15 殺スノダロウ
【15】
ベリアルは思わず立ち止まった。
巨塔の一室に足を踏み入れた、そのはずだった。
眼前に、魔の居城が広がっていた。
本来の貴賓室は床板から天井、家具調度に到るまで、すべてが神を象徴する純白をもって設えられている。しかしベリアルが足を踏み入れた貴賓室は、明らかに様相を異にしている。豪華絢爛な調度の数々、艶やかな毛並みを持つ豪奢な絨毯、眼を瞠るような吊燭台。壁には幾つもの絵画が並び、その壁面は黒薔薇を思わせる暗紅色。聖都に特有の清廉や静謐とは程遠い、過剰な、暴力的なまでの贅が凝らされている。そしてそのすべてが血、骨、皮といった、人間や亜人の屍体を素材として造られている。魔の技巧により彩られたこの空間はまさしく伏魔殿、聖都が来客を迎えるた為の一室では断じてありえない。
「内装が気に入らなくてね。少々弄らせてもらったわ」クシャルネディアはベリアルを見やる。「お気に召さないかしら?」
「君の所有する空間か」
「そうよ。この部屋に私の〈居城〉を重ねているの。聖都の感性にはうんざり。貴方なら理解できるんじゃない?」
「生憎、神に仕えて久しい身だ。魔物の頃の感性は、とうに擦り切れている」
「それじゃあ、私の空間はさぞ不快でしょうね」クシャルネディアは微笑する。「どうしてもというのなら、貴方が此処を立ち去るまでの間、室内を元に戻しても構わないのだけれど」
「いや、君たちの為の貴賓室だ。このままで構わない」
「見かけによらず紳士なのね」
「客人に礼をもって接するのは聖都の流儀。騎士の流儀でもある」
クシャルネディアは伏魔殿の中央に配された腰掛に座り、対面の席をベリアルに勧める。玉座の如き豪奢な椅子。当然、その材質は屍体だ。胸中に何を抱いたにしろ、ベリアルはその感情を表には出さず、クシャルネディアの眼前に腰を下ろす。
白金の鎧と闇の被衣。
神の騎士と血の女王が向かい合う。
「それで」寛ぐように背もたれに深く身を沈め、クシャルネディアは鷹揚に問う。「一体、この私に何の用かしら」
「幾つか君に訊きたい事柄がある」
「サツキ様ではなく、なぜ私に?」
「私の疑問に答えられるのは№11ではなく君だ、クシャルネディア。私が知りたいのは〈地獄に堕つ五芒星〉に関することだ」
「まあ、他にないものね」
「君なら、あの組織について詳しいはずだ」
「最低限の礼儀として、貴方を私の居城に迎え入れはしたけれど、だからといって貴方の問いに答える義務が私にあるのかしら」依然、蒼白い唇は微笑を湛えてはいるが、女王の蒼眼は冷ややかな敵意に縁取られている。「確かに私にとってヘル・ペンタグラムは敵よ。節度と礼儀を弁えないああいう狼藉者たちには我慢ならないわ。でも、だからといって私が貴方たちに与するなどと思われるのは、心外よ。貴方たちは〈神〉の側。利害が一致しているからといって、必要以上に貴方たちに協力する義務が私にあると思う?」
「あるはずだ」
「なぜ?」
「今の君の言葉の中に答えがある。種族の垣根を越え、貴人とは誇り高いもの。礼には礼をもって応える、それが貴族階級の掟であり、義務のはずだ」
「十分に礼は尽くしていると思うけれど」
「不十分だ」ベリアルは力強い視線を女王へ向ける。「君が云うとおり、我々は〈神〉の側だ。本来であれば君のような魔物を聖都に立ち入らせることなど、絶対にあり得ない。だが、君は魔物であると同時に、イレブンの〈剣〉だ。その立場に敬意を表し、我々は君を聖都へと迎え入れた。それも、賓客という身分でな。我々は君に便宜を図っている。巨塔内を自由に歩き回る事を黙認し、君が監視用の魔物を巨塔の影という影に潜ませている事実をも是認している。君が魔物であるかに関係なく、我々は賓客たる闇の貴人、クシャルネディア・ナズゥ・テスカロールに最大限の敬意を払っている。君が自らに流れる始祖の血に誇りを抱いているのなら、我々の礼に礼をもって応えてくれるはずだ」
クシャルネディアの蒼眼が堕天使の兜を射貫く。
抜き身のように鋭い眼差しを、しかしベリアルは真正面から受け止める。
しばしの間、両者の間に剣呑な空気が流れた。
超越魔物同士が生み出すその沈黙に空気は凍り、室内は色褪せた。
「なるほど」不意にクシャルネディアが沈黙を破る。瞳から敵意は消え、鷹揚な仕草でベリアルに頷いてみせる。「確かに、貴方の言い分にも一理あるわね。私は私の受け継いだ血を何よりも誇っている。いいわ、質問に答えましょう」
「感謝する」
「それにしても、状況に見合わず貴方たち聖都は随分とのんびりしているのね。ヘル・ペンタグラムの情報を得たいのなら、私が到着したその日の内に此処を訪れればいいものを。余裕の表れかしら。それとも、ただ愚鈍なだけ?」
「後手に回っているのは認めざるを得ないな」言葉と共に、堕天使は嘆息する。そもそもが、ベリアルは此処に来るつもりなどなかったのだ。彼だけではない。アルトリウスもシャルルアーサも、教会も騎士団も賢者院も、誰ひとりとしてクシャルネディアに助勢を請おうなどと思わないだろう。神聖都市国家セイリーネスにとって、ベリアルを除く魔物はすべて討滅対象。敵対することはあっても、協力を仰ごうなどとは夢にも思わない。そんな発想自体が、まず頭に浮かばない。それ程までに〈魔〉とは、セイリーネスにとって唾棄すべき対象なのだ。
だが、ベリアルはこうしてクシャルネディアの元を訪れている。
先ほど、示唆を得たからだ。
「君の知り合いたちと話をした。その時、指摘されたのだ。君から直接話を訊く方が手っ取り早い、とな」
「知り合い?」
「君が呼び寄せたのだろう? 今日の正午に到着したユリシール王国の援軍、アニーシャルカ・デュム・ルガル、ロイク・シャルドレード、ツァギール・イリュムバーノフの三名だ」
その名を聞き、クシャルネディアは虚を衝かれたような顔をする。が、だしぬけに笑い出す。何のてらいもない、純粋に可笑しくて仕方がないというような笑声。口元を抑えながら、クシャルネディアは肩を揺らす。「まさか、本当に来たのね。戯れの脅しを真に受けてこんな辺境の地にまで足を運ぶなんて、なかなかどうして忠義というものを理解しているようね。さすがは私の眷属といったところかしら」
「彼等の話は非常に興味深いものだった」
「私の領域に攻め入った時の話? それとも、帝国の辺境都市が消滅した一夜の話かしら。どちらもサツキ様が関わっているわよ」
「そのようだな。だが、イレブンについて君に訊くべき事は、実の所ほとんどない。三百年前、奴が戦場に齎した災禍の数々は、いまだに私の脳裡に焼き付いて離れない。ことイレブンの危険性についてなら、君よりも私の方が遙かに心得ているつもりだ。云ったはずだ、クシャルネディア。私が訊きたいのはヘル・ペンタグラムに関することだ。我々聖都は、いまだ奴等の全容を摑みきれていない。これ以上後手に回ることは避けたいのだ」
「正直な話、私だってヘル・ペンタグラムの全貌を把握しているわけではないのよ。基本、奴等は表舞台に姿を現さないもの」
「だが、我々よりは遙かに詳しいはずだ」ベリアルは先ほどの話を思い出す。ユリシール王国の三人が語った禁足地での絶望的な闘い。帝国領辺境都市ヤコラルフで繰り広げられた超越者たちによる苛烈を極めた死闘。そして冒険者集団〈紅い羽根〉が遭遇したオルマ領ゼルジー地方での超規模災害。その話を聞く中で、頻出する名前があることにベリアルは気づいた。ユリシールの三人はその名を口にする度に忌々しげに顔を蹙め、紅い羽根の面々はその名を呼ぶ度に不快げに眉根を寄せた。全員が、その名を知っていた。全員が、その名を蛇蝎の如く嫌っていた。
断片的ながら、彼等はその名が指し示すひとりの男について様々な事を語った。
騎士。猟犬。蒼鎧。軽薄。冷酷。巨刃。魔物。逆五芒星。そして、蛇。
「まず、最初の質問だ」ベリアルはクシャルネディアを見据え、力強くその名を口にする。「ザラチェンコとは何者だ?」
*****
男は自らの顔に触れる。右の蟀谷から左の頸筋にかけて、荒々しく裂かれている。掌が血に染まる。猟犬を模した蒼鎧が赤々と濡れていく。地面に流れ出した血汐が一面に広がり、揺蕩う。男は血の海の中に倒れている。だが、男の負った手創は顔面を走る爪痕だけだ。男の浸かる血の海は、彼自身から流れ出したものではない。この血汐は、彼の相棒から流れ出たものだ。
身を起こし、男は眼前に転がる巨大な頭部を見やる。
『……今ノハ、危ナカッタゾ』
首だけになった大蛇が、男に笑いかける。
馴染みのある重低音。だが、その声には、いつもの傲岸不遜な深みが感じられない。
男は立ち上がり、ゆっくりと大蛇に近づく。巨刃を肩に担ぐ。凄まじい衝撃だったが、男がこの剣を取り落とすことはなかった。
『なぜ、庇った』大蛇の額に手を触れ、男は訊く。鱗は屍体のように冷たく、身を覆う魔力の膜も氷のように冷え切っている。元来から、蛇の体温は低い。だが、指先から伝わる温度には、もはや生命が感じられない。男は周囲に視線を走らせる。幾つにも切断された巨大な蛇の胴体が、無残に転がっている。血の海はこの残骸から流れ出たものだ。〈人狼〉が放った強烈なる一撃、その暴威から自身の契約者を護る為、大蛇は男を包み込むように蜷局を巻いた。それだけでは防ぎきれないのはわかっていた。人狼の振りあげた腕は、限界を超えて膨張していた。筋肉、血管、骨、何より、その爪。肉体を構成するすべてが、圧倒的な暴力そのものと化していた。〈金狼〉と成った狼の一撃を真正面から受け止めることなどできようはずもない。ましてや〈超速恢復〉により、狼は更なる膂力と肉体強度を手に入れている。魔力装甲の出力を最大にまで上げなければならなかった。極大防禦術式を展開しなければならなかった。あるいは、次元の裂け目に退避するべきだった。
だが、そんな時間はなかった。
人狼の恐ろしさは、何よりもその疾さだ。
空間が歪曲するほどの速度で振り抜かれた狼の腕が、大蛇を吹き飛ばした。
地を抉り、樹々を薙ぎ倒し、大量の血を撒き散らしながら、大蛇の巨体は森林地帯の外れでようやく停止した。
『……護リ、切レナカッタ、カ』
爪痕の走る男の顔を見やり、大蛇はそう溢す。
男は冷たい鱗を撫でながら、相棒たる〈尾呑みの蛇〉の名を呼ぶ。
『なぜ、俺を庇ったんだ、ムンドゥス』
『護ルト……約束シタ』
『誰に』
『カミラ、ダ』
告げられた名に、男は眼を見開く。『母上を、知っていたのか?』
『吾ハ元々、〈カミラ〉ト契約ヲ、交ワシテイタ……彼女ガ死ヌ直前、貴様ノ事ヲ……頼マレタ』ムンドゥスは、笑う。苦しげに、血を吐きながら、それでも愉しそうに笑う。『デナケレバ、貴様ノヨウナ洟垂レ小僧ト、契約スルハズガナイダロウ……』
『なぜ今まで黙っていた』
『……聞カレナカッタ、カラナ、ソレニ……自分ニツイテ語ルノハ、好キデハ、ナイ』
ムンドゥスは生気の消えつつある瞳で男を見つめ、
『ザラチェンコ』
男の名を、呼ぶ。
『〈カミラ〉ノ刃ヲ、コノ額ニ突キ立テロ。吾ノ魔力ヲ、ソノ剣ニ移ス。貴様ハ、超越魔物ニシテハ、魔力保有量ガ、少ナイ……吾ノ魔力ヲ、役立テロ』
『いいのか』
『ドウセ、長クハ持タン……気ニスルナ、遠慮ナク、受ケ取レ』
ザラチェンコは巨刃を握り締め、その鋒をムンドゥスの額へと宛がう。
わずかに、躊躇いが生じる。
遠方で、轟音が鳴り響く。戦塵を伴った熱風が周囲一帯に押し寄せる。地上から上空にかけて、散発的な炸裂が巻き起こっている。練り上げられる膨大な〈魔女〉の魔力。地面は焦土と化し、暁に爛れた空は黒い焔に塗り潰されていく。同時に、無数の、鋭い羽音が空中を裂く。黒焔の間隙を縫うように高速で飛び交うのは、異形の魔物。甲冑の如き外殻。刀槍を思わせる頭角、前肢、尾節。〈蟲王〉の召喚した最上位の軍蟲。あたかも騎士の如き外見の蟲たちが、黒焔の切れ間から次々に攻撃を仕掛けていく。
焔と蟲。
息もつかせぬ波状攻撃。
魔女と蟲王による、圧倒的な猛攻。
だが、それでも。
天を劈く、咆吼。
『アノ程度デ殺セル、人狼デハ、ナイ』焔を掻き消し、蟲どもを吹き飛ばし、揺らめく焦土の只中に、その狼の姿がある。ムンドゥスは最後の力を振り絞り、額を差し出す。『サッサト、突キ立テロ。ソシテ……退却シロ。アレハ、化ケ物ノ中ノ化ケ物ダ。間違ッテモ、アンナ人狼ニ、殺サレルナ。貴様ニハ、マダ、ヤル事ガ、アルノダロウ』
ザラチェンコは大剣を振りあげる。
ムンドゥスは差し向けられた鋒を見上げる。
『仇ヲ討ツ為ニ、生キテ来タノダロウ。復讐ノ為ニ、今日マデ生キ延ビテ来タノダロウ』
蛇と蛇の瞳が交差する。
『聖騎士ヲ、殺スノダロウ』
その言葉と同時に、巨刃が大蛇の頭部を、深々と貫く。
ムンドゥスの残した魔力が〈岩巨刃リスベット〉に流れ込んでゆく。
『その通りだ、ムンドゥス』血が滲むほど強く、骨が軋るほど烈しく、ザラチェンコは剣の柄を握り締める。『俺は、殺すよ』
ザラチェンコの脳裡に、あの男の姿が蘇る。
あの夜の出来事は、細部に到るまで完璧に記憶している。
月光に燦めく銀糸の髪、輝くような完璧な美貌、そして冷酷無比な天使の瞳。一度として忘れたことのない貌。瞼の裏にいまも焼き付く白銀の像。追っ手の騎士たちに捕らえられ、打ち据えられ、少年はその男の足下に転がされた。男は汚物を見るように少年を見下ろし、白銀の鉄靴で、少年の頭部を踏みつける。『穢らわしい魔人め』頭蓋が軋む。踵が蟀谷に喰い込む。痛みに眼裏が白く爆ぜる。怒りと共に、男は吐き捨てる。『これほどの冒涜が他にあるとでもいうのか』鉄靴の重みが増す。頭が熱い。声が出せない。途方もない劇痛に、少年は呼吸さえままならない。本気を出せば少年の頭蓋など軽々と踏み砕けるだろうが、男はそうはしない。『神聖なる神の血に、魔の穢血が雑ざるなどと……貴様にはそれ相応の代償を払ってもらうぞ』
少年を逃がす為に、彼の両親はセイリーネスの〈騎士団〉に立ち向かった。
だが、無駄だった。
騎士団を率いて現れたのは、白銀の聖騎士。
その実力は、神の騎士に相応しいものであった。
白き大剣に刻まれた退魔の魔方陣は、少年の母親の魔法を打ち砕き、優雅に振るわれた聖騎士の刃は、少年の父親の剣技を凌駕していた。少年の視線の先に、両親は倒れている。母は逃げられぬよう両脚を断たれ、父は剣を振るえぬよう両腕を斬り飛ばされている。そして両者の躯には、聖騎士から受けた無数の刀創が刻まれている。深々と裂かれたその創口から流れ出した大量の血液が、月明かりに黒く揺蕩っている。だが、死んではいない。母の胸は弱々しいながらも上下し、父は失われた腕で地を掻くように、肩を揺する。ふたりはまだ生きている。深手を負いながら、血の海で藻掻きながらも、まだ、生きている。
不意に頭部から重さが引く。鈍い痛みだけが残る。
鉄靴を響かせながら、聖騎士が両親の元へ近づいていく。
『連れて行き、神罰を味わわせろ』
控えていた侍従騎士が、少年を乱暴に抱え上げる。神罰。神聖都市国家セイリーネスは決して魔人の存在を赦さない。捕らえられた魔人は異端審問にかけられることもなく処刑される。そして処刑の前には、必ず神罰が下される。つまり、拷問だ。
物のように運ばれながら、遠ざかる聖騎士の姿を、少年は見ている。
涙も、声も、そして気力すらも、すでに枯れ果てている。だから、少年はただ見ていることしかできない。
聖騎士は両親の前で立ち止まる。背から、純白の大剣を抜き放ち、高々と掲げる。
『冒涜者どもめ。我が聖刃をもって永遠の虚無を彷徨うがいい』
そして、刃が振り下ろされる。
その光景を、少年はただ、見ている。
この時まで、少年の外見には〈魔〉の特徴が何ひとつ現れてはいなかった。一見したところ、彼はただの人間の子供にすぎなかった。だが聖騎士の刃が両親の首を刎ね飛ばした瞬間、少年の躯に〈魔〉の片鱗が呼び覚まされた。血が、覚醒したのだ。
瞳孔が、縦に裂けた。双眸が、蛇と成った。
同時に、その瞳に、憎悪が宿った。冷たく、悍ましい、蛇の憎悪が。
その憎悪を糧に、少年は神罰を耐え抜く事になる。歯を抜かれ、生爪を剥がされ、四肢の骨を砕かれる。鞭打たれ、焼き鏝を押しつけられ、光魔法で内側から躯を灼かれる。想像を絶する責め苦、気が狂いそうになる程の劇痛。人であれば容易に死に到るであろう苛烈な拷問の数々を、しかし少年は生き抜く。覚醒した蛇の血と、聖騎士への底知れない憎悪が、少年をこの世に繋ぎ止める。どれだけの時間が過ぎたのか、どれだけの日数が経過したのか。やがて現れた〈勇者〉が、少年を解放する。舌に浮かび上がるのは〈逆五芒星〉。血に塗れ、蹌踉とした足取りで、少年は父母の元を訪れる。獣に漁られ、鳥に啄まれ、生前の面影はどこにも見られない。父の鎧は剥ぎ取られ、英雄剣たる巨刃は何処かへ持ち去られている。死種たる母の屍体には、槍剣の類いが幾本も、幾本も突き立てられている。〈魔〉が蘇らぬよう地に縫い付けるは帝国領の風習。無残な光景。見るに耐えない両親の屍体。少年は膝をつく。痛む躯を引きずりながら、彼は両親の間に挟まるように、赤黒く固まった血の上に身を横たえる。
指先が、母と父の屍体に触れる。
そして、少年は誓う。
『いつか僕が殺します』
ザラチェンコは眼を覚ます。
眼前を覆い尽くすのは、底のない闇。イビルへイムがヘル・ペンタグラムひとりひとりに用意した、客室。その実態は空間魔法によって形を整えられた、単なる闇に過ぎない。だが〈魔〉とは、闇を好むものだ。
ザラチェンコは立ち上がる。この空間の〈外〉で、強大な魔力を持った者たちが蠢いている。逆五芒星の元に集った同胞たちの魔力。傲岸不遜にして唯我独尊、強力や団結などというものからもっとも遠くに位置するはずの超越魔物たちが、再び死霊の元に集結している。
その意味は、ひとつしかない。
「そろそろか」
傍らの巨刃を肩に担ぎ、ザラチェンコは歩き出す。
正面の闇に、亀裂が走る。
〈魔の廻廊〉が口を開ける。
ザラチェンコは廻廊の入り口に、足をかける。
脳裡には、夢で見た光景がまざまざと刻まれている。
いや、あれは夢ではない。現実に起こったことだ。回想であり追憶だ。
あの日の一言が、少年を生き存えさせた。あの誓いを果たすことだけが、ザラチェンコのすべてとなった。
父上、母上ようやくです。
廻廊を歩みながらザラチェンコは、胸中で父母に語りかける。
ついに、その刻が来ます。ついに、あの男と刃を交えることができます。ようやく、約束を果たすことができます。
父の蒼鎧は冴え冴えと輝き、母の岩巨刃は新たに宿した膨大な魔力に揺らめく。
魔人の躯から、絶対零度の殺意が迸る。
「俺が、殺します」記憶をなぞるように、憎悪を確かめるように、強く、ただ強く、ザラチェンコは父に、母に、ムンドゥスに……何より己自身に、再度誓いを立てる。「俺が聖騎士アルトリウスを殺します」
そしてザラチェンコは、魔の廻廊を抜ける。




