29 奇襲
【29】
黒い焰の迸りが、再度シャルルアーサたちを見舞う。
人々は蹲り、身を寄せ合い、お互いの躯をひしと抱き寄せ、固く眼を瞑る。シャルルアーサひとりが凜と佇み、押し寄せる焰の激流を、勁い眼差しで以て受け止める。
凄まじい焰の激流、その波濤は、しかし先ほど同様、聖女の元には届かない。強固な結界により阻まれた焰は、行き場を失ったように結界周辺を呑み込み、荒々しく渦を巻き、あらゆるものを焦土に変える。大鴉の背から悠々とその光景を瞰おろしていたジュリアーヌは、人差し指を一本立て、くいくいっと上下に振る。途端、激流のいたる所から焰が間欠泉のように噴き上がり、無数の大蛇が鎌頸を擡げる。
上位焰魔法〈黒き火蛇〉。
黒き大蛇の群れは、眼下の聖女をひたと睨み、一斉に襲い掛かる。
大蛇は焰の激流とは比べものにならぬほどの灼熱をその身に纏っている。陽炎の舌、煮え立つ鱗、黒焰の躯──その牙は獲物を瞬時に灼き焦がし、その巨体に締め上げられた獲物は、たとえ三つ頸の獄犬や蜘蛛脚の黒馬のような強大な魔物であろうと、瞬く間に骨の髄まで灼き尽くされる。それほどまでに強力な火蛇、その群れに襲い掛かられ──しかし、シャルルアーサの結界はビクともしない。穏やかに凪いだ海、静謐の領する湖面。時折表面に漣が走るも、聖女の展開した防壁は隙のない堅牢さを以て、〈黒き火蛇〉を寄せ付けない。
ジュリアーヌはゆっくりと右腕を持ち上げ、パチンと指を打ち鳴らす。
途端、結界を重囲していた大蛇の群れがその動きを止め、
刹那、凄まじい爆焰が、商業区の空に向かって立ち昇る。
〈黒き火蛇〉が、内側から爆発したのだ。
周囲一帯が、揺らめく闇に呑み込まれる。
上位焰魔法〈凶炸〉。
黒き爆焰により範囲内を灼滅する魔の法則。圧縮した焰を球形に纏めあげ、対象に投擲する遠距離魔法の一種であるが、ジュリアーヌはこれを大蛇の体内に大量に仕込ませることで、大蛇の攻撃性能を飛躍的に上昇させた。〈黒き火蛇〉の群れで敵を強襲し、仕留めきれなければ〈凶炸〉の爆破で確実に息の根を止める、二段構えの連鎖魔法。複数の上位魔法に複数の上位魔法を掛け合わせるという暴挙は、しかし稀代の天才魔術師ジュリアーヌ・ゾゾルルの実力を以てすれば、児戯に等しい。衝撃波に、魔女の髪が掻き乱れる。魔獣狩り戦において失った、ぽっかりと空いた右の眼窩が顕わになる。朦朦と立ち込める黒い煙に、舞い上がる砂礫と燃え滓が混じる。熱波に揺らめく空気、灼け焦げた臭い。しばしの間、ジュリアーヌは自らの生み出した惨状を見つめ、
「いいね」
そう云って、にやりとする。
「この程度じゃビクともしないってわけね」ゆっくりと霽れゆく黒煙の切れ目に、いまだ無傷のシャルルアーサの姿を見出し、「あの頃も相当だったけど、さらに結界術の腕を上げたわね、シャル。さすがは賢者院随一の魔導師──いや、〈聖女〉様って呼んだ方がいい?」
「貴方には及びません、ジュリ」
「そう謙遜しないでよ。あの学院でアタシが認めてた魔術師は、アンタだけよシャル。少しは誇りに思ってくれなくちゃ」
「褒められた所で、嬉しくはありません」
「つれないわね、泣いちゃいそう」
空気を切り裂くような高音が、その場にいる全員の鼓膜を貫いた。
ジュリアーヌの傍らに浮かぶ異形の杖、厖大な量の魔道具の縫い付けられたその先端から、幾条もの黒い光線が放たれている。
上位焰魔法〈流星群〉。
結界表面が、荒海のように大きくうねる。どころか、これまで完璧な球形を保っていた結界形状そのものが、ぐにゃりと、激しく変容する。〈流星群〉によって放たれるのは焰を一極集中させた超火力の光線。あらゆるものを貫通する光線が聖女の結界と衝突することによって生じた摩擦音、それこそが空を切り裂く高音の正体。──光線の着弾点に、黒い火花が散る。高音の音調が、さらに鋭さを増す。剥離した結界表層の魔力粒子が燦然と宙を舞う。
「へぇ、これでも壊れないんだ」ジュリアーヌは〈流星群〉の射出を止める。「”面”だけじゃなく”点”に対しての防禦性能も万全ってわけね。ホント、勿体ないよねシャル。それだけの腕前があれば、もっと愉しく生きられるってのに、こんな辛気くさい国に引き籠もって賢者院のお飾りに甘んじているなんて。──一体どういうつもり? そんなに神が好き?」
「……貴女こそ、自分が一体何をやっているのか、分かっているのですか」
「何って?」
「この僅かな間に、貴女は一体どれだけの悪業を為したのですか」苦悶に、シャルルアーサの顔が歪む。救助活動の折りに目撃した、あまりに酷たらしい惨状の数々。燃え盛る街並み、崩潰した家屋、焦土と化した広場。そして何より、灼け爛れ、あるいは灼け焦げた、あまりにも、あまりにも多くの……シャルルアーサは唇を噬み締め、怒りとも哀しみともつかぬ眼差しで魔女を見上げる。「貴女は一体、この僅かな間に、どれだけの人々を手に掛けたのです。どれだけの人々を殺戮したのか、分かっているのですか」
「さあ、数えてないけど」
「なぜ、そうも簡単に人を殺せるのです」
「何、そんなこと知りたいわけ?」
「おかしいですか」
「別に、アンタらしいんじゃない?」ジュリアーヌは小頸を傾げ、思案するように視線を宙に向け、「そうね、久しぶりに再会したわけだし、少しアンタのお喋りに付き合ってあげる」そう云って、クスクス嗤う。「何で殺せるのか、ね。……やっぱり、弱いからじゃない? 人間ってさ、脆すぎるでしょ」ジュリアーヌは右手を顔の前に持ち上げ、人差し指を立てる。白魚の如き指先で焰が燃え上がり、魔女の眸を黒々と照らす。「アタシが焰でサッとひと撫でしただけで、面白いくらい簡単に人は死ぬ。なんていうかさ、その脆さがアタシの嗜虐心を煽り立てるんだよね。子供の頃に蟻の巣に水を流し込んだ経験ってない? 蝗虫を捕まえて脚を一本一本毟り取ったり、地を這う百足をぐちゃぐちゃに蹈み潰したり、丸々肥った蛙を焚き火に放り込んだり──意味も無く残虐性を発露した経験って誰にでもあるでしょ? 云ってしまえば、アタシが人を殺すのはそういう経験の延長線上に位置してると思うんだよね。アタシはさ、童心を失ってないわけ」
「意味などない、と」
「勿論、無意味な殺しばかりじゃない。新しく考案した魔法の実験台として殺す時もあれば、アタシに楯突いたアホどもを蟲螻のように殺す時もある。あるいはアタシの名を世界に知らしめる為に殺戮を演じることもね。そういう時はひとりだけ生かす事に決めてる。死なない程度に灼いて、恐怖をたっぷり植え付けて、アタシの恐ろしさを世界へ知らしめる為の生き証人として、その後の人生を爛れた絶望の中でのたうち廻ってもらう。そう、だから意味がないなんてことはない。むしろ有意義とさえ云えるかもね。──アハハッ、新しい発見、アタシの殺しって有意義なのね」
「本気で、云っているのですか」
「殺しって愉しいわよ。自分が狩る側だって実感できる。知ってる? 狩りと云う行為は選ばれた者にのみ赦された至高の遊戯なの。この世界において狩人に属するのは一握りだけ。アタシはその内のひとり」
「……貴女は、狂っています」
「当然じゃない。少し考えれば分かるでしょ、地獄に堕つ五芒星にまともな奴なんてひとりもいない、どいつもこいつも頭のネジの弛んだ、殺しが大好きなイカればかりよ。そんなことも分かってないから、聖都はこうなってるの」ジュリアーヌは両腕を拡げ、惨惨たる聖都の現状を聖女へ突きつける。燃え盛る黒焰、街衢を鎖す石化、広場を蚕食する呪い、吹き荒れる飆──ジュリアーヌは心底可笑しそうに嗤い、「だから聖都は落ちる。アンタ等は、セイリーネスは、神は負ける」そう云って、傍らに浮かぶ異形の杖を右手で掴み取り、「それじゃ、お喋りはこのくらいにして、続きを再開しましょ。云っとくけど、さっきまでのお戯びとはわけが違うわよ」
異形の杖そのものが、烈しく燃え上がる。一瞬にして周囲の気温が上昇し、ジュリアーヌの髪が、美貌が、外套が、煮え立つ熱波に不気味に揺らめく。
シャルルアーサの表情に緊張が走る。先ほどまでとは比べものにならないほど厖大な魔力が、異形の長杖に漲っている。シャルルアーサの顎を、一筋の汗が伝う。押し寄せる熱波は結界が遮り、結界内の温度は一定に保たれている。暑いのではない。流れる汗は、冷や汗だ。
いままでのような上位魔法ではない。あれは、間違いなく──
「極大魔法」魔女の眸が、陰惨な耀きを帯びる。吊り上がった唇から大粒の犬歯が覗き、長い舌で舌なめずりをする。焰が、熱が、さらに烈しく燃える。「悪いけど、さすがのアンタでも、これは禦げないわよ」
ジュリアーヌは長杖をシャルルアーサに差し向け、
途端、違和感に襲われた。
おかしい。ジュリアーヌは鋭い眼差しで眼前の空間を凝視し、眉を顰めた。彼女の周辺を充たす灼熱の魔力、その魔力の流れが、僅かに、だが確実に、おかしかった。通常であれば上へ上へと立ち上るはずの魔力の流れが、歪んでいる。ともすれば陽炎による風景の屈折によって生じた魔力の歪みとも思えるが、しかし、稀代の天才魔術師たるジュリアーヌ・ゾゾルルが自身の魔力の流れを見誤るわけがない。ジュリアーヌは眼球に魔力を収斂させ──そして、魔力の流れの中に、それを捉えた。夜空に瞬く星々のような、無数の燦めきを。
その燦めきの正体は、魔力粒子。
「〈薄幕〉?」
愕いたように眼を見開き、ジュリアーヌはシャルルアーサを見やった。〈薄幕〉とは、結界術に分類される魔法の一種だ。通常、結界は硬軟両面──〈防禦術〉と〈緩衝術〉の性質──を併せ持つ、高密度の魔力防壁によって形成される。対物理、対魔法攻撃に対して圧倒的効果を発揮する〈結界〉は、最強の防禦魔法と云って差し支えない。
対する〈薄幕〉には、攻撃を禦ぐような効果は一切ない。薄幕を形成するのは、魔力粒子なのだ。
ジュリアーヌは異形の長杖で周囲を薙ぎ払う。煌星の如き薄幕が、ジュリアーヌの周辺でさらさらと棚引く。何層にも何層にも、薄い魔力の幕が彼女を重囲している。──瞬間、ジュリアーヌはシャルルアーサの意図を悟る。結界術でありながら防禦に用いることのない〈薄幕〉──その実態は、〈欺瞞術〉だ。魔力反射の性質を付与した極微細の魔力粒子を対象の周辺に展開し、魔力探知能力──つまり第六感──を著しく狂わせる、主に斥候任務や攪乱戦において真価を発揮する支援型の結界術。シャルルアーサは、その薄幕を以てジュリアーヌを二重にも三重にも包み込んでいた。薄幕はその性質上、察知することが極めて難しい。第六感が麻痺して初めて薄幕の存在に気づくという場合がほとんどだ。しかし、あのジュリアーヌ・ゾゾルルを相手に廻し、一切気取られずに薄幕を展開できる魔術師は、おそらく世界広しといえどシャルルアーサただひとりだけだろう。さすがは〈聖女〉、さすがは世界最高の結界術の使い手。その繊細な魔力操作の手腕には、然しものジュリアーヌも称賛を禁じ得ない。──だが、ジュリアーヌは軽口を叩かない。皮肉げに口元を歪め、嘲るようにシャルルアーサをからかうことをしない。さらさらと棚引く薄幕を見つめ、転瞬の間に答えに到る。
薄幕、欺瞞。
今、この状況下において、彼女の魔力探知能力を鈍らせる理由があるとすれば、それはただひとつ。
咄嗟にジュリアーヌは振り返る。魔女の美貌が、翳る。
巨体の騎士が、太陽の光を遮っている。陽光に照らされたその鎧には、荘厳なまでの宗教的装飾が施され、鮮やかな蒼穹を背景に、重々しい甲冑は白金色に耀く。
高々と掲げられた騎士の右腕。その右腕に籠められた、厖大な魔力。
奇襲。
ジュリアーヌが命じるまでもなく、主の感情を察知した大鴉は、一対の大翼で以て回避に転じ、しかし、大鴉は羽撃けなかった。唸り、藻掻き、懸命に翼を動かそうとするも、両翼はビクともしない。まるで石になってしまったかのように、あたかも空間に固定されしまったかのように、大鴉はその場から動くことができない。
ジュリアーヌは頭上の騎士に異形の長杖を差し向け、
しかし騎士の方が、彼女よりも一拍疾い。
ジュリアーヌが魔法を発動する直前、
堕天使の拳が、鉄槌の如く魔女に振り下ろされる。




