫ってきた。
完璧な造形。美の黄金律。神の鋳型から押し出された人形。
瞬時に、一同はこの騎士が兜を用いない理由を理解した。
つまるところ”美”とは力だ。どれだけ刻が遷ろおうとも、どれだけ時代を積み重ねようとも、”美”が内包する根源的威光が損なわれることはない。ゆえに天使に兜は必要ない。被う必要も、護る必要もない。この素顔自体が、一切の瑕疵の入り込む余地の無い、この完璧な美貌こそが、聖騎士の力を見る者に知らしめる、絶対的な兜なのだ。
「先刻の雷と嵐──貴公等か」
有無を云わせぬ問い掛けに、アニーシャルカとヴォルフラムは生唾を呑み込み、こくりと頭を動かす。
アルトリウスはふたりを見つめ、
「そうか」
微かに頷き返し、「見事な魔の法則であった」
称賛の言葉をふたりに贈り、聖騎士は再び妖狐と対峙する。
「貴公等は聖都に蔓延る”魔”の軍勢を討ち祓った。セイリーネス神聖騎士団を代表して、貴公等に礼を云おう。そして、ゆえに貴公等に忠告しよう。──今すぐこの場から立ち去れ」
アルトリウスの背から、一対の純白の翼が拡げられた。
いや、違う。それは魔力だ。その身から迸る純白の魔力が、大翼の如き威容となって、聖騎士の背面に顕現したのだ。
聖なる魔力装甲〈大天使の翼〉。
「これより行われるのは聖戦だ」アルトリウスの声尻に、無慈悲な殺意が滲む。「悪いが、貴公等に気を遣って戦うような理性は、此処より先の私には、無い。巻き込まれたくなくば、今すぐ私の前から立ち去ることだ」
「君はさ、逆五芒星が定める最重要討滅対象のひとりだよ」キルククリはにちゃりと嗤い、巨大な尾を妖婉にくねらせる。怨嗟が響めき、慟哭が渦巻き、至極色の巨尾から呪いが噴き出す。
キルククリの周囲を、先ほどとは比べものにならないほど大量の虎の生頸が埋め尽くす。
「正直君なんかに興味はなかったんだけど、出会っちゃったからには仕方ないね。殺しておこう」キルククリは細長い双眸を大きく撓め、ねっとりとした嗤い声を上げる。「噫、でもただ殺すだけなんてつまらないし……そうだ、君を蠱毒の苗床にしてあげよう。君の魂をぐちゃぐちゃに擂り潰して、捏ね回して、あらゆる呪いと雑ぜ合わせて……ハハハッ、天使の呪いを造るのなんて初めての経験だ、どんな呪いになるのか今から愉しみだなぁ」
「云ったはずだ、口を閉じろと」聖騎士の白磁の蟀谷に、青筋が立つ。大剣を握る指先に力がこもり、その声が殺意の調べと化す。「たかが四脚の獣風情が、神の血を受け継ぐこの私を殺すなどと、思い上がりも甚だしい」アルトリウスは大剣の鋒を妖狐に擬する。「神の敵はすべて殺す。まずは貴様からだ、妖狐」
両者の間で、凄まじい魔力と殺気の応酬が巻き起こる。
キルククリに傅く虎鬼の群れが動き出す。蠢き、絡まり、綯い混ざり、幾本もの呪いの太縄と綯って妖狐の周囲を漂い游ぐ。その様は先ほど広場を壊滅させた貓鬼の激流──キルククリの言を借りれば〈呪貓渦〉──を彷彿とさせるものであったが、しかしその凶々しさ、そのお悍ましさ、何よりその危険度は、先ほどの呪貓渦を遙かに上回る。
アルトリウスの白き翼が、さらに大きく展開される。周囲に迸る聖なる魔力、煌星の如く瞬く魔力粒子。聖騎士が右手に握る純白の大剣、その両刃の中央の樋に沿うように刻み込まれた流麗な魔方陣が、鮮烈なまでの耀きを帯びる。
アニーシャルカたち一同は、二体の超越者に背を向け、走り出す。
いや、正確には彼等は走れていない。彼等にそのような体力はもはや残っていない。
それでも、一同は限界を迎えた躯に鞭打って足を動かす。
此処にいては、奴等の戦いに巻き込まれる。今すぐこの場を離れねば、先ほどの努力がすべて水泡に帰す。
だから、彼等は懸命に走る。
しかし、現実は非情だ。
もはや一同に逃げる時間は残されていない。
これよりこの地は苛烈な戦場と化す。
妖狐の呪いがすべてを蹂躙し、聖騎士の大剣が魔を討ち祓う、超越者同士の戦場と化す。
だから、もはや一同に逃げ切る時間は残されていない。
キルククリとアルトリウスの戦いの火蓋が、切って落とされる。──そう、落とされるはずだった。
凄まじい地鳴りと地震の如き震動が、一同の足下を揺るがした。
あまりの衝撃に、一同はその場に膝をつき、反射的に振り返る。
視界に飛び込んできた光景に、一同は愕然と眼を見開いた。
キルククリとアルトリウスとの間が、劃然と裁割られていた。
岩壁、だった。九尾と聖騎士を隔てるように、荒々しい岩壁が、高々と直下立っていた。
明らかに、魔法による産物だった。
堅牢な城壁にして鉄壁の城塞。広場を裁割る巍巍たる岩壁。
そう、それは明らかに、石化魔法による産物だった。
「何のつもりだ?」
聳え立つ岩壁を前に、キルククリは眉を顰める。
鉄靴の跫音が背後から聞こえる。氷のように冷たい魔力が近づいてくる。
「いやはや、なかなか壮大な眺めだと思わないか?」どこまでも冷え切った魔力とは裏腹に、底抜けに明るい声が背後で立ち上がる。声は岩壁に反響し、山彦のようにキルククリの鼓膜を必要以上に刺激する。「我ながらさすがと云うべきか、見事なものだろう? 自分でも想像以上の出来栄えだ。少し張り切りすぎてしまったらしい」鉄靴の跫音がキルククリの背後で立ち止まる。喋り声はさらに朗らかさを増す。「しかし、間一髪だったよ。あと一秒でも広場に踏み入るのが遅れていたら、君たちの戦いの口火は切られていたかもしれない。いやはや、我ながら絶妙なタイミングで駆けつけ」
「その徒口を閉じなよ」キルククリは振り返り、眼下の男の言葉を遮る。「いいから僕の質問に答えろよ。何のつもりだ?」
「どうやらご機嫌斜めらしいな」
「噫、お前のせいでね」
「怒らせたのなら謝るよ」
「僕の言葉を聞いてなかったのか? さっさと答えなよ」
「そうか、どうやら俺との雑談に興じるつもりはなさそうだな」男は大仰に肩を竦めて見せ、「なら、単刀直入に云おう」快活な笑顔を見せながら、しかし、その表情とは裏腹に、酷薄な口調で一言、断ずる。「俺の獲物だ」
「早い者勝ちだろ? お前も納得したじゃないか」
「勇者には大きな借りがあってね、あの場では彼の顔を立てて大人しく引き下がった。だが、元々俺は今日この日の為に地獄に堕つ五芒星に入ったんだ。悪いが”奴”を誰かに譲るつもりは端からない。……だから頼むよキルククリ、”奴”を俺に譲ってくれ」
「厭だと云ったら?」
「その時はしょうがない、君を殺してでも”奴”を貰い受けるとしよう」
その言葉を聞いた瞬間、糾なわれた無数の呪いの太縄が、男を取り囲む。虎鬼の連なりは牙を剥き、主に徒なす眼前の男を烈しく威嚇する。キルククリは地上に降り立ち、男と対峙する。全身を嘗め回すような悍ましい妖狐の視線が、男を睨めつける。「本気で云ってるのか?」
「勿論、俺はいつだって本気さ」
「僕等に課せられたルールを忘れたのか?」
「当然覚えている。だからこうして頼んでいるんだ」周囲を埋め尽くす呪いの圧威などものともせず、男は真っ直ぐに妖狐を見つめ返す。その眸に浮かぶのは、冷たい殺意。そして素速く這い寄り、執拗に絡みつく、狂気にも似た蛇の執着心。
「頼むよキルククリ。俺に譲ってくれ」
その蛇の眼差しが明確に告げている。
俺に退く気は、無い。邪魔をするなら、殺す。
緊張感に、周囲が張り詰める。
耳が痛くなるほどの静寂がふたりを覆い尽くす。
「どうやら本気らしいね」不意にキルククリは面倒臭げに云い捨てる。「まあ、そもそも僕は聖騎士に興味があるわけでもないし、今ここでお前と殺し合うことに意味も見出せない。というか、今のお前とこの場で殺し合う方が、聖騎士を相手取るよりよほど厄介そうだ。……分かった、いいよ、聖騎士はお前に譲ってやる」
「恩に着るよ、キルククリ」
「そのかわり、ひとつ約束してくれない?」呪いを従え空に駆け上がったキルククリが男を振り返り、「この僕が譲ってやったんだ、必ず聖騎士を殺せよ」
「噫、その点に関しては心配しないでくれ」
遠ざかるキルククリの気配を背に、男は心底愉快げに嗤い声をたてる。
「その為に、俺は今日まで生きてきたんだ」
岩壁の中心部に、亀裂が走る。荒々しい岩肌の襞に生じた僅かな瑕疵は、瞬く間に岩壁全面に蜘蛛の巣状の亀裂を拡げ、亀裂は亀裂を呼び、次の瞬間、岩壁は呆気ないほど簡単に崩落する。
巨大な岩塊の数々が地を震わせ、大小様々な砂礫が雨の様に降り注ぎ、微細な砂塵の薄幕が、周囲一帯に重く厚く、何重にも垂れ込める。
崩落により押し出された突風が周囲に吹き荒れる。アニーシャルカたち一同は姿勢を低く保ち、顔を伏せ、吹きつける砂色の風から身を守る。
しかし、アルトリウスは泰然と姿勢を崩さない。崩落に伴う様々な余波など一顧だにせず、直立不動のまま、厳然たる顔つきで、彼は崩落する岩壁を睨み据えている。
銀の眸が鋭く光る。純白の聖刃を握る右手に力がこもる。
アルトリウスは気づいている。岩壁の向こう側から自分へと向けられる、苛烈な敵意を。
崩落が、終わる。
朦朦と立ち込める、積乱雲の如き巨大な砂埃。堆く積み上げられた岩塊の山。
砂利砂利と、砂礫を踏み締める跫音がアルトリウスの耳に届く。
朦朦たる砂埃の薄幕の向こうから、ひとりの男が姿を顕す。
蒼鎧。漆黒の髪。巌の如き巨大な刃。
触れた者の体温を奪うような、底冷えする冷血動物の魔力が、地を這うように周囲一帯に拡がっていく。
事態の推移を遠目に眺めていた一同に、キルククリを前にした時とは別種の戦慄が背筋を這い上る。
「オイオイ、冗談だろ」愕然とアニーシャルカが呟き、
「本当、たちの悪い冗談だと思いたいね」諦めたようにロイクが嘆声を上げ、
「あの方は、もしや……」視線を游がせながらオーギュスタが口を開き、
「確かに、俺にもそう思える」レオパルドが大きく頷き、
「絶対そうだよ。アイツの姿を、アタシ等が見誤るなんてあり得ない」苦々しげにディアナが顔を蹙め、
「……間違いない、アイツだ」険しい顔つきで、ヴォルフラムが吐き捨てる。
ツァギールだけが、口を開かない。懸命に奥歯を噬み締め、掌に爪が喰い込むほど拳を握り締め、ツァギールは、ただ、視線の先に顕れた蒼鎧の騎士を凝視する。その眼差しに宿るのは逆賊への侮蔑であり、魔物への嫌悪であり、しかし、それだけではない。その瞳に揺れるのは迷いであり、諦めであり、そして何より、猟犬と呼ばれたすべての騎士たちが、かつて一度はその胸に抱いた、どうしようもないほど根深い、憧れ。
無意識に、ツァギールはその男の名を呼ぶ。
アルトリウスは、近づいてくる男を睨む。
男は、人ではなかった。姿形こそ人間に酷似しているが、纏う魔力は妖気を帯び、肩に担いだ巨刃は人の扱える限界を超え──何より、その顔だ。
異貌だった。
アルトリウス同様、男は兜を着用していなかった。額から蟀谷に、蟀谷から頬へと拡がる、有鱗目に特有の蒼みを帯びた細かな鱗。薄い唇から時折覗く、細く長い二叉に別れた舌。そして、その眸。
瞳孔が縦に裂けた、蛇の双眸。
アルトリウス同様、この男にも兜は必要ない。
”美”は力だ。完成された天使の美貌は、絶対的な威光となって敵を退ける。
そして、それはこの男も同様だった。
この異貌こそが、男にとっての兜。
”魔”も、また力なのだ。
男は歩みを止める。
蛇の双眸が、ひたと聖騎士に据えられる。
皎皎と燦めく銀糸の髪、美の黄金律を体現する完璧な美貌、そして冷酷無情な銀の眸。あの夜と寸分変わらぬ天使の姿が、今、眼の前に在る。
男の咽喉から、押し殺した嗤いが漏れる。
ついに、この日が来た。
男の嗤い声は烈しさを増す。
父上、母上、ついにこの日が来ました。
肩を震わせ、額に手を宛がい、男は大口を開けて嗤い出す。
ようやく、約束を果たすことが出来ます。ようやく、あの聖騎士を殺すことが出来ます。
両脚を切断された母。両腕を斬り飛ばされた父。そして振り下ろされた純白の大剣が、両親の頸を刎ね飛ばす。
男の嗤い声が、収まる。
鎧を剥ぎ取られ横たわる父。槍剣の類いが幾本も突き立てられた母。その屍体に挟まれるように横たわる、ボロボロの姿の少年。
男の口元から、嗤いが薄れる。
『……僕が、殺します』あの日の呟きが、昨日のことのように耳朶に甦る。『いつか、僕が殺します』
もはや、男は嗤っていない。
異貌を被うのは、氷のような無表情。それはまさに、獲物をつけ狙う蛇のそれ。
「やあ、久しぶりだな」
「……騎士長」無意識に、ツァギールはその男の名を呼ぶ。「ザラチェンコ騎士長」
絶対零度の殺意を胸に、ザラチェンコは蛇の双眸を以て、聖騎士の銀眸を正面から射貫く。
「俺を覚えているか、アルトリウス」