24 選ばれし者
【24】
最初、歩哨に立っていたふたりの騎士は、その男が逃げてきた聖職者か何かだと思った。
歩哨のふたりは純白の階段を見下ろしていた。とてつもなく巨大な階段だった。横幅は街の一区画が丸々収まりそうなほど広く、その段数は千段を優に越えるほどに長大。純白の床は塵ひとつ見当たらないほどに掃き清められ、表面は鏡の様に磨かれ、陽光を反射するその様は、あたかも光の絨毯のよう。階段の両脇には壮麗な巨大彫像の数々が列なっている。絢爛な衣裳を纏った聖女、胸元で剣を捧げ持つ騎士、怜悧な顔つきで遠方を見据える魔術師──様々な巨大彫像の列は、皆完璧な美貌に彫刻され、また一様にその背に猛禽類を思わせる巨大な翼を広げている。
〈天使〉だ。
この彫像群は天使を象っている。
この階段は〈神への道程〉と呼ばれている。
向かう先はただひとつ。巨塔の正面玄関。
巨塔へ通ずる道は複数ある。消失魔法技術の根付いた聖都だ。昇降機や自動階段の設置された経路も、当然用意されている。だが、登庁する巨塔の官吏や聖都を訪れた各国の要人たちは、嬉々として〈神への道程〉で汗を流すことを選ぶ。巡礼だ。列なる天使たちに見護られながら、千段を越える険しい道程を、強い意志を以って、自らの脚で一段一段登り、信仰の総本山たる巨塔の威容を目指す。これが巡礼でなくなんだとい云うのだ。階段を踏み締める巡礼者たちは肩で息をし、頸筋に汗を滴らせ、しかしその表情は皆一様に霽れやかだ。信者にとって苦しみとは悦びだ。苦痛、苦悶、忍従こそ信仰の本質だ。〈神への道程〉と云う呼び名に偽りはない。この階段そのものが、信仰の有り様を体現している。
そんな道程に、ひとりの男が顕れる。
騎士たちは最初、男が聖職者なのだと思った。男は見慣れた外套を羽織っていた。純白の生地、宗教的意匠の凝らされた装飾、膝下まで届くゆったりとした裾端──男の輪郭は、まさしく〈教会〉の聖職者に酷似していた。『ヘル・ペンタグラムの襲撃から逃れたひとりが、助けを求めて巨塔を目指しているのだろう』立哨であるふたりは、そう思いながら此方に向かってくる男の姿を見下ろした。だが、すぐに違和感を覚えた。男は静かに、鷹揚とした足取りで階段を登っている。急いでいない。焦っていない。命からがら襲撃を逃れてきたにしては、あまりにも落ち着きすぎている。男が近づいてくるにつれ、その装いの異様さも目立ちはじめた。遠眼には聖職者のものだと思われていたローブが、実際は全く異なるものだと気づいたのだ。
純白だと思われていた生地は薄汚れ、膝下までの裾端は永い年月を経てボロボロに擦り切れていた。金糸銀糸によって全体に遇らわれた宗教的装飾はすでに解け、変わりに悍ましい血痕が不気味な紋様をローブに描き出していた。
何よりふたりの騎士の眼を釘付けにしたのは、その異貌だった。
獣の如き蓬髪。皮膚の上をのたくる百足のような縫い跡。そして何ものをも映すことのない、曇った鏡のような、白濁した死者の眸。
およそ聖職者とは思えぬ穢れた装い。およそ人間とは思えぬ”魔”の様相。
戦慄がふたりの背筋を這い上がる。
ふたりは手にしていた警戒喇叭を吹き鳴らそうと吹き口に唇を宛がい、
「敵襲のようですね」
同時に、背後から落ち着き払った低音が響いた。ふたりが振り返ると、そこには厳粛な面持ちの男たちが佇んでいた。数は九人。全員が全員、丁寧な仕立ての白い革鎧に身を包んでいる。短剣、長剣、戦槌、斧槍──身に帯びる得物はひとりひとり異なれど、その場にいる全員が、武器の他に特異な形状の短杖を携えている。先端が釣り鐘のように膨らんだ、金属製の短杖だ。釣り鐘の中心には蒼い魔水晶が埋め込まれ、その周囲を取り囲むように猛禽類の翼の装飾 ──つまりは天使── が彫金されている。この短杖は魔法の杖であると同時に、祭事に用いられる祭具でもあった。
剣と魔法に秀でた聖職者の集団。
セゼル共和国屈指の冒険者パーティ〈聖刃の僕〉。
「異様な気配を察知し駆けつけてみれば、やはり魔物でしたか」落ち着き払った声の持ち主は、長い頭髪を襟元でひとつ結びにした、大柄な男だった。このパーティの隊長だ。隊長は腰から長剣をゆっくりと引き抜き、ふたりの騎士の前に出る。「貴方がたは今すぐに援軍を呼んできてください。それまで、あの魔物は我々が引き受けます」
隊長の言葉に、ふたりは勢いよく巨塔へ向かって駆け出す。
隊長は階段の縁で立ち止まり、背後の仲間たちに声を掛ける。「到頭私たちの信仰の有り様を示す絶好の機会が訪れました。全身全霊を持って、あの魔物を討ち祓いましょう」
仲間たちは頷き、各々得物を抜き放つ。
全員の視線が、眼下の魔物に注がれる。
「見ない顔だな」不意に男の声が〈神の道程〉に響いた。聞く者の耳にこびり付くような、不気味で不快な声だった。男は立ち止まり、小首を傾げる。「てっきり騎士団がおれを出迎えてくれるものとばかり思ってたんだが、当てが外れたな。誰だお前等」
「ほう、言葉を解す程度の知能は持ち合わせているようですね」
「ハハッ、なかなか面白いことを云うな」
「知りたいようだからお教えしましょう。我々の名は〈聖刃の僕〉。セゼル共和国最強の祓魔師です」
「神の奴隷? つまりおれの奴隷ってことか?」
「ふざけたことを」
「ふざけちゃいない。今、お前等が眼の前にしているのは”神”そのものだ」男は心底可笑しそうな嗤い声をあげる。「おれの顔も知らないような奴等が神の熱烈な信徒を気取っているとは、何とも皮肉な話だな」不意に嗤うのを止め、男は歩みを再開する。〈聖刃の僕〉は男に短杖を擬する。先端に、光が収斂する。耀く光魔法の兆しを、しかしまったく意に介さず、男は淡々と階段を登る。白濁した眸に浮かぶのは愉悦、嗜虐、何よりも邪悪。男の口元に、再び嗤いが溢れる。「せっかくだ、おれが誰なのかお前等に教えてやる。その身をもっておれが誰なのかを悟れ」
次の瞬間、〈聖刃の僕〉は武器を取り落とす。
釣り鐘の短杖が大理石にぶつかり、玲瓏な音を響かせる。
彼等は崩れるように膝を折り、階段を登ってくる男の姿を、呆然と見つめる。
刻が止まる。空気が凍る。すべてが固まる。
泪が溢れる。頬が紅潮する。躯が小刻みに慄える。
情緒が壊れる。鼓動が早鐘を打つ。抑えられぬ歓喜に、咆吼めいた叫びが咽喉から迸る。
九人の聖職者は”神”に触れている。
比喩ではない。正真正銘、彼等は”神”に触れている。
魔力だ。男は自身が纏う魔力装甲〈退魔の神聖衣〉を広範囲に展開した。”魔”に属する者であれば触れただけで灼き尽くされる神の魔力はしかし、人間にとっては無上の幸福を齎す神の抱擁となる。今、九人は今まで感じたことのない原初の温かさに包まれている。神の手。神の愛。この男が敵であると、頭では分かっている。聖都に仇なす魔物であると、頭では理解している。しかし彼等の信仰が、本能が、何より魂が、この男が何者なのかを悟った。悟ってしまった。
ゆえに敵意は挫かれた。戦意は完全に消失した。自分たちは、何と愚かな振る舞いをしてしまったのだろう。九人は洟を啜り、慄える両手を組み合わせ、悔いるように頭を垂れる。男の言葉に偽りはなかった。この男は、いや、この御方は、間違いなく、間違いなく──
無様に跪く人間たちの前で、男は腰から一本の剣を抜き放つ。
それは到底、剣とは呼べない代物だった。柄は無く、鍔も無く、そして刃すら無い。頭足類の触手のように不気味に蠢く、不定形の闇。いや、違う。闇ではない。それは”影”だ。男が右手で握っているのは”影の剣”だ。
男は”影の剣”から手を離す。
”影の剣”は男の足下から伸びる男自身の影に、落下する。
ずぷりと、剣が男の影に沈み込む。
次に起こった出来事を、〈聖刃の僕〉は呆然と眺めた。
そして、諦念と共に受け入れた。
この御方は、選ばれし者。
この御方は、神そのもの。
この御方が自分たちにそれを望むのであれば、我々はその運命を、粛々と受け入れねばならない。
〈聖刃の僕〉は、ゆっくりと男を見つめた。
「起きろよ、〈影獸〉ども」
男の背後から”影”が迫り出した。影は蠢き、盛り上がり、男の身長を追い抜き、凄まじい速度で成長していく。瞬く間に、影は小山ほどの大きさにまで達する。同時に、耳を覆いたくなるような不気味な音が周囲を席巻する。声だ。唸り、哮り、咆号する魔物どもの大合唱が、影の小山から鳴り響く。
すべてが、魔物だった。
小山だと思われていたものは、闇の如く黒い、異形の魔物の群れだった。
「最近退屈だったろ? 久々に暴れさせてやる」そうして男は、影の獸に向かって愉しそうに命じる。「まずは露払いだ。巨塔周辺の人間を片っ端から喰い殺せ」
ギグは巨塔に向かって歩いて行く。周囲には夥しい数の屍体が転がっている。銀鎧。純白の外套。教会の祭服。貴族の礼装。転がる屍体の種類は様々なれど、そのすべてが一様に鮮血に塗れ、四肢は千切られ、全身は無残に引き裂かれ、臓物を晒している。そしてそのすべてに、魔物たちが群がっている。
凶剣が一本。〈影獸の奴隷剣〉。
形状を持たぬ影の剣。物理的な刃を持たぬこの剣に、剣戟としての使い道は欠片もない。だが、すべての凶剣がそうであるように、この剣もかつての四大魔神を象徴する能力を内包している。
奴隷剣の能力は、召喚。
この剣は〈影獸〉と呼ばれる魔物の群れを異界より喚び出すことが出来る。漆黒の体毛に包まれた、不気味な豺狼の魔物。その名が示すとおり、この魔物は使用者の影を媒体に召喚される。使用者の魔力保有量に応じて、召喚することのできる影獸の数は増していく。〈勇者〉とは神と繋がる者。神の魔力保有量は甚大。ゆえにギグは、ほぼ無尽蔵にこの獸を使役することが出来る。一匹一匹の戦闘能力は大したものではない。せいぜいが上級吸血鬼に毛が生えた程度の存在。しかし、その数が無限の群れともなれば、その脅威度は格段に跳ね上がる。質より量。物量による圧殺。いくら退けようとも、使用者の影から無尽蔵に湧き出してくる魔の軍団。〈影獸の奴隷剣〉とは、まさに数の暴力の体現。
影獸の群れは獲物を貪るのを止め、ギグを見つめる。
そして、身を退く。
漆黒の影に彩られた花道が、巨塔正面玄関に向かって出来上がる。
満足げに頷き、ギグはその道を進む。
忠実な従者のように、その背に影獸の群れが追随する。
正面玄関に足をかけたところで、不意にギグは立ち止まる。
「鬱陶しいな」気怠げに呟き、勇者は振り返る。巨塔周辺の建造物は、そのほとんどが影獸の波濤に呑まれ崩潰した。背後に広がるのは瓦礫と砂礫、そして堆く積み上げられた屍体。そんな惨状の一角、交差するように重なり合った瓦礫の隙間に、白濁した双眸が据えられる。「誰だか知らないが、狐鼠狐鼠おれを盗み見るなよ。不愉快だ」
瞬間、ギグの視線の先が、白く爆ぜる。
瓦礫の隙間から、白い煙が立ち上る。
”魔”の消滅反応。影に潜んでいた”何か”が、神の魔力によって灼き尽くされた。
正面玄関の自動開閉式扉が左右に開閉する。玄関を潜りながら、ギグは監視者を嘲るように大口を開けて嗤う。「そんなにおれに興味があるなら直接出向いてこい。相手をしてやる。まあ、そんな度胸があればの話だけどな」
クシャルネディアは眼元を押さえる。指先が血にぬるつく。皮膚が灼け爛れている。魔の貴顕を象徴する蒼眼が、片方は潰れ、片方は破裂している。眼窩から水蒸気のような白い煙が立ち上る。眼元が、わずかに疼く。刺激。痛み。摩滅したはずの感覚に、クシャルネディアは苦笑する。「油断したわ」
そう呟いた時には、すでにクシャルネディアの傷は再生していた。糜爛した皮膚も、破裂した眼球も、すべて元通りだ。
「まったく、厄介な性質ね」
眼前を漂う白い煙を右手で振り払いながら、クシャルネディアは嘆息する。
眼元は完璧に再生した。傷を負った痕跡は見当たらない。だが、”時間回帰”に分類される始祖の超速再生、その能力始動が、わずかとはいえ遅れた。
獄炎の魔女捜索の為に、クシャルネディアは〈闇潜み〉によって拡散した奴隷の”眼”を使って、聖都全域を監視していた。その折りに、あの男を見つけた。興味が湧いた。神に選ばれておきながら、逆五芒星を率いる破綻者。どのような男なのか、好奇心が掻き立てられた。一体の奴隷を、勇者に張り付かせた。すでに聖都は超越魔物が野放図に発散する魔力によって混沌と化している。斯様な状況下では第六感による魔力探知はまともに機能しない。まして彼女の奴隷は影の奥深くに潜んでいる。気取られるはずがない。
だが、気づかれた。
おそらく、勇者が使用した凶剣が原因だろう。影を媒介とした召喚術。影を使用する魔法には、ほぼ例外なく〈闇潜み〉の効果が含まれる。ゆえに気づかれた。そしてこちらの存在を捕捉され、影を介する形で神の魔力を流し込まれた。
「あれが〈勇者〉」完璧に再生した目元を撫でながら、クシャルネディアは呟く。「色々と噂は聞いていたけれど、想像以上の力だわ。確かに私たち”魔”にとって、あの男は天敵ね」
*****
くぐもった悲鳴が谺する。助けを求める人々の叫びが、扉の向こうから響いてくる。議員たちは蒼褪めた顔色で、神の代理人議場の自動開閉式扉を凝視している。誰ひとり身動ぎしない。誰ひとり視線を逸らさない。空気が重い。恐怖が充満している。議員たちの頸筋を冷や汗が伝う。歯が鳴る。背筋が慄える。扉の向こうの悲鳴が烈しさを増す。絶叫が渦を巻く。
それだけではない。人々の悲鳴に混じり、肉を喰む音、血を啜る音、骨を砕く音……そして大量の”何か”が蠢く音が、議員たちの鼓膜を震わせる。議員たちは指を組み合わせ、加護の聖句を呟き、固く閉ざされた扉を、固唾を呑んで見守る。
三賢者だけが落ち着いている。厳粛な面持ちで、三人はその男が訪れるのを待っている。
三人は蠢く”何か”の正体に気づいている。
唸り、哮り、響き渡る魔の咆号。
影だ。影の獸だ。その群れだ。
あの獸どもを従えることの出来る存在は、この世界にただひとり。
ドシンと、大きな音が扉を震わせる。幾人かの議員が、怯えた声を出す。ドシンと、再び衝撃が扉を襲う。矢継ぎ早に連続して襲い来る衝撃の数々。巨塔内部の扉には対物理、対魔術に特化した魔方陣が塗装されている。さらに聖都襲撃と同時に巨塔の防御機構が発動し、代理人議場の自動開閉式扉は完璧にロックされた。今や議場の扉は、あらゆる衝撃に耐性を持つ、鉄壁の要塞と化した。
だが、こんなものは所詮、時間稼ぎに過ぎない。
扉の向こうにいるのは、凶剣によって産み出された魔物の群れ、それも無限の群れだ。
あと数秒もすれば、この扉は……
ガキンと、金属質な高音が鳴り響いた。
両開きの扉の合わせ目から、鋭い爪が飛び出す。
そこから先の展開は、あまりに呆気ないものだった。合わせ目のあらゆる場所から無数の爪が次々と飛び出し、両開きの扉を、強引に押し広げていく。僅かな亀裂から決壊する堤防そのものだった。魔物と云う激流に襲い掛かられ、圧倒され、脆くも崩れ去る堤防。開け放たれた扉から、魔物の群れが代理人議場へと傾れ込む。
議員たちは悲鳴を上げながら逃げ惑う。とはいえ、逃げ場などあるはずがない。少しでも魔物から距離を取ろうと彼等は壁際に駆け寄り、無意味と知りながら一縷の望みに賭け、加護の聖句を大声で暗唱する。あるいは懐から短杖を取り出し、弱々しく構える。または、慄える指先で腰から剣を抜き放つ。
黒い激流は止まるところを知らない。
縺れ、絡まり、折り重なりながら、影獸の群れが議場内を満たしていく。
そんな状況下にあって、いまだ三賢者は自らの議席に着座している。
あの男の性格を、三人は熟知している。
残忍、嗜虐、愉快犯。つまりは邪悪。
簡単に殺すわけがない。あの男が趣向も凝らさず、配下の魔物に手を委ねるとは、到底思えない。
三人の考えは正しかった。議場を満たす魔物たちは唸り、吼え、牙を向き……しかし一向に、眼前の獲物に向かって飛び掛からない。涎を垂らし、顎を打ち鳴らし、眸を血走らせ、それでも影の獸たちは、主に忠実な飼い犬のように、残忍な欲求を抑え込んでいる。
「此処に来るのは何年ぶりだろうな」声が、聞こえた。三賢者の鼓動が跳ね上がる。議員たちの視線が入り口に集中する。扉周辺に群れていた獸たちが従順に傍へ退く。「どうした、お前等の勇者の御帰還だぞ。もう少し嬉しそうにしたらどうなんだ」背後に影を従えた男が、ゆっくりと姿を顕す。正面の老者たちに白濁した眸を向け、男は邪な嗤いを浮かべる。「よう、久しぶりだな賢者ども。おれに会えなくて寂しかったか?」
「よもや貴様の顔を拝む日が、再び訪れようとはな」三人を代表するように、ロイタードが口を開く。「どこまで神を冒涜すれば気が済むというのだ、ギグ」
「云い掛かりはよせ。おれを選んだのは神だろ。あるいは、おれが神を選んだのか?」
「言葉を慎みなさいッ」必死の形相で、イザベルがギグを睨みつける。「いくら勇者といえど、貴方の発言はあまりに礼節を欠いていますッ なぜ貴方はそうまでして神を蔑するのですッ! 一体、何の恨みがあるというのですかッ!」
「礼儀もクソもないだろ。神は白痴だ」
「貴様ッ」堪えきれぬというようにシュルツがあげた怒声を、
「事実だろ」冷ややかに、ギグは遮る。「お前等だって知ってるはずだ、今の神がどういう状態なのか。あれが白痴でなくて何なんだ。いや、実際にはさらに悪いか」嘲るように唇を吊り上げ、ギグは怒りに戦慄く三賢者を見つめる。「千二百年前、神魔戦争において黒竜に敗れた神は、自らの肉体と自我を代償に、黒竜を永遠の牢獄に閉じ込めた。同時に、神は自らの魔力を次元の狭間へと隔離した」なぜ、神がそのような処置を施したのかは判然としていない。自らの魔力が悪用されることを警戒したのか、あるいは自身の膨大な魔力が世界に及ぼすであろう影響を懸念したのか。何にせよ、現在神聖都市国家セイリーネスが”神”と呼称する存在の正体、それは、
「魔力貯蔵庫だ」
粗雑に、あたかも当然のことのように、ギグは軽々と云ってのける。
「神とはおれの為の魔力貯蔵庫だ」
そしてにやりと嗤い、
「というわけで、返して貰おうか、貯蔵庫の”鍵”を」
黒竜の封印、魔力の隔離、そしてもうひとつ、神は死の寸前に比類なき恩寵を、眷属たる天使たちに施した。
それが”鍵”だ。
神の魔力へと接続することのできる、一本の”鍵”。
「来い、〈聖剣〉」
議場が、烈しく揺れ動いた。足下から、低くくぐもった轟音が鳴り響く。凄まじい衝撃が、床面を通して、断続的に議員たちを突き上げる。
それが、此方に向かって来ている。
神の代理人議場直下の巨塔地下層から、間を隔てる階層を強引に貫き、この議場に向かって、それが一直線に向かって来ている。そして一際凄まじい轟音、震動、衝撃が床面を襲い、
ギグの足下の床面が炸裂した。白大理石の砂礫が間欠泉のように円天井目掛け噴き上がる。
つかの間、粉塵に議場内は煙る。
次の瞬間、眩い魔力の拍動によって、砂埃は振り払われる。
ギグの正面、胸元あたりに、一本の剣が浮かんでいる。
議員たちは恐怖も忘れ、その剣を呆然と見つめた。
〈神〉。
彼等の胸中に、その一言が浮かび上がった。白熱した太陽の如き〈聖剣〉。そのあまりの耀きに、神々しさに、あたかも聖剣の浮かぶ空間が、剣の形に消失してしまったかのよう。聖剣の耀きは太陽に匹敵する。そのような光輝を直視し続けては、人間の眼など簡単に潰れてしまう。しかし議員たちは忘我の表情で、聖剣を見つめ続ける。三賢者でさえ、眼を離すことが出来ない。
その聖剣に、継ぎ接ぎだらけの手が伸びる。
「ようやく帰ってきたな」聖剣を掴み取り、ギグは三賢者に嗤いかける。「お前等がどれだけおれを嫌おうと、否定しようと、聖剣はおれのものだ。おれこそが選ばれし者、おれこそが〈勇者〉なんだよ」
「そうか……その為にわざわざ此処を訪れたのだな」毅然とした眼差しで、ロイタードはギグを睨みつける。勇者と聖剣は神の魔力により繋がっている。聖都の結界を消し去ったことから分かるように、距離が隔たっていようとも、魔力の共鳴範囲であれば、遠隔での操作が可能だ。そしてある程度の範囲であれば、勇者は聖剣を呼び寄せることが出来る。ギグは巨塔に来る必要など無かった。ただ、呼べば済んだ話なのだ。
それなのに、ギグは巨塔を訪れた。議場にわざわざ足を運び、代理人の前で、三賢者の目の前で、聖剣を掴み取った。
「殺す為か」険しい表情で、ロイタードは声を絞り出す。「聖剣で我々を殺す為に、此処を訪れたのだな」
その言葉を聞き、ギグは満足げに頷いた。「神の代理人が神の剣によって裁きを下される。実におれ好みな皮肉だと思わないか? 聖剣に殺されるんだ、お前等だって満更でもないんじゃないか?」
「神がなぜ貴様を選んだのか、それだけが今も分からない」
「云ったろ、神は白痴だ。理由を求めた所で無駄だ」ゆっくりと、ギグは聖剣を掲げる。白熱した刃が、さらなる耀きを帯びる。「あるいは、何か考えがあるのかも知れない。おれたちには計り知れない、崇高な神の計画がこの後に控えているのかも知れない。まあ、たとえそうだったとしても、これから死ぬお前等には関係ないことだけどな」
ロイタードはゆっくりと眼を瞑った。
戦意は、すでにない。戦ったところで、結果は知れている。
神は勇者に無類の盾と矛を与えた。
盾については、今さら説明するまでもないだろう。三百年間聖都を護り続け、先刻対竜魔導砲を完璧に禦ぎ切った難攻不落の絶対防禦〈神聖魔防壁〉。そして矛は、今ギグが高々と掲げている。神聖属性の性質は、あらゆる魔力の相殺。当然、その性質は防禦だけではなく攻撃にも活用される。神聖魔防壁がそうであるように、ギグの右手で燦然と耀く〈聖剣〉は、あらゆる魔力を乱し、中和し、相殺する。三賢者は比類無き実力を誇る魔導師だ。聖都における結界術の最高の使い手がシャルルアーサであることに疑いの余地はないが、しかしだからといって三人の結界術が劣っているというわけでは断じてない。必要とあらば、彼等はその場にいる全議員を最高硬度の結界で、個別に護ることすら可能だ。しかし、三人はそうしない。”乱し、中和し、相殺する”。聖剣は、あらゆる防禦魔法を、無条件に貫通する。勇者の振り下ろす一撃を禦ぐ手立ては、ない。
それでも戦うことはできる。たとえ攻撃が届かないのだとしても、たとえ防禦が無意味なのだとしても、死がその喉笛を喰い破る最後の瞬間まで、足搔くことは出来る。
だが、三賢者はそうしない。彼等は戦わない。立ち上がらず、懐から短杖を取り出さすこともなく、魔力を練り上げることさえしない。
三人は、折れてしまった。聖都の為、住民の為、何より神の為に、三人はなんとか自らを鼓舞してきた。議員全員の意志が砕け散ろうと、彼等だけは不屈の闘志をもって、その心を支えてきた。
だが、その闘志も、聖剣を掲げるギグの姿を目の辺りにし、完膚なきまでに砕け散ってしまった。
何という気高さ。何という神々しさ。
眼前にいるのは、紛うことなき〈勇者〉。
ロイタードの眦から、一筋の泪が溢れる。
神は、この男を選ばれた。
我々ではなく、邪悪なるこの男を。
「それじゃあな、ロイタード」シュルツ、イザベルと名を続け、ギグは舌を出す。闇。冒涜。魔の刻印。「あの世で神に会う機会があったら、おれがよろしく云ってたと伝えておいてくれ」




