23 開幕
【23】
「オイオイ、冗談じゃねぇぞ」
アニーシャルカはそう吐き捨て、腰の得物に手を掛ける。
上空から、次々に”魔”が落下してくる。
地獄に堕つ五芒星の襲撃の可能性については、すでにヴォルフラムから聞かされていた。その言葉をアニーシャルカは信じた。古来より予言者と敬われてきた精霊使いではあるが、しかし遠視の精度は完璧ではない。山の民が雲の流れから雨を知るように、海の民が風の匂いから波を読むように、精霊使いは精霊の挙動から少し先の未来を推し測る。確度は高いが、見誤ることは当然ある。だが、アニーシャルカの眼前に立ちはだかったヴォルフラムの様子、その顔つきは、尋常なものではなかった。
国や種族は違えど、この男は自分と同じ歴戦の猛者。
『間違いない』真剣な眼つきで、ヴォルフラムは静かに告げる。『ヘル・ペンタグラムの襲撃は、今日だ』
ゆえにアニーシャルカ一行は、騎士団兵舎へと戻ろうと人波を掻き分けていた。
そんな矢先に、その瞬間が訪れてしまった。
天を覆う漣。蒼穹の亀裂。悍ましい魔力。開かれた廻廊。超越魔物の集団。粉々に砕け散った神の結界。同時に、瞬く蒼い閃光。轟音。突風。震動。そして上空を灼き尽くす蒼い爆焔。……あまりの出来事に、一行はその場に立ち尽くし、頭上に広がる光景を、ただひたすらに受け入れることしか出来なかった。
呆然と空を見上げる一行の胸中に、徐々にある感情が湧き上がってきた。
希望だ。
空を呑み込んだ大爆発、それは間違いなくセイリーネスによる迎撃だった。どのような手を使ったのか知らないが、いまだ頭上で燃え盛る爆焰の威力には、凄まじいものがあった。このような一撃が直撃したとあっては、いくら超越魔物と云えど、無事では済むまい。
自分たちは聖都を見くびっていたのかもしれない。
希望が、膨らむ。
此処は聖都。三百余年もの間、一切の魔物を寄せつけなかった神の国なのだ。神聖都市国家セイリーネスを前にすれば、いくらヘル・ペンタグラムと云えど、一介の魔物集団に過ぎない。
自分たちは警戒しすぎていた、心配しすぎていたのかもしれない。
聖都ならば、勝てる。神聖都市国家セイリーネスならば、ヘル・ペンタグラムに打ち勝つことが出来る。
アニーシャルカが、ロイクが、ツァギールが……ヴォルフラムが、ディアナが、レオパルドが、オーギュスタが……そして何より、聖都で上空を見上げていたすべての人間たちが、その胸中に確かな希望を抱いた。
火勢が弱まる。魔力残滓の混じった煙が、風に押し流される。蒼い爆焔が、霽れ渡る。
上空を見上げていたすべての人間が、予想外の光景に言葉を失った。
依然、亀裂に佇む十体の魔物。その全員が無傷。
聖都上空に、哄笑が響き渡った。
次の瞬間、亀裂から魔物たちが次々に飛び出してきた。
ある者は鷲の翼を羽撃かせ、ある者は巨大な尾を振り乱し、ある者は異形の長杖を手に、ある者は巨刃を肩に担ぎ、ある者は六本の腕を大きく広げ、ある者は漆黒の外套をはためかせ、ある者は長い腕を刀の柄頭に置き……そして最後のひとりは、血と瘴気に塗れた聖衣を翻し、その身を宙に投じる。
獅鷲。九尾。魔女。魔人。悪魔。死霊。狒狒。勇者。
十体の”魔”が、聖都に落下してくる。
「オイオイ、冗談じゃねぇぞ」
忌々しげに吐き捨て、アニーシャルカは二本の斧刀を勢いよく引き抜く。手、耳、頸元を飾る装身具に魔力が集中する。赤茶けた断髪のほつれ毛が逆立ち、蒼い火花が周囲で爆ぜ、両手に握る小振りな刃が蒼雷を纏う。
一瞬のうちにアニーシャルカは臨戦態勢を整える。
彼女の背後にいる面々も同様だ。ロイクは無駄のない動作で腰を落とし、背の大剣に手を掛ける。ツァギールは猟犬の双眸に冷酷な光を湛え、腰の湾曲剣を抜き放つ。レオパルドは獰猛な唸りと共に幅広剣を手に取り、オーギュスタは魔力を練りながら長杖を握り締める。ディアナは素速く短槍と長槍を交差するように構え、そしてヴォルフラムは煙草を放り捨て、周囲の精霊を術式剣、その刃に集中させる。
緊張に顔面を強張らせ、一行は落下してくる魔物を眼で追う。
一塊を成していた魔物たちは地上が近づくにつれ、思い思いの方向へと散らばっていく。
西部の〈商業区〉に、南部の〈居住区〉に、東部の〈工業区〉に、北部の〈特別区〉に……そして七人のいるル・シャイル広場上空に、ひとつの影が迫る。
アニーシャルカの背筋を悪寒が這い上がる。
悍ましい魔力が近づいてくる。
血の匂い漂う祖なる血魔の黒い魔力とも、背筋を氷らせる魔人の冷たい魔力とも異なる、巨大な舌で全身を舐め上げられているかのような、これまで遭遇したどの超越魔物とも違う、生理的嫌悪感を掻き立てる魔力が近づいてくる。アニーシャルカは迫り来る魔物が、少なくとも悍ましさという一点においてクシャルネディアやザラチェンコをも凌駕していると確信する。
彼女は斧刀を強く握り締め、敵の正体を見定めようと影を待ち受ける。
だが、アニーシャルカが魔物の姿を拝むことはなかった。
彼女だけではない。ロイクも、ツァギールも、紅い羽根の面々も、そして広場で凍りついたように頭上を見上げている聖都の住民たちも、その魔物の姿を垣間見ることは叶わなかった。
「イイねぇ、人間がウジャウジャいるや」
不気味な声が響いたと同時に、
「安心しなよ。皆仲良く僕の蠱毒の苗床にしてあげるから」
ル・シャイル広場上空を覆い尽くすように、見るも悍ましい
〈呪い〉が噴き出した。
獅子鷲の三兄弟は聖都上空を凄まじい速度で駆け抜ける。
三兄弟は猛っている。末弟のマシュズは牙を剥き、次兄のバズロは凶暴な嗤いを浮かべ、長兄のズグは猛禽の瞳に鋭い殺意を光らせる。身の丈の二、三倍はあろうかという巨大な鷲の翼を羽撃かせ、彼等は”獲物”へと急接近していく。
三兄弟の目的は人界の転覆。つまり聖都の完膚なきまでの陥落。
その為に必要なのは、圧倒的な破壊と殺戮。
故に彼等は、まず眼についた人間どもを皆殺しにすることに決めた。
三兄弟の瞳に映るのは、聖都上空に展開された馬群の影。
セイリーネス神聖騎士団の翼馬部隊だ。
ヘル・ペンタグラムの侵寇とほぼ同時に、翼馬部隊も進軍を開始した。
翼馬に騎乗する騎士たちは鎧の着用も佩剣もしていない。彼等は剣を振るわない。身に帯びるのは騎士団の紋章をあしらった白い魔術師外套と、純白の短杖。空中戦とはすなわち、魔術戦。馬上の騎士たちは、敵を迎え撃つ為に魔力を練り上げる。騎士たちは翼馬の脇腹を蹴立て、魔物たちに向かって突き進む。
勿論、恐怖はある。対竜魔導砲を退け、神の結界を打ち砕いた敵を前に、恐れを抱くなと云うほうが無理からぬ話だ。
だが、騎士たちの誰ひとりとして、絶望はしていない。
侵入を赦したとはいえ、聖都にはまだ我々がいる。
聖騎士様と堕天使様を擁する、セイリーネス神聖騎士団がいるのだ。セイリーネスの住人にとって、信仰とは空気や水以上に馴染み深いものだ。神への献身は、聖都の民にとって躯の一部と云って過言ではない。そしてそんな中でもとりわけ強く、篤く、また熱い信仰を胸に燃やした信者たちが聖職者と騎士団への道を歩み始める。
ゆえに彼等は突き進むのだ。
人々の為に、聖都の為に、何より神の為に。
「ゆくぞッ、皆の者ッ!」
先陣を切るひとりの騎士が、叫ぶ。絢爛な装飾の施されたローブ、右肩には肩章。部隊を仕切る士官騎士だ。
士官騎士は腕を振りあげる。「構えッ!」
命令に、馬上の騎士たちは雄叫びで応え、短杖を前方へと突き出す。
杖の先端が、光輝く。
此方に迫る三体の魔物を十分に引きつけ、狙いを定め、射程圏内に入った瞬間、
「撃てッ!」
号令と共に、全員の短杖から魔法が放たれる。
中位光魔法〈聖なる遠矢〉。
無数の光の矢が、蒼穹に光帯を描く。
光の矢が標的に着弾する前に、すでに部隊は魔力を練り直し、二撃目を放っている。
超越魔物を前に臆さず立ち向かっていく騎士たちの勇気は、称賛に値する。馬を駆り敵に立ち向かっていくその勇姿は、間違いなく模範的な騎士団そのものだ。だが、彼等は思い違いをしている。彼等が臆していないのは勇気がゆえではない。彼等が恐れをなしていないのは、絶望していないのは、彼等の胸中で燃え上がる信仰心がゆえでは断じてない。彼等は超越魔物を知らない。その力量をまるで分かっていない。結局の所騎士団の勇敢さは、無知がゆえに過ぎない。
獅子鷲は動きを止める。
凄まじい速度で飛来する無数の光の矢。
だが、三兄弟に動じた気配は欠片もない。
「来い」
ズグが命じた瞬間、爆発的な暴風が周囲に吹き荒れる。気象を無視した不可解な飆の正体は、超高密度の精霊だ。風の化身の異名に偽りはない。獅子鷲の征く所、その地の精霊は王の前に平伏す。いまや聖都上空の精霊という精霊は、三兄弟の支配下だ。
ゆっくりと、ズグが右腕を馬群に向ける。
兄に倣い、ふたりの弟も腕を構える。
三兄弟の掌に、精霊が収斂していく。
吹き荒れる三つの飆。
「始めるぞ」牙を剥き出し、ズグは吼える。「皆殺しだ」
そして聖都の空が、風の刃に切断される。
「アハハッ、最高の眺めッ」
高らかに哄笑しながらジュリアーヌは身を反らす。
頭上から”死”が降ってくる。
上位風魔法〈烈風の千刃〉。
獅子鷲の三兄弟が放った魔の法則によって、騎士団の翼馬部隊、その戦陣は、瞬く間に崩潰した。空を駆けていた馬群はゆうに千を越えるだろう風の刃を前に、為す術もなく解体された。
ゆえに死の雨が降る。
人間の四肢が、頭部が、胴体が。翼馬の頸が、臀部が、大きな翼が。そして何より血が、骨が、臓物が……斬殺された人馬の屍体が、混ざり合い、絡まり合い、見るも悍ましい死の雨となって聖都に降り注ぐ。
その雨の中を、ジュリアーヌを背に乗せた夜の大鴉が飛んでいる。
ジュリアーヌは身を反らし、両腕を大きく広げ、降り注ぐ死の雨を全身で受け止める。
肌を伝うぬるま湯のような脂血。髪や外套に絡まる、細切れになった肉片。視界は血霧に煙り、鼻孔は鉄錆に犯され、全身が”死”に穢されていく。
懐かしい感覚。久しぶりの感覚。
新たな魔術を生み出す為に、何より自らを〈魔〉へ転化する為に、ジュリアーヌはこれまで数え切れない程の人体実験を行ってきた。実験の度に、彼女は輝いた。皮を剥ぐ度に、肉を削ぐ度に、生きたまま腑分けする度に、彼女の顔は玩具を与えられた子供のように、生き生きと輝いた。
ジュリアーヌは殺しが好きだ。血肉に塗れるのが好きだ。
下方で、橙色の光が瞬いた。
危機を察知し、大鴉は急旋回する。
橙色の光線が、大鴉の風切り羽を掠めた。
羽毛の焦げる匂い。頬を掠める熱。焔だ。焔の光線だ。
「この魔法って」ジュリアーヌは傍らを通り抜けた光線を尻目に、にやりと嗤う。「なに、もしかして同郷?」
下方でまたもや光が瞬く。方角は南方。聖都を囲う二重城壁、その内城壁の屋上部だ。今回は数が多い。確実に大鴉を仕留めるべく、幾本もの光線が、散弾のように一斉に撃ち出された。
矢継ぎ早に襲い来る光線は、しかし今回は掠りもしない。ゼルジー大森林での魔獣狩り戦にジュリアーヌが夜の大鴉を投入したことからも分かるように、この使い魔の最大の特徴は、その飛翔能力の高さだ。奇襲ならばまだしも、警戒態勢の大鴉を正面から捉えることは、まずもって不可能。縦横無尽に光線を避けながら、大鴉は急降下を開始する。傍らを通り過ぎる焔の軌跡は、ジュリアーヌには馴染み深いものだ。焔を収斂し一点から撃ち出す事で破壊力を飛躍的に向上させる中位焔魔法〈焔の流星〉。その流星を散弾のように撃ち出し広範囲を攻撃する上位焔魔法〈流星群〉。
どちらも、ジュリアーヌが考案した魔法だ。
瞬く間に城壁に到達した大鴉は、その場で滞空する。
ジュリアーヌは立ち上がり、眼下の人間たちを見下ろす。
城壁上には、銀鎧を着用した騎士団、白い外衣を羽織った賢者院の魔術師たち、そして黒い外套に身を包んだ”魔女”たちが、短杖と長杖を構えこちらを見上げていた。
ジュリアーヌの口元がゆっくりと吊り上がる。
魔女たちの黒い外套、頸元や手頸を飾る装身具、何より彼女たちの手にする魔術の杖は、間違いなくシュラメール魔術王国の手による物。
「〈血の魔女たち〉」愉しげに、ジュリアーヌは手を振る。「まさかこんな所でアタシの後輩たちに出会えるなんて思ってなかったわ」
顕れた魔物を前に、血の魔女たちは息を呑む。
シュラメール魔術王国において、その魔導師の名を知らぬ者はひとりとして存在しない。ましてや〈六星〉と双璧を為すシュラメールの実働部隊〈血の魔女たち〉だ。彼女たちがこの女の姿を ──たとえそれが人馬の脂血に塗れていようと── 見誤るなどあり得ない。
「……獄炎の魔女」内のひとりが、ぽつりとその異名を溢す。上空を飛翔する魔物への迎撃が、まさかこの魔女を呼び寄せることになるとは夢にも思っていなかった。杖を構える彼女たちの手が、慄える。引き結んだ唇の内側で、歯の根が合わない。もとより死を覚悟の出征だ。戦いの中で死ぬことに恐怖はない、たとえ相手が超越魔物であろうと、聖都の為に駆けつけた自分たちが敵を恐れるなどあり得ない。
だが、シュラメール魔術王国において、獄炎の魔女の名は恐怖の対象以外の何ものでもない。聖騎士や堕天使の偉業を聞いて育ってきたのと同じように、魔術王国の人々は獄炎の魔女の悪逆の数々を教えられて育ってきたのだ。
幼少より刻み込まれた恐怖に、血の魔女たちは躯が慄えるのを抑えられない。
そして、その反応は正しい。
「せっかく後輩に出会えたんだし、アタシ自ら相手をしてあげなきゃね」
足下に置かれていた異形の杖が、ふわりと浮き上がる。
その杖を、ジュリアーヌは右手で掴み取る。
瞬間、黒い焔が彼女の周囲で渦を巻く。
圧倒的な熱量に、周辺一帯の空気が歪に揺らぐ。魔女を覆っていた脂血が一瞬で蒸発する。外套にこびりついていた細切れの肉片と臓物が、パチパチと爆ぜながら溶けていく。死肉という仮面から、残酷な美貌が顕れる。紫の頭髪。猛禽類の眸。そして右半顔に刻み込まれた逆五芒星。
異形の杖の先端で、黒焔が烈しく燃え上がる。
抑えきれぬ悦びに、魔女は微笑む。
餓えた獣が獲物を前にした時のように、舌なめずりをする。
彼女は殺しが好きだ、血に塗れるのが好きだ。
そして、何より。
「焔の中で踊り狂って、せいぜいアタシを満足させて」
ジュリアーヌは生命が灼け爛れる光景が、たまらなく大好きだ。
眼前に広がる光景を前に、騎士団は呆然と立ち尽くしていた。
彼等がいるのは〈聖シャレル大通り〉だった。敷き詰められた純白の石畳、二、三十人は軽々と並ぶことの出来る道幅、整然と建ち並ぶ様々な商業施設──セイリーネス西部に広がる〈商業区〉、その中でも一際繁華なこの区画は、一年を通して人々で賑わう西部の中心地──まして今日は建国記念日だ。朝早くから聖シャレル大通りでは盛大な祝宴が催され、大勢の人々が足を運び、大通りは例年には及ばぬまでも、戦時下とは思えぬ盛り上がりを見せていた。
そう、そのはずだった。
騎士団は、呆然と眼前の光景を見つめた。
あまりのことに、理解が追いつかなかった。
覚悟はしていた。屍山血河の如き光景を、騎士団は覚悟していたのだ。
しかし、今眼の前に広がっている光景は、あまりにも……
上空の亀裂より顕れた魔物、その内の一体が聖シャレル大通りに迫っている──望楼の監視兵より一報を受け取った西部拠点の騎士団は、すぐさま大通りに馳せ参じた。部隊の規模は二個小隊、人数は約六十名。超越魔物を相手取るには些か ──というよりは、圧倒的に── 人員が不足している。だが、仕方のないことだった。〈魔の廻廊〉が蒼穹でその大口を開いた瞬間から、セイリーネス神聖騎士団は、馬車馬の如き奔走を余儀なくされた。住民の避難、魔物の迎撃、巨塔の防衛……やるべき事は無数にあり、そのどれ一つとして欠けることは赦されない。混乱と恐慌の渦巻く聖都各地を、騎士団は文字通り馬車馬の如く駆けずり廻っていた。
西部拠点には、人員は彼等しか残されていなかった。
だが、聖シャレル大通りに最も近い騎士団支部はこの西部拠点だ。人数など関係ない。人命の為、神の為、彼等は身命を賭して魔物と戦う。それに、彼等は恐れていなかった。伝令は、各地の部隊にも伝わっている。刻と共に、続々と大通りに大部隊が到着するはずだ。それまでの間、持ちこたえればそれでいい。
こちらには六十名いる。その全員が、何れも剣術に秀でた精鋭。
大丈夫だ。自分たちならば持ちこたえることが出来る。
小隊の全員が、そう思っていた。
「一体、これは……」
部隊長の騎士が、愕然と呟いた。
小隊の全員が同じ気持ちだった。
屍山血河など、何処にも見当たらなかった。
屍ひとつ、血の一滴さえ、此処には存在しない。
眼に映る全てが、色を失っていた。
純白だった建物は生気を失ったようにくすみ、整然と敷き詰められていた石畳は脆くもひび割れ、大通りの至る所に、薄霧のような砂埃が漂っている。
だが、彼等をもっとも驚愕させたのは、何よりも”人”だ。大通りを埋め尽くす”人々”の姿だ。何かから逃げるように駆けている男、助けを求めるように手を差し伸べる女、恐怖に顔を歪め泣き喚く子供、懸命に路面を這いずる老人……様々な様相で街路を埋め尽くす人々、そのすべてが、不気味な彫像と化していた。
石だ。
建物も、路面も、人間も──商業区の一区画が、丸ごと灰白色の石に覆われている。
「いやはや、幸先がいいな」
彫像の向こうから、男の声が響いた。
あまりにも快活な、底抜けに明るい声だった。
「その銀鎧、君たちは神聖騎士団だろ? 実は君たちを探していた所だったんだ。どうやら今日の俺は幸運に恵まれているらしい」
声が鮮明さを増す。先程まで聞こえなかった跫音が騎士たちの耳に届く。間違いなく、声の主はこちらに近づいている。
先頭に立つ部隊長が、腰から剣を抜き放つ。
背後の部下たちがそれに続く。銀色の剣身を鈍く輝かせ、騎士団は”敵”を迎え撃つ為、構えを取る。
「噫、そう肩肘張らないでくれ。俺は君たちに訊きたいことがあるだけだ。なに、実に簡単な質問だ。答えてさえくれれば、楽に殺すと約束するよ」そう云って押し殺した声で嗤い、「しかし、あれだな」一転、男は嘆かわしげに溜め息をつく。「自分で拵えておいて何なんだが、この人間たちは酷く邪魔臭いな」
瞬間、彫像が粉々に吹き飛んだ。
巨大な何かが、男の周囲を薙ぎ払ったのだ。
砂礫となった彫像が、辺り一面に雨のように降り注ぐ。大小様々な砂礫は騎士団の鎧を叩き、大通りの路面を打ち鳴らし、衝撃によって微細に砕け散る。埃。砂と塵。朦朦とした灰白の砂塵が、騎士団の前方に分厚い帳を降ろす。
「これで少しはマシになったな」
その砂塵の中から、その男が姿を顕す。
蒼鎧。蛇の双眸。そして何よりその肩に担ぐ、巌の如き巨大な刃。
「それじゃあ、君たちにひとつ質問だ」戦陣を組む騎士団に向かって、ザラチェンコは満面の笑みを向ける。「アルトリウスは何処にいる?」
「弾頭の充填はまだ完了しないのかッ」
指揮官の大声が、室内に響き渡った。
巨塔上層階の魔導兵器制御室は、異様なまでの熱気に包まれていた。壁際を埋め尽くす魔導機器は最大出力で稼働し、円形に配置された長机の前では賢者院の魔術師たちが空間投射器の画面に向かい合い、慌ただしく〈端末〉を操作している。そして指揮官は傍らに副官を伴い、制御室を大股で歩き廻り、怒号とも激励とも取れる大声で魔術師に発破をかける。
「敵性勢力による侵攻はすでに始まっているッ! これ以上、我々が後れを取ることは赦されないッ! 最悪の事態を想定し、一刻も早く対竜魔導砲の準備を整えるのだッ! さあ、充填状況を報告しろッ!」
「残り15%ですッ」魔術師のひとりが指揮官に顔を向け、大声で報告する。「13、12、11……充填カウント、残り10%を切りましたッ! 魔力残滓の排出及び砲身の冷却はすでに完了済み、極滅魔力弾頭の装填もすでに終わっていますッ」技師は頬を紅潮させ、さらに大きく声を張る。「間もなくです、間もなく対竜魔導砲、再使用が可能となりますッ!」
「よしッ!」指揮官は力強く頷き、傍らの副官に指示を出す。「至急、神の代理人に魔導砲の再使用完了とお伝えしろッ」
「ですが、すでに敵性勢力は聖都に降り立っていますッ」固い顔つきで、副官は制御室中央の画面を見つめる。敵性勢力の巻き起こす数々の災厄に、建国以来一度として踏み荒らされたことのなかった純白の聖域を、蹂躙している。副官は唇を噛み締める。映し出されているのは、それだけではない。戦禍に呑まれる、セイリーネスの国民。逃げ惑い、恐慌を来し、戦禍に呑み込まれていく何千何万というセイリーネスの国民たち。「対竜魔導砲は広域殲滅型の魔導兵器、現在の状況下で神の代理人が魔導砲の使用に踏み切るとは、到底思えませんッ もしそのような事が起きれば、我々は自国の民を」
「云ったはずだ、最悪の事態を想定しろとッ!」言葉を遮るように指揮官は副官の肩をむんずと掴む。「私としても、易々と発射承認が下りるとは思っておらん。貴様の云うとおり、承認が下りれば我々は自国の民を犠牲にすることとなる。しかしこのまま戦況が悪化の一途を辿れば、必ず限界がやって来る。肉を切らせて骨を断たねばならない状況が、必ずやって来るのだ。そして代理人の方々には、その覚悟があらせられる。だからこそ、我々は万全を期してその刻を迎えねばならんのだッ ……さあ、グズグズしてる暇などないぞッ、今すぐ神の代理人に報を送れッ!」
「まことに勇ましい限りだな、指揮官殿」
唐突に、不気味な声が室内に響いた。
その場にいる全員の動きが、表情が、固まった。
聞いた瞬間に、分かったのだ。
これは、人間の声ではない。
水面に浮上するように、制御室中央の床面から、ゆっくりと”それ”が顕れる。
前方に迫り出した山羊の角。夜を煮詰めたような漆黒の外套。そして見る者に絶対的な死を聯想させる、異形の髑髏。
ヘル・ペンタグラム創始者である死霊の出現に、制御室は凍りつく。
「『手負いの獣ほど何をしでかすか分からない』、どうやら私の箴言に間違いはなかったようだな」剥き出しの歯列をカタカタと鳴らし、イビルへイムは嗤う。「対竜魔導砲を聖都に使用した際の被害規模がどれ程になるのか分からぬ君たちではないだろうに、いやはやまったく、人間とはどうしてこうも度し難い生き物なのか……噫、勘違いしないでくれ。これで私は君たちを褒めているんだ。犠牲を厭わぬその姿勢、何ものをも顧みないその気概、私は高く評価するよ。それでこそテオスセイル世界連合の末裔というものだ」イビルへイムは敬意を示すように深々と一礼し、「とはいえ、あんなもので何度も砲撃されるというのは、我々としても好ましい状況ではない。申し訳ないが、先手を打たせてもらうよ」
イビルへイムは大仰な仕草で右腕を掲げる。
大きく広げられた掌、その指先に、魔力が収斂する。
対竜魔導砲は〈魔合金〉によって鋳造されている。連合の生み出したこの錬成金属は、世界で最も強靱な物質と云われている。破壊できないとは云わない。超越魔物の力を持ってすれば、打ち砕くことは可能だろう。とはいえ、骨が折れることに変わりはない。
ゆえにイビルへイムは、この場所を訪れた。
「君たちがいなければ対竜魔導砲は無用の長物となる、そうだろう?」
人差し指に、焔。中指には雷。薬指には水。小指には氷。そして親指の先端に、闇。
五つの属性が、イビルへイムの掌で渾然一体となる。
あらゆる魔術を極めた死霊魔導師からすれば、属性魔法の複数同時発動など、容易い。
「諸君、少し想像してみてくれ。劫火に灼かれ、雷に撃たれ、波濤に呑まれ、冰気に凍え、最後に永遠の闇に魂ごと喰らわれる、その恐怖を。諸君等は今からそのすべてを体験することになる」イビルへイムは場その全員を見廻す。恐怖、諦念、混乱。全員の顔に張り付いているのは、紛うこと無き絶望。「良い、実に良い表情だ」愉悦に肩を揺すり、イビルへイムは開演を告げる。「さあ、それでは始めよう。私が催す死の演劇を、存分に堪能してくれたまえ」
イビルへイムは巨塔最上層から聖都を眺め渡す。
彼の背後には、対竜魔導砲が高々と聳えている。
その威容はしかし、完璧な沈黙にうち沈んでいる。
宣言通り、イビルへイムは対竜魔導砲を無力化した。
制御室の人間と制御設備は完膚なきまでに破壊された。
もはやこの魔導兵器が起動する瞬間は永遠に訪れない。
「実に素晴らしい眺めだ」
くつくつと、イビルへイムは嗤う。
神聖都市国家セイリーネスを覆っていた平穏という名の薄衣が、完全なまでに剥ぎ取られている。黒い劫火に燃える〈居住区〉、灰白色の石化に蚕食される〈商業区〉、悍ましい呪いに呑み込まれる〈ル・シャイル広場〉、そして聖都各地に吹き荒れ、無差別に全てを切り刻む風の刃。イビルへイムは態とらしい仕草で側頭骨に穿たれた外耳孔に手を宛がい、耳を澄ませる。平時であれば、セイリーネスは様々な”音”に満たされている。愉しげな人々の笑声、活気溢れる喧噪、整然と進行する騎士団の鉄靴、神殿から漏れ聞こえる美しい聖歌、偉大な神を讃え打ち鳴らされる大鐘……平和を象徴するそれらの音はしかし、もはや何ひとつ聞こえてこない。いまや聖都に響き渡るのは倒壊する建物が発てる轟音、焔に呑まれた街並みの爆ぜる音、そして人々のあげる悲鳴、嗚咽、断末魔。
聖都が落ちる。聖都が落ちていく。
「この調子なら、私の出番は無さそうだな」
イビルへイムは指を打ち鳴らす。
骨、肉、屍体。死霊の背後に異形の玉座が顕れる。
鷹揚と、イビルへイムはその玉座に腰掛ける。
磨き上げられた肘掛けの頭蓋骨を左掌で撫で、右腕で頬杖をつき、イビルへイムは満足げな吐息を漏らす。「特等席で観劇させてもらうとするよ。我々の、いや、私の為の聖都落としをね」
アルトリウスは背から大剣を抜き放つ。
巨大な刃が冷たく輝き、樋に沿うように刻まれた退魔の魔方陣が白い燐光を帯びる。地を震わす轟音、響きわたる悲鳴、立ち上る幾条もの黒煙──すでに聖都は戦場と化している。”魔”が、聖都を蹂躙している。”魔”が、神を冒涜している。透徹した銀の瞳に抑えきれぬ怒りを烈しく燃やし、アルトリウスは傍らの友に背を向け歩き出す。「賽は投げられた。私はこれより奴等を誅戮する」
「そうか」
「分かっているな、ベリアル。これは”聖戦”だ」瞳の怒りとは裏腹に、どこまで冷酷な天使の声が、ベリアルの鼓膜を震わせる。「聖都が戦場と化した以上、もはや我々を縛る法は無効となった。我々の行動すべてが免責の対象となる。その意味を分からぬ貴公ではあるまいな」聖騎士は立ち止まり、堕天使を振り返る。「どのような犠牲を払おうとも、今日此処で奴等を討ち祓う。それこそが我々〈神の騎士〉の使命──いや、我々に課せられた絶対的な神勅だ」
「無論、その通りだ」ベリアルは重々しく頷き、「しかし」と言葉を継ぐ。「我々は魔を討ち祓う〈矛〉であると同時に、聖都の民を護る為の〈盾〉でもあるはずだ。アルトリウス、君が矛を任じるというのであれば、私は盾を引き受けようと思う」先程〈居住区〉へ向かった聖女の後ろ姿が、ベリアルの脳裡を過る。白金の堕天使は威儀を正し、白銀の聖騎士に向かい合う。「私はシャルルアーサと合流し、できる限り民たちを護る。どこまで救えるか分からないが、私がこの両腕で護れる者たちは、何としてでも護るつもりだ」
「云ったはずだ、もはや我々を縛る法は存在しない」
「だからこそ、だ」
「神勅よりも、人間の生命を優先させると?」
「どちらが正しいという話ではない。今の聖都には、どちらも必要だと云っているのだ」堕天使は聖騎士に近づき、その肩に手を掛ける。力強い指先が、白銀の肩当てを震わせる。「私は人を護るよ、アルトリウス」
射し貫くようなアルトリウスの鋭い視線。
力強いベリアルの眼差し。
数秒、両雄は見つめ合う。
「……貴公らしいな」アルトリウスが沈黙を破る。口元に浮かんだ痙攣めいた動きは、微笑の名残か。聖騎士は歩みを再開する。「分かった。貴公はシャルルアーサと共に、民たちを救え。ヘル・ペンタグラムの排除は私が引き受ける。……私を軽蔑するか、ベリアル」
「君のことは誰よりもよく理解しているつもりだ、アルトリウス」友の背に、ベリアルは頷きかける。「君は剣だ、アルトリウス。闇を祓い、魔を狩る、神の剣。君は誰よりも神に忠実だ。そんな君を、私が軽蔑すると思うか。君が民のことを気にかける必要など無い。君は現存する最後の〈大天使〉だ。ならば大天使として、君は自らの為すべきことを為せばいい」
友の言葉に、アルトリウスは純白の聖刃を高々と蒼穹に差し向けることで応える。両の腕で厳かに剣を捧げ持つその姿勢は、かつての第一天使魔導師団の天使たちが戦いの前に神に捧げた祈りそのもの。
その祈りが意味するところはただひとつ。
神に誓って、我等が敵を誅戮する。
剣を下げ、アルトリウスは静かに呟く。「暫しの別れだ、ベリアル。この戦が終わった時、また貴公と相見えるのを愉しみにしているぞ」
「私もだ」遠ざかる友の背に、ベリアルは力強く声をかける。「必ずまた会おう、アルトリウス」
「この場所を、アステルの復讐の場に選びました」
手ずから設えた”舞台”を前に、クシャルネディアは満足げに吐息を漏らす。神殿、魔導学院、医術院の巨大病棟といった重要施設が集結した聖都北部〈特別区〉、その城壁沿いに、その建造物は鎮座している。
クシャルネディアは手を伸ばし、その建造物の壁面に白い指先を這わす。聖都の建物に特有の、つるりとした滑らかな感触はない。冷たく、堅く、その表面はざらざらと毳立っている。生成機関が造り出す純白の錬成建材ではない。石灰、火山灰、塩水から造られた、土色の混凝土。蒼い瞳が、荒々しい壁面を見上げる。楕円形の、壁面に円柱の列を配した、巨大な建造物。特徴的なその形状から、かつて此処が何を目的として使用されていたのかが窺い知れる。壁面や円柱に施された意匠の数々も、この建造物の存在意義を如実に物語っている。
殴り合う裸身の男。鍔迫り合う騎士。杖を構え対峙するふたりの魔術師。
「闘技場です」
意匠を見つめながら、クシャルネディアは静かに鷹揚に口を開く。
「此処は世界連合世紀より遙か以前の時代に建築された、古代の闘技場なのだそうです。名誉の為、利益の為、そして復讐の為、かつての人間たちは、事あるごとに決闘を行ったのだとか。この闘技場は、まさにそのような時代の遺物です。そして遺物であるがゆえに、世界連合はこの闘技場を取り壊すのではなく、文化財として保護する事に決めました。その取り決めは、今も聖都で生きております。……この闘技場を、私の封鎖結界の”外郭”として利用します」クシャルネディアは壁面に指を這わせたまま、ゆるやかな歩様で壁沿いを歩く。遠方で巻き起こる爆発や倒壊の震動が、僅かに姫君の指先を震わす。「現在聖都には、ヘル・ペンタグラムをその身に刻んだすべての魔物が降り立っています。斯様な状況下では、事は思うように運びません。アステルと獄炎の魔女との戦いに横槍が入ることは必定、どころかアステルと魔女が対峙する機会さえ叶わぬやも知れません。そこで私は考えました。私自ら、復讐の舞台を整えようと」彼女は立ち止まり、ゆっくりと背後の主を振り返る。赫い瞳が、クシャルネディアを見ている。「私の整えた舞台は〈対魔法防壁〉や〈対物理装甲〉など、多種多様な防禦術式を幾重にも重ね合わせた〈多層結界〉と、その結界自体をこの”次元”から切り離す〈空間遮断〉によって形造られております。さらに今回は魔女を”閉じ込める”事を考慮し、結界内の強度を最大限にまで引き上げました。ブラムド様が幽閉されていた特別隔離監房、あの牢獄を想像していただければ解りやすいでしょうか。すべての防禦機構が内側を向いております。おそらく、数刻程度であれば魔女を閉じ込めておく事が出来るでしょう」
静かに耳を傾けていたサツキが、徐に口を開く。「それで、俺に何を頼みたい」
「防禦機構を内側に集中した弊害として、結界は外部からの衝撃に些か不安を抱える事となりました」その弱点を補う為に、クシャルネディアは広大な聖都の中から闘技場を見出した。”舞台”を闘技場に重ね合わせ、壁面を”外郭”とする事で、結界の外側強度を物理的に引き上げる事に成功した。しかし、問題が完璧に解決したわけではない。「補強したとはいえ、通常の結界よりも外部からの衝撃に脆い事実に変わりはありません。何かしらの外的要因によってこの”舞台”が損なわれる可能性は、十二分にあります」
悲鳴が周囲に響き渡った。
男、女、子供、老人。様々な人間の叫喚が、空気を震わせる。
「闘技場周辺には、選りすぐりの奴隷を潜ませております」その言葉が示すとおり、周囲一帯の”影”の中で、魔物が蠢く。街路の日影から黒い百足が飛び出す。路地裏から蜥蜴のギョロリとした眼玉が覗く。あらゆる昏がりから、地獄の番犬の唸り声が響いてくる。「眼に映るすべてを排除するよう、厳命しております。何人であろうと、この闘技場に近づくことを私の眷属は赦しません」
骨の砕ける音、肉の裂かれる音、血を啜る音。
先ほどの悲鳴は断末魔だ。
ヘル・ペンタグラムの襲撃から逃げ惑う人々が不用意にも闘技場へと近づき、クシャルネディアの眷属に喰い殺されているのだ。
「ですが、私の眷属だけでは超越魔物を阻むことは出来ません」赫い瞳から眼を逸らさず、クシャルネディアはサツキへと歩を進める。「ヘル・ペンタグラムがこの近辺で暴れるような事があれば、闘技場もろとも私の結界は崩潰します。そうなれば、アステルの復讐は困難を極めたものとなるでしょう。ゆえにサツキ様にお願いしたいのです。……その前にひとつ、お伺いしたい事柄があります」〈剣〉としての想いを胸に、彼女はサツキの前に立つ。「本当に、よろしいのですか?」
サツキは答えない。
表情に変化はない。
赫い瞳は何ひとつ語らない。
「あの夜、確かにサツキ様は廃城でアステルの依頼を聞き入れました。サツキ様が約束というものを何よりも重んじていられることは、重々承知しております。ですが、あの夜とは状況が変わりました。今のサツキ様には最優先すべき〈敵〉がいるはずです」再度、クシャルネディアは問い掛ける。「本当に、よろしいのですか?」
「〈奴〉は、いたんだろ?」
クシャルネディアは威儀を正し、ゆっくりと首肯する。「はい。聖都上空に並び立つヘル・ペンタグラム、その中に、イビルへイム・ユベールの姿を確認しました」
「なら、問題ない。早いか遅いかの違いだけだ」
サツキは有無を云わせぬ視線で、クシャルネディアを黙らせ、先程の問いに、話を戻す。
「云え。俺に何を頼みたい」
「死守を」暫時の沈黙を破り、クシャルネディアは凛然たる声色でサツキに告げる。「アステルの復讐の為、何があろうとも、誰が顕れようとも、この闘技場を死守していただきたいのです」
サツキは赫々たる双眸を聖都へ向ける。「魔女の居場所は?」
「聖都南部にて魔女の黒焔を確認しました」クシャルネディアは配下の”眼”を借りて、すでに聖都の状況をおおよそ把握している。いまだ精確な位置は割り出せていないが、ジュリアーヌ・ゾゾルルが〈居住区〉にいることは確実だ。「姿さえ捉えてしまえば、あとは簡単です」
クシャルネディアの傍らの空間に、亀裂が走る。
〈魔の廻廊〉。
そう、魔女の位置さえ把握してしまえば、あとは簡単だ。影を媒介に〈門〉を開き、魔女を結界へと誘えばいい。あるいは、今この瞬間にも”保険”が活きているかもしれない。クシャルネディアは〈鍵〉を思い出す。聖女と堕天使に手渡した〈冒涜の鍵〉。あの鍵が、今この瞬間にも発動され、クシャルネディアの手間を省いてくれるかもしれない。
何にせよ、そう思いながらクシャルネディアは微笑する。「魔女を捕捉するのは、時間の問題かと」
「そうか」サツキはクシャルネディアの傍をすり抜け、闘技場へと歩を進める。土色の円蓋。荒々しい壁面。血腥い死闘の意匠。これより復讐の舞台と化す戦いの聖域を前に、
「いいだろう」
禍々しい緋の双眸に狂気を宿し、
「お前等は魔女にだけ集中しろ」
サツキは一言、請け負う。
「俺がいる限り、お前等の戦いに邪魔は入らせない」




