4 聖女と堕天使
【4】
執務室の扉がノックされた。
シャルルアーサは机から顔を上げる。開かれた扉には、彼女の侍女に伴われた堕天使が佇んでいた。
「ベリアル様」
立ち上がろうとしたシャルルアーサを、
「かまわない」
ベリアルは制す。
「いかがしました」
「いや、少しな」
彼はゆっくりと執務室に踏み入る。
〈聖女〉の居室とは思えぬほど、その室内は雑然としている。壁という壁に設えられた書架には、種々雑多な書物が限界まで並べられている。本来は客人用の長机と長椅子には、書架に収まりきらなかった書物はもちろん、羊皮紙の巻物、高価な稀覯本、色褪せた古文書などが積み上げられ、それらは床にまで広がっている。魔力機関の力によって浮遊するいくつもの棚には希少な魔道具や記憶水晶が溢れんばかりに収められ、そういった棚は広い室内を縦横無尽に浮遊している。
聖女という称号のイメージから、シャルルアーサは誤解されることが多い。彼女の容姿、その楚々とした所作も、勘違いを生むひとつの要因だろう。聖都の民はもちろん、神の代理人の官吏たちでさえ、シャルルアーサに清廉な女性、あるいは敬虔な信徒の印象を抱いている。あながちその印象は間違いではない。彼女は清廉であり、潔白であり、敬虔だ。まさに模範的なセイリーネス国民といって差し支えない。
だが、そもそも聖女とはウィザードに贈られる称号だ。
淑女である前に、信徒である以前に、彼女はセイリーネスの魔導師なのだ。シャルルアーサの執務室が魔導学院の研究室のような様相を呈しているのは、なかば自然なことだ。むしろ魔導師の部屋にすれば、この部屋は整然としている方だ。
ベリアルはシャルルアーサの席の前で立ち止まる。
「応接間へ移動しますか」彼女は室内を見回す。「ここは散らかっておりますし、ベリアル様の巨躯を支えられる椅子もございません」
「気を遣わないでくれ。神の代理人への哨戒報告の帰りに立ち寄っただけだ」
「そのような雑務、何もベリアル様自らが出向かなくとも」
「私は先日の協議会を欠席している。どのみち一度代理人本部に顔を出す必要があった。そのついでだ」
「そうでしたか」しばし間を置いて、シャルルアーサは嘆息する。「結界の件ですね」
「わかるか」
「ベリアル様が立ち寄る理由が、他に思いつきません」そう言って彼女は弱々しく微笑する。「先日、アルトリウス様にもお話したのですが、今のところは……」
「いや、わかっている」
「申し訳ありません」
「謝るのは私の方だ。賢者院が苦慮しているのはわかっているというのに、急かせるような真似をしてすまなかった」
「相手はあのヘル・ペンタグラムです。私自身、焦燥に駆られていないといえば嘘になります」シャルルアーサはベリアルを見つめる。「ヘル・ペンタグラムの結界突破は事実上不可能、それが賢者院の総意です。現状、聖都が脅かされる心配はありません」そう前置きをし、シャルルアーサは机上の黒い箱に手を触れる。彼女の両手に収まりそうなほどの、正八角形の小さな箱だ。艶やかな表面で魔方陣が蒼く輝いている。箱の側面には小さな魔水晶が幾つも並び、天面には大ぶりな水晶がひとつ、嵌め込まれている。議場中央に設置されていた〈空間投射機〉を小型化したような物品、といえばわかりやすいか。
聖都ではこれを〈端末〉と呼んでいる。
ロストテクノロジーに分類される非常に貴重な魔導機器であり、これを所有するのは聖都でも代理人の地位を授かる者たちだけだ。
シャルルアーサの指先が端末の側面を叩く。
天面の魔水晶から光が放たれ、空間に映像が投映される。
異形の魔物たちが、そこに映し出される。
ベリアルはその映像を見知っている。そもそもこの映像は騎士団が作り上げたものだ。先日の評議会でアルトリウスはこれを投映し、同様の情報が収められた〈記憶水晶〉を代理人たちと共有した。
「現在判明しているヘル・ペンタグラムのメンバーは、これですべてなのですね?」
「そうだ」ベリアルは首肯し、映像を睨む。「騎士団が把握しているのはその者たちで間違いない」
空間には、六体の魔物が投映されている。
あらゆる魔術を操る骸〈死霊魔導師〉イビルへイム・ユベール
冒涜の蠅〈悪魔〉ベルゼーニグル・ニグニング
シュラメールの天才魔導師〈魔女〉ジュリアーヌ・ゾゾルル
幾万もの軍蟲を従える将〈蟲王〉カ・アンク
呪いの化け狐〈九尾〉キルククリ
水と戯れる悪童〈水魔精〉レヴィア・リュリュサタン
あらためて眺めるその顔ぶれに、ベリアルは眉を顰める。錚々たる顔ぶれだ。一度はその名を耳にしたことのある怪物、懸絶した力を持つ化け物ども。
「先ほど申し上げたとおり、可能性は皆無です」シャルルアーサは端末を操作する。二体の魔物が画面上で拡大される。「それでも、あえて結界破壊を成し遂げられる可能性があるとすれば、イビルへイム・ユベールとジュリアーヌ・ゾゾルル、この両名です」
「魔導師、か」
「はい。この中で〈魔導師級〉に分類されるのは、彼等だけだと思われます」
漆黒の闇を纏う、異形の髑髏。
右眼を覆うように逆五芒星を刻んだ、忌まわしい魔女。
多かれ少なかれ、超越魔物は膨大な魔力をその身に宿し、圧倒的な魔術の技倆を持ち合わせている。息をするように上位魔法を繰り出し、人間では到底使役のかなわぬ魔物を傅かせ、いとも容易く極大魔法を放つ。その様はまさしく魔導師と呼ぶに相応しく思える。
しかし単純な戦闘力のみで魔導師というものが決まるのかといえば、それは違う。
魔導師とは文字通り、魔法を導く者にのみ与えられる称号。
魔法とはつまり、魔の法則。
魔の法則とは闘いのみにあらず。六属性を用いた攻撃魔法は、あくまでも魔の法則の一側面にすぎない。魔力を硬質化させ物理的な盾とする〈防御魔法〉。硬質化させるのではなく魔力を分厚い膜状にすることで魔法攻撃を中和する〈緩衝魔法〉。広範囲に魔力を散布し敵の動向を探る〈探知術〉。その探知術と防御魔法、緩衝魔法の技術を極限まで高めることで可能となる〈結界術〉。血液中の魔力を高め身体能力を高める〈強化術〉。身体組織を賦活させることで一時的に回復力を底上げする〈治癒魔法〉。異なる次元同士を重ね合わせ、お互いの時空を干渉させる超高等術式〈空間魔法〉。その応用、自らの所有する空間から眷属を解き放つ〈召喚術〉。他にも様々な、数え切れないほどの魔の法則が、この世界には存在する。そのすべてとは言わぬまでも、しかし常人には到底不可能なほどの広範な知識と、自らの魔法技術を極限まで研ぎ澄ました天才を、いや大天才こそを、セイリーネスでは魔導師と認める。
その者が誰であろうと、関係ない。国や種族の垣根はない。
優れた魔術師には敬意を払い、その実力を認める。
それが賢者院の理念。
だからシャルルアーサは、両名を魔導師と呼ぶ。
たとえそれが、唾棄すべき魔物であろうと。
「ジュリアーヌ……」
不意にシャルルアーサは、その名を呟く。
端末を操作する指先が、止まる。
画面を見つめる彼女の瞳が、揺れ動く。
「そうだったな」ベリアルはシャルルアーサを見やる。「貴女とジュリアーヌ・ゾゾルルは、確か」
「はい。同窓です」シャルルアーサはゆっくりと首肯する。「私と彼女は、魔導学院第178期入学生です。もっとも、彼女は魔導師課程の修了と共に祖国へと戻ってしまいましたが」
「覚えている。自らの意思で魔導学院を退学した者など、後にも先にもジュリアーヌ・ゾゾルルをおいて他に存在しない」
「そもそもが、彼女に真っ当な学園生活など不可能だったのだと思います」シャルルアーサは再び魔女の姿に視線を向ける。特徴的な紫の髪も、冷ややかな美貌も、嘲るように歪めた口元も、何ひとつ変わっていない。しかし画面に映るかつての学友は、もはや魔の住人だ。悲しげに、シャルルアーサは嘆息する。「彼女は破綻者でした。しかし同時に、紛うことなき天才でもありました。知識も技術も、およそ並び立つ者がいなかった程です」
「貴女を除いては、な」
ベリアルの言葉にシャルルアーサは小さく微笑する。「私が首席だったのは事実です。ですが私と彼女との実力は、本当に拮抗していました。あのままジュリアーヌが学院に在籍していれば、立場は逆になっていたかもしれません。それに今の彼女は超越魔物です。魔導師としての実力は、私を凌駕しているやもしれません」
「だが、それほどの魔導師であろうと」
「はい」ベリアルの言葉をシャルルアーサは引き取る。「聖都の結界は盤石です」
「そうか」
「やはりヘル・ペンタグラムの全貌が必要です」画面の映像が切り替わる。「これはアルトリウス様に頼んで、騎士団から取り寄せた追加資料です。当然、ベリアル様はこの中身をご存じだとは思いますが」
首肯し、ベリアルは画面を見つめる。
新たに映し出された魔物は、三体。
ユリシールの夜を支配する血の女王〈祖なる血魔〉クシャルネディア。
魔獣狩りの異名を持つ、最強の狩人〈月の狼〉ガルドラク。
精霊を従える風の化身〈颶の獅鷲〉。
判明している六体に引けをとらぬ化け物ども。とはいえこの三体がヘル・ペンタグラムと断定されているわけでは、ない。確たる証拠は掴めていない。だが、全員が何らかの形でヘル・ペンタグラムからの接触を受けていることは判明している。メルゼポルタ荒野ではカ・アンクが目撃され、ユリシールの禁足地をイビルへイムが訪れ、ジュルグ帝国フューラルド地方ではレヴィア・リュリュサタンの姿が確認されている。騎士団はこの三体をヘル・ペンタグラムに成り得る可能性の高い、最重要監視対象として警戒していた。
「もっとも、クシャルネディアとガルドラクについては、省いて問題ないだろう」
ベリアルの言葉に、
「彼等はヘル・ペンタグラムと敵対関係にありますものね」
シャルルアーサが答える。
過去、クシャルネディアはイビルへイムおよびベルゼーニグルと戦闘を繰り広げている。ガルドラクも同様で、数十年前ジュリアーヌからの強襲を受けている。超越魔物といえど一枚岩ではない。ヘル・ペンタグラムへ与するを良しとしない魔物も、当然存在する。差し伸べた手を振り払われたヘル・ペンタグラムが取る行動はただひとつ。対象の抹殺だ。聖都が把握している限りでは、この百五十年ほどで二体の超越魔物がこの世界から消滅している。消滅地点を調査した結果、ヘル・ペンタグラムの魔力残滓が認められた。超越魔物にとって一番の脅威とは同族だ。奴等は敵対者を赦さない。
ユリシール王国が成し遂げたというクシャルネディア討伐。
一夜にして消滅したジュルグ帝国領ヤコラルフ。
そしてオルマ領ゼルジー地方を襲った大規模災害。
調査こそかなわなかったものの、騎士団は頻発するこれらの事象を、ヘル・ペンタグラムによる敵性勢力の排除と見なしている。
「では、残るは颶の獅鷲ですね」シャルルアーサは画面を眺める。先の二体とは違い、そこに明瞭な魔物の姿はない。「パズズ……正直に言うと、詳しくは知りません」
「無理もない。パズズの根城はメルドポルダ荒野だ」
「到達不能禁域ですか。セメルータ砂漠のさらにその先、南方の極地ですね……確かに人類の生存圏からは離れすぎています」
「ゆえに実地調査ははかばかしくない。それでも、使徒たちは幾つかの情報を持ち帰っている」ベリアルは説明する。その地は、ほぼすべてが荒廃しているということ。人間はもちろん、亜人、魔物の生息すらほとんど見当たらないということ。常時、凄まじい烈風が吹き荒れているということ。そしてその暴風の中心に、その超越魔物が鎮座しているということ。「名は、判明していない。はっきりとその姿を捉えた者すら皆無だ」かろうじて暴風越しに魔物の影を垣間見た者ならば、数名いる。『鷲のような翼をそなえた獣人』。それが目撃者たちの一致した証言だ。そしてその証言から、騎士団はメルドポルダ荒野の超越魔物を暫定的に特定した。
風の化身。精霊を従えし猛禽の王。
〈颶の獅鷲〉。
「現状、パズズは大規模な行動を起こしていない。わかっている通り、その根城も我々の世界からは遠く離れている。ゆえにブラックリストにパズズの名は載っていない」
「ですが、危険であることに変わりはありません」
「無論だ」
「正体が判然としない魔物ほど、恐ろしいものはありませんね」シャルルアーサが端末から指先を離すと、投映されていた映像が霧散する。「戦力でいえば、すでにヘル・ペンタグラムは聖都を凌駕しているといって過言ではありません。そのうえ未知の魔物までいるとなると」彼女はゆっくりと首を横に振りつつ、「とはいえ賢者院の、そして私の見解に変わりはありません。聖剣の護りは盤石です」そう断言する。しかしその言葉尻は、些か弱々しい。
ベリアルは静かに頷く。
シャルルアーサはなんとはなしに手元を見る。
不意に、重い沈黙がふたりの間に立ちこめる。
「私が知る限り」その沈黙を振り払うように、シャルルアーサは口を開く。「聖剣の護りを消し去る方法は、ひとつしかありません」真っ直ぐな眼差しで、彼女は堕天使の兜を注視する。「ベリアル様も、同じ見解なのではありませんか?」
「あくまでも」ベリアルは聖女の顔を見つめ返す。「可能性のひとつだ」
「そう、可能性ですね」
「アルトリウスには否定された」
「ですがアルトリウス様も、同じ見解に到っているはずです」聖女の脳裡に、勇者の姿が蘇る。その嗤笑、その所業、その身に刻まれた邪悪な聖痕。神を否定するつもりなど、シャルルアーサには毛頭ない。その御心の内は計り知れず、ゆえに神の選択には、何かしらの意味があるのだ。それでも、シャルルアーサは疑問に思ってきた。何度も何度も、その問いを繰り返してきた。なぜ、あの方なのか。なぜ、あのようなすべてを蔑する方が、聖剣に選ばれたのか。
気づかぬうちに、シャルルアーサは服の裾を握り締めている。
「もし、ギグ様が蘇っているのだとすれば」
「想定の中でも、最悪の事態になるだろう」彼女の言葉を引き継ぐようにベリアルは云う。「『全面戦争に引けを取らぬ殺戮が、此処を舞台に繰り広げられる』。アルトリウスもそう云っていた」
「同感です。間違いなく聖都は、破滅を迎えます」
「阻むことは不可能、か」
「大戦の頃より勇者様を知るベリアル様ならば、わかっているはずです。結界は神の魔力を動力として展開されています。神の魔力とはすなわち聖剣そのもの、そして真に聖剣を御せるのはこの世界でただひとり、勇者だけです。ギグ様が一言命じれば、結界は跡形もなく消滅します」
「やはり、聖都防衛は騎士団に掛かっているようだ」
「その重責の幾分かでも、教会や賢者院が担えればいいのですが」
「気に病む必要はない。騎士団の、それが責務だ。〈魔〉と戦う為に、騎士たちは日々研鑽を積み重ねてきた。何があろうと、彼等は聖都の民を護るために全力を尽くす。そして、私とアルトリウスがいる」ベリアルの耳朶に、聖騎士の言葉が過る。『私はただ、神の敵を滅ぼすまでだ』。断ずるように放たれた友の言葉に同意を示すように、そしてシャルルアーサに決意を伝える為に、ベリアルは力強く頷く。「全身全霊をもって、我々はヘル・ペンタグラムを討ち滅ぼす」
「頼もしいお言葉です」微笑んだシャルルアーサだったが、不意に言葉を切り、窓外へと視線を向ける。その横顔は、明らかに何かを思案している表情だ。
「どうした」
「実は、ひとつ提案があるのですが」
「提案?」
「はい。ヘル・ペンタグラムからの宣戦布告を受けてから、ずっと考えていたことです」シャルルアーサは視線をベリアルへと戻す。その澄んだ瞳の奥に、頸い輝きが灯る。「もし、ベリアル様とアルトリウス様の赦しをいただけるのならば、私も騎士団の皆さんと共に」
瞬間、衝撃がふたりの躯を突き抜けた。
ベリアルは鉄靴を響かせ、聖女は椅子から立ち上がり、窓外を見つめる。巨塔の上層階に位置するシャルルアーサの執務室、その広い窓からはセイリーネスを一望できる。眼下に広がるのはいつも通りの光景。活気こそ失われているものの、平穏無事な神の膝元、特に異変は見られない。だが、ふたりが見据えているのは都市そのものではない。その先の、聖都を護る為に聳える城壁だ。そしてその城壁のさらに先、ふたりの視線は聖都を覆う結界に据えられている。
聖剣の護りが、反応した。
それも、ただの反応ではない。強烈な拒絶反応だ。
聖都上空に、薄らと漣が走っている。反応箇所からの余波だ。魔物が結界に触れたのだ。そしてただの魔物では、これほど広範な余波はあり得ない。
ベリアルとシャルルアーサはすぐさま理解する。
襲撃。
敵の正体は、超越魔物。




