序 真祖の夢
少女がひとり、夜の荒野をさ迷っている。
幽玄な気配漂う、美しい少女だ。潤沢な黒髪が足元まで伸びている。
だが、よく見ればその顔と長い髪にはおびただしい量の血液が付着している。
少女は深紅のネグリジェを着ている。そのネグリジェは元々純白の美しい物だった。だが、ネグリジェは血を吸いぐっしょりと濡れてしまった。身体を濡らす血液は、彼女の両親から流れた物だった。
『あなただけでも逃げなさい』
母親の言葉が少女の耳から離れない。
『大丈夫。すぐに追いかけるよ』
そう言って笑った父親の顔が忘れられない。
ふたりはその直後、風のように現れた一匹のドラゴンによって、無惨な死を遂げた。
裂かれ、焼かれ、踏み潰される。
両親の傷は一瞬で再生し、再生すると同時にドラゴンは両親を蹂躙する。死なない獲物をいたぶり楽しんでいる。
少女の両親は吸血鬼だ。それも吸血鬼の中の吸血鬼、【純血】【始まりの血】【原点】と呼ばれる真祖だった。ふたりの子供の少女も、まごうことなき吸血鬼の真祖だ。
槍のようなドラゴンの牙が両親の皮膚を、骨を、内臓を貫く。大量の血液が飛び散り、すぐ側にいた少女の身体を汚した。
『逃げなさい』
ドラゴンに咀嚼され、激痛の中でも両親は彼女に叫び続けた。
『あなただけでも生きるのよ。絶対に生きのびて』
両親は最後に、少女に笑いかけた。
そこから少女の記憶は曖昧だ。
ただ、死に物狂いで走った事だけは思い出せる。
気がつけば荒野にひとり立ち尽くしていた。遠くの方に激しく燃える炎が見える。少女の棲んでいた死者たちの街だ。突然のドラゴンの強襲に街は呆気なく崩壊し、そこに住まう死者たちは簡単に喰い尽くされた。
少女だけが難を逃れた。
そう思えた。
だが、
突風と共に、空から一匹の【絶望】が少女の目の前に降り立った。
ゆうに20メートルを超える巨体。
強靭な骨格を覆う鎧のような筋肉。さらにその上を覆うのは岩や鋼を遥かに上回る硬度を持つ分厚い鱗。
四本の手足から伸びる、大地を軽々と抉ることのできる爪。
ひと薙ぎで街を破壊する太い尾。
全ての光を遮るような迫力を持つ一対の翼。
そして全生物に絶望を与える頭部。乱雑に並んだ刃物のような牙の群れ。凶暴な光を湛えた眼球。我こそが王者だと主張するように、天に向かって生える二本の剛角。
ドラゴンが少女の前に現れた。
少女は虚ろな瞳でドラゴンを見上げた。そのドラゴンは先程少女の両親を喰い殺した個体だった。
少女は生きる気力を失っていた。両親も、仲間も、全てあの街と一緒に燃えてしまった。
少女には何もない。生き延びたとして、真祖の彼女は永遠をさ迷い続けるだけだ。だがこの世界には、もう少女の親しかった者たちはいない。それなのに生き続ける必要があるのか?
目の前のドラゴンの腕が少女に伸びる。
少女は死を望んだ。これからひとりでこの世界をさ迷うくらいなら、今ここでドラゴンに殺された方がずっといい。
ドラゴンの分厚い指が少女を握る。彼女は抵抗しなかった。したところでドラゴンから逃れる事などできない。
「貴様、真祖だな」
地の底から聞こえるような重々しい声がドラゴンの口から漏れ出た。
「吸血鬼の中でも、とりわけ貴様らが美味い。魔力濃度と保有量が段違いだ。肉と血の味も良い。さすが上位の存在だ」
ドラゴンの指に力が込められる。その力に少女の骨は容易く折れ、肉は弾ぜ、内臓をすり潰れる。少女の眼球から血が吹き出し、口からも血液が溢れ出た。
「がぁぁぁぁぁぁっ!?」
少女はあまりの激痛に叫んでいた。
少女は単純な事を忘れていた。このドラゴンは先程両親を殺すとき、散々蹂躙してから殺していたのだ。少女の事もすぐに殺すはずがない。玩具のようにいたぶられ、最後に喰い殺されるのだ。
ドラゴンが手の力を緩める。隙間ができると一瞬で少女の身体が再生される。するとまた握り潰される。少女は苦痛に咆哮する。
激痛の中、少女は自分の再生能力を呪った。
自分が真祖として産まれた事を呪った。
(パパとママもこの痛みを抱えて死んでいったんだ・・・)
絶望に沈んでいく思考の中で、少女はそう思った。
少女の瞼の裏に、両親の最後の表情が浮かび上がる。
ふたりはこの地獄の苦痛の中、笑っていた。
『あなただけでも生きるのよ。絶対に生きのびて』
ふたりの最後の言葉を思い出した。
(そうだ)
少女の眼から大量の涙が流れ出す。
(私は生きなきゃいけなかったのに)
その時はじめて、少女は心の底から生きたいと願った。
街を破壊したドラゴンが憎かった。仲間を焼き尽くしたドラゴンが憎かった。そして両親をいたぶり喰い殺した目の前のドラゴンが憎くて憎くて仕方なかった。だが少女には何も出来ない。こうして掴まってしまった以上、あとは死が訪れるのを待つしかない。
そんな自分自身がたまらなく憎かった。力の無い自分自身を殺してしまいたかった。
「ごめんなさい、パパ、ママ・・・」
繰り返される苦痛の中で少女はかすれた声で呟いた。
どうにもならない。あとは死を待つだけだ。
少女は眼を瞑った。
その時、その声を聞いた。ざらついた、いつまでも耳に残るような声。
「吸血鬼のガキをいたぶるのがそんなに愉しいか?」
声と同時に、ドラゴンの腕の上を、凄まじい速度で何かが通り過ぎた。
少女は身体が落下する浮遊感を感じた。次の瞬間には、地面に叩きつけられた。少女の上に何か、重たい物が乗っている。少女はそこから這い出した。それはドラゴンの腕だった。
「異種族殲滅用生体兵器か!!ふざけた真似を!!」
激怒する咆哮が轟き、少女は前方を見た。
そこでは右腕を切断されたドラゴンが、苦痛に顔を歪めながら大量の血を流していた。
少女の目に、青年の後ろ姿が映った。少女とドラゴンとの間に、青年は立っている。
乱雑に切られた、灰色の髪が風に揺れている。
青年は右手に剣を握っている。反りのついた、片刃の剣だった。形状からいえば剣というよりは刀に分類される。その刀身はぼんやりと赤く輝いている。剣を握るその腕に、文字が刻まれているのを少女は見つけた。
【生体兵器 No.11】
腕にはそう刻まれていた。
「ふざけてるのはお前だ。こんな子供をいたぶって満足か?」
青年は剣を肩に担ぎ、嘲るように笑う。
「生態系最強がやることとは思えないな」
青年の言葉を聞いた瞬間、ドラゴンの鱗に覆われた筋肉が膨張する。それと同時に右腕の出血が止まる。乱杭歯の生えた大きな口に、超高密度の魔力が集中していく。牙の隙間から炎が漏れ、その高温に空気が歪む。ドラゴンが口を開くと、そこには巨大な焔の塊が形成されていた。その火球が現れただけで、周囲の気温が急上昇し、熱波が少女を襲う。
それは下位の炎魔法【炎塊】だった。人間の魔術師見習いが最初に覚える低級な炎魔法だが、膨大な魔力を有するドラゴンが使用すると、その威力は人間の使う極大魔法を遥かに凌駕する。この一発で、大地は数百メートルにもわたり燃え盛る。
不意に風がやんだ。何の音も聞こえない。
次の瞬間、火球が青年に向けて発射されていた。火球は速く大きい。直撃すれば青年は一瞬で蒸発するだろう。
だが、
青年は左腕で火球を弾き飛ばした。
軌道を逸らされた火球が地面に激突し、大爆発が起きる。土と岩と煙が空に舞い上がる。爆発地点を中心に、大地が深く抉れている。
「お前、邪魔くさいな。消えろ」
気がつくと目の前に青年が立っていた。少女の首筋に剣の刃が当てられている。
「今は戦争中だ。異種族は全て殺す。だが、俺はアレの相手をしなきゃならない。見逃してやる。俺の気が変わる前に消えろ」
少女は座り込んだまま青年を見る。真っ赤な、鋭い瞳が少女を見返す。
「どうした?早く消えろ。それともお前は死にたいのか?」
少女はその言葉にびくりと身を震わせた。そう、確かにさっきまでは死にたかった。だが、今は違う。両親の言葉を思い出した今は。
「生きたいです」
少女は小さいが、決意を込めた声を出す。
その時、ふたりの周囲を漂っていた煙が吹き飛び、火球が青年の背後に現れた。少女は声を上げそうになったが、それより早く振り返った青年が火球を正面から真っ二つに切り裂いていた。二つに分かれた火球は軌道が逸れ、二人を避けるように飛んでいくと、地面に当たり大爆発を起こす。
「生きたいなら、消えろ」
青年が歩き出す。
その背中に少女は叫んだ。
「クシャルネディアです!」
青年が立ち止まり、振りかえる。
「クシャルネディア・ナズゥ・テスカロール、それが私の名前です!」
「自己紹介してる暇があったらさっさと逃げろ」
青年はまた歩き出す。
「貴方には助けていただきました!救っていただきました!たとえ何年経とうと、このご恩は一生忘れません!この名において、そして真祖の血に誓い、必ずこのご恩はお返しします!絶対に返します!」
「なら強くなって今度は俺を助けてみろ」
青年は笑いながらいう。
「あのっ!名前は!」
「もしまた会う機会があったなら、その時に教えてやる」
それだけ言うと、青年はドラゴンに向かって走り出した。
少女はその背中を最後まで見ずに、反対方向へと走り出していた。
****
女は目を覚ました。
豪奢なベッドの上だった。
窓の外に、大きな満月が浮かんでいる。
闇。真祖の支配する夜。
「お目覚めですか」
部屋の隅から低い男の声が響く。
「夢を見たわ、ロートレク」
「どのような夢でしょう」
「古い夢よ。300年以上前の、ある出来事。久しぶりに見たわ。なぜかしら」
「さあ。夢と言うものははかり知れませんから」
「そうね」
女は少しの間沈黙し、再び口を開く。
「夢にね、ある人が出てくるの」
「大事な人物ですか?」
「そうね。大事よ。私の憧れの人」
そこでまた女は沈黙する。その沈黙がこれ以上話したくないという合図だと気づいたロートレクと呼ばれる男は、違う話題を口にする。
「クシャルネディア様、お食事の用意が出来ております」
「そう」
女、クシャルネディアはそっけなく言うと、ベッドから降りた。
この翌日、ヌルドの森でひとりのドラゴンキラーが目を覚ます。それは偶然なのか、あるいはクシャルネディアへの啓示なのか、それは誰にもわからない。
【真祖・クシャルネディア討伐編 開幕】




