18 予兆
【18】
「〈黒狒狒〉は、謎が多い」腕を組み、ベリアルは厳粛な響きを声に滲ませる。「彼等は自らの領土に蟄居し、現世に干渉しない。我々が所有する最も古い文献によれば、彼等は千余年前の神魔戦争の時代にはすでに、〈閻魔ノ数珠〉を根城としていたらしい。そしてその千余年の歳月の中で、黒狒狒が現世を訪れた記録は、ほとんど存在しない。三百年前の大戦時でさえ、彼等はあの群島を離れることがなかった。我々は黒狒狒がどういう存在なのか判断できずにいる。敵なのか、中立なのか、危険なのかどうかさえも」
「だから黒狒狒の名がブラックリストに載っていないのね」
「そうだ」クシャルネディアの言葉に、ベリアルは頷いてみせる。「存在こそ把握しているものの、颱の獅鷲同様、危険性を測る為の情報が不足している。〈閻魔ノ数珠〉は禁域の中でも最も遠方に位置し、周囲の海域には強大な魔物が蔓延っている為、近づくことすらままならない。踏査など夢のまた夢だ。我々は黒狒狒について、パズズ以上に何も掴めていない。だからこそ教えてくれ、黒狒狒が聖都の敵になり得るのかどうかを」
「正直、私も猿魔については詳しくないの。貴方の云うとおり、奴等は外界に姿を現さない。情報を得る機会は皆無に等しい」とはいえ、とクシャルネディアは前置きする。「私たち魔物には独自の情報網がある。だから、噂くらいは私の耳にも届いている。その噂を事実と仮定するなら、黒狒狒がヘル・ペンタグラムの翼下に加わっている可能性は、限りなくゼロに近いわ。奴等は、狂っている」
「どういうことだ」
「領土に引き籠もって、奴等が何をしているかご存じ?」
首を振るベリアルに、クシャルネディアは微笑みかける。
「殺し合っているの」
「なに?」
「黒狒狒は、同族同士で殺し合いをしているのよ。それも千余年もの間、途切れることなくね」
「なぜ、そのような真似を」
「極致へと到る為、だそうよ」クシャルネディアは口元から笑みを消す。「黒狒狒は〈斬魔剣術〉と呼ばれる相伝の術を扱う。その術を研ぎ澄ます為に、奴等は同族同士で殺し合いを行う。つまり、蠱毒よ。あの群島には蠱毒を行うための封鎖結界が幾つもあると云われている。その結界内で殺し合い、生き残った者が子を残し、繁栄し、また殺し合う。その一連の流れを奴等は延々と続けている。蠱毒、殺戮、共食い……その果てに斬魔剣術は〈魔技〉の極致へと到る、そう信じてね」
「正気とは思えんな」
「狂っていると云ったでしょ? でも、だからこそ黒狒狒がヘル・ペンタグラムの可能性は極めて低い。千年妄執に取り憑かれているような奴等なのよ、懐柔も籠絡も、どころか話が通じるのかさえ疑わしいわ。私はむしろ、黒狒狒がヘル・ペンタグラムと敵対している可能性さえあると思っている。超越魔物は多かれ少なかれ、その身に狂気を宿している。だからこそ、私たちは超越者足り得ている。けれども猿魔の狂気は、度を超えている。黒狒狒は危険よ。超越魔物からすらその存在を疎まれる程に」
「何も知らないと云うわりには、詳しいな」
「云ったでしょ、あくまでも私が語ったのは風聞の類い。まあ、確度は高いでしょうけどね。私が本当の意味で奴等について知ってることは、今現在、黒狒狒どもを束ねている巨魁の名前くらいかしら」
「何という名だ」
「修羅丸」東方の魔物たちが操る魔語、その発音のニュアンスを正確に捉えながら、クシャルネディアは告げる。「黒狒狒流斬魔剣術 七代目当主 修羅丸。歴代最強の使い手と目される男よ」
*****
古塔に降り立ったシュラマルは、周囲に鋭い一瞥をくれる。獅鷲、九尾、死霊、魔女、魔人、悪魔、そして勇者。逆五芒星の元に集った超越魔物。つまり、彼の同胞。しかしその全てから距離を置くように、シュラマルは室内の隅へ向かって歩き出す。崩壊寸前の古塔の中にあってその場所の天井と外壁は無傷を保っており、皎皎たる月光は差し込まず、夜を凝集したかのような深い闇が、ただそこに凝っている。その闇に紛れるように、黒狒狒は胡座をかく。
「随分と遅れた登場だな、シュラマル」朗々と、イビルへイムが声を張る。「〈聖都落とし〉の前に、今一度歓談の場を設けると云っただろう? もう少し時間に気をつけてもらいたいものだな」
「くだらん」重い錆声が、闇を射貫く。「貴様等と交わす言葉など無い。失せろ」
「まさか具合が悪いわけではないだろうね? 君が心臓に重い病を抱えていると、ジュリアーヌから聞いているよ。どうだろう、一度診察させては貰えないだろうか。私はこの世界に存在するあらゆる治癒魔法に精通している。再生も、蘇生も、私ならば思いのままだ。是非、同胞たる君の為に」
「聞こえなかったか?」断固と、シュラマルはイビルへイムを一蹴する。「俺は失せろと云っている」
「愛想もへったくれもないね」背筋の毛を逆立て、威嚇するように牙を剥き、キルククリが吐き捨てる。「だから猿は嫌いなんだ、礼儀も常識も、あったもんじゃない。さすがは千年身内で殺し合ってる気狂いだ、こんな奴が仲間なのかと思うと虫唾が走るよ」
「この化け狐に同調するのは癪だが、貴様の態度はさらに癪だ、黒狒狒」ズグの獰猛な瞳が、シュラマルを射貫く。兄に倣い、弟ふたりも猿魔を睨み据える。「仮にもヘル・ペンタグラムに所属している以上、俺たちは同胞のはずだ。少しは敬意を示したらどうだ」
九尾と獅鷲の殺意が、黒狒狒へと向けられる。
空間を軋ませるほどの凄絶な殺意を、しかしシュラマルは意に介さない。依然胡座をかき、その躯は脱力し、退屈そうに長い腕で頸元を掻く。「駄犬ではあるまいに、吠えるな」うんざりしたように吐き捨て、気怠げな眼差しを両名に向ける。「〈無羅獅鬼鷹〉という目的がなければ、貴様等など疾うに殺している」瞬間、シュラマルの眼つきが変わる。極限まで研ぎ澄まされた殺意が虹彩を縁取り、中心の瞳孔が抑えきれぬ狂気に輝く。その身からは殺気が立ち上り、狒狒の黒い鬣が陽炎のように揺らめく。「俺の力量を測れぬほど耄碌しているわけでもあるまい、噛みつく相手を間違えぬことだ。この場で俺を相手取れるのは、その退魔師だけだ」シュラマルは玉座の勇者を、その傍らに立て掛けられた二振りの妖刀をしばし見つめる。
一拍の間を置き、シュラマルは殺気を解く。腕をだらりと垂らし、眼を瞑り、
「わかったなら、黙っていろ」
忠告し、それきり瞑想に移る。
その様に九尾は悪態をつき、
獅鷲は静かに猛り、
魔人は肩をすくめ、
死霊はやれやれと首を振り、
悪魔はお手上げとばかりに手を広げ、
勇者は愉しげに舌を出す。
そして魔女は、
「相変わらず、ツレない男ね」ケラケラと嗤い、二叉の黒猫の背から飛び降りる。異形の杖を肩に担ぎ、踊るような歩様で黒狒狒に近づく。「アンタが偏屈なのは知ってるし、それ以前に頭がイカれているのも承知してるけどさ、同じ〈羅狒魁〉の眷属の誼、アタシの話くらい聞いてくれてもいいんじゃない?」ジュリアーヌは身を傾け、シュラマルの顔を覗き込む。「さっきの質問に答えてよ。アンタなら、魔獣狩りを殺せる?」
片眼を開き、シュラマルはジュリアーヌを睨む。「誰のことだ」
「アンタって本当、現世に何の興味もないのね。この前、此処で話したじゃない、アタシたちと敵対関係にある人狼よ」
「豺狼の類いか」つまらなそうにシュラマルは鼻を鳴らす。「野良犬など、俺が刀を汚すまでもない」
「ただの野良犬じゃない。この大陸でも一、二を争う化け物よ。アタシの見立てじゃ、魔獣狩りを相手にしたら、アンタは黒狒狒の掟を破ることになる」
シュラマルは両眼をゆっくりと開く。眉を顰め、魔女の言葉を吟味するように指先で刀の柄頭を擦る。「この俺が、夜叉丸様の定めた禁戒に叛くと?」黒狒狒の形相に、鬼気が迫る。「この俺に〈禁術〉を使わせると、そう云っているのか?」
ジュリアーヌは満面の笑みを浮かべ、頷く。
「面白い」シュラマルの口端が、わずかに歪む。「どれほどの豺狼かは知らぬが、貴様にそこまで云わしめるのだ、なかなかどうして侮れぬ器なのだろう。もう一度名を云え」
「魔獣狩りのガルドラク」
「覚えておこう」
その言葉を最後に、今度こそ完全にシュラマルは沈黙に沈み込む。
完璧なる寂寞が、古塔を覆い尽くす。
「さて、諸君」機を得たりとばかりに、イビルへイムが闇の中から躍り出る。「随分と剣呑な雰囲気になってしまったが、今目の前で起きたことはすべて水に流そうじゃないか。我々ヘル・ペンタグラムはこれから聖都を落としにかかる。数刻後には神の結界は跡形もなくなり、セイリーネスは阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。人類が、聖性が、何より神が、地に堕ちる。その光景に比べれば、我々の間の小競り合いなど些末なことに過ぎない」そこで何かを思い出しように、死霊は額に手を当て、嗤う。「もっとも正確に云えば、聖都落としが始まるのは数日後なのだがね」
「どういうことだ」今だ苛立ちの収まらぬズグが、獰猛に唸る。
「俺たちが聖都を滅ぼすのは今日のはずだ」
「勿論、その通りだ。聖都落としは今日、後数刻にその口火は切って落とされる。だがセイリーネスでは、数日後の出来事なんだ」
「そういう勿体ぶった言い回しが君の欠点だって、気づいてる?」キルククリがじろりとイビルへイムを睨む。「ただでさえ機嫌が悪いんだ、さっさと結論を云ってほしいもんだね」
「時間にズレが生じているんだ」嬉々として、イビルへイムは答える。「我々のいる古塔が封鎖結界によって永遠の夜に鎖されていることは、知っているだろう? この結界内を流れる時間と、外界を流れる時間の速度が、どうやら一致していないようなんだ。我々がこの結界を出るのは数刻後だが、外界ではおそらく数日が経過している計算になる」当然ながら噴出するであろう疑問を制するように手を掲げ、
「生憎と原因は分かっていないが、しかしある程度の見当はついている」
イビルへイムは朗々と捲し立てる。一分の隙も無い程完璧に鎖された結界、その中に、十体もの超越魔物が集結しているのだ。ひとりひとりが膨大な魔力を宿し、その身から溢れる漏出魔力は逃げ場のない結界内に蓄積され、澱のように積み重なっている。さらにはひとりひとりの個室として、イビルへイムは十の空間を結界内に重ね合わせ、自由な出入りを可能とする為に十を越える〈魔の廻廊〉を張り巡らせた。高密度の魔力蓄積と、計二十を越える空間魔法の重ね掛。結界という封鎖空間内に、負荷を掛け過ぎている。時空が変調をきたしたとしてもおかしくはない。「魔導師としては、今すぐにでもこの現象を調査したいところだが……噫、皆まで云わないでくれ、心得ているよ。優先すべきは聖都を陥落させることであり、謎の究明ではない。この現象の研究は、セイリーネスを滅ぼしてからじっくり行う事にしよう」
「数刻待つ必要があるのか?」ザラチェンコの蛇の瞳が、冷たい光を放つ。「すでにセイリーネス上空に〈門〉は設置済みなんだろう? 全員揃ったんだ、なぜ今すぐ聖都を強襲しない?」
「もっともな疑問だな、ザラチェンコ。最高の舞台が整うのを待っているのだよ」
「どういうことだ?」
「建国記念日だろ?」イビルへイムが答える前に、ギグが口を開く。「あと数日もすればセイリーネスの建国記念日だ。お前の狙いはその日だろ?」
「さすがは我が王、貴方に隠し事は出来そうにないな」
「お前はわかりやすい性格だからな」そう云って、ギグは嗤う。「まあ、些か演出過剰とはいえ、建国記念日が亡国の日に裏返るという皮肉は、なかなかどうしておれ好みだ。数刻だろうが何だろうが、好きなだけ待てばいい。だがひとつ、お前は間違いを犯した。本当に記念日を地獄絵図に変えたかったのなら、宣戦布告などせずに不意打ちで強襲すべきだったんだ。おそらく今のセイリーネスは準戦時下態勢に移行している。例年のような祝賀祭は望めそうにない。おれたちを待っているのは、なかなかに味気ない光景だろうな」
「その点に関しては反省している。だが、ようやく我々の時代が訪れる、そう思うと興奮を抑えることができなくてね、つい、感情的になってしまった」くつくつと喉を鳴らし、イビルへイムは心中で呟く。何よりも、あれほどの玩具が手に入ったのだ、手元に置いておくだけではあまりにも勿体ない。連合の残党である聖都に送りつける使者として、あれほど相応しい玩具はそうそうない。大戦を勝利に導いた英雄のひとりが、聖都に滅亡を告げる始まりの狼煙となる、その悪趣味なまでの皮肉を、是非とも聖騎士に、堕天使に、何よりセイリーネスに味わわせたかった。「何にせよ、過ぎてしまったことは仕方がない。神を讃える盛大なパレードは見られないまでも、最高の舞台であることに変わりはない」
獅鷲。
九尾。
魔人。
魔女。
悪魔。
狒狒。
勇者。
〈地獄に堕つ五芒星〉。
その同胞たちに向け、死霊は仰々しく一礼してみせる。
「それでは諸君、その瞬間が訪れるのを、歓談でもしながら待とうじゃないか」
*****
「手間をかけさせた」
「気にしないで。私はただ、礼儀に応えただけ」
示し合わせたように、ベリアルとクシャルネディアは立ち上がる。
伏魔殿の様相に変わりはない。壁面は赤黒い壁紙に覆われ、床には緋色の絨毯が敷かれ、燭台で揺れ動く燈火は淡い血の色となって室内をぼんやりと照らしている。まるで時間の経過を感じさせぬ室内、しかしこの空間の外は、間違いなく夜の帷が降りている。それほどまでに長く、ふたりは話し合っていた。
クシャルネディアが先導に立ち、ふたりは扉に向かう。
ヘル・ペンタグラム以外にも、ベリアルは幾つか〈魔〉に関する質問を彼女に投げかけた。時折銀杯を血で満たしながらも、彼女は粛々とその疑問に答えていった。途中、クシャルネディアは掌に収まるほどの、異様な物体をベリアルに差し出した。形状からいって、それはシャルルアーサに渡した物と同様の〈鍵〉だった。『貴方たち、ふたりに』鍵は、ベリアルとアルトリウスの為に二本、用意されていた。『聖都にとっては、決して悪い提案ではないはずよ』言葉通り、クシャルネディアの提案は納得のいくものだった。ベリアルは鍵を受け取り、話を続けた。対話はふたりの想像を超えて長引いたが、しかしついに終わりを迎えた。
ベリアルは最後に、何よりも知りたい質問を口にした。『〈神聖魔防壁〉を突破する方法を、知っているか』
『私が知る限り、ないわ』ぴしゃりと断言し、クシャルネディアは艶然と微笑んだ。『けれど、もしヘル・ペンタグラムが結界を破壊する術を手に入れているのだとすれば、貴方たちはお終いね』
その言葉が、今だベリアルの耳朶に尾を引いている。
クシャルネディアは扉を開ける。
「それで、私との会話は役に立ったのかしら」
「多くのものを得ることができた。感謝する」
「礼には及ばないわ。云ったでしょ? 礼儀に応えただけだと」
ベリアルは伏魔殿から外に出る。純白の廊下。清潔な空気。温かい神の魔力粒子。魔物でありながら、ベリアルが開放感を得られるのは、この空間だ。
クシャルネディアは客人を見送るように小さく一礼し、扉を鎖そうと把手に手を掛ける。
「クシャルネディア」名を呼ばれ、彼女は手を止める。ベリアルは振り返り、女王の美貌を見つめる。
先ほどの言葉は、いまだ尾を引いている。
言葉を続けぬ堕天使の姿に、クシャルネディアは怪訝げに眉根を寄せる。「何かしら」
「君にひとつ、頼みがある」
「内容によるわね」
「簡単な事だ。№11に、伝言を頼みたい」ベリアルの中の理性が、警告を発する。危険すぎる。それはあまりに危険すぎる。この件にイレブンを巻き込めば、間違いなく聖都に厄災が齎される。今ならまだ、引き返せる。今なら、まだ……だが、それでも、とベリアルは拳を握る。三体の〈颱の獅鷲〉がヘル・ペンタグラムの翼下に加わっていたとしたら。可能性は低いとはいえ〈黒狒狒〉が奴等の側に立っていたとしたら……ベリアルは威儀を正し、クシャルネディアに向かい合う。たとえ最悪の結末となろうと、聖都の現状を考えれば、これ以外の選択肢は、無い。
決意を胸に、ベリアルは伝言を告げる。
「イレブンに伝えてくれ。近々、会わせたい者がいる、と」




