31 雷と嵐
【31】
結界に、小さな亀裂が走る。
一箇所ではない。薄氷が割れたような音と共に、全方位に張り巡らされたオーギュスタの結界に、無数の亀裂が拡がっていく。
「貴様等、まだ終わらないのかッ」
苛立たしげに、ツァギールがふたりを睨む。彼だけではない。ロイクが、ディアナが、レオパルドが、オーギュスタが、焦慮に表情を強張らせ、冷や汗に背筋を濡らしつつ、懸命に魔力を練り上げる魔法剣士と精霊使いの姿を凝視している。
薄氷が割れる音が増す。亀裂がさらに拡がる。ハラハラと、結界の表層面が花片のように落剥する。貓鬼の歯牙が、結界を貫通し始めている。僅かに出来た隙間から、呪いの怨嗟が結界内に流れ込む。耳を覆いたくなるような呪詛の連なりに、一同の焦りがいや増す。
「早くしろ、このままでは破られるぞ」
「急かすんじゃねぇよ猟犬、極大魔法は他の魔法とは勝手が違うんだ、集中させろッ」そう云うアニーシャルカの額には、玉の汗が浮かんでいる。魔力増強剤によって魔力を恢復したとはいえ、いまだ肉体も精神も疲労困憊している。曲剣を握る指先に力が入らない。躯を支える両脚は鉛のように重たい。息は浅く、鼓動は速く、何より頭が熱い。魔法の連続使用による脳のオーバーヒート。視界は歪み、吐き気を催し、蟀谷を鷲摑みにされたような頭痛に苛まれ──それでもアニーシャルカは極大魔法を練り上げる。死力を尽くす。体内の気力と魔力を一滴残らず絞り出し、全神経を集中させ、アニーシャルカは最大火力の雷刃を実現させるべく、己のすべてを曲剣に注ぎ込む。
ヴォルフラムも同様だ。疲れ切った躯で、熱を持った頭で、それでも彼は、最大範囲の嵐を発生させようと、己に残るすべてを術式剣に掻き集めている。
アニーシャルカの曲剣が、凄まじい電熱を帯びていく。
ヴォルフラムの術式剣が、烈しい暴風を纏い始める。
思わずふたりは膝をつく。腕が、膝が、背筋が震える。それでもふたりは魔力を練り続ける。
必死だ。そう、彼等は後のことなど考えていない。この魔法を放てば、おそらくふたりは動けなくなるだろう。現在の聖都の状況下でそのような事態に陥れば、生きて聖都を出られる可能性は限りなく低くなる。だが、それが何だというのだ。どのみちこれが失敗に終われば、彼等を待ち受けるのは死だけだ。ならば、この一撃に賭けるしかない。すべてを注ぎ、すべてを込めた極大魔法の一撃に、一同の命運を賭けるしかない。
唐突に、硝子が破裂したような鋭角的な高音が鳴り響く。燦めく魔力粒子の砕片が、結界内に降り注ぐ。一同は素速く顔を上げる。頭上の結界に、拳大の穴が空いている。その穴に、一匹の貓鬼が鼻面を突っ込む。獲物を目前にした肉食獣のように、涎を垂らしながら、何度も何度も宙に噛みついている。当然、穴は一箇所ではない。全方位、あらゆる場所に拳大の穴が次々と生じ、その穴をこじ空けようと、貓鬼の群れが殺到している。
咄嗟に五人──ロイク、ツァギール、ディアナ、レオパルド、オーギュスタ──はアニーシャルカとヴォルフラムを庇うように戦陣を組み立てる。先ほど同様、防禦の為の円陣。構えられた得物の鋒は、狙いを定めきれぬというように小刻みに揺れ動く。彼等とて、万全からは程遠い。
「まだかいアニーシャルカッ」「急いでよヴォルフラムッ」
ロイクとディアナの呼び掛けが重り、
「クソ、間に合わないぞ」「戦るしかなさそうだな」
ツァギールの悪態とレオパルドの決意が交差し、
「うるせぇぞオメー等、あともうちょいだから黙ってろッ」「あと十秒もあれば事足りる、何とか持ち堪えろッ」
アニーシャルカとヴォルフラムが怒声を上げる。
その言葉通り、ふたりの極大魔法はあと数秒で完成を見る。
が、しかし、
「申し訳、ありませんッ」オーギュスタが、悲痛な叫び声を上げる。「もう、無理ですッ これ以上は、持ち堪えられそうにありませんッ」
一際大きな炸裂音と共に、周囲を覆っていた結界が、完膚なきまでに粉々に砕け散る。ヘル・ペンタグラム襲撃の折りに聖都上空で上演された、魔力粒子による目眩く銀河の様相、その縮小版が一同の周囲で再演された。音が消えた。時が止まった。
円陣を組む五人は、貓鬼を見る。
幾百幾千もの呪いの軍勢が、五人を見る。
固まった時の中で、両軍は睨み合う。
限界まで圧縮された時間。死を目前にした人間のみが体験する、一秒が極限まで引き延ばされたかのような、走馬灯めいた一瞬。
この瞬間、確かに時は止まっていた。
無論、錯覚だ。音は消えてはいない。時は止まってなどいない。時間とは流れるもの。彼等は単なる錯覚に囚われているに過ぎない。──ゆえに次の瞬間、怨嗟の大絶叫と共に、貓鬼の激流が一同に襲い掛かる。
五人は一歩前に踏み出す。ロイクとツァギールの刃は、碧の焰を纏っていない。ツァギールが携帯していた〈塵〉は、すでに底をついている。ディアナとレオパルドの得物からも、白い耀きは失われている。もはやオーギュスタに〈属性付与〉を維持する余力は、残されていない。もはや彼等の攻撃は貓鬼に届かない。どう足掻こうと、どう藻掻こうと、貓鬼を相手に戦う手段は、もはや彼等には残されていない。
それでも五人は前に出る。大剣を、湾曲剣を、双槍を、幅広剣を、長杖を構えながら、彼等は貓鬼の前に立ち塞がる。十闘級、第八殲滅騎士団、聖銀級──歴戦の猛者である彼等は、むざむざ敗北を受け入れるような潔さを持ち合わせていない。どうせ死ぬなら、戦って死ぬ。それが無理なら、せめて仲間を護って死ぬ。──そう、彼等は時間を稼ぐつもりだ。数秒程度であれば可能なはずだ。己が躯を肉の盾とし、全身全霊を以て立ち塞がれば、貓鬼の猛攻から数秒、アニーシャルカとヴォルフラムを護れるはずだ。ふたりが生き残れればそれでいい。仇はふたりが討ってくれる。五人が此処で死んだとしても、ふたりが生き残ってさえいれば、それは自分たちの勝利だ。
理屈ではなかった。そんなものはどうでもよかった。ただ彼等の本能が、生涯戦いに身を捧げることを選んだ五人の魂が、そう想った。
そしてその想いは、アニーシャルカとヴォルフラムに伝わっている。だからこそアニーシャルカは顔を上げない。ヴォルフラムは口を開かない。ふたりは極限まで意識を集中し、最大速度で極大魔法を練り上げる。五人の生命を無駄にはしない。自分たちの生命もどうでもいい。例えこの身が呪いの毒牙にかかろうとも、このクソ貓どもは、一匹残らず道連れにしてやる。
全員が、死を覚悟していた。全員が、その事実を受け入れていた。そして全員が、いまだその身に燃え盛る闘志を宿していた。
四方上空、全方位から貓鬼が飛び掛かる。
血走った眸、逆立った体毛、限界まで拡げられた顎。
呪いの歯牙が、一同の喉元に喰らいつく──
──貓鬼は霊体だ。霊体とはすなわち、魔力体。
魔力は本来、眼に映らない。しかし濃度が高ければ話は別だ。一箇所に凝集した高密度の魔力は、魔法の素養の無い者にすら視認することができる。魔力体とはまさに、この高密度魔力によって存在を構成された魔物のことを意味する。
視認できるということは、光の影響下にあるということだ。透過性が高いとはいえ、貓鬼は間違いなく陽光に照らし出されている。照らし出されているということは、光を遮っているということだ。そして光を遮っている以上、貓鬼の下方には”影”が生まれている。
貓鬼の大群に周囲を覆い尽くされた一同は今、呪いの”影”の只中にいる。
そして聖都の”影”の中には、彼女がいる。
『一度きりの御褒美よ』
影の奥の奥、そのまた奥に蟠踞する冥い闇の奥底で、蒼褪めた唇が、妖艶な微笑を浮かべた。
『戯れの脅しを真に受けて、こんな僻地にまで足を運んだ貴方たち三人への、これは私からの細やかな御褒美』
影を通して一同の戦いを観覧していたクシャルネディアは、魔力を宿した指先を優雅に揮った。
『さあ、ありがたく受け取りなさい』
呪いの歯牙が、一同の喉元に喰らいつく──その寸前、
影の中から、魔の法則が放たれた。
一同に襲い掛かった貓鬼の軍勢が、一斉に動きを止めた。
貓鬼の額が、顎が、その血眼が、女王の術によって刺し貫かれていた。
放たれたのは、槍だった。鮮血と墨汁を丹念に交ぜ合わせたような、玄い、黒薔薇を思わせる色合いの血槍。血の血族の気品を漂わせるその槍が、全方位、剣山の如き槍衾となって襲い来た貓鬼の侵攻を、完璧に喰い止めていた。
一同は、何が起きたのか理解できずにいた。
彼等はクシャルネディアの笑声を耳にしていない。影の只中にいる為、槍衾の全貌も把握できていない。彼等に分かっているのは、間一髪、貓鬼の歯牙から逃れ得たということ、自分たちがいまだ息をしているということ、そして何より、僅かな間とはいえ、時間を稼げたということ。
そして、それさえ分かっていれば彼等には十分だった。
周囲に展開された槍衾が、ゆっくりと消えていく。そう、クシャルネディアの云うとおり、これは『一度きりの御褒美』なのだ。
貓鬼の軍勢が、再び動き出す。ル・シャイル広場は無限とも思える呪いに満ち溢れている。刺し貫かれた貓鬼の背後から、新たな貓鬼の大群が顕れる。血走った双眸が一同を見出し、餓えた歯牙から、呪いの唾液を滴らせる。
だが、もはや一同に恐れはない。時間は十分だった。
大気を震わせるような雷鳴と、荒れ狂う暴風の咆吼が、一同の鼓膜を烈しく震わせた。
そう、僅か数秒──それだけで一同には、アニーシャルカとヴォルフラムには、十分過ぎた。
一際凄まじい轟音が轟き、同時に、轟音に負けないほどの怒号が、ふたりの咽喉から迸る。
「オメー等、伏せてろッ!」「いいか、巻き添えを喰らうなよッ!」
五人は咄嗟に身を投げ出し、
それと同時に、
蒼雷と暴風の狂乱が、彼等の頭上を薙ぎ払った。




