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ドラゴンキラー  作者: あびすけ
第四話 地獄に堕つ五芒星編 第三部【聖都落とし】
132/150

19 建国記念日






【19】

 ベリアルは立ち止まり、窓外に目を向ける。巨塔から望める景色は、明瞭な明暗に二分されている。白みはじめた空と、いまだ薄闇に覆われた聖都の街並み。朝と夜が入り交じる、奇妙な時間帯。しかし、朝まだきには黄昏時に特有の不気味さは感じられない。夕暮れが向かう先は夜。夜とは〈魔〉の領分。対するあかつきが告げるのは、朝。朝が象徴するのは〈聖〉。地平より差し込む強い暁光ぎょうこうに、ベリアルは眼を細める。金色こんじきの後光を従えた太陽が、その御姿みずがたあらわす。夜から朝へ。〈魔〉から〈聖〉へ。じきに聖都を覆う闇は払拭され、純白の街並みが朝陽の中に浮かび上がることだろう。人々は窓を開け放ち、炊事の煙が至る所で立ち上り、街路は人々の活気で満ち溢れることだろう。例年であれば、そこに花火が加わるだろう。神殿は高々と祝いの鐘を打ち鳴らし、ル・シャイル広場には早朝とは思えぬほど民衆が集い、人々は手と手を取り合い祝福の歓声をあげるだろう。今日は〈神の代理人〉を除くすべての労働が免除される一日だ。祝日であり祭日。神聖都市国家セイリーネスにとって、今日は何よりも特別な一日。


 そう、建国記念日だ。


 ベリアルは窓外から眼を逸らし、やりきれないというように首を振る。そして歩みを再開する。


 現在の聖都は、準戦時下態勢に置かれている。祝賀祭フェスティバルは、当然のことながら中止だ。街路の至る所に軒を連ねる露店も、普段では考えられぬほど陽気に酒を酌み交わす住民の姿も、純白のマントを羽織り聖都を練り歩く聖職者たちの祝進行パレードも、今年は見ることができない。


 聖都は建国以来初めてとなる、静かな記念日を迎えようとしていた。


「静かな記念日、か」昇降機エレベーターの前で立ち止まり、ベリアルは呟く。「今日一日が、何事もなく過ぎてくれればいいのだが」


 扉が開き、ベリアルは客籠ケージに乗り込む。


 巨塔上層に向かう為の昇降機。ベリアルの目的地は、客人の為の貴賓室エリア。


 扉が閉まり、客籠ケージが上昇を開始する。


 ベリアルは腕を組み、ヘルムの中で眼を瞑る。そして拳を強く握る。深く呼吸し、気持ちを落ち着けようと意識を集中する。緊張している。超越魔物トランシュデ・モンストルたる自分が、神の騎士たる私が、緊張に心臓の鼓動を乱している。このような感情に見舞われたのは、一体いつ以来か。少なくとも全面戦争終結後に、ここまで神経が張り詰めた事はない。


 だが、それも致し方ない。


 今の彼の双肩には、聖都の行く末を左右しかねない重責がのし掛かっている。


 客籠の速度が徐々に落ちていく。


 ゆっくりと、ベリアルは眼を開く。


 静かに、昇降機が停まる。扉が開く。彼は貴賓室エリアに降り立つ。


『本当に行く気か』


 先ほどアルトリウスと交わした言葉が、耳朶じだに蘇る。


『わかっているのかベリアル、成功する保証は、どこにもないのだぞ』


『避けては通れぬ道だ』騎士団本部の執務室で向かい合う友の瞳を、ベリアルは真っ直ぐに見つめる。『教会も賢者院も、何より君自身も、納得したはずだアルトリウス。これ以外に、我々に取れる選択肢はない』


 いくら最善手とはいえ、ベリアルの一存で決めるには、あまりに重要な決断。ゆえにベリアルは議会を開いた。集ったのは各機関のトップ。〈教会〉からは教皇ソルストレムと直属の枢機卿が数名。〈賢者院〉からはシュルツ、イザベル、ロイタードの三名と聖女シャルルアーサ。そして〈騎士団〉からは聖騎士アルトリウスと堕天使ベリアルのふたり。有事にのみ赦される、迅速な意志決定を下すた為の、少人数制の極秘議会。騎士団本部の会議室に足を運んだ面々に、ベリアルはヘル・ペンタグラムから差し向けられた使者、その正体について明かした。消失魔法技術ロストテクノロジーは僅かに使い方をあやまるだけで大惨事を起こしかねない危険な技術だ。発見した場合、速やかなに〈神の代理人〉に報告し、代理人監視下の元、厳重に管理する決まりとなっている。秘匿や破棄は、大罪とされる。


 だが、ベリアルとアルトリウスはアレ・・について〈神の代理人〉に報告を上げなかった。


 レニス・アヴァルティーヌ議員を筆頭に、代理人の中に魔導兵器復活を掲げる革新派勢力が増え始めているのに、ベリアルは懸念を感じていた。ヘル・ペンタグラムという脅威を前にしてアレの存在がおおやけになれば、革新派の勢いはさらに増し、魔導兵器開発の気運は間違いなく高まることとなる。しかし三賢者を筆頭とする保守派は、断じてそれを認めないだろう。そうなれば、革新派と保守派によって議会が二分されてしまう。平時であれば構わない。むしろ対立というものは組織にとって健全な状態だとさえいえる。だが、準戦時下態勢での議会の分断は、何としてでも避けなければならない。だからこそベリアルとアルトリウスは、この件に関わったすべての騎士たちに箝口かんこうを約させた。封印術を施し、拘束具で身動きを縛り、騎士団の牢獄に幽閉することで、アレの存在を秘匿した。いつかは神の代理人に報告しなければならない。だが、それは今ではない。


 議会の分断を避ける為に、法を冒した。


 聖都を救う為には、これしかなかった。


 ベリアルの告げた真実に、その場の全員が愕然がくぜんとした。とりわけ三賢者の顔からは血の気が引いた。よもやそのような物が聖都に持ち込まれているなどと、彼等は夢にも思っていなかったのだろう。しかしさすがは各機関の長、彼等はすぐさま落ち着きを取り戻し、堕天使の説明を吟味し、議論し、迅速に決断を下した。


 状況が状況、此度の背信行為は、不問とする。


 ベリアルは深々と頭を下げたのち


『本題はここからだ』


 全員の顔を順々に見つめ、重々しく告げる。


№11イレブンを、アレと引き合わせる』






 ベリアルは整然と扉の並んだ廊下を歩く。


 貴賓室エリアは静寂に包まれている。誰ともすれ違うことはない。現在、この区劃への立ち入りは禁じられている。眼が眩むほどの純白が、視界の先まで伸びている。堕天使の鉄靴の音だけが、白い空間に響きわたる。






『何を考えているッ』『気は確かなのですかッ』


 ベリアルの提案を聞くや否や、シュルツとイザベルは体裁をかなぐり捨て、声を荒げた。


『わかっているのかッ、あの男は完全に狂っているのだぞッ!』『そんなものをイレブンに見せるなど、正気の沙汰とは思えませんッ!』


 常日頃の姿からは想像もつかぬ激しい口調で捲し立てるふたりの賢者に、教皇ソルストレムは固まり、枢機卿たちはざわめき、聖女シャルルアーサですら驚きに眼を見開く。シュルツは拳を机上に叩きつけ、イザベルは髪を振り乱し、そうしてふたりはベリアルに指を突きつける。


 激して止まぬふたりの猛抗議を制したのは、三賢者が最後のひとり、ロイタードだった。


『よさぬか。我等は神の名の下に聖魔導師の称号を与った身、これ以上恥を晒すでない』


 窘めるようなロイタードの口調にふたりは我に返り、恥じ入るように眼を伏せ、静かに着席する。


『イレブンと引き合わせる、か』両掌を組み合わせ、ロイタードはゆっくりと口を開く。賢者の名に相応しい怜悧な瞳が、ベリアルを見つめる。『それが最善だと、本当に思うているのか? シュルツとイザベルが取り乱すのも無理からぬこと。奴を知らぬ堕天使殿ではあるまい。イレブンは同胞に誇りを抱いている。その誇りこそが、奴の中に唯一見出せる人間性なのかもしれぬ。だが、その人間性がゆえに、イレブンは危険なのだ。同胞のそのような姿を眼にすれば、聖都に厄災が降りかかるのは必定。それを分からぬ堕天使殿ではあるまい』ロイタードはベリアルの傍らに視線をやり『聖騎士殿、貴方もこの提案が馬鹿げているとわかっているはずだ。なぜ、堕天使殿を諫めない』


 アルトリウスの銀の瞳が、ロイタードを見返す。『貴公等の云い分は、理解できる。私としても、諸手もろてを挙げての賛成ではない。だが、ベリアルの主張にも、一理ある。とりあえず、我が友の話に耳を傾けろ』


 ベリアルは感謝するようにアルトリウスに頷きかけ、


『我々がもっとも恐れなければならないのは、イレブンとアレを引き合わせる事ではない』


 威儀を正し、力強く重低音を響かせる。


『我々が真に恐れなければならない状況……それは、イレブンが自発的にアレを見つけてしまう・・・・・・・ことだ』


 そう、それこそが聖都にとって最悪のシナリオとなる。


『勿論、可能性は低い。現在アレは、騎士団管轄の監獄に、幽閉されている』


 監獄は聖都の城壁同様、防禦魔方陣を施された堅牢な造りであり、さらには二重の封鎖結界によって完璧なまでに外部から隔離されている。外からの侵入も、内からの脱獄も、まず不可能。ましてアレが幽閉されているのは監獄最深部に設けられた特別隔離監房だ。危険存在を投獄する為のこの監房は、大戦時に造られた対ドラゴン用の檻を流用し造られた、まさしく鉄壁の牢獄。情報が漏れる心配は、まずもってない。まずもってないが、しかし、現在の聖都の影という影には、クシャルネディアが放った監視用の奴隷スレイブが蠢き潜んでいる。巨塔のみならず、我等が客人は聖都にまでその触手を伸ばしている。クシャルネディアの興味が向けば、監獄の結界は間違いなく破られる。特別隔離監房は彼女が直接出向かなければ破壊は至難であろうが、クシャルネディアの実力を考慮するに、影を使いその中を覗く程度の事は可能だろう。クシャルネディアへの露見はイレブンへの露見と同義。


 あるいは、ヘル・ペンタグラムによる襲撃。奴等の侵攻が始まれば ──それは〈神聖魔防壁サンクトゥス・ペゾルドルガード〉の破壊という、最悪の事態を意味するのだが── 聖都は未曾有の危機に直面する事となる。超越魔物の集団により人は、聖都は、神は、蹂躙される。瓦解し崩落する街並みの中には、当然監獄もあるだろう。そうして脱獄を果たしたアレが、もしイレブンの眼に触れてしまったら。


 考えられる状況は、無数にある。


 様々な可能性が、無限に枝分かれしている。


 考え過ぎかもしれない。


 警戒のし過ぎかもしれない。


 だが、しかし。


『イレブンを知らぬ私では無いと、先ほど云ったな』三賢者に向け、ベリアルは力強く、大きく頷く。『その通りだ。私は奴を知っている。アルトリウスも奴を知っている。そして当然、貴方たちもイレブンを知っているはずだ。ならば、分かるはずだ。何があろうと、イレブンに同胞を見つけられるわけにはいかない。我々の方から、引き合わせねばならない。そうしなければ、云い訳が立たない。我々の手によるものでないと、証明しなければならないのだ』


『破壊すればいいではないですか』落ち着きを取り戻したイザベルが、口を開く。『イレブンに発見されるのを恐れているのであれば、貴方たちの手元にある生体兵器の残骸を、処分すればいい話ではないですか』


『左様』『然り』


 シュルツとロイタードの追随に、


『なるほど、私も一度はそう考えた』ベリアルは首を振り、つよい眼差しで三賢者を見やる。『だが、アレを処分するのは最善ではない。近く起こるであろうヘル・ペンタグラムによる聖都襲撃によって、確実に〈聖剣の護り〉は突破される』反論されるのを見越し、ベリアルは鋭く手を掲げ、一同を制する。機先を制された三賢者と教会の面々は、口を開きかけたまま、動きを止める。『真実から目を背けるのは、いい加減やめにしよう。ヘル・ペンタグラムが我々に宣戦布告を叩きつけたのだ。勝算のないいくさを、奴等が仕掛けるとは到底思えん。ヘル・ペンタグラムは結界を破壊するすべを持っている。そしてその方法に関しては、おおむね見当がついている。貴方たちも、薄々は感づいているのではないのか』


 神の結界を消すことのできる存在は、ただひとり。


 全員の脳裡に、その男の姿が思い浮かぶ。


 穢れた大勇者の姿が。


『ベリアルの考えは、正しい』静かに、アルトリウスが口を開く。『すでに各国から返答は届いている。幾つにも切断し世界各地に安置していたギグの聖遺物、その封印が、かれていたそうだ』


 聖騎士の言葉にざわめきは起こらない。


 ただ、重苦しい沈黙が会議室を満たす。


 全員がその言葉の重みを、その意味する所を、強く噛み締めている。


 水底のように深く落ち着いた声色で、アルトリウスは淡々と告げる。『奴が復活していた場合、〈神聖魔防壁サンクトゥス・ペゾルドルガード〉は間違いなく無力化される』


『我々はもはや、無傷では済まない』友の言葉をベリアルが引き継ぐ。『結界が消え去れば、ヘル・ペンタグラムは聖都に襲い掛かる。一体一体が私やアルトリウスに匹敵する超越魔物トランシュデ・モンストルだ。この地は、熾烈を極めた戦場と化す。その惨状は、三百年前に匹敵、あるいは凌駕するかもしれん。そしてそこには、イレブンがいる』ベリアルの眼裡まなうらが、大戦時の記憶に赤く煙る。生体兵器の手足となって戦場を蹂躙し尽くした〈赫い手アザ・ルド〉。一振りで都市を両断し、敵味方の区別なく甚大な被害をもたらした〈赫刃ザルベグ・ルド〉。そして鬼神の有する最大火力、あらゆる物を滅し、世界すら削り取る、竜殺しにのみ赦された〈魔の法則・・・・〉。ベリアルは眼を開き、現実に立ち戻る。『アレを処分したところで、同じ事だ。イレブンがいる時点で、聖都が甚大な被害をこうむるのは避けられない。そして避けられないのであれば、この状況を最大限利用するしかない。イレブンを制御することは出来ない。だが、誘導することならば可能だ。危険ではあるが、アレを使い、イレブンの矛先をヘル・ペンタグラムへと向ける』


 再び、会議室に重苦しい沈黙が垂れ込める。


 教皇と枢機卿は落ち着きなく視線を交わし、三賢者は過去の過ちに、唇を噛む。


 静寂を破ったのは、シャルルアーサだ。凜とした声色で、彼女は一言だけ声を発する。「成功すると思いますか?」


『イレブンの性格を考えるに、見込みはある。だが、確約はできない。これは、賭けなのだ』


 選択の余地などない。


 神聖都市国家セイリーネスの敗北はすなわち、人類の敗北。


 負けることは赦されない。必ず勝たなければならない。


 だからこそ、賭けなければならない。


 どれだけの犠牲を払おうとも。どれだけの代償を支払おうとも。


 決然としたベリアルの声が、室内に響く。


『さあ、議論を続けよう。一両日中には決断を下したい』






 そしてベリアルは今、その部屋の前に立っている。


 数日前に訪れた時と何ひとつ変わらぬ、貴賓室の白い扉。


 ノックをすると、ゆっくりと扉が開かれる。


「これはこれは」驚いたように口元に手を当て、クシャルネディアは嫣然えんぜんと微笑む。「まさか貴方がこんなにも早く私の元を再訪するとは思ってもみなかったわ、ベリアル・シルフォルフ。それも、こんな明け方に」


「礼儀を欠いていることは謝る、クシャルネディア・ナズゥ・テスカロール。だが、先ほど議会である議案が可決された。善は急げと云うだろう。議会終了と共に、私は此処ここを訪れることにした。それと、申し訳ないが、今回は君に会いに来たのではない」ベリアルはクシャルネディアを見つめる。「前回、去り際に君に伝言を頼んだ。覚えているか?」


「会わせたい者がいる、でしょ? ええ、サツキ様には伝えたわ」


「それで?」


「特には。知っているでしょ? あの方が興味を抱く対象は、ごく僅かしかない」


「イレブンに会わせてくれ」


「貴方なら、その資格は十分に持ち合わせているわね」クシャルネディアは扉を大きく開け放ち、一歩身を退く。


 再び、ベリアルは伏魔殿へと足を踏み入れる。


 堕天使の姿に、緋色の絨毯に胡座あぐらをかいていた大きな影が立ち上がった。「ベリアル、だったな」


「やあ、アステル。君に会うのは医術院の処置室以来だな。予後はどうだ。医術院が君の助けになっているといいのだが」


「感謝してもしきれぬくらいだ。彼等のおかげで、私は今もこうして立っていられる」アステルは幾分緊張した声色で、言葉を繋ぐ。「話は聞いていた。サツキに会いに来たのか」


「そうだ」室内を一瞥し、ベリアルはクシャルネディアの美しい横顔を見る。「イレブンは、何処にいる」


「今、お呼びするわ」クシャルネディアが腕をひと振りすると、伏魔殿の中心に亀裂が走る。〈魔の廻廊デモンズ・サモティオフ〉の〈ゲート〉。彼女は優雅な歩様で門に近寄り、重い闇に向かって美声を響かせる。「サツキ様、御客様がいらっしゃいました」


 クシャルネディアが所有する最深度の異界〈奈落アビス〉。


 底無しの闇の中から、人影が立ち現れる。


 灰色の髪。赫い瞳。右腕に刻まれた№11イレブンの刻印。


 伏魔殿に、サツキが降り立つ。


 生体兵器が放つ云いようのない気配にアステルは身を固くし、クシャルネディアは恭しく一礼し、その傍らに控える。


 そしてベリアルは、強く拳を握る。


 サツキはぞんざいに堕天使に眼を向ける。「俺に何の用だ、ベリアル」


 ベリアルは赫い瞳を見つめ返す。「言付けを聞いているはずだ、イレブン。君に会わせたい者がいる」


「誰だ」


「それは、君の」そこでベリアルは口を噤む。これからイレブンをアレ・・と引き合わせるのだ。ただでさえ、何が起こるのか予想が付かない。今の段階でイレブンを刺激するような情報は、極力与えない方がいい。そう、これから嫌という程イレブンを刺激する事になるのだから……ベリアルは威儀を正し、力強く首を振る。「いや、悪いが今の段階では名は明かせない」


「それはいくらなんでも礼節を欠いているんじゃないかしら」ぴしゃりと、クシャルネディアが口を挟む。蒼眼は剣呑な光を帯び、声色は氷のように冷たく、口元に先ほどまでの微笑は見当たらない。「名を明かすこともできないような者を、まさかサツキ様に会わせるつもり?」客人をもてなす美姫の皮を脱ぎ捨て、クシャルネディアは竜殺しの〈剣〉として、その牙を剥く。「そもそも、そちらから謁見を願い出ておいて、その者の姿が見えないというのは一体どういう了見かしら。まさかサツキ様自らその者の元まで出向けとでも云うつもり?」


「君の云い分はもっともだ、クシャルネディア。しかし、何を云われようと現段階で彼の名を明す事はできない。そして、彼は此処ここを訪れる事もできない。現在彼は、幽閉されている。申し訳ないが、君には騎士団の監獄まで御足労願いたい」


「監獄?」クシャルネディアが眉を顰める。「サツキ様を罪人と引き合わせるつもり?」


「そういう訳ではない。幽閉するに然るべき場所が、そこしかなかったというだけの話だ」


「なぜ、幽閉を?」


「その理由も、明かすことはできない」


「お話にならないわね。サツキ様、このような申し出に付き合う理由は」


 そこまで云って、不意にクシャルネディアは口をつぐむ。


 サツキの鋭い一瞥。ざらついた声が、彼女の耳朶を掠める。


「俺が決めることだ」


 クシャルネディアは素速く襟元を正し、


「私としたことが、些か昂ぶってしまったようです。出過ぎた真似を御赦しください」


 鄭重ていちょうこうべを垂れ、身を退く。


 サツキは堕天使を見る。「なぜ、俺に会わせたい」


「君にとって、重要な人物だからだ」


 ベリアルの問いに、サツキはいぶかしげに眉を顰める。


「聖都には君にとって重要な人物などいない、そう思っているのだろうな」ベリアルは一歩、サツキに近づく。「生憎と、それは間違いだ。現に、君は代理人議場でシャルルアーサと邂逅を果たした。彼女は君に矛を収めさせた。たとえそれが一度限り君が赦した僅かな譲歩なのだとしても、聖都には君にとって価値のある人間がいる、その証左にはなったはずだ。そして私がこれから案内する先に待ち受ける人物は、シャルルアーサとは比較にならぬほど君にとって重要な人物だと、私は断言できる。君は、彼に会うべきだ」


 サツキは答えない。反応しない。


 真意を推し測るように、ベリアルの兜を、ただ注視する。


「信じられないと云うのであれば、わかった。神に誓おう」


 その言葉に、サツキは僅かに眼を見開く。


 現在では願掛けの意味合いを込めて用いられる『神に誓う』という慣用句であるが、本来は〈教会〉の信徒が殉教も厭わぬ覚悟を示す為に使っていた合言葉だ。三百年前の全面戦争時、兵士たちは出征の前にこの言葉を胸に、死地に赴いた。第一天使魔導師団の〈天使アンヘル〉たちはドラゴンの軍勢を前に、鬼気迫る形相で勝利と殉教を神に誓った。狂気、あるいは狂信。ベリアルは命を懸けると云っているのだ。魔物である彼が、〈堕天使デモン・ドイカ〉である彼が、神に殉じてまでサツキを連れ出そうとしている。


 それ程までに重要な人物がいると、ベリアルはその狂気をもって示している。


 サツキの赫眼あかまなこに興が浮かぶ。


 狂気は、サツキが好む数少ないもののひとつだ。


「頼む」ベリアルは神への礼拝を思わせる恭しさで、サツキに頭を下げる。「どうか、頼む。彼に会いに来てくれ」






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