7 鍵
【7】
神聖都市国家セイリーネスには、三本の〈鍵〉が存在する。
一本は〈教会〉に。一本は〈騎士団〉に。そして最後の一本は〈賢者院〉に。
聖都には、日々多くの人々が来訪する。商人、巡礼、旅人、冒険者。そのほとんどは人間だ。セイリーネスおよび周辺国家は、すべて単一種族、つまり人間の国だ。しかし世界を眺めてみれば、様々な国々が存在する。とりわけ有名なのがオルマ多種族国家だ。種々雑多な亜人種が混交する世界でも有数の大国。セイリーネスの〈教会〉を信仰するのは、何も人間だけではない。エルフに、オークに、それに獣人にも、神の信奉者は数多くいる。もっとも、コボルドのような魔物の血の濃い種族は結界に弾かれる為、聖都へ入国することはできない。そういった信者の為に、教会はセイリーネス近辺に幾つかの寺院を建設している。そういった寺院は、今や亜人にとっての聖地だ。だが、先ほど記したように訪れるのは巡礼者だけではない。商人、旅人、冒険者。そして使者、及び使節団。さらには各国の王侯貴族までも。世界の動向に ──つまり〈魔〉の暗躍に── 眼を光らせねばならないセイリーネスは、多くの国々と協定、あるいは同盟関係を結んでいる。そのため聖都には定期的に各国の使者が来訪する事となる。使節団や御歴々の中には、少数とはいえ亜人種も含まれる。そういった者たちの為に、聖剣の護りには〈賓客門〉が用意されている。
そして門の開閉には三本の〈鍵〉が必要となる。
ベリアルは箱の正面に立つ。柩のような形をした、巨大な箱だ。ベリアルの体躯と比べても、さらにひと回りは大きいであろう代物。材質は金属。しかし表面には、金属に特有の艶やかな光沢はみられない。この金属は光を反射しない。深く重い、純粋なる黒。箱は魔剣と同素材の魔合金によって鋳造されている。魔合金の特色は、その魔力伝導率の高さ、そして何より、圧倒的な破壊強度。どのような物理的衝撃に晒されようとも、どのような魔法攻撃を受けようとも、この箱はびくともしない。そう、この箱は〈保管庫〉だった。
保管庫は〈騎士団〉本部の守護者執務室に置かれている。
ベリアルは黒い扉に触れる。
青い魔方陣が表面に浮かび上がり、明滅し、消える。すでに解錠は済んだ。保管庫は物理的に施錠されているわけではなく、魔法によって封印されている。封を解くことができるのは、特定の人物の魔力のみ。
騎士団の保管庫ならば、堕天使ベリアルと聖騎士アルトリウス。
教会の保管庫ならば、教皇ソルストレム及び数名の枢機卿。
賢者院ならば、シュルツ、イザベル、ロイタードの三賢者と、聖女シャルルアーサ。
上記の者たち以外の魔力で保管庫の封印を解くことは、不可能。
黒い扉が開く。
闇の中に、鍵が一本浮いている。だが、いわれなければこれが鍵だと気づく者は少ないだろう。やや大ぶりの、短剣ほどの大きさの鍵には、しかし持ち手しかない。鍵身が見られない。本来ブレードが存在する場所には、白い魔水晶が嵌め込まれている。その形状は、魔剣を彷彿とさせる。
ベリアルは鍵を掴み出し、執務室を後にする。
残りの二本も、すぐに揃うことだろう。
賢者院の鍵は、当然シャルルアーサが取りに行っている。箝口令を敷いた為、三賢者の耳に詳しい状況は届いていないはずだ。今ならまだ、シャルルアーサが鍵を手に入れるのも容易だ。
教会へはアルトリウスが赴いている。教会は天使である彼を尊崇している。神の代理人議員として教皇はアルトリウスの申し出を一応は断るだろう。だが聖騎士の頼みとあっては、教会も無下にはできまい。状況も状況だ。聖都の命運が掛かっているともなれば、教皇は鍵をアルトリウスの手に委ねるだろう。
騎士団本部の廊下を、転移装置を目指しベリアルは歩む。
すれ違う士官騎士や事務官たちは立ち止まり、道を空け、守護者に敬礼をする。彼等はベリアルに話しかけない。報告しなければならない情報がある。渡さなければならない資料を抱えている。承認を得なければならない文書が溜まっている……しかし、騎士たちはベリアルに近づかない。いや、近づけない。今の堕天使は、一種異様な雰囲気を纏っている。どのような時でも鷹揚に、穏やかに、部下たちと向かい合っていたベリアルの姿が、そこにはない。その両の腕には力が漲り、その歩みは力強く、その全身は威厳に満ちている。あるいはこうとも云える。
今のベリアルは、殺気立っている。
白金の、壮麗な装飾の施された鎧が、赤みを帯びる。
ベリアルは窓外を眺める。幾分、陽が傾いている。
『なら、日没までだ』ざらついた声が耳朶に蘇る。結界を開けるのには時間がかかる。そう告げたベリアルに、イレブンはそう云った。『それまでは待つ』
陽が沈むのは、まだ先だ。時間は十分にある。
〈門〉を抜け、ベリアルが再び西門を潜ると、そこにはすでにアルトリウスとシャルルアーサの姿があった。
祈るように重ねられた聖女の手元と、腕を組む聖騎士の右手に、ベリアルは視線を向ける。ふたりの手には、ブレードのない持ち手が握られている。賢者院と教会の鍵。ベリアルは腕を掲げ、騎士団の鍵を示す。
三人は結界の縁に向かって歩き出す。
時折漣立つ結界の向こうに、イレブンがいる。その表情には感情らしきものが見られず、その立ち姿は無機物のように精彩を欠き、しかし、その両の眼だけは赫々たる眼光を放っている。赤灼けた陽射しの中でさえ、その緋は、鮮烈だ。
傍らには、血の匂いを漂わせる美姫が控えている。闇そのもののような、足下まで流れ滴る黒髪。生気とは無縁の、蒼い死者の双眸。青褪めた唇から覗く獣の牙が、この女が魔の住人であると告げている。名を、確かめるまでもないだろう。その血魔は死んだとされている。ユリシール王国はその魔物を打ち倒したと高らかに喧伝している。だが、人間が討滅できるような存在を、超越魔物とは呼ばない。人の手に負えないから化け物なのだ。そしてこの女は、間違いなく化け物だ。
女王。蒼い獣。現存する最も高貴な血。〈祖なる血魔〉。クシャルネディア・ナズゥ・テスカロール。
クシャルネディアは三人の姿を認めると、艶然と微笑み、洗練された身のこなしで、お辞儀をしてみせる。
予期せぬ礼儀に、シャルルアーサは困惑を見せるも、すぐに礼を返す。
アルトリウスは胸中の怒りを押し殺し、血魔を黙殺する。
ベリアルは軽く頷きかける。そしてクシャルネディアの背後に視線を転ずる。
そこに佇むのは、些か毛色の違う男だ。その巨体からいって、人間ではない。頭部から生える力強い一本の角。おそらく、ミノタウロスだろう。この男は、前述したふたりとは、明らかに違う。ベリアルはミノタウロスを興味深げに観察する。その身は、黒い鎧に包まれている。外見を見るからに、強化外骨格の類いだろう。背負っているのは極大の戦斧。鈍磨した刃から見て、相当古く、また相当使い込まれている。姿だけを見れば、このミノタウロスは間違いなく魔の眷属だ。クシャルネディアに仕える異形の黒騎士といったところか。
だが、ベリアルにはそうは思えなかった。
イレブンとクシャルネディアは、死を纏っている。
その表情、挙措、魔力に、残忍さが漂っている。
しかし、このミノタウロスは違う。
むしろ、その逆だった。このミノタウロスには、好戦的な気配が欠片も見られない。この三百年間、数多くの人間や亜人、そして魔物と接してきたベリアルには、わかる。このミノタウロスは戦いを好んでいない。むしろ、そういったものを厭うている気配すら感じられる。イレブンやクシャルネディアとは、このミノタウロスは明らかに別物だ。
もっとも、だからといって油断はできない。
イレブンの同伴者である以上、危険存在であることに変わりはない。
堕天使、聖騎士、聖女の三名は立ち止まり、結界を見つめる。
そう、今からベリアルたちは、この者たちをセイリーネスへと入国させる。
アルトリウスが鍵を掲げる。シャルルアーサとベリアルが、聖騎士に倣う。持ち手の魔水晶が燐光を帯び、次の瞬間、白い鍵身が形作られる。
聖剣の護り表面に、三つの鍵穴が浮かび上がる。
〈賓客門〉の位置は決まっていない。三本の鍵が揃った場所が門となる。ふたりの守護者と聖女は、鍵穴にブレードを差し込み、お互いに頷きかけ、同時に回す。鍵穴から幾条もの白い光が放たれる。光は結界表層を駆け抜け、その頂点にまで達し、ほどけるように消えていく。しばしの静寂の後、鍵穴から再び光が放たれる。今回の光は先ほどのような条ではない。整然として歪みのない、矩形の光。光は徐々(じょじょ)に大きさを増し、背後に聳える城壁、その西門とほぼ同等の大きさに展開される。堕天使、聖騎士、聖女は一斉に鍵を引き抜く。途端に光が掻き消える。
矩形に光り輝いていた部分の結界が、消滅している。
わずかに神の魔力の残滓が、粒子となって宙で燦めいている。
守護者と聖女は、客人を通す為、脇へと退く。
(まさかこの様な日が、再び来ようとは)心中で、ベリアルは呟く。おそらく、聖騎士も彼と同じ心境だろう。この賓客門は大戦時、結界がまだ〈神聖魔防壁〉と呼ばれていた時代に考案され、術式に取り入れられた仕様だ。あの頃の連合には、亜人種を首都へ招くような殊勝な心がけは存在しない。神の名のもとに人類と天使は栄光を約束され、神の威光のもと種の頂点に立ち、この世界を光の先へと導く……そう考えられていた。ベリアルのように神に忠誠を誓った魔物は〈堕天使〉と呼ばれた。堕天使は複数存在し、その中でもとりわけ強大だったのがベリアルだ。彼は天使魔導師団 師団長であるアルトリウスと共に数々の戦場で戦果を上げた。その奮闘は間違いなく勲章を賜るに値する働きであり、魔物でありながら、教会は彼を神の騎士のひとりと認めた。しかしそんなベリアルでさえ、連合首都への立ち入りは固く禁じられていた。彼が首都への立ち入りを許可されたのは、賓客門が出来上がってからだ。そう、賓客門とは、最初からあったわけではない。
門は、たったひとりの生体兵器の為だけに作られた。
その男を軍司令部へ請じ入れる為だけに、存在した。
ゆえにこの門はかつて〈№11の門〉と呼ばれた。
その門を、赤い眼の男が潜る。
これこそが、この門の本来の使い方。
イレブンに続きクシャルネディアが、最後に黒鎧のミノタウロスが門を抜ける。
ベリアルたちは再び鍵を掲げる。鍵身が消失し、結界表面が元に戻る。
門が閉じられたのを確認し、アルトリウスが客人たちの前に立つ。彼はミノタウロスを一瞥し、狂信という名の殺意に滾る瞳で血魔を射竦め、最後にその視線を生体兵器へと向ける。イレブンの顔には、何も浮かんでいない。その表情からは、何ひとつ読み取ることができない。実際、何も感じてなどいないのだろう。神の結界を見ようと、かつての友軍である自分たちを前にしようと、テオスセイル世界連合の意志を継ぐこの都市国家に足を踏み入れようと、この生体兵器が何かに感じ入るなどあり得ない。イレブンの心を動かすものがあるとすれば、それはかつての同胞たちだけだろう。
このまま向かい合っていたところで、時間の無駄だ。この男に何かを期待してはならない。三百年前の経験から、それは痛いほどわかっている。
ゆえにアルトリウスはイレブンに背を向け、
「ついてこい」
挨拶も礼儀も抜きに、歩き出す。
一言だけ、告げる
「〈塔〉へ案内する」




