20 激情
【20】
その扉の前で、ベリアルは立ち止まった。
堕天使の巨体をゆうに上回る、両開きの、巨大な扉。
聖都の建造物にしては珍しく、扉は黒い。それも、ただの黒ではない。間違いなく材質は金属ではあるが、扉の表面には金属に特有の光沢が見られない。重く深い、純粋なる黒。ベリアルの眼の前にあるのは、騎士団の保管庫と同質の金属〈魔合金〉によって鋳造された扉だ。圧倒的強度を誇る魔合金を破壊する事は困難を極める。それゆえに三百年前連合軍はこの金属を魔剣の、戦車の、そして対ドラゴン用の檻の鋳造に、使用した。
そう、この扉の向こうは檻であり、牢獄だ。
そしてその牢獄に、アレがいる。
ベリアルは背後を振り返る。
№11と、従者たるクシャルネディアが、そこに佇立している。
三人は今、騎士団管轄下の監獄塔、その最下層にある特別隔離監房の前に立っている。
何とか、此処まで連れてくる事はできたな。
胸中で呟き、ベリアルは扉に視線を戻す。
問題は、ここからだ。
サツキの説得を終えたベリアルは、すぐさま彼等を連れ、巨塔の〈門〉を潜った。
聖都は主に六つの区劃に分類されている。サンクト・マルス聖大街道に面し、市場、飲食店、酒場、客亭、娯楽場など、様々な施設が密集する西部の〈商業区〉。家屋や集合住宅、行政の管理する学園など、主に平民階級が暮らす南部の〈居住区〉。日常生活に必要な様々な生活用品を製造する工場、消失魔法技術を応用した食糧生成機関群、聖都の運営に必要な魔力を造り出す生成炉などが立ち並ぶ東部の〈工業区〉。教会の神殿や賢者院直属の魔導学院、医術院の巨大病棟など、セイリーネスの信仰と叡智が集結した北部の〈特別区〉。そして聖都の心臓部たる巨塔を中心に、各機関の最重要施設や貴族階級の邸宅が建ち並ぶ神の代理人本拠地〈中枢区〉。
だが、三人が降り立ったのはそのどれでもない。
彼等の転移先は六つ目の区劃、〈守護区〉だった。
二重城壁の間に設けられた緩衝地帯。聖都に存在する騎士団の軍事施設、そのほとんどがこの〈守護区〉に建てられている。罪人を投獄する為の監獄塔は守護区の東北に聳えている。ゆえにベリアルは、騎士団東北支部を転移先に指定した。
降り立ったベリアルを、士官騎士が出迎える。
ベリアルの背後には赫い瞳の男と、明らかに〈魔〉の気配を湛えた女が佇んでいる。
息を呑んだ士官騎士に、
「私たちはこれより特別隔離監房に向かう」
質問を赦さず、ベリアルは命じる。
「いいか、私の許可があるまで、誰ひとり監獄塔の地下に降りる事を禁じる」
ベリアルは黒い扉に指先を近づける。
保管庫と同様、魔合金製のこの扉は、特定の魔力を鍵としている。
ベリアルが人差し指を宛がえば、すぐさま扉は解錠され、自動的に扉は開く。
そう、後はこの人差し指を押し当てるだけでいい。そうすれば鉄壁の黒扉は開け放たれ、イレブンはアレと対面する事が出来る。
本当に、いいのか。
ベリアルの胸中に、疑問が兆す。
本当に、この扉を開け放っていいのか。本当に、アレとイレブンを引き合わせていいのか。イレブンの性格を考えるに、勝算はある。唯一人造人間が持ち合わせた人間性に付け入れば、可能性はある。だが、だからといって成功する保証はどこにもない。一歩間違えれば、僅かにバランスを崩せば、聖都はヘル・ペンタグラムの襲撃を待たずして、滅びる事となる。あまりにも危険な賭けだ。常軌を逸した行いだ。やはり、引き返すべきでは……
「いや、これが最善だ」
すでに議論はし尽くした。三賢者、聖女シャルルアーサ、教皇ソルストレム、そして我が友、聖騎士アルトリウスからの承諾は得ている。そう、結論は疾うに下されている。
迷いなど、無意味だ。
逡巡している時間など、もはや我々には残されていない。
「この扉を開ける前に、ひとつだけ知っておいてもらいたい」
最大限の威厳を込め、ベリアルはサツキに云う。
「これから君が眼にするものに関して、我々聖都は、一切関わりを持っていない」
サツキは無機質な赫い眼をベリアルに向ける。「何の話だ」
「見れば、わかる」
そう云って、ベリアルは扉に人差し指を押し当てる。
扉全体を、放射状の蒼い光が走り抜ける。
カチリと、錠の外れる音が鳴る。
魔合金製の分厚い扉が、ゆっくりと左右に開いていく。
ベリアルはサツキの邪魔にならぬよう、一歩傍に退く。
広がっていく扉の隙間から、徐々に牢獄内の様相が明らかとなっていく。
まず、白い。あくまでの魔合金製の檻は監獄の骨組みであり、獄中自体は聖都の建築理念に則っている。大理石を敷き詰めた床、巨塔の外壁と同質の鏡のような壁面。代理人議場を思わせる円天井。そのすべてが、神を象徴する純白に輝いている。
そして、広い。天井は大鬼が立ち上がれる程高く、床面積は巨鬼が寝そべれる程に広々としている。元来が対ドラゴン用の檻、この牢獄が不自然なまでに巨大なのも頷ける。
扉が、完全に開かれる。
遮る物は何もない。
牢獄の中心に、それがいた。
ベリアルは緊張に身を固くする。クシャルネディアは驚きに眼を見開く。
そしてサツキは……サツキは、ただ、それを、視た。
紛れもなく、それは残骸だった。
顔面の肉の大半は、腐り落ちていた。白い頭髪は、僅かに額を隠す程度しか残っていない。頸元から下腹部にかけては、さらに悲惨だ。肉体と臓器は完全に腐り落ち、上半身を支えるのは、剥き出しとなった骨格のみ。左腕は肩口から完全に消滅し、右脚の膝から下は無残にも吹き飛ばされている。
異形の骸。
酷たらしい屍体。
生前の俤など欠片も無い、単なる残骸。
なぜ、ベリアルとアルトリウスは、これが生体兵器だと一目で断定できたのか。
まず、骨格だ。剥き出しとなった頭蓋や脊柱は、魔合金が雑ざっている事により黒ずみ、その表面には構造強化、老化遅滞など、魔導強化骨格に必要な魔方陣が、薄らとではあるが、赤く浮かび上がっている。
次に、瞳だ。
片方の眼窩は虚ろだが、もう片方の眼窩には、眼球が残っている。生気の無い、ただ敵を求めて正面を睨み据える濁った瞳。しかし、その瞳はいまだ殺戮者の赫きを放っている。
そして何より、右腕だ。
生体兵器の四肢には枷が填められ ──といっても片腕と片足は失われているが── その枷に繋がる白銀の鎖が、さらには頸や腰にも巻き付けられた鎖が、残骸の動きを物理的に縛っている。さらには〈空間固定〉によって、魔術的にもその身動きは封じられている。空間固定は対象を特定の位置に留める結界術の一種だ。主に聖都の建築などに多用させる術であるが、その性質上、罪人の捕縛や魔物の拘束などにも用いられる。眼の前の残骸は、空間固定を三重にかけられ、完全にその動きを奪われている。
だが、残骸とはいえさすがは生体兵器。
本来であれば動かないはずの躯を無理矢理動かし、暴れる。
藻掻き、足掻き、呻き声を上げる。
そして敵を求めるように、右腕を掲げる。
その右腕に、その数字が刻印されている。
一桁の数字。最初期製造番号の証。〈№09〉メイ・シルギルドと共に、常にサツキの傍らに控えていた、忠実なる剣。
〈№05〉。
サツキはゆっくりと、特別隔離監房に踏み入る。
赫い双眸は、正面の残骸を見つめ続けている。
それが誰なのか、サツキには分かっている。剥き出しの魔導骨格や濁った瞳など関係ない。右腕の刻印すらどうでもいい。そのような特徴を並べ立てるまでもなく、その姿を眼にした瞬間、サツキはそれが誰なのか悟った。
分からないわけがない。忘れるわけがない。
残骸の前で、サツキは立ち止まる。
「ブラムド」
同胞を呼ぶその声に、感情らしき響きは欠片もない。
喜怒哀楽の欠如した、無機質な声。
その声が、ベリアルの胸中をざわつかせる。
ベリアルは、何らかの反応を期待していた。イレブンの性格を考えるに、その場で怒りに声を荒げるような真似は絶対にしない。ならば嘆き悲しむかと云われれば、それも違う。この男が嗚咽に肩を震わせる姿など、想像だにできない。イレブンは情動が欠落している。生まれながらに壊れている。イレブンが感情らしい感情を露わにするのは、戦いにおいてのみだ。愉悦、狂喜、哄笑。殺戮と死闘のみが齎すことの出来る、圧倒的昂揚。それのみがイレブンのすべて。それは、ベリアルも重々承知していた。だが、今イレブンが眼にしているのは、かつての同胞だ。イレブンの右腕とまで呼ばれた、あのブラムド・シュルだ。
イレブンからすれば、人間などただの塵芥だ。
人も、亜人も、魔物も、等しく取るに足らない虫けらだ。
だが、生体兵器は違う。
同胞だけは、鬼神の中で確かな意味を持っている。
だというのに、イレブンからは、何も感じない。
その事実が、ベリアルの胸騒ぎに拍車をかける。
同時に、クシャルネディアの胸中にも、不吉な予感が兆している。
血魔の一生を思えば、彼女がサツキの傍らで過ごした時間など、大海に降る一滴の雨粒程度のものでしかない。しかし、その僅かな刻の中で、クシャルネディアは主がどういう人物なのか理解するに到っていた。
我が君にとって何にも代えられない存在、それこそが三百年前の同胞の方々。
その方々のひとりが、今、眼の前にいる。
それも、明らかにその同胞は、死霊術によって無理矢理動かされている。亡骸と魂を縫い合わせ、術者の奴隷とするのが死霊術だ。奴隷となった死者に意志はない。敵を求め、ひたすらに暴れるだけの、哀れな傀儡に過ぎない。
死霊術とは、冒涜の術。
死者を、魂を穢す、忌まわしき魔の法則。
そのように貶められた同胞を前にして、しかし。
我が君はあまりにも、あまりにも、静かすぎる。
血魔と堕天使はサツキに向け、足を踏み出す。
クシャルネディアは何か自分に出来ることはないかと伺いを立てる為に。
ベリアルは一刻も早く状況を説明する為に。
即座に何かしらの行動を起こす必要があると、両者の本能が警告を発していた。
「サツキ様」「イレブン」
ふたりは同時に口を開き、
しかし、言葉を続ける事は叶わなかった。
クシャルネディアとベリアルの視界が、赤く染まる。
ふたりの躯を〈赫い手〉が鷲掴みにしていた。クシャルネディアはおろかベリアルの巨体をさえ呑みこむほどに、魔の掌は大きく展げられていた。
ざらついた声が、ふたりの耳朶を震わせる。
「少し、黙っていろ」
先ほど同様、その声に感情はない。だが、その言葉尻には、有無を云わせぬ迫力が込められている。
ふたりは、頷くより他になかった。
赫い手を解き、今一度、サツキはブラムドを見つめる。蟀谷に血管が浮き出す。瞼に、禍々しい紋様が浮かぶ。眼球結膜が〈赫〉に浸蝕される。指数関数的に上昇するサツキの視界性能、その禍々しい赫眼が残骸を精査する。
誰なのかは分かっている。どれだけ変わり果てていようと、サツキがこの男の姿を見紛うはずがない。だが、それでも確かめずにはいられなかった。
心臓。魔力生成炉。その奥に渦巻く、根源魔力。
色、形、その性質。
間違いない。
この根源魔力は、間違いなく、
「ブラムド」
再度、サツキは同胞の名を呼ぶ。
赫い手が、ブラムドを包み込む。
硝子が砕け散ったような、鋭く細かい音が獄中に響きわたる。
赫い手が、空間固定の結界を握り潰した。
金属が断裂する鈍い音が空気を震わす。
ブラムドを拘束していた白銀の鎖が、引き千切られた。
支えを失ったブラムドは白大理石の床に這いつくばる。
唸り、身を捻り、残された右腕と左脚を振り乱す。
サツキはただ、その姿を見下ろしている。
床の上で暴れるブラムドの姿は、あたかも陸に打ち上げられた魚、あるいは死の寸前に足搔く昆虫を思わせる。意志はない。意識もない。尊厳も、矜持も、人間性すらも、ブラムドからは剥ぎ取られている。まさしくこれこそが〈死霊術〉。奴隷となった死者はその身が朽ち果てるまで主の命令に服従する。
ブラムドに下された命令は、ただひとつ。
『眼に映る〈敵〉をすべて殺せ』
ブラムドは顔を上げる。
濁った瞳がサツキを捉える。
灰色の髪。赫い瞳。そして右腕に刻まれた〈№11〉。
だが、ブラムドにはもはやそれが誰なのか分からない。
唸り、歯を剥き、ブラムドはサツキに飛び掛かる。
〈№05〉と刻まれた右腕、その指先がサツキの喉元を襲う。
瞬間、ブラムドの躯が後方に吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられ、床に落下し、しかしすぐさま態勢を立て直す。四つん這いの姿勢で〈敵〉を睨む。
〈敵〉は赤い霧を纏い、そこに佇立している。
即座にブラムドは動き出す。右腕と左脚で、獣のように地を駆け、再びサツキへと襲い掛かる。
伸ばされた右腕はしかし、またしてもサツキには届かない。
振り下ろされた赤い魔力が、ブラムドを地面に叩きつけた。
衝撃に大理石の床は陥没し、広範囲に渡り亀裂が走る。
生体兵器の剥き出しの骨格が震え、歪み、軋む。黒く変色した血が飛び散り、腐敗した肉や贓物の欠片が床を汚す。長い年月を経たことにより関節部分が劣化していたのだろう、残された右腕と左脚が、本来ではあり得ない角度にねじ曲がっている。
それでもブラムドは止まらない。どれだけ壊れようと、その躯が原型を留めている限り、無理矢理にでも動き続ける。
ぐにゃりと折れ曲がった左脚で強引に地を蹴り、またもブラムドはサツキに襲い掛かる。
その躯が、空中で静止する。
赫い手が、ブラムドを鷲掴みにしていた。
「無様だな、ブラムド」
サツキは、眼前で藻掻く同胞を見つめる。
「三百年前のお前なら、この程度の拘束、容易く引き千切っていたはずだ」サツキは一歩、同胞へ近づく。「それに、その姿はなんだ? 俺の〈剣〉として殺戮の限りを尽くしたお前は、一体何処へいった。壮絶極まるお前の勇姿は、一体何処へ消え去った」
ゆっくりと、サツキは同胞に手を伸ばす。
「お前は№05だ。俺の右腕と呼ばれたブラムド・シュルだ。そのお前が、なんという様だ」
サツキの指先が、ブラムドの胸元に触れる。
「本当に、無様だ、ブラムド」
中央から、やや左より。他のあらゆる臓器は腐り果てている。だが、魔力生成炉と融合した心臓だけは、いまだ形を保っている。
微かな鼓動が、指先に伝わる。
サツキの瞳が、昏く深く、沈んでいく。
「この様なお前の姿を、俺はこれ以上見たくない」
強く、烈しく、サツキは指先を胸元に押し当てる。
ブラムドの肋骨に、サツキの指が減り込んでいく。
本来であればこの程度で破壊される生体兵器ではない。しかし三百年という歳月と、十分な魔力供給の滞りにより、人造魔導強化骨格の強度は著しく低下している。
サツキの右手はブラムドの肋骨を折り、砕き、破壊する。
そしてその右手は、完全にブラムドを貫く。
背から突き出された右腕はドス黒い血に塗れ、その掌はある物を握っている。
死霊術によって無理矢理脈打つ、ブラムドの心臓。
その内奥に渦巻く根源魔力に、死霊術の根幹術式が刻まれている。
サツキにとって、怒りという感情は馴染み深いものではない。サツキの感情表現の大部分は悦びと愉しさだ。殺戮と闘争のみが与えてくれる愉悦を別にすれば、サツキは感情らしい感情をほとんど面に表さない。サツキは喜怒哀楽の哀しみを先天的に持ち合わせていない。それは人造人間であるが故の瑕疵であるが、生体兵器として見れば、その欠陥は最高の資質に裏返る。相手が誰であろうと躊躇は無い。それが同胞であろうと躊躇うことなどあり得ない。ゆえにサツキは平然とブラムドを手にかけることができる。
殺すことができる。破壊することができる。
哀しみなど感じない。感傷など抱かない。
だが、だからといってサツキが何も感じていないのかといえば、それは違う。
サツキの中にも、怒りはある。
小さな声が、サツキの耳朶を掠めた。
生気のない、か細く不明瞭な声だった。
サツキの眼が、ブラムドの唇を見る。
僅かに、その唇が震える。
死霊術にはひとつ、重大な欠点がある。肉体と魂を完璧に縫い合わせることは不可能だ。たとえ術者が超越魔物であったとしても、蘇った屍体には僅かな瑕疵が生じる。その瑕疵は屍体の行動に様々な影響となって現れる。唐突に頭部を床に打ちつける者、刻が止まったかのように突然動きを止める者、そして生前の記憶を元に、言葉を繰り返す者。
『ドラ……キ……オマエ……コトダ……ツキ』
サツキの動きが、止まる。
その言葉を覚えている。
その最期の言葉を、今も覚えている。
同胞の濁った瞳が、サツキを見つめる。それは、単なる反射的な行動だったのだろう。命令通りに動いているブラムドは、ただ眼前の〈敵〉を認識する為に、サツキに眼を向けたに過ぎない。
だが、それでもブラムドは、確かにサツキの瞳を見つめた。
そして、
『……トハ……カセタゼ』
掠れた声で、そう呟いた。
その言葉を聞き、サツキの胸中にどのような想いが去来したのか。烈しい殺意か、強い憎しみか、あるいは言葉に出来ない程の想像を絶する怒りか。その瞬間のサツキの胸中を推し測ることは誰にもできない。だがブラムドの言葉を聞いた瞬間、サツキの双眸がかつてない程に禍々しい赫きを帯びた事だけは確かだ。
「任せろ」
サツキの指先が、ブラムドの心臓に喰い込む。
三百年前と同じように、竜殺しは一言、誓う。
「後は俺に、任せておけ」
そしてサツキはブラムドの心臓を握り潰す。
ブラムドの躯から力が抜ける。頭部がだらりと垂れる。瞳から、光が消える。
サツキは赫い手を解く。ブラムドはその場に頽れる。
足下のブラムドを、サツキは見下ろす。
これ程までに痛々しく、これ程までに無様で、そしてこれ程までに冒涜された同胞の屍体を、サツキはこれまで見たことがない。
「……殺させるか」
サツキは自らの右手を凝視する。
黒ずんだ血。心臓の欠片。掌に残る、同胞の魔力の残滓。
ゆっくりと、サツキは拳を握る。
「……この俺に、ブラムドを殺させるか」
背後に控えていたふたりの超越魔物が、魔力装甲を展開した。意識しての事ではない。サツキの眼前で臨戦態勢に入る愚を、ベリアルは心得ている。〈剣〉である以前に忠実なる従者を自認するクシャルネディアが、主たるサツキに牙を剥く訳がない。
無意識のうちに、ふたりは魔力装甲を纏っていた。
纏わざるを得なかった。
危険だった。
本能が、最大限の警告を発していた。
そして、それは正しかった。
次の瞬間、ふたりは死を覚悟した。
音が消える。空気が限界まで張り詰める。特別隔離監房そのものが、軋みをあげる。ベリアルの背筋を慄えが走る。クシャルネディアの頸筋を冷や汗が伝い落ちる。ふたりの肩に、凄まじい圧威がのし掛かる。荒れ狂う大海の如き圧倒的な奔流に、ふたりは呑まれる。魔力、ではない。獄内を満たすのは〈超高密度多重魔力装甲〉ではない。魔力の解放など、サツキはしていない。
サツキから迸るのは、殺気だ。
それも、ただの殺気ではない。
激情。
この殺気には、凄絶極まる激情が込められている。
そのあまりの烈しさに、その底知れなさに、ふたりは戦慄した。死をさえ覚悟した。
「クシャルネディア」
ざらついた声が、〈剣〉の名を呼ぶ。
「はい」クシャルネディアは一歩踏み出し、凜然と声を張る。いまだ戦慄に心臓の鼓動を速めていようと、そのような気配はおくびにも出さず、剣として、従者として、ただ、彼女は威儀を正し、サツキに答える。「私は此処におります」
「聖都の人口密集地帯は何処だ」
「南部です」聖都の影という影に眷属を潜ませている彼女には、セイリーネスの都市構造が手に取るようにわかる。「聖都の人口密集地帯は、南部に位置する〈居住区〉と呼ばれる区劃となります。おそらく聖都の住民の半数が、この区劃に集中しているものと思われます」
「そうか」サツキの右腕が、腰の魔剣を掴み取る。漆黒の柄に、赫い魔方陣が走る。
「ベリアル」圧倒的な静寂の降り落ちる獄内に、ざらついた問い掛けが響く。「お前等か?」
即座に、ベリアルは頭を振る。「先ほど云ったはずだ、イレブン。我々は」
それ以上、ベリアルは言葉を続けられなかった。
ゆっくりと、サツキが振り返ったのだ。
二度目の戦慄が、ふたりの超越魔物の背筋を貫く。
赫眼、禍々しい鬼神の双眸、そこに渦を巻く殺意に、怒りに、凄絶極まる激情に、ふたりは息を呑む。
「慎重に答えろ、ベリアル」
サツキの視線が堕天使を射貫く。
「俺がその気になれば、居住区など跡形も無く消滅する」魔剣を握る右腕に、蛇のような血管が浮き出す。吐く息に、薄赤い霧が混じる。サツキの周囲で赫い火花が爆ぜ、緋の稲妻が走り抜ける。超高密度多重魔力装甲の予兆。魔剣の根幹たる〈緋玻璃〉が、鮮血の如き赫きを帯びる。
「もう一度訊く。俺の眼を見て答えろ」
サツキの赫眼は何ひとつ見逃さない。血液の流れ、魔力の淀み、身体の微細な揺れ……鬼神の前で言葉を偽る事は、誰にもできない。
サツキは、ただ、問う。
「お前等か?」
「神に誓って」拳を握り、奥歯を噛み締め、ベリアルは胸を張る。胸中で祈りを捧げ、恐怖を振り払い、ベリアルはサツキの瞳を見つめる。「私の言葉に、偽りはない。我々神聖都市国家セイリーネスは、今回の件に一切関与していない」ベリアルは視線を逸らさず、一歩、サツキへと近づく。「私は君を知っている。君がどのような男なのか、十分理解している。もし、聖都がこのような所業を行ってたのだとしたら、君と彼を引き合わせる訳がない」さらに一歩、ベリアルはサツキに近づく。「我々は君の同胞を、〈№05〉ブラムド・シュルを回収したに過ぎない。そう、我々が発見した時には、すでに彼は死霊術の奴隷と成り果てていた」頸く、真剣に、殉教者の面持ちでベリアルは告げる。「今一度云う。我々ではない」
ベリアルの態度に綻びは無い。サツキは眼を細める。「嘘ではないらしいな」
「だからこそ、君を此処に連れて来たのだ。我々はすでに、術者の正体を掴んでいる」
「誰だ」
「イビルへイムだ」慎重に、ベリアルはその名を告げる。「〈死霊魔導師〉イビルへイム・ユベール。それが君の同胞に術式を施した魔物の名だ」
サツキは足下に投げ出された同胞を見下ろす。穴の空いた胸部から、黒い血液が純白の床に広がっていく。獄内の圧威が増す。空気が震える。サツキから立ち上る鬼気に、周囲が揺らめき立つ。「断言できるか?」
「無論だ。もし確固たる証拠が必要だというのであれば、今すぐ精査の準備をしよう。〈賢者院〉の魔術師たちならば、すぐさま証拠を」
「それには及びません」クシャルネディアが、ベリアルの言葉を遮る。慇懃に歩を進め、彼女はサツキの正面で立ち止まる。「私は過去に二度、イビルへイム・ユベールと会敵した経験があります。あの死霊の魔力成分と魔術構成については把握済みです。私ならば、今この場でベリアル・シルフォルフの言葉の正否を判断する事が可能です。血を頂けるのであれば」禍々しい赫眼、その眦が、不快げに細められる。「この様な申し出がサツキ様の不興を買うことは、重々承知しております。僅かとはいえ御同胞の血、それもサツキ様に縁深き御方の血液です。本来であれば、私のような獣風情が口に出来る道理はありません。ですが、今申し上げたように、私でしたら御同胞に冒涜の術式を施した者の正体を突き止める事が、見定める事が出来ます。サツキ様の敵を顕わにする事ができるのです」片膝を折り、クシャルネディアは狂信に燃える蒼眼でサツキを見上げる。その姿はさながら忠誠を誓う騎士、あるいは抜き放たれた一本の剣。「一滴で構いません。本当に、僅かな、ほんの一雫で十分です。どうか私に、〈剣〉としての務めを果たさせてください」
重苦しい沈黙が獄内を満たす。
サツキは動かない。クシャルネディアも身動ぎしない。ベリアルは直立不動で事の成り行きを見守っている。
「いいだろう」サツキが沈黙を破る。魔剣を腰に戻し、いまだ同胞の血に塗れた右手をクシャルネディアに差し出す。「〈剣〉として、俺の敵を示せ」
恭しく手を取り、クシャルネディアは深々と一礼する。そして蒼褪めた唇を小さく開き、サツキの人差し指を口に含む。
死。錆色。緋の聖水。
血は、すべてを物語る。
「間違いありません」おもむろにクシャルネディアは口を離し、主君を見上げる。「この魔術の構成式、この残存魔力……間違いなく、イビルへイム・ユベールのものです」
「その死霊は、何処にいる」
「オルマ領深部に広がる古代遺跡群に居を構えていると噂されておりますが、真偽の程は定かではありません。ですが、御安心を。あの死霊の所在を捜索する必要など一切ありません。イビルへイム・ユベールは、地獄に堕つ五芒星の一員です」
「そういうことか」赫い瞳が、堕天使を射る。「俺を利用するつもりか、ベリアル」
「たとえ、そうだとしても」ベリアルは力強い眼差しでサツキを見つめ返す。「君は気にしないだろう、イレブン。君にとって重要なのは、イビルへイム・ユベールがブラムド・シュルを冒涜した、その事実だけの筈だ」
「噫、そうだ。俺にはどうでもいい」
ベリアルの思惑になど興味は無い。聖都の企みなどどうでもいい。利用したいのなら、好きなだけ利用すればいい。サツキにとって重要なのは、ただひとつ。
「俺の獲物だ」
その言葉にクシャルネディアは深々と頭を垂れ、ベリアルは慇懃に頷く。
「イビルへイムは、俺の獲物だ」
ざらついた声が獄内を震わす。
虚空を見つめるサツキの瞳に、狂気が迫りつつある。




