25 黒き修羅
【25】
狒狒は見ている。胡座を組み、手慰みに頸筋を掻き、歯牙を剥き出すように欠伸を噛み殺す。吹き荒れる烈風。血肉の灼け焦げる匂い。風に混じるのは灰白の砂塵と、ぬるりと肌に絡みつく呪いの気配。もう一度、狒狒は欠伸をする。気の抜けた音、上下する喉仏、細められた眦に泪が滲む。恐怖が響めいている。絶望が渦巻いている。悲鳴が奏でられ、慟哭が天を衝き、至る所で行われる無慈悲な殺戮が、人々の叫喚を煽りたてている。しかし、狒狒の表情には感興を思わせる兆しは何ひとつみられない。無聊を慰めるように、狒狒は膝上に置いた二刀に手を伸ばす。一振りは狒狒の長い腕と同程度の刃渡りを有する大刀。もう一振りは、その大刀の半分ほどの刃渡りの小刀。無駄な装飾の一切を排した、ただ殺し、ただ戮す為だけの得物。狒狒は鞘尻から柄頭に向かって長い指を這わせ、繰り返し、そうしながら神聖都市国家セイリーネスの街並みを、ただ、瞰おろす。
その眸は冷め切っている。
「よう、シュラマル」
背後から跫音が近づく。
「お前、こんな所で何やってんだ。さっさと働けよ」
狒狒は振り返らない。反応しない。ただ、黙然と刀を擦る。
「無視とは随分つれないな。おれはお前の”王”だぞ?」
「此処は貴様の故国だったな、退魔師」傍らに佇んだ勇者を一瞥することもせず、シュラマルは重い錆声を響かせる。「つまらん。この国にはこの程度の奴等しかおらんのか」
シュラマルが胡座を組んでいるのは、聖都北部〈特別区〉と西部〈商業区〉、そしてセイリーネスの心臓部たる〈中枢区〉の三区画の境目に跨がる〈教会〉の巨大神殿、その屋上だった。聖都各地にはこのような巨大神殿が、均等に間隔を空け、幾つも建てられている。シュラマルの傍ら ──勇者が佇むのとは逆の方向── には、純白の鐘楼がある。内部には白銀に耀く鐘が吊されている。聖都では毎日決まった時刻に神を讃える聖鐘が打ち鳴らされる。各地に点在する巨大神殿は祈りの場であると同時に、鐘音を遠方まで響かせる為の鐘塔の側面も備えている。シュラマルが降り立ったのは、そんな神殿の真正面だった。建国記念日を神へ祈るために、神殿周辺は人々で溢れかえっていた。そんな只中に”魔”が顕れた。一瞬、人々は狒狒の出現に、固まった。蒼穹の亀裂、魔物の集団、結界の崩潰、蒼い閃光、そして次々に降ってくる魔物たち……矢継ぎ早に過ぎ去った展開の数々に呑み込まれ、彼等の脳は正常に機能していなかった。が、意識が現実を把握するや否や、人々は恐慌と共に狒狒から逃げ出した。
シュラマルは追わなかった。興味が無かった。足下を這いずる地蟲に、周囲を飛び回る羽蟲に、一体何を感じろと云うのか。目障りでこそあれ、殺すほどの価値も無い。
人々と入れ替わるように、鉄靴の跫音が周囲に響き渡った。
三区に跨がる神殿だ。襲撃の報を受け、各区画に待機していた騎士たちが、続々と駆けつけてくる。瞬く間に〈セイリーネス神聖騎士団〉が狒狒を包囲した。それだけではない。銀鎧の隊列に混ざり、荒々しい傭兵服や聖都では見られない色とりどりの魔術師外套の集団も散見される。各国からの援軍だ。とりわけ目立つのは、青銅色の鎧に身を包んだ一団だった。大きなマントを雄々しく靡かせる騎士長を先頭に、神聖騎士団に匹敵する整然さで、青銅の一団は狒狒の包囲網に加わり、これも青銅色の大剣を一斉に抜き放った。
レイミーヤの〈断罪騎士団〉。
〈教会〉の教義に叛する者は、たとえ王侯貴族であろうと容赦なく断罪する、教国の処刑人。断罪者たちの眉庇の間隙から、鋭い眼光が覗く。眸に燃えるのは、狂気という名の信仰心。
他の集団も同様だ。誰もが一様にその眸に、胸奥に、烈しい信仰を宿している。
眼前にいるは神の敵。聖都に、神に、弓引く敵。
自身に向けられる数百もの鋒を前に、しかしシュラマルは動じない。気怠げに周囲を睥睨し、暫時、
「この程度か」
うんざりしたように吐き捨てる。
シュラマルが地獄に堕つ五芒星の申し出を承諾したのは〈無羅獅鬼鷹〉の為だ。あの妖刀を〈閻魔ノ数珠〉に持ち帰る為に、シュラマルはイビルへイムの誘いを受け入れた。現世に興味はない。聖都になど関心はない。この世界を支配するのが”人”であろうが”魔”であろうが、斬魔剣術七代目当主たるシュラマルからすれば、心底どうでもいい話だった。”俺はただ、魔技の極致を目指すのみ”。それ以外の事に身を砕くなど、愚の骨頂。……それでも、乗り掛かった船ではあった。猿魔の領域を出、心の臓の宿痾を押してまで、万里の波濤を越え、この大陸に足を運んだのだ。気乗りしないとはいえ、久方ぶりに現世で技を振るうのも、また一興であろう……シュラマルは、そう思っていた。
この瞬間までは。
「興醒めだ」吐き捨て、シュラマルはゆるりと身を翻す。何処に向かうでもない、ただ、もはやこの場に用は無いと宣言するように、狒狒は神の手勢に背を向ける。「現世の要とは云え、所詮は人の国か。期待した俺が浅墓であった。倦いたとはいえ〈鬼神ノ蠱毒〉で八岐や天逆毎を相手に技を磨いている方が、まだしも得る物がある」
「止まれッ!」狒狒の背に、勇ましい声が浴びせられた。青銅の大剣を掲げたマントの騎士が、その場を代表するように声を張り上げている。「神の手勢を前に臆したか、醜怪な魔の猿よッ! 攻め入って早々に遁走を決め込むとは、何とも滑稽な姿だなッ! だが、逃がしはせぬぞッ!」依然背を向ける敵の姿に勢いを得たのだろう、マントの騎士は全身に力を漲らせ、狒狒へ向かって一歩を踏み出す。「我々レイミーヤ教国の断罪騎士団が、貴様に神の裁きを下してやろう。だが、ただで死ねると思わないことだッ! 手始めにその四肢を斬り飛ばし」
「いい加減、気づけ」錆声が、出過ぎた騎士の言葉を遮った。シュラマルは立ち止まり、「貴様の胴も、四肢も、頸も、疾うに落としている」そのまま狒狒は、周囲を気怠げに見廻す。剣を構える騎士、短杖を擬する魔術師、様々な武器を手に持つ傭兵、戦士、冒険者……敵意に充ち満ちた戦陣の顔ぶれに、シュラマルは軽蔑の言葉を投げる。「貴様等もだ。一体、いつまでそこにそうして突っ立っているつもりだ。死んでいることにすら気づけぬとは、人とはこうまでも愚鈍な生き物なのか」
その場の全員が、狒狒の言葉を理解できずにいた。
そして、理解する猶予も残されていなかった。そもそも、そのような考え方自体が間違っていた。この場にいる全員には、もはや時間という概念そのものが意味を失っていた。
彼等は気づいていなかった。この場の誰ひとりとして、狒狒の動きを眼にした者は、自分たちの躯を通り抜けた刃の存在に気づいた者はいなかった。
黒狒狒流斬魔剣術七代目当主にして、歴代最強の使い手と目される猿魔の絶技。いや、魔技。
”興醒めだ”
その言葉と同時に、すでに殺戮は終わっていた。
「なかなか悪くない眺めだ」嗤いながら、ギグは周囲を見下ろした。神殿の周囲一帯は、地獄の如き様相を呈していた。噴き出した鮮血に建造物の壁面は紅く染まり、通りという通りは血河に揺蕩う。濃厚な血の香りが蒸気霧のように周囲に立ち込め、錆色の河面には、累々たる死屍が浮かんでいる。騎士、魔術師、援軍、そして逃げ遅れた住民……種々雑多な神の手勢の中に、生前の形を保った屍体は一体も見つからない。頸は刎ね飛ばされ、胴体は臍、鳩尾、胸部と切断され、四肢に到っては肩、鼠蹊、肘、膝、手首、足首、そして五指までもが、周到なまでに整然と斬り落とされている。よく観察すれば、第一、第二と、関節ごとに切断されている指さえある。
聖都は今、凄まじい殺戮の舞台と化している。
だが、これほどまでに完璧な死に彩られた空間は、おそらく此処だけだろう。
まさしく地獄。まさしく屍山血河。
ギグは傍らの狒狒に称賛の拍手を送る。「さすが斬魔剣術の御当主様だ。まさか人間だけを〈斬術〉で解体すとはな。歴代最強の使い手と目されるだけのことはある」
じろりと、シュラマルはギグを睨めあげる。「貴様、なぜ俺の技を知っている」
「なに、コイツが教えてくれるもんでね」ギグは腰に佩いた二振りの妖刀を右手で示し、「しかし、分からないな」そう云って、再び周囲を見廻す。「どうしてこんな七面倒な真似をする。お前の実力なら、此処等一帯、更地にできるだろ。ご丁寧に建物を避けて人間だけを斬った理由が分からないな」
「技とは、絶えず磨き上げるものだ」暫時の沈黙を挟み、シュラマルは静かに口を開く。「貴様の云う通り、此処等一帯を塵にすることなど、俺には造作もない。だが、それでは芸が無い」シュラマルは自らの掌に視線を落とす。堅く分厚い皮膚。荒々しくも優雅さを秘めた長い指。血、殺戮、共喰いによって鍛え上げられたこの手から繰り出されるは、代々受け継がれし狒狒の技。「斬術の肝は〈気刃〉の繰り方だ。寺院楼閣を避け、刃圏に存する人間のみを、気刃を以って殺戮する。ただ斬っていたのでは、技は停滞する。停滞とは、俺にとってもっとも唾棄すべき物のひとつだ」
「すべては技の為か」
「鍛錬によって技は絶技と成る。そして執念によって、絶技は魔技へと到る」双眸に妖しい光を滲ませ、シュラマルはゆっくりと拳を握る。「俺は当主として、斬魔剣術を魔技の極致へと必ず導く。その為には、一瞬一瞬、すべての刻を鍛錬と見做さねばならん」
「御大層なこったな。おれには理解できないね」
「はなから貴様の理解など求めてはおらん。……それで、俺に何の用だ」
「何の話だ」
「なぜ、俺の元を訪れた」
「特に理由はないな。しいて云えば、巨塔から油を売ってるお前の姿を見かけてね、発破をかけに立ち寄っただけだ」
シュラマルは背後を顧みる。聖都の象徴たる純白の巨塔、その中層部に、亀裂が生じている。北側から西側の壁面が完璧に消滅し、亀裂が生じた地点から上下十層ほどの階層が、完全に裂け目に呑まれている。建造物としての均衡を完全に失ったその有り様は、あたかも切り倒される寸前の巨木を思わせる。「アレは貴様の仕業か」
「噫。なかなか壮観だろ?」
「なぜあの塔は倒れん」
「巨塔の防禦機構は優秀でね、欠損部分は〈空間固定〉によって自動的に補強される。あの程度じゃ、巨塔は倒壊しない。消失魔法技術ってのは本当に素晴らしい技術だよな。特に魔導兵器は人類が生み出した物の中でも最高の発明品だ。対竜魔導砲をあと何門か配備しておくだけでも、聖都はもう少しおれたちに対抗できただろうに、馬鹿な奴等だ。セイリーネスを滅ぼすのはヘル・ペンタグラムじゃない。聖都の敗因は三賢者のトラウマだ。まったく、皮肉な話だと思わないか?」
その言葉には応えず、シュラマルは鋭い眼差しをギグの横顔に注ぐ。勇者から感じる魔力が、聖都落とし前とは明らかに異なっている。元々膨大だった魔力量の嵩がさらに増大し、魔力が内包する神聖属性の密度が、先刻までとは比較にならないほど高まっている。「貴様、先刻とは別人だな。この一刻で何をした」
「別に特別なことはしちゃいない」そう云って、ギグは聖衣の懐から”それ”を取り出す。太陽の如き白熱の刃は見当たらないとはいえ、それは紛れもなく〈聖剣〉。聖剣の柄を指先で弄びながら、ギグはにやりとする。「在るべき物が在るべき者の手の中に還ってきた、ただそれだけのことだ」
「なるほどな。それが本来の貴様と云うわけか」
「その通り。これがおれの真の力だ」
感興を唆られたというように、シュラマルは呟く。「今の貴様を殺すのは、骨が折れそうだ」
「殺す?」ギグは態とらしく驚き、「お前のそういう不遜さは嫌いじゃない。だが、少しは身の程を辨えたらどうだ」嗜虐に、皮肉に、嘲笑に、その口元を歪める。「おれの力量を測れないほど耄碌してるわけじゃないだろ? たかが猿が、噛み付く相手を間違えないことだ。今のおれは”神”だ。お前如きが殺せるなどと、間違っても思い上がるな」
「俺に斬れぬ”魔”は無い」
「今教えてやったろ。もはやおれは魔じゃない。神だ」
「それがどうした」シュラマルは膝上の刀に手を伸ばす。二振りのうち大刀を手に取り、ゆっくりと鯉口を切る。「斬魔剣術において”魔”とは、己以外のすべてだ」鞘から僅かに覗いた刃が妖しい光を帯び、呼応するように、シュラマルの眸が凄絶な殺意に耀く。狒狒の躯から立ち上る鬼気、その研ぎ澄まされた気に、周囲一帯が陽炎のように揺らめく。神をも畏れぬ面魂で、シュラマルはギグを睨める。「もう一度云う。俺に斬れぬ”魔”は、無い」
「なんだ、おれと戦りたいのか?」
「貴様の血肉を糧に、俺の技は更なる高みへと到る」
「オイオイ、少しは肩の力を抜けよ」鬼気迫る狒狒の間合いに、しかしギグは平然と踏み入り、シュラマルの肩に手を掛ける。「云ったろ? ヘル・ペンタグラムにおいて仲間割れは厳禁だ。ルールはしっかり守れ。〈無羅獅鬼鷹〉が欲しいんだろ?」ポンポンと励ますようにその肩を叩き、「そんなにおれと戦りたいなら、いずれ相手をしてやる。だが、今は自分の役割を全うしろ」そしてギグは踵を返す。「せっかくの聖都落としだ。こんな機会は二度とない。他の奴等を見習って、少しは愉しめよ」
勇者の気配が薄れる。跫音が遠ざかる。シュラマルはギグを顧みることなく、ただ遠方を睨み据える。
黒焔。呪い。石化。飆。
響めく阿鼻叫喚に交ざり、ギグの一言が耳朶に谺する。
”少しは愉しめよ”
「無論、そのつもりだ」気怠げに鼻を鳴らし、大刀を膝上に戻す。殺気を解き、肉叢の力を抜き、シュラマルは禅の姿勢を取る。外界を遮断するように瞼を閉じ、一言、黒き修羅は吐き捨てる。「俺が斬るに値する程の相手が顕れればな」




