14 騎士と魔術師
【14】
「お加減の方はいかがですか」
柔らかな声に呼び止められ、アステルは立ち止まった。
振り返ると、声同様に柔らかな美貌の女性が佇んでいた。
聖都に到着した日、倒れた自分に駆け寄ってくれた女性。そして医術院の治療後、彼女は何度か見舞いにまで来てくれた。アステルは〈賢者院〉重鎮たるその女史に頷きかける。
「良好だ、聖女シャルルアーサ」
「称号は不要です。ただ、シャルルアーサとだけ」そう云って、聖魔導師はアステルの傍らに歩み寄る。純白の魔術師外套の裾端が風に揺らめき、艶やかな翡翠色の美髪は、傾き始めた午下の陽射しに赤みを帯びる。
「魔力の流れが正常に戻りましたね。肉体の苦痛も、大分減じたと思いますが」
「いつになく躯が軽い。貴殿たちのおかげだ」
シャルルアーサは微笑む。「私は、何も。医術院の医師たちが尽力してくれているおかげです」
「ならば、聖都のおかげだ。感謝する」
「歓待はセイリーネスの美徳のひとつ。それに、貴方は魔に立ち向かう者。礼には及びません」
シャルルアーサは手摺りに近寄り、眼下を見下ろす。
一面に敷き詰められた白大理石が、陽光に照り輝く。騎士団の大隊がまるごと一個収まりそうなほど広い空間が、そこに広がっている。
「先ほど、広場の方で鍛錬に励んでおりましたね」
シャルルアーサはアステルを見やる。
現在、ふたりがいるのは巨塔の空中廻廊、その一画だ。廻廊には支柱や橋脚の類はなく、聖都の至る所で見られる浮遊物同様に、空間そのものに固定されている。巨塔下層階においてのみ、人々が憩うための広縁や、隣接する建築物へと渡ることのできる空中廻廊の設置が赦されている。聖都中枢たる巨塔周辺には、様々な施設が軒を連ねている。〈教会〉〈騎士団〉〈賢者院〉の施設は勿論、各重要機関の本部、議場、研究室など、あらゆる建物が巨塔周辺には集まっている。アステルは診察の為、廻廊から医術院の施設に向かうところだった。そしてその廻廊の真下に、中央広場がある。先ほどまでアステルは、その広場で鍛錬に励んでいた。
「見られていたのだな」
「その斧は、目立ちますので」シャルルアーサはアステルの背負う極大の戦斧を一瞥し「あまり、ご無理は為さらぬように」
忠告に、彼は力強く頷く。「心得ている」
当初、医術院の医師たちは、躯に負荷の掛かるすべての事柄を、アステルに禁じていた。呪物たる〈巨竜纏い〉を着用することは勿論、規格外の重量を誇る〈断竜斧〉を握ることも、そして鍛錬をすることさえも、固く禁じられていた。それほどまでに、アステルの躯はズタボロだった。だが、アステルがその忠告を受け入れることはなかった。魔女との闘いを控えているというのに、座して待つなど、到底できない相談だった。それに、そもそもアステルと医術院とでは、目指すべき目的地が異なっていた。医術院の目指すのは、アステルの延命だ。だが、彼の目的は生きることにない。
討伐、誅殺、何よりも、復讐。
『もし望むなら、殺させてあげる』
甘やかな血魔の囁きが、耳朶に蘇る。
廃城を訪れたあの日、始祖の女王はアステルに提案を持ちかけた。
『その身を差し出す覚悟があるのなら、そのすべてを擲つ覚悟があるのなら、たとえどのような形であれ、復讐を成し遂げたいと強く望むのなら……私が貴方に、魔女を殺させてあげる』
屍体のように白い指先が、アステルの頬をなぞる。
艶然と、血の女王は微笑む。
『その刻が来たら、返事を訊かせてもらうわ』
いまだ、彼女から返答の催促はない。その刻がいつなのかも、定かではない。だが、アステルの答えはすでに決まっている。憎き仇を討てるなら、宿敵たるあの魔女を殺せるのなら、この身を差し出すことも、すべてを擲つことも厭いはしない。もはや生命になど何ほどの価値もない。ゆえにアステルは異形の鎧に身を包み、戦神の大斧を道連れに、激烈な鍛錬に身を投じる。殺意に、妄執に、その身を灼く。悪いとは、思っている。申し訳なく思っている。医術院は、全力を尽くしアステルを生きながらえさせようとしてくれている。誰よりも彼の身を思っていてくれる。だが、アステルの決意は固い。だからこそ、来たるべき決戦の日に備え、鍛錬を積み重ねる。
にわかに下方が騒がしくなる。
アステルは廻廊から広場を見下ろす。銀鎧の騎士と白い外套の魔術師たちが、広場に集っていた。
何とはなしに、アステルはその光景を眺める。
みるみるうちに、整然たる隊列が組まれていく。集団は広場中央から左右に分かれる。銀鎧の騎士たちは右側に、ローブ姿の魔術師たちは左側に位置取る。銀と白の隊列が、互いに向かい合う。すると騎士側の列の先頭の者と魔術師側の先頭の者が歩き出し、すれ違い、騎士は魔術師の列に、魔術師は騎士の列に収まる。次いで互いの列の先頭から三番目の者が同じように人員を交代する。次に五番目の者が交代し、さらには七番目の者が、九番目の者が……というように奇数の順番の者たちが順々に入れ替わっていく。儀式めいた光景の果て、ついに銀と白を交互に配した二本の隊列が完成する。
「不思議な光景だ」アステルは傍らの聖女に訊く。「演習か何かが始まるのだろうか?」
「いえ、あれは、遊戯です」
「遊戯?」
「はい。我々の間では伝統的な、由緒正しき遊戯なのです」
聖女の言葉を、アステルが最後まで聞くことは叶わなかった。呼出音が鳴り響いたのだ。耳を刺すような鋭い高音。アステルは腰に括りつけていた雑嚢の中から、ある物を取り出す。掌に収まるほどの時辰儀だった。この世界に一般的な、針と文字盤と歯車からなる機関仕掛けの時辰儀ではない。硝子の覆いの内側で時を刻む針と文字盤は、内蔵された空間投影機によって投映されたものだ。つまりこの時辰儀は魔法仕掛け、ゆえにその機能は多岐にわたる。医術院がアステルに貸し出したこの時辰儀には、彼の検診の予定がすべて組み込まれている。検診の時刻が近づけば振動することでアステルを促し、時刻を過ぎればこのようにアラームでアステルを急かす。
シャルルアーサが申し訳なさそうに眉根を寄せる。
「どうやら、引き留めてしまっていたようですね」
「いや、会話に集中し時刻を蔑ろにしていた私の落ち度だ」
「別棟での検診ですか」
「そう聞いている」
「魔力の流れは正常に戻りましたが、肉体の方はその限りではありません。重ねて申しますが、くれぐれも、ご無理を為さらぬよう、お気をつけください」
「忠告、痛み入る」
そう云って、アステルは別棟に向け歩き去った。
アステルの背中が消えると、シャルルアーサは再び広場に眼を向けた。
彼女の視線に気づいた幾人かが、頭上を見上げ、聖女に敬礼を送る。するとその反応はすぐさま周囲に波及し、全員が空中廻廊のシャルルアーサを見上げ、礼を示す。シャルルアーサはにこりと微笑み、右腕を胸元で構える騎士団の敬礼をもって応える。「私のことはお気になさらず、存分に愉しんでください」
その言葉を合図としたように、広場で遊戯が開始される。
抜き放たれる白刃。構えられる魔法の杖。
シャルルアーサは穏やかな顔つきで遊戯を眺めた。どれだけの間、そうしていただろう。
不意に、聖女の視界の隅を、黒い薄霧が掠めた。
同時に、うなじの毛がそそけ立つ。
傍らで、それが形を成す。薔薇を思わせる甘やかな香りが、聖女の鼻孔を撫でる。一切の淀みを感じさせぬ洗練された魔力が、シャルルアーサの肌を包み込む。心地よささえ感じられそうな傍らの気配に、しかしシャルルアーサは身を固くする。聖魔導師たる彼女の第六感に誤魔化しは利かない。甘やかな香りの奥には、吐き気を催すほどの血臭が潜んでいる。魔力の洗練さはあくまでも表層でしかなく、その奥底にはドス黒く残忍な、〈魔〉の本性が蠢いている。一度目は結界の門で、二度目は代理人議場で顔を合わせている。だからといってこの〈魔〉の気配に慣れているわけではない。シャルルアーサは口元を引き結び、身構える。
「由緒正しき遊戯、と仰いましたね」およそ温度というものを感じさせない女の声が、シャルルアーサに問い掛けた。「どのような戯びなのです?」
先ほどのアステルとの会話を聞かれていたのか、あるいは影という影に潜んでいる女王の眷属に盗み聞きされていたのか。
わずかの沈黙の後、
「〈騎士と魔術師〉と呼ばれています」シャルルアーサは固い声色で答える。「名が示すとおり、騎士と魔術師の為の遊戯です。参加者はふたり一組を作り、模擬戦闘を行いながら剣術と魔術の腕前を競います。少人数で行うこともあれば、今回のように大人数で行うこともあります」シャルルアーサはゆっくりと息を吐き、躯から力を抜いていく。この程度の事態で平静を乱されるなど、神の代理人より〈聖〉の称号を授かる彼女には赦されない。常に冷静に、たえず敬虔に、そして何よりも、いついかなる時であろうと勇猛果敢であることが〈聖〉を授かる者の責務。脳裡に浮かぶはふたりの守護者。ベリアル様のように泰然と、アルトリウス様のように冷静に。シャルルアーサは厳然たる顔つきで言葉を続ける。その声は、いつもの穏やかさを取り戻し、どころか、勁くさえある。
「この遊戯の由来は、貴族の間で頻繁に行われた決闘の模様だと伝えられています。魔術師とは貴族を意味し、騎士は文字通り傍仕えの武人を指し示しています。かつての貴族たちは、今とは比べものにならないほど、名誉というものに執着を示しておりました。ゆえに無礼な働きをした者は、平民であればその場で手打ちとなり、相手が貴族となれば、日時と場所を定め、決闘を行いました」眼下では遊戯が続いている。一団の踏み鳴らす鉄靴の足音。宙を舞う魔力の燐光。鍔迫り合う剣と剣。銀と白の色彩が、視界の隅で乱舞する。シャルルアーサは眼下で形作られる陣形を眺める。「魔術を扱う貴族は後方に陣を取り、傍仕えの騎士は主を護る為、矢面に立つ。前衛と後衛という言葉は、この決闘の様相が起源だとも云われています。幾世紀もの間、決闘は貴族にとってなくてはならぬものでした。しかし時は遷ろいゆくもの。いつしか決闘は野蛮な行為として教会に禁止され、様式は形骸化し、その枠組みだけが広まり、〈騎士と魔術師〉という遊びの形をもって世上に定着しました。そういう意味で、この遊戯は伝統的な、由緒正しき遊びなのです」
「この国は現在、〈地獄に堕つ五芒星〉からの宣戦布告により、戦時下にあります。斯様な状況下で遊戯に興じるのは、些か迂闊なのでは?」
「おっしゃりたいことは理解できます。ですが、我々は人間なのです」眼下で戯れるのは〈神の代理人〉の議員たちだ。態度にこそ出さないが、のし掛かる重圧により、議員たちは間違いなく疲弊している。『皆が皆、我々のように頸くあれるわけではない』聖騎士の言葉は正しい。皆が皆、毅然としていられるわけでは、超然としていられるわけではない。「常に気を張っていては心身が持ちません。たとえ戦時下であろうと……いえ、むしろ戦時下だからこそ、あのような息抜きが我々には必要なのです」
「随分と孅い生き物なのですね」
「私もそう思います。しかし、だからこそ人は人を思いやることができる。手を取り合い、助け合うことができる。我々が抱える孅さは欠点かもしれません。しかしこの欠点こそが人なのだと、人の有する最大の美点のひとつなのだと、私は確信しております」
「なるほど。高潔なお考えをお持ちなのですね」
「それよりも、私に何か御用でしょうか」シャルルアーサは意を決し、傍らの〈魔〉に身を向ける。白蝋の肌。頭頂から足下まで流れ落ちる闇の被衣。死の貴顕を象徴する蒼き瞳を見据えながら、あくまでも礼儀正しく、聖女は血の女王と向かい合う。「雑談に興じる為に貴女が私の元を訪れたとは、到底思えません。御用向きをお聞かせください」
「正式な挨拶がまだでしたので」蒼褪めた唇に微笑を浮かべ、女王は優雅な身のこなしで一歩身を退き、恭しく膝を折る。「〈夜の獣の血脈〉に連なる者にして〈祖なる血魔〉の血を引き継ぐ者、クシャルネディア・ナズゥ・テスカロールと申します。貴方様のような比類無き御仁に拝謁を賜れ、悦ばしく思います」
予期せぬ展開に、シャルルアーサは虚を衝かれる。「なぜ、です?」
「なぜとは?」
「なぜ、そのような心にも無いことを?」シャルルアーサは垂らされた頭を見下ろす。血魔は誇り高き死者の特権階級だ。人間に、ましてや神の僕たる聖都の住人を前に膝を折るなど、絶対にあり得ない。シャルルアーサは憮然とし、踵を返す。「申し訳ありませんが、貴女の悪巫山戯に付き合うほど、私も暇ではありません」
「貴方様は、サツキ様の御同胞の血を引き継いでおられます」
その言葉に、シャルルアーサは歩みを止める。
クシャルネディアは面を上げ、蒼い双眸で聖女を見上げる。「血の盟約により、今の私はサツキ様に仕える身。つまり、あの方は私の主君なのです。そして貴方様は我が君の御同胞の血を引き継ぐ御方。最大限の礼儀を持って接しなければ我が君に顔向けできません」
「№11様は……いえ、サツキ様とお呼びした方がよろしいのでしょうか」
「あの方は呼称になど頓着いたしません。お好きなようにお呼びすればよろしいかと」
「では、イレブン様のままで」そう云ってシャルルアーサは血魔を見つめる。「確かにイレブン様は私の素性に一片の価値を見出しました。私の曾祖叔母、メイ・シルギルドの血があったからこそ、議場で、イレブン様は矛をお収めになられた。しかし、それだけのことです。あの場に居合わせた貴女ならば、当然わかっているはずです。イレブン様が認められたのは私ではなく、私の血が喚起するメイ様の俤に他なりません。私はあの方の同胞ではない。貴女が膝を折る道理はありません」
「私は必ずしもサツキ様に同調するわけではありません。私は奴隷ではありません。あの方の〈剣〉です」クシャルネディアの唇から歯牙が覗く。獣の如き鋭い牙。しかしその牙は、肉を喰らう為にあるのではない。彼女が糧とするのは生命そのもの。鉄。錆色。獲物の頸筋から迸る、緋の聖水。「血は、私にとって絶対的な意味を持ちます」クシャルネディアの蒼眼が、狂気じみた光を帯びる。「サツキ様からすれば、血筋とは単なる一要素に過ぎません。あの方が重要視しておられるのは、総体です。名と、血と、魂。その三位が一体となってはじめて、あの方の同胞足り得るのです。しかし、血魔たる私が最も重んじるのは、名でも魂でもありません。血です。あの方の側近であらせられたメイ・シルギルド様の血を継いでおられる貴女様は、間違いなく私が膝を折って然るべき御仁なのです」
「主君の見解に叛してまでも?」
「安易な盲従など、サツキ様が最も忌み嫌うもの」
シャルルアーサの脳裡に、先日の光景が蘇る。レニス・アヴァルティーヌ。大仰な仕草で美辞麗句を並べ立てる彼は、一瞬で肉塊と化した。「なるほど。確かにそのようですね」
「確固たる意志を持たぬ者に〈剣〉は務まりません」クシャルネディアは立ち上がる。背に、後光の如く闇が広がる。ゆるりとした歩様でシャルルアーサに歩み寄り、洗練された所作で右手を差し出す。掌に、ある物が載せられている。思わずシャルルアーサは眉を顰める。形状からみて、それは鍵だ。冒涜的な産物に間違いあるまい。素材は骨と、皮。そしてそれらを繋ぎ止める為の黒薔薇の色合いの凝血。「お察しのように、これは鍵です」クシャルネディアはシャルルアーサに微笑する。「貴女へ差し上げます」
「なぜ、私に?」
「利害の一致、とでも申せばよろしいでしょうか。私の狙いは、そしてアステルの目的は〈獄炎の魔女〉ジュリアーヌ・ゾゾルルです。この鍵はあの魔女を捕捉する為に貴女に差し上げるのです。近々起こるであろうヘル・ペンタグラムによる聖都襲撃、逆五芒星に連なるすべての魔物がこの地に集うことになりましょう。魔女は間違いなくこの地に降り立ちます。ですが聖都は広く、また敵の数も未知数とあっては、状況が私の思うように運ぶとは限りません。だからこそ、会敵の確率を増やしたい。この鍵は魔道具です。有効範囲内の対象を、私の元へと誘う〈魔の廻廊〉が仕込まれております。人間が扱うには些か高等な術式ですが、貴方様の実力を持ってすれば発動は容易いかと」
「私がジュリアーヌ・ゾゾルルと遭遇した場合、この鍵を使えと?」
「ヘル・ペンタグラムのひとりを我々が引き受けようというのです。聖都にとっては、悪い提案ではないかと」
聖女は顎に手を当て、しばし眼を伏せる。
そして、
「確かに、断る理由が見当たりませんね」シャルルアーサは首肯する。「聖都の現状を考えれば、むしろ歓迎すべき申し出です。それにアステル様の事もあります。私としても、あの方には力をお貸ししたい」シャルルアーサは手を差し出す。冒涜の鍵が手渡される。名状しがたき〈魔〉の瘴気が、聖女の白い肌に染み入る。不快。怖気。戦慄。一瞬のうちに胸中を駆け巡った様々な嫌悪を、しかしおくびにも出さず、シャルルアーサは慇懃とした所作で、鍵を握り締める。「……わかりました。ジュリアーヌ・ゾゾルルと干戈を交えるような事態が訪れれば、この鍵を用いると約束しましょう」
「ありがとうございます」
「貴方を聖都の味方と考えて、よろしいのですか」
「そのような甘い考えは、お捨てになった方がよろしいかと。私が仕えるのはサツキ様ただひとりです」
「では、貴女はアステル様の味方ですか?」
「ええ、勿論です」
「アステル様に、ジュリアーヌ・ゾゾルルを殺せると思いますか」
「その為に私がおります」クシャルネディアは獣が牙を剥くように、嗤う。「ご安心を。たとえどのような形であろうと、私がアステルに魔女を殺させます。ええ、必ず」
微笑と共に、クシャルネディアの姿が霧散する。
黒い霧が聖女の視界を掠めていく。
「それでは、用事の方は済みましたので、これにて失礼いたします」
どこからともなく響いた声を最後に、黒霧は風に流されていく。
剣と剣が鍔迫り合う音。空気を震わせる、魔法の炸裂音。広場では騎士と魔術師が続いている。シャルルアーサはその音に耳を澄ませながら、掌を見つめる。
〈獄炎の魔女〉ジュリアーヌ・ゾゾルルを破滅へと導く、一本の鍵。
不意に、聖女の脳裡に少女の姿が浮かび上がる。魔導学院の制服に身を包み、首席と準首席にのみ支給される特別な制帽を指先でくるくると玩ぶ、少年めいた印象の少女。その素行も言動も、褒められたものではなかった。すべてを嘲り、過剰なまでに力を求め、その瞳は絶えず底のない悪意に満ち溢れていた。それでも、その実力は本物だった。その圧倒的な才能に、型に嵌まらぬ奔放さに、同じ魔術師として、シャルルアーサは憧れすら抱いていた。
「なぜです、ジュリ」かつての呼び名で、かつての学友に、聖女は呼びかける。「なぜ貴女は、いつも、いつも、そうやって……貴女の実力ならば、私を凌ぐ聖魔導師にもなれたというのに……」
言葉は、下方の喧噪と吹き抜ける風に掠われていく。
赤く燃え上がる太陽が地平の彼方に垣間見える。空も、大地も、そして聖都も、夕刻の陽射しに赤々と染め上げられていく。
しばしの間、シャルルアーサはその光景を静かに眺める。
やがて鍵を懐に収め、彼女は廻廊を後にする。
*****
クシャルネディアは、賓客室の手前で実体を取り戻した。
いつもであれば、部屋に戻るまで形を成すことはない。聖都は不快だ。〈神聖魔防壁〉が張り巡らされていることによって、セイリーネスの空気中には聖なる魔力粒子が充ち満ちている。もちろん彼女を害する程の濃度ではない。よほど低級な魔物でもない限り、大した影響など受けることはない。だが、不快なのは事実だ。肌に絡みつく陽光のような温かさも、時折視界の端で燦めく粒子の輝きも、すべてが不愉快極まりない。だからクシャルネディアは肉体を希釈する。この状態ならば、外界の影響をほとんど無視することができる。クシャルネディアが実体を取り戻すのはサツキやアステルの傍らにいる時、室内で寛ぐ時、そして先ほどシャルルアーサの前に現れたように、重要な用事がある時に限られている。
そんな彼女が、今、肉体希釈を解いた。
賓客室の前に、ひとりの騎士が佇んでいた。
「これはこれは」優雅な歩様で、クシャルネディアは白金の鎧姿の騎士に近づく。「ご機嫌はいかが? ベリアル・シルフォルフ」
「悪くはない。クシャルネディア・ナズゥ・テスカロール」ベリアルは天井に届くほどの巨体を血の女王に向ける。「ノックはしたのだが中に気配がなかったのでな、待たせてもらった」
「それは悪いことをしたわね」
「先ほど来たばかりだ。気にする必要はない」
「何か用?」
「幾つか話がある」
「そう」クシャルネディアは納得したように頷く。有象無象の人間たちが此処を訪れたのであれば、彼女は嘲罵と共に一蹴しただろう。謁見の有無はクシャルネディアに一任されている。彼女はサツキに忠実だ。主の基準に照らし合わせ、じっくりと吟味し、通す者を決めている。ただの人間などサツキ様の視界には映らない。力、狂気、凄絶さ。そういったものを持ち合わせた者にのみ、我が君は興味を持つ。眼前の堕天使は超越魔物、力は十分持ち合わせている。狂気や凄絶さにおいても申し分はないだろう。魔物の身でありながら神に仕える、それが狂気でなくて何だというのか。それに、たとえ基準を満たしていなかったとしても、ベリアルは全面戦争でサツキ様と轡を並べている。戦友とはいえぬまでも、サツキ様への謁見の資格は十二分に持ち合わせている。断る理由はない。
「もうしばらく待って貰えるかしら。サツキ様をお呼びするわ」
「いや、そうするには及ばない」ベリアルは一歩、血の女王へと近づく。「№11を訪ねて来たのではない。私が用のあるのは、君だ」
訝しげに眉根を寄せる女王に、ベリアルは言葉を重ねる。
「私は君と話をするために此処に来たのだ、クシャルネディア」




