11 正体
【11】
「事実、なのですか」
真剣な顔つきで、シャルルアーサはそう問い掛ける。
アルトリウスは眉を顰め、周囲を見渡す。三区劃に分かれた議席には、誰の姿も見られない。すでに評議会は終了し、議員たちは代理人議場を後にしている。イレブンが姿を消すと同時に、評議会は予定通り行われた。とはいえ、その進行も議論も幕引きも、お粗末なものであった。あのような惨事の後とあっては、誰も議員たちを責めることはできない。討論が不首尾に終わることは、誰の眼にも明らかだった。それでも評議会は強行された。セイリーネスの現状を思えば、中止という選択肢はあり得ない。議論し、決議を下し、すぐさま実行に移さねばならない計画が、数え切れないほど溜まっている。議員たちも、それをわかっている。だから彼等は〈神の代理人〉として毅然と、真摯に、職務に取り組んだ。少なくとも、彼等はそう思っているだろう。
見かねた三賢者が、早々に閉会を言い渡した。
聖騎士と堕天使に異論はなかった。
教皇と聖女も、粛々と頷いた。
議員たちに多数決を取る必要もなかった。議員全員が、同意を示した。議会再開は明日に持ち越された。
そう、だから今この場所には聖騎士と聖女のふたりしかいない。
わかっていながらアルトリウスが周囲を確認したのは、シャルルアーサが口にした言葉が、あまりにも重大な意味を帯びいてたからだ。
険しい表情で、アルトリウスはシャルルアーサを睨む。「なぜ、それを知っている」
「ならば、やはり事実なのですね」
「質問に答えていない。なぜ、貴女がそれを知っている」
「先ほど、お師匠様が口走ったのです」彼女は賢者院区劃の中央、痩身の魔導師の議席に眼をやる。常では絶対に見せることのない、悔恨と憔悴を滲ませた顔つきで、彼は絞り出した。
「おそらく、他意はなかったのだと思います。本当に、無意識に呟いてしまっただけなのだと……微かな声でした。おそらく耳にしたのはイザベル様とシュルツ様、そして隣席の私だけだと思います。ですが、私は確かに聞いたのです、イレブン様の立ち去った扉を凝視しながら、拳を握り締め、肩を震わせ、ロイタード様がそう呟くのを……」
シャルルアーサはアルトリウスを見つめる。
「〈人造人間〉。確かにあの方は、そう仰いました」
「ロイタードが衆前でその言葉を口走るとはな」アルトリウスは苦々しげに吐き捨て、すぐに考えを改める。教会と連合が絶大な力を誇っていた当時ならともかく、今さらイレブンの正体について隠し立てする必要性は、薄い。もちろん、知られぬならそれに越したことはない。その技術は禁忌であり、その存在は神への冒涜に他ならない。聖都のあらゆる教材、文献、記録から、その真実は抹消されている。だが、思えば生体兵器計画自体が神への挑戦だった以上、端から隠蔽など無意味だったのかもしれない。まして知られたのが聖女たるシャルルアーサだ。彼女は、これからの聖都の一翼を担う重要人物だ。当時の連合がどのような闇を抱えていたのか知っておいた方が良いのかもしれない。
いや、知るべきなのだ。
決意し、アルトリウスはシャルルアーサに頷く。
「そうだ。イレブンは人造人間だ」
つかの間息を呑み、シャルルアーサは眼を伏せる。「知識として知ってはいましたが、まさか実在するとは……」
「意図して造ったのではない。奴は偶然の産物だ」
「どういうことでしょう」
「〈人体超越計画〉について、知っていることは?」
シャルルアーサはゆっくりと首を振る。「初耳です」
「そうか、こちらも秘匿対象だったな。〈生体兵器計画〉の前身となった、極秘実験のことだ。この実験の目的はただひとつ、〈特異点〉の達成……つまり魔導生体技術を飛躍させることにあった」アルトリウスはかつての連合の魔導師たちを思い出す。世界各地から招集された、あるいは志願のもと集った、類い稀なる天才たち。名だたる権威の中には、当然シュルツ、イザベル、ロイタードの姿もあった。ぎらつく双眸、紅潮した頬、愉悦に歪んだ口元……今からは想像もできぬ、異様な迫力に身を包んだ賢者たち。当時の彼等は、狂気に犯されていた。技術の発展、理論の確立、そしてその果てに待ち受けるであろう人類の進化。『人間はこの程度では終わらない、人類はさらなる高みへと到達することができる』魔導師たちは口々にそう主張し、それを求め、前進した。彼等は高らかに叫んだ。『だがしかし、高みへ到るには、人類の肉体は脆弱に過ぎる。我々は鋼の肉叢を持たねばならない。岩漿の血汐を、金剛石の心臓を、無限の魔力を手に入れなければならない。我々は超越しなければならないのだ』その信念のもと、いや、その狂気のもと、人体超越計画は始まった。
「人体実験だ」アルトリウスはシャルルアーサを見据える。
「人間、亜人、魔物……あらゆるものを巻き込んだ非道の人体実験、それが人体超越計画の真相だ」
「現在のセイリーネスでは、絶対に赦されませんね」シャルルアーサはアルトリウスを見つめ返す。「ですが、当時の状況を鑑みれば、致し方なかったことなのだと、理解はできます」
「そう、我々には時間が残されていなかった。黒竜の封印が解かれるまで、予測では三十余年ほどの猶予しかなかった」
次元隔離、空間遮断、多重結界。神がその命と引き換えに行った超規模封印術。〈黒竜ゾラぺドラス〉は未来永劫、幽閉された。そのはずだった。だが命を賭した神の御業をもってしても、あの〈闇の落胤〉を封印し続けることは叶わなかった。封印が内側から破壊されつつあることが判明した時には、人類には潤沢といえるほどの時間は残されていなかった。魔導師たちが試算した猶予は、多く見積もっても百年程度。
百年後、黒竜の封印は打ち砕かれる。
だから、前進するしかなかった。ただ、躍進するしかなかった。
だからこそ、すべては赦された。神の名のもと、すべてが不問とされた。
倫理と人間性をかなぐり捨て、多くの生命を冒涜し、実験場という名の地獄で、魔道生体技術は特異点に到達した。
人体超越計画によって造り出された類い稀なる技術は、主に三つ。
体内に移植することで人体強度を超越させる〈人造魔導強化骨格〉。
皮膚、筋肉、はては血管にまで魔方陣を描き込むことのできる〈超精密彫刻技術〉。
従来の埋込みとは全く次元の異なる、臓器と魔力生成炉を一体化させる〈魔導器官融合理論〉。
この三つの技術の軍事転用によって、生体兵器は誕生することとなる。
「だが、それだけではなかった」アルトリウスは苦汁を嘗めたかのように、口元を歪める。「あの実験の重要な成果は、もうひとつあった」
「それが、人造人間」
「そうだ」
「当時の切迫した状況をもってしても、ホムンクルスは禁忌のはずです」
「云ったはずだ、アレが生み出されたのは偶然だと」アルトリウスは手を掲げ、シャルルアーサが口を開くのを制する。「貴女が答えを求めている事はわかっている。だが、私もすべての詳細を知り得ている訳ではない。今や真相を知るのは賢者たちだけだろうが、あの三人が人体超越計画について語ることはまずあるまい。あれは狂気の時代だった。魔導師たちは皆、自身が抱える昏い探求欲に駆り立てられていた。自らの内奥に巣くっていた狂気と再び向き合う覚悟は、もはや彼等には無い」つかの間聖騎士は言葉を切る。賢者たちを責めることはできない。どれだけ悪逆を重ねようと、どれだけ人の道から外れようと、彼等の生み出した技術は、確かに人類を救った。それは紛れもない事実だ。
「私が知っているのは、強化骨格の製造過程でアレが生み出されてしまったということだけだ」
「なぜ、イレブン様は聖剣の護りに弾かれるのです?」シャルルアーサは物思いに耽るように顎に手をあてる。尽きぬ探求欲を眦に滲ませるその横顔は、間違いなく魔導師のものだ。「ホムンクルスといえどその組成と遺伝子は人間のもののはずです。拒絶される理由がわかりません」
「人造魔導強化骨格の副産物、まさしくそれこそが答えだ」アルトリウスは重々しく口を開く。「あの骨格は、魔の坩堝だ」
最初期の強化骨格は〈魔合金〉を素材として造られた。のちに戦車や対竜魔導砲、そして何より〈魔剣〉の原料となるこの合金は、もとを辿れば強化骨格の為に錬成された金属に他ならない。その意味では、この合金も人類超越計画の重要な成果のひとつに数えられる。技術開発局の粋を集めた魔合金製の骨格は、しかし失敗に終わった。拒絶反応が烈しすぎたのだ。移植を施された被検体は全身を劇痛に苛まれ、苦悶と絶叫の末、そのすべてが絶命した。悉くが半刻さえ持たなかった。データの収集、分析を済ませた魔導師たちは、すぐさま改良に乗り出し、幾つもの試作と幾たびもの移植施術の果てに、ついに強化骨格は完成に到る。完成品は、人体の拒絶反応を極限まで抑えるために ──それでも生体兵器計画の途上、犠牲となった被検体は数知れないが── 魔合金の割合を半分に落とし、残りの半分を生体組織で補った。
純然たる生体組織。
人工的に造り出された骨格。
その骨格が、魔の坩堝であった。
「もとより人を越える為の計画だ」アルトリウスは自身の言葉に嫌悪を催し、吐き捨てる。「だから、雑ぜたのだ」
人類の生体組織を使っていては想定の骨格強度には到底届かない。強靱さが必要だ、魔物のように強靱な骨格が必要なのだ。しかし魔物の細胞を人体に取り入れれば、魔合金とは別種の拒絶反応を引き起こすことになる。だから魔導師たちは、雑ぜた。人類の生体組織を基礎に、様々な魔物の血、細胞、遺伝子を雑ぜ合わせ、その骨格を造り上げた。先頃確立された〈超精密彫刻技術〉と〈魔導器官融合理論〉を応用したことで、その魔の坩堝は完成に到ったのだ。そしてそのフレームと魔合金のフレームを組み合わせることで〈人造魔導強化骨格〉が完成した。
そして同時に〈人造人間〉も産声をあげた。
「骨格の生成、それはつまり、人体の創造に他ならない」
実験の途中、誰かが気づいたのだ。
誰なのかはわからない。高名な魔導師のひとりか、助手を務めた名も無き魔術師か。あるいはシュルツかイザベルか、はたまたロイタードか。誰なのかは、判明していない。そしてどういう経緯で、どのような手法で、どのような手順を用いてそれが産み落とされたのかは、いまだ詳らかにされていない。
人造人間は禁忌だった。〈教会〉は、人工的に生命体を産み出すことを禁じていた。それは〈神〉ではなく〈魔〉の領分だと、教会の聖典は多くのページを割き、その忌まわしい所業を糾弾していた。〈連合上層部〉も、魔道生体技術が人工生命体の創出に利用されるのを懸念していた。教義に反するだけではなく、間違いなく人界に多大な影響を及ぼすことがわかっていたからだ。倫理、法律、宗教、哲学……想定される波及分野は多岐に渡り、波紋は波紋を呼び、人類社会に想像を絶する混沌を齎す。黒竜の脅威を前にしようと、どれだけ非道の行いが黙認されていようと、ホムンクルスだけは禁忌。だが、教会の糾弾も上層部の懸念も、過剰な反応に過ぎなかった。〈技術開発局〉はホムンクルスの創出など考えてはいなかった。そもそも生命の創造とは、教会や上層部が考えるほど生易しいものではない。魔導生体技術はあくまでも肉体を改造する為のものだ。鋼の肉叢を、岩漿の血汐を、無限の魔力を得る為の……そう、人が人を越える為の技術に過ぎない。人工生命体の創出は、そのさらに上の領域の話であり、まさしく魔導生体技術の極致と呼ぶべきもの、果たして人類がその高みにまで到れるのかは、魔導師たちにさえ予想できなかった。
だから、おそらくすべては偶然だったのだ。
幾つもの要素、幾つもの要因が折り重なり、ホムンクルスは産み落とされてしまった。
「アレは、雑種だ」聖騎士の手元から鈍い音が鳴る。手甲が軋む音。アルトリウスは拳を強く握り締めている。何という唾棄すべき行為。神の血に魔の血が雑じるなど、あってはならない。光と闇が交わるなど、赦すことはできない。これまでアルトリウスは狩りを行ってきた。戦前も、戦中も、戦後も、神の騎士として騎士団を率い、雑種を駆り立て、責め苦を負わせ、その首を刎ねた。雑種はもとより、一族郎党も誅殺の対象であった。彼の最後の狩りは不首尾に終わった。ジュルグ帝国で、騎士団はその少年を取り逃がした。
蛇の眼をした少年。
雑種。忌み児。穢れた血。
アルトリウスがこの世でもっとも嫌悪する存在。
「魔人」美貌に、怒りが浮かぶ。「ホムンクルスは、人工的な魔人だ」
聖騎士の心中を察したシャルルアーサは痛々しげに眼を伏せるも、
「何体いたのですか」
そう問う。
「詳しくはわかっていない」アルトリウスは拳から力を抜き、腕を組む。「数十体とも数百体とも云われているが、確たることは何も云えない。もっとも、数など無意味だ。すべて処分されたのだからな」
そう、処分された。
最初のうちこそ思わぬ創造物に興奮していた魔導師たちも、しだいに恐れを抱くようになった。禁忌を冒したことを知られた時、一体自分たちはどうなってしまうのか。まず間違いなく、教会は厳しい処罰を要求するだろう。連合上層部も、さすがに眼を瞑ることはできない。人類の置かれている状況を考慮しても、到底容認できぬ罪科だ。ホムンクルスの存在が外に漏れれば軍法会議、異端審問の両裁判によって断罪されるのは必須。
技術開発局が野放図に振る舞えたのは、両組織の納得が得られていたからだ。それが無くなってしまえば、待ち受けるのは、破滅。彼等の名声は失墜し、冒涜者の烙印を捺され、人体超越計画は凍結される。
そして言い渡される判決は、極刑。
だがその前に、彼等は想像を絶する責め苦を負わされるだろう。賢者としてではなく大罪人として、その名は後の世まで晒されるだろう。
だから、処分した。
躊躇いはなかった。所詮は人工物、人ではない。そもそも人体実験という狂気の最中にいる魔導師たちだ、躊躇うわけがない。それにホムンクルスたちには重大な欠陥があった。彼等は著しく人間性を欠いていた。共感能力は乏しく、情動には瑕疵があった。良心や善性というものを、先天的に持ち合わせていなかった。ゆえに、その凶暴性は過剰だった。ホムンクルスは、獣だった。
人間ではない。偶発的な魔人。予期せぬ失敗作。
だから、すべて処分された。そのはずだった。
シャルルアーサは張り詰めた表情をアルトリウスへ向ける。「生き残りがいた、と?」
答えず、アルトリウスは先ほどの光景を思い出す。血。死臭。屍体。生体兵器による殺戮。〈赫い手〉によって握り潰されたレニス・アヴァルティーヌとその私兵。三賢者であろうと、シャルルアーサであろうと、魔力のみであのような芸当はできない。超越魔物に匹敵するアルトリウスやベリアルでさえ、不可能だ。ならばホムンクルスにならば可能なのか?
答えは、否だ。
だが。
「ホムンクルスの中に、一体、傑出した個体がいた」アルトリウスはシャルルアーサを見やる。「産み出されたその瞬間からその魔力の流れには一切の澱みがなく、成長と共に血中魔力濃度から体外漏出魔力に到るまで、自身のすべてを完璧な制御下に置くようになっていったそうだ。完璧という表現さえ生温い、魔導師にさえ到達できぬ、絶対的な魔力操作精度だ」
シャルルアーサは眼を見開く。先ほどの光景を思い出したのだ。
そして再度、彼女は問い掛ける。
「ホムンクルスには、生き残りがいた。そしてその傑出した個体こそが、№11様だと?」
「三賢者たちは、そう確信している」
なぜ、その個体がそのような能力を持って産まれたのかはわかっていない。そう、ホムンクルスに関しては、わかっていることはほぼない。
重要なのは、そして問題なのは、すべての要素がカチリと組み合わされてしまったことだ。
〈人造魔導強化骨格〉〈身体強化魔方陣〉〈半永久魔力生成炉〉。
強化骨格と同質の生体組織を持つ〈人造人間〉。
そして魔導器官を完璧に統御することのできる〈魔力操作精度〉。
すべての要因が、揃ってしまった。
人類が〈鬼神〉を造り出してしまったのだ。
ただでさえ物音ひとつ聞こえぬ議場内が、さらに重く、暗い、悲痛なまでの静寂に沈みこむ。
その静寂を振り払うように、シャルルアーサは面を上げる。「得心しました。答えていただき、ありがとうございます」
「忠告の必要はないだろうが、この事実は他言無用だ」
「無論、承知しております」
聖騎士は頷き、扉へ向かう。
「アルトリウス様、実は、もうひとつお訊きしたい事柄が」
立ち止まった聖騎士に向け、
「〈黒竜ゾラぺドラス〉については、いかがなさるおつもりですか」
アルトリウスは歩みを止める。平常を装っているが、その躯は固い。
シャルルアーサも口元を押さえ、背筋を震わせる。〈№11〉同様、セイリーネスではその名を呼ぶのは禁じられている。
ベリアルを含む三人は、すでに黒竜の生存についてイレブンから知らされている。だが、その事実が先刻の議会で話題にのぼることはなかった。アルトリウスは一方的にふたりに箝口を約させた。ゆえに黒竜生存は、いまだ三賢者の耳にさえ届いていない。ベリアルは納得しているようだが、シャルルアーサは些か疑問を抱いている。彼女の聖騎士への信頼は篤い。彼が判断を謬ることなどあり得ようはずがない。しかし黒竜の存在はこの先の人類の命運を左右する。イレブンの生存を公にしたように、黒竜についても情報を共有すべきだ。今のうちから議論を重ね、対抗策を打ち出さなければ、遅きに失することになる。そうなれば、聖都は、いや人類は、そして世界は、間違いなく……
「貴女の云いたいことは、理解できる」毅然とした表情で、アルトリウスは口を開く。「だが、黒竜生存を議員たちに告げるのは、時期尚早だ」
「しかし」
「これ以上、重荷を背負わせることは出来ない」重く、ただ重々しく、アルトリウスは言葉を押し出す。「理解しろシャルルアーサ。皆が皆、我々のように勁くあれるわけではない」
ヘル・ペンタグラムによる宣戦布告。それだけでも議員たちの担う重責は計り知れないというのに、クシャルネディアの聖都侵入というセイリーネスの歴史の中でも類を見ない異常事態の発生。そしてイレブンの生存。あまりにも重なりすぎている。イレブンが聖都の味方であれば問題はなかった。だが、奴は人類の側ではない。間違いなくイレブンは、聖都に、神に仇なす存在。状況は何ひとつ好転に向かっていない。だというのに、この期に及んで黒竜ゾラぺドラスの生存などという事態までもが神の代理人に伸しかかるとなると……いや、議員たちだけの問題ではない。騎士団の下級兵士たち、賢者院の魔術師たち、教会の信徒たち、そして神聖都市国家セイリーネスの民たちがこの絶望的な状況下で、それでも希望を失わずにいられるとは、到底思えない。ひとたび希望を失えば人は、集団は、国家は、瓦解への一歩を踏み出す事になる。その一歩を踏み出してしまえば、崩れ落ちるのは時間の問題だ。
だから、時期尚早なのだ。
イレブンについてさえ、先刻の議会で箝口令を敷くことが決定したのだ。黒竜についてなど、話せるわけがない。
もっとも三賢者は気づいているだろう。議員の中にも勘ぐっている者はいるはずだ。いずれは対処する時が来る。
だが、今ではない。
「アルトリウス様の仰るとおりです」シャルルアーサは恥じるように眼を伏せる。「眼前の脅威にばかり気を取られ、思慮が欠けておりました。お赦しください」
「謝る必要はない。云ったはずだ、貴女の言い分も理解できる」今度こそ議場を後にする為に、アルトリウスは歩き出す。「黒竜についてはヘル・ペンタグラムの件が片付き次第、議会で取り上げることとする」
「承知しました」
議場の扉を潜りながら、アルトリウスは声に出さず呟く。
同時に、去りゆく聖騎士の背を見つめながら、シャルルアーサも胸奥で思う。
おそらく近々起こるであろうヘル・ペンタグラムの襲撃、その後に。
果たしてセイリーネスは、存在しているのだろうか。
アステルは眼を覚ました。
輝くような白い天井が視界を覆っている。
ゆっくりと、アステルは身を起こす。周囲には天井と同様の、輝くような壁面。空間の至る所に、映像が浮かんでいる。〈空間投影機〉によるものだ。様々なグラフ、数値、透過撮影によって視覚化された人体断面図などが映し出されているが、アステルには何が何やらわからない。
此処はどこだ。
考えながら頭に手を当て、気づく。
兜をしていない。躯を見やる。異形の鎧〈巨竜纏い〉を身につけていない。代わりに着ているのは薄緑色の寛衣だ。誂えられたかのように、寛衣はアステルの巨体にぴったりだ。
この薄緑の寛衣は、セイリーネスの検診衣だった。着る人物の体型に合わせて自動でサイズを調節する、ロストテクノロジーの一種だ。
アステルは周囲を見やる。見つけた。部屋の隅に、彼の鎧が丁寧に置かれていた。〈断竜斧〉も、壁に立て掛けられている。アステルは寝台から降りる。驚くべきことに、この寝台には脚に類するものがなかった。寝台そのものが宙に浮いている。それでいながらアステルの巨体を支えてビクともしない。まるで空間に直接固定されているかのように、ただ、そこに存在する。不思議な光景だ。しかし思えば、聖都に入ってからは不可思議の連続だった。銀髪の騎士に案内されるまま潜った〈門〉。降り立ったのは天を貫くように聳え立つ巨塔の眼前、巨塔に入る為の扉は正面に立っただけで自動で開閉した。そして巨塔の上階へ移動する為に乗り込んだ昇降機。驚くほど滑らかに、凄まじい速度で上昇するその昇降機は、滑車やロープの類いを用いていない。眼にしたものすべてが、魔法によって作動している。だが、その魔法の術者の姿は見当たらない。おそらく、存在しない。物自体が魔力を帯び、素材そのものに魔法が刻まれている。この部屋の周囲に浮かんでいる映像にしてもそうだ。こんなものは、見たことがない。
そこでアステルは思い至る。
「私は、倒れたのだった」
思わず掌を見つめる。そこを汚していた血は、すでに拭い去られている。
倒れる前のことを思い出す。昇降機。そうだ、アステルは昇降機の中にいた。人間ならば十数人は軽々と搭乗できるほど、客籠内は広々としていた。巨体のアステルが余裕をもって乗り込めるほど、天井も高い。
昇降機に乗車したのは、六名。
大剣を背負った、銀髪の騎士。翡翠色の髪の、楚々とした魔導師。白金色の鎧に身を包んだ、自分に匹敵する巨体の男。そしてサツキ、クシャルネディア、アステル。
客籠内は、無言だった。誰ひとり口を開かず、誰ひとり眼も合わせようとはしない。空気が張り詰めていた。原因は明らかだった。銀髪の騎士は冷ややかに正面を見つめ、翡翠色の髪の魔導師は物思わしげに眼を伏せ、白金の鎧の男はただ、佇立している。彼等は緊張した素振りなど欠片もみせない。それでも、アステルにはわかった。この三人は、サツキとクシャルネディアに意識のほとんどを割いている。とりわけ、サツキに。
警戒だろうか。敵意だろうか。あるいは、畏れ?
なんにせよ、彼等は素知らぬ風を装いながらも、絶えずサツキを注視していた。
息の詰まるような時間だった。水中にいるような、すべてが重く感じられる一時だった。だが、それも終わりを迎える。
昇降機が、止まった。ゆっくりと、扉が開く。
まず始めに、聖都の三人が客籠を降りる。次にサツキとクシャルネディアが。
最後にアステルが歩を踏み出す。
その瞬間だ。
アステルは、片膝をついた。床に膝当てが衝突し、大きな音を発てる。鎧の上から、胸元に手を当てる。心臓が爆発したように脈打っている。背筋を鋭い痛みが駆け抜け、冷たい汗が全身を濡らす。骨が、筋肉が、内臓が、悲鳴をあげる。こみ上げてきた生温かい液体が、口腔を満たす。鉄錆の味。死の味。手で口元を押さえるが、無駄だ。兜の繋ぎ目から、血が噴き出す。夥しい血汐が白い床を汚す。力が抜ける。呼吸が浅くなる。躯を支えていられない。血の海に、アステルは倒れ伏す。
〈巨竜纏い〉は生命を喰らう魔道具。ゼルジー大森林で、鎧の力を引き出し過ぎた。〈断竜斧〉も原因のひとつだ。あの刃は、一介の亜人種が扱うには、強大すぎる。そして半身を覆う火傷の痕。治癒しているとはいえ、これほどの深傷、後遺症が残らぬはずがない。
樹海での鍛錬の途中、発作に見舞われた。ユリシール王国でも血を吐いた。だが、これほど烈しい発作に襲われたのは、初めての経験だ。
アステルの脳裡を、ある一文字が過る。
死。
血塗れの指先が、床を掻く。
何かを求めるように、腕を伸ばす。
『……まだ、だ』アステルは、苦痛と共に、声を絞り出す。『まだ、私は、死ぬわけには……』
視界がぼやける。意識が遠のいていく。
誰かが、彼の傍らに膝をつく。力強くも気遣わしげな手元が、アステルの頸筋に置かれる。おそらく、翡翠色の髪の魔導師。
誰かが、アステルの身を抱き起こす。ミノタウロスの巨体を助け起こすには、同じく巨体でなければならない。おそらく、白金の鎧の男。
『脈はあります』
『今すぐ医術師をここに』
薄れゆく意識の中で、アステルはそんな会話の断片を聞いた。
そこで記憶は途切れている。
アステルは薄緑の寛衣を脱ぎ、丁寧に折り畳むと、寝台の上に置く。一糸まとわぬ姿で部屋を横断し、巨竜纏いに向かい合う。アステルを蝕む魔の鎧。しかし同時に、此処まで彼の生命を繋ぎ止めてきたのも、またこの鎧に他ならない。鉄靴から順に、臑当て、膝当てとアステルは身につけていく。たとえその先に死が待ち受けていようと、この巨竜纏いが彼には必要だ。重々しい胸当てと背当てで胴を覆い、肩当て、肘当て、手甲で腕部を包み込む。
鎧の魔力が、ミノタウロスの全身に染み渡る。
最後にアステルは、兜を手に取る。
背後で、扉の開く音がした。
「目覚めたようだな」
振り返ると、男がひとり、そこに立っていた。
自分に匹敵するほどの巨体。緻密な宗教的装飾の施された、白金色の鎧。アステルたちを聖都に迎え入れた内のひとりが、部屋に入ってきた。
「君は倒れた」
「覚えている」
「此処は巨塔の医術院、その処置室だ」白金鎧の男は申し訳なさそうに首を振る。「本来ならば病室に移すところだが、医術院は三百年前の連合の施設をそのまま使っている。つまり、人間の為の病室しか設けられていない。君の身を支えられそうなのは、そこの施術台だけだった」あらゆる状況に対応できるよう、医術院の処置室は様々なロストテクノロジーを備えている。アステルが眠っていた施術台も例外ではない。サイズや耐荷重など、あらゆるパラメーターが自由自在だ。
「施術後、非礼を承知でそのまま寝かせることにした。赦してくれ」
「謝罪しなければならないのは私の方だ。無理を押して聖都に迎え入れてもらったというのに、このような醜態……様々な人々に迷惑をかけたのは想像に難くない」アステルは深々と頭を下げる。「すまなかった。そして命を救ってくれたこと、礼を云う」
「気にしないでくれ。君は№11の連れ合い、つまり聖都の〈客分〉だ、アステル」
「貴殿は……」
「そうか、自己紹介がまだだったな」白金鎧の男はアステルの眼前に移動し、手を差し出す。「セイリーネス神聖騎士団 聖守護者の任を預かる〈堕天使〉のベリアル・シルフォルフだ」
「アステル・ガンザルディードだ」応え、堕天使の手を握る。「一介のミノタウロスに過ぎない私には、貴殿のような肩書きはない。ただ、アステルとだけ覚えてくれ」
「肩書きなど、所詮記号だ。私もまた、ただのベリアルと覚えてくれればいい」
そこでベリアルは手を放し、しばしアステルを見つめる。
「不思議だな」
「不思議、とは?」
「君の事だ」ベリアルはアステルから視線を逸らさない。雄々しくも繊細な装飾に縁取られた白金の兜、眉庇に隠されたその素顔は窺いしれないが、しかし眼前の堕天使が真摯な眼差しで自分を見つめていることはわかる。
「なぜ、あのふたりと行動を共にしている?」
「私が、彼等を必要としているからだ。私の目的は」
「いや、わかっている」ベリアルは頷き、後ろ手に腕を組む。「君の目的は、すでに聞いている。過去に何があったのかも、誰を追っているのかも、そして何の為に聖都を訪れたのかも、了承済みだ。魔に仇なす者として、我々セイリーネスは君を歓迎する。だが、それでもやはり気になってしまってな。何せ君は、あのふたりとは違いすぎる」
「確かに、私の力は彼等には及ぶべくもない」
「そういう意味ではない。私が話ているのは、君の本質についてだ」再びベリアルは、真摯な眼差しをアステルへと向ける。守護者たるベリアルは警戒を怠らない。此処を訪れた理由は、アステルを見定める為だ。このミノタウロスが危険か、聖都に牙を剥く存在となるのか、見極めなければならなかった。だが、向かい合ってすぐに答えは出た。伊達に齢を重ねているわけではない。
「君は善良だ、アステル」ベリアルは断言する。その声には、些かの迷いもない。「イレブンやクシャルネディアと君は、違う。あのふたりは化け物だ。災厄そのものといっていい。だが、君は違う。君のような者があのふたりと過ごすのは、耐えがたい精神の苦痛を伴うはずだ」
アステルは顔を撫でる。半顔の皮膚は爛れ、引き攣っている。眼を瞑る。脳裡に浮かぶのは、灼け焦げたあの子の屍体。傷痕と記憶がアステルに強いるのは、いつ果てぬとも知れぬ痛み。絶望、慟哭、復讐。アステルは瞼を開ける。
「苦痛には、慣れている」
顔から手を放し、拳を握る。手甲が鈍い軋みをあげる。
「私を救ってくれたのならば、この躯の状態についても、知っているはずだ。私はもう、永くはない」
「そうだな」実直に、ベリアルは頷く。「君の記録は見させてもらった。治療を担当した医術師とも話をした。君の躯は、限界が近いそうだ」カルテに記載されたアステルの状態は、最悪の一言だった。骨も、筋肉も、血管も、魔導外装骨格 ──つまりは巨竜纏い── の魔力負荷によってズタボロになっていた。もはや治療できる段階はとうに過ぎている。近い将来、アステルは死ぬ。
「もって、一年だ」重々しく、ベリアルは告げる。「だがそれは、君が平穏に暮らし、聖都の医術院で適切な処置を定期的に受ければ、の話だ。この先も君がその外装骨格の力に身を任せる気なのだとすれば、生きられる時間はさらに短いだろう」
「三月、といったところか」
「わかるのか」
「私は一度、クシャルネディアに血を差し出した。その時、彼女に教えられたのだ」
「なるほど……血魔なら血液から君の状態を把握することも可能だな。超越者たるクシャルネディアの精査精度を考慮するに、間違いはないのだろう」一歩、ベリアルはアステルに近づく。「君にはもう、時間が残されていない」
「そうだ。だから、あのふたりに賭けることにしたのだ」
サツキとクシャルネディアの両名が化け物だということは、アステルもわかっている。だが、ゼルジー大森林での一件で、アステルは理解したのだ。このまま自分ひとりで宿敵を追った所で、永遠に〈獄炎の魔女〉には辿り着けない、と。あの場に現れた三体の超越魔物、その圧倒的な力は、アステルの想像を遙かに超えるものだった。幾千もの魔蟲を召喚し、すべてを呑み込もうとした〈蟲王〉。黒い焔で周囲一帯を灰燼に帰した、宿敵の〈魔女〉。そして人間の体躯で断竜斧に匹敵する巨刃を軽々と操り、アステルの前に立ちはだかった蛇の眼の〈魔人〉。断竜斧と巨竜纏い、積み重ねた研鑽、そして憎悪という名の執念さえあれば、アステルは魔女に手が届くと思っていた。復讐の刃は、必ずやジュリアーヌ・ゾゾルルの首を刎ね飛ばすことができると、そう、思っていた。
だが、違った。
超越魔物という呼び名に、偽りはなかった。
奴等の力は絶大だ。あらゆるものを凌駕し、懸絶し、超越している。
一介の亜人が、どうにかできる相手ではない。
それでも、手を引くことはできない。諦めることなどできない。ミドナの亡骸に、約束した。ただ復讐だけを拠り所に、今日まで生きてきた。
あの場にはもう一体、超越魔物がいた。
〈人狼〉だ。
あの狼は、どこからともなく顕れた。魔女の極大魔法を打ち砕き、腕のひと振りで魔蟲の群れを薙ぎ払った。凄まじかった。殺意が獣の形を成していた。その爪はあらゆるものを裂き、その牙はすべてのものを喰らった。一度咆哮を上げれば、その吼え声は四方数里の大気を震わせ、暁光に燃える天をも劈いた。その声は魔獣の血を引くアステルを、奮えさせた。ヘル・ペンタグラムではなかった。明らかに、奴等と敵対していた。壮絶な戦闘が繰り広げられた。あの人狼はたった一匹で蟲王を、魔女を、魔人を、相手取っていた。互角だった。いや、違う。少なくともアステルの眼には、人狼が圧しているように映った。
その時に、理解したのだ。
ヘル・ペンタグラムは化け物。
そしてその化け物に対抗できるのも、また化け物。
「私ひとりでは、勝てない。だが、彼等の力を借りれば、あるいは……」
「そうか」
「貴殿等には、迷惑を掛けているのだろうな」アステルは謝意を表明するように頭を下げる。「貴殿等はサツキを聖都に立ち入れさせたくなかったとみえる。私が連れてきてしまったばかりに、無理を通したのだろう。すまない」
「気にしなくていい。此度の機会が無くとも、いずれ聖都は彼の生存を突き止めていはずだ。そうなれば、世界の秩序足る我々が彼に会わないわけにはゆかない。だから、君が気に病む必要はない」
さて、とベリアルは踵を返す。
「騎士団の任務が立て込んでいるゆえ、私はこのあたりで失礼させてもらう。診察の為の医術師を呼んでおく。今しばらく、此処に留まってもらえるとありがたい」自動開閉式扉を潜る前に、ベリアルは振り返る。「聖都にいる間、医術院に通ってくれ。世界でも最高峰の治療を施せると請け合おう。何もしないよりは遙かに君の躯の状態は改善するはずだ。他にも何かあったら、遠慮無く申しつけてくれ。我々セイリーネスは全力で君を支援すると約束する」
「なぜ、そこまでしてくれる」
「君は聖都の〈賓客〉だ。客人をもてなすのは、神の教義の一環だ。それに、君の敵は我々の敵でもある。何であれ、魔に立ち向かう者を、我々セイリーネスは歓迎する」何より、とベリアルは力強くアステルを見つめる。「先ほど云ったはずだ。君は、善良だ。あのふたりとは、違う」
果たせることを願っている、そう云って、白金鎧の堕天使は、部屋を後にした。
ベリアルの巨体の去った室内は、やけに広く感じられた。
しばらくの間、アステルは無言でその場に佇んでいた。
どれだけそうしていただろう。
唐突に、ある感慨に襲われた。
此処にいる、と。
私は今、此処にいる。神聖都市国家セイリーネスの地に、その中枢たる白い巨塔の中に、いる。
『この先ジュリアーヌを追えば、君は確実に死ぬ』耳朶に、あの男の言葉が蘇る。彼の前に立ちはだかった、蛇の眼の魔人。巌のような巨刃を担いだ、蒼鎧の騎士。ヘル・ペンタグラムの一員。つまり、アステルの敵。『確実にな』
そう、あの男は敵だ。
敵のはずだ。
それなのにどうして、あの男はアステルを見逃したのか。
どうしてあの男は、自分と同じ眼をしていたのか。
なぜだかわからない。
だが、アステルはあたかも友に語りかけるかのように。
「私は今、此処にいる」
そして、その男の名を呟く。
「私は此処にいるぞ、ザラチェンコ」
「クシャルネディア」
名を呼ばれ、彼女はゆっくりと振り返る。
サツキが、そこにいる。
「〈魔の回廊〉を開け」
「この光景が、お気に召しませんか」
優雅に片腕を広げ、クシャルネディアはサツキの視線を窓外へと促す。
壁一面を占める巨大な窓からは、聖都の街並みが一望できる。宗教的装飾の施された、無骨で古々しい、しかしそれゆえに荘厳さを醸し出した寺院の数々。対照を成すようになめらかな流線美を持つ、建築方法が推し量れない、ロストテクノロジーによって建てられた様々な学術機関の学舎。そして一切の穢れを知らぬような純白の建築群。住宅街、歓楽街、大通りや庭園広場に到るまで、すべてが光り輝くように、白い。すべてが聖性を象徴し、すべてが魔を拒絶し、すべてが神を讃えている。
クシャルネディアは微笑む。
ふたりは今、巨塔上層に設けられた貴賓室にいる。諸国の王侯貴族の為に用意された客室はしかし、贅を尽くしているとは云い難い。過剰さは聖都の望むところではない。人間としての分を越えた奢侈贅沢は教会の教義に反する。室内の家具調度は皆、簡素な代物だ。最上級の品々ではあることは間違いないが、飾り気はまるでない。ここに宿泊した王侯貴族は室内の様相に、さぞ憤懣やるかたないと思われそうなものだが、それは違う。クシャルネディアが指し示したように、貴賓室にはこの眺望がある。天を貫くような巨塔からの眺めは、諸国では絶対に得ることのできない景色だ。現在の人類の技術力では、この塔の半分の高さすら再現できない。ここからの眺めは、かつて人類が恣にしていた叡智と力そのものだ。貴顕たちはこの眺めに圧倒され、この景色を羨望し、聖都の街並みの神々しさに胸を打たれる。
その街並みを、今、掛け値無しの〈魔〉が見下ろしている。
「とても美しい景色に思えますが」
「皮肉はよせ」サツキは窓外を一瞥し、眼を細める。「所詮連合の残骸だ、興味はない。俺からすればお前の所有する空間の方が、数段上等だ」
「お褒めに与り光栄に思います」
クシャルネディアが軽く指先を振るう。サツキの眼前に亀裂が生じる。
溢れ出る薄闇。漂う瘴気。
〈奈落〉へと通ずる、魔の回廊。
「アステルはどうした」
「目覚めたようです」
クシャルネディアは〈闇潜み〉を用いて巨塔のあらゆる場所に偵察用の奴隷を潜ませている。先ほど、その内の一体からアステルの現状について報告があがった。彼は今、巨塔内の医術院、その一室にいる。発作は烈しかったがあくまで一時的なものらしく、命に別状はないようだ。すでに意識は回復し、致命的な後遺症もみられない為、じきにこの賓客室を訪れることだろう。
「あの強化外骨格の副作用か」
「あれは強力な呪物ですので」
「巨竜纏い」サツキは、嗤う。「命を喰わせて戦うか。よほど魔女を殺したいらしいな」
「そのようです」クシャルネディアも嗤い、そして嘆くように肩をすくめる。「ですがアステルでは、どう足搔こうとジュリアーヌ・ゾゾルルには歯が立ちません」
「それは俺には関係ない。奴の問題だ」サツキは血魔の美貌を正面から見据える。「あるいは、お前の問題か」
「その通りです」婉然と、彼女は微笑む。「アステルに関しては、私にお任せください」
「奴を気に入っているらしいな」
「ええ、非常に好ましいです」その血に含まれる憎悪も、執念も、悲哀も。絶望と慟哭が織り込まれた、半身を覆う火傷の痕も。その瞳に燃える、復讐という名の狂気も。何よりヘル・ペンタグラムに牙を剥くというのが悪くない。あの集団は、彼女の敵でもある。標的が魔女だというのも、好都合だ。〈剣〉として、クシャルネディアは力を高めねばならない。新たな魔術、新たな系譜、新たな血が、必要なのだ。化け物の血汐が、超越魔物の鮮血が、必要不可欠なのだ。イビルへイムをして傑物と云わしめたジュリアーヌ・ゾゾルルの生き血は、是非とも喰らいたい。
いや、喰らう。
喰らい尽くす。
クシャルネディアの蒼い瞳が、妖しげに濡れる。
「必ずや、私がアステルに魔女を殺させます」
「ならば、そうしろ」
「サツキ様は、アステルを気に入ってはおられないのですか? てっきり、だからこそ依頼を引き受けたものだとばかり」
「奴自体には、さしたる興味はない。だが、奴の執念には見るべきものがある」サツキは窓外に眼を向け、遙か彼方を睨む。見えるわけではない。正確な位置もわからない。だが、確実に〈奴〉は生きている。何処かで、眠りについている。赤い瞳が、殺意に揺らめく。契り、約束、誓約。それらには、意味がある。重大な意味が。サツキは頸筋の呪いに触れる。
「誓いとは、果たすべきものだ」
サツキは眼前の闇に踏み入る。
クシャルネディアは一歩身を退き、恭しく頭を垂れる。
「後の事はお前に任せる」
「畏まりました」
「必要になったら俺を呼べ」
その言葉を最後に、サツキの姿は完全に奈落へと消える。
亀裂が、塞がる。
クシャルネディアは頭を上げ、再び窓外に視線を向ける。
眩く、神々しい、聖なる都。
「それにしても、本当に美しい光景ね」クシャルネディアの口元に薄笑いが浮かぶ。血の匂いを漂わせた二本の牙が、剥き出される。蒼い瞳にまざまざと浮かぶのは嫌悪か、あるいは剥き出しの敵意か。
一言、クシャルネディアは吐き捨てる。
「本当、美しすぎて虫唾が走るわ」




