3 襲撃
【3】
神聖都市国家セイリーネスへと続く道は、日々多くの人々が往来する大街道だ。行客、隊商、冒険者はもちろん、魔導学院を目指す魔術師、神の都をひと目見ようと列を作る大勢の巡礼者たち……だが、今現在、大街道は寂寞としている。
空が瑠璃色に染まり始める。
濃い闇が、ようやく薄まりだした。
今までであれば、この時間帯にはすでに気の早い隊商の馬車が進行を開始していた。大街道沿いの夜営広場では旅人や冒険者が起き出し、炊事の準備や身支度など、様々な生活音が響いていたはずだった。魔術師は起き抜けのうめきを漏らし、巡礼たちはセイリーネスの方角に向き合い、朝の祈りを捧げ始める。
それが今までの大街道だった。
現在、その大街道は、静寂にうち沈んでいる。
数日前にセイリーネスが下した準戦時下宣言。
あの聖都が近隣諸国への門扉を閉ざす、その有事に、あらゆる人々が、組織が、国家が、恐れをなした。
現在、神聖都市国家セイリーネスに近づく者はいない。
そう、彼等を除いて。
閑散たる大街道の彼方から、とある一団が現れた。
整然と列を成す姿から、兵士だとわかる。列は長い。一般的に中隊と呼ばれる規模の集団だった。
全員が紫紺のローブに身を包んでいた。その背には、六つの基本属性を表す紋様が描かれている。
六属性魔術集団だ。
先行する第一部隊は、すでにセイリーネスへと到着している。
この一団は、第二部隊だ。
彼等は夜明けの数刻前に起床し、野営地を出発していた。
シュラメール魔術王国にとって、セイリーネスの危機は自国の危機に等しい。
意気軒昂な第二部隊は、今日中に聖都に到着しようと急いでいた。
何事もなければ、昼頃にはセイリーネスの門を潜ることができるはずだった。
不意に鳴り響いた喇叭が、兵士の動きを止めた。
隊列の前部、中部、後部に配置された警備兵は常に〈索敵網〉で周囲を警戒している。
警備兵がその金管楽器を高々と吹き鳴らす意味は、ただひとつ。
敵襲だ。
次の瞬間、全員がローブの裾を翻した。
長杖を構える者がいれば、短杖を握る者がいた。剣を抜きはなつ者がいれば、弓矢をつがえる者がいた。武器の種類は千差万別、装備品も種々雑多。兵士たちの共通点は、ただひとつ。
シュラメールに仕える魔術師であるということ。
つまり、全員が凄腕の使い手であるということ。
そんな魔術師たちの間隙を縫うように、ひとりの人影が走り抜けた。伝令だ。彼は声を荒げ、隊列を掻き分け、部隊から些か距離を置いて停車する馬車に走り寄った。
すでに馬車の傍にはふたりの〈六星魔術師〉の姿があった。
「敵襲ですッ!」
「そんなことはわかっている」六星のひとりがそう答える。すらりとした長身、輝くような金髪、彫像のように整った顔立ち。シュラメール魔術王国から六星を授かった魔術師、名をクラウス。
彼は冷ややかな眼差しを伝令へと向けた。「敵の位置は」
「我々から東南、約一里の地点です」
「種別は」
「魔獣の類いだと思われます。数は一匹ですが、この距離から索敵網に引っかかったことを考えるに、敵の魔力は強大、おそらく危険度8から9に分類される魔物だと思われます。凄まじい速度でこちらに向かっています。会敵まで、そう時間がありません」
「撃退は任せると指揮官に伝えろ」
伝令は敬礼し、再び駆け出す。
「俺たちの出番は無しか?」
馬車の側板に背を凭せかけていた男が、つまらなさげに呟いた。ゲルトだ。無骨な男だ。厚手のローブ越しでもその筋骨隆々たる肉体が見て取れる。腰の大刀に手をかけ、彼はクラウスを一瞥する。
「馬車に乗りっぱなしじゃ身体が鈍るぜ」
「魔物一匹、我々が出る幕ではない」
「ま、そりゃそうだが」
「その意気は聖都までとっておけ」
「暴れたかったんだがな」
「ねぇ、わたしたちも出た方がいいよ」不意に馬車の降り口から女が顔を出した。赤い巻毛の、端正な顔立ちの女だった。エリーザだ。彼女はローブの裾端をはためかせ、馬車から降り立つ。身長ほどもある長杖を肩に凭せかけ、白みはじめた地平の彼方に眼をやる。その眉が、訝しげに顰められる。「魔力の”手触り”がおかしい。警戒した方がいい」
「確かか?」
「当然」
「コイツの第六感は図抜けてやがる。間違えるとは思えねぇ」俄然、愉しそうにゲルトが身を乗り出す。「俺たちも行こうぜ」
「今回ばかりはこの戦闘バカに付き合った方がいいかもよ」苦笑しつつも真剣な面持ちで、エリーザはクラウスを見つめる。「今、聖都周辺では何が起こるかわからない。六星のわたしたちが出向いた方が、絶対にいい」
つかの間の沈黙。
エリーザの魔力探知能力は六星随一だ。
ゲルトのいうとおりだ。彼女が間違えるとは思えない。
「わかった」
クラウスは頷く。
「我々も参加しよう」
〈六星〉とは六属性魔術集団の中でも類い稀なる魔術の使い手にのみ贈られる称号だ。上位魔法を究め、極大魔法を習得し、危険度8から9に分類される魔物を単独撃破することのできた魔術師にのみ、その称号は与えられる。ユリシール王国であれば〈十闘級〉。オルマ多種族国家であれば〈聖銀級〉。そしてシュラメール魔術王国においては〈六星〉。
〈氷瀑 クラウス〉。
〈炎刀の剣豪 ゲルト〉。
〈水霊使い エリーザ〉。
各々が二つ名を持つ、猛者の中の猛者。
この三人はシュラメール魔術王国の最高戦力といって差し支えない。
紫紺の隊列はすでに戦陣を整えている。
全員が魔力を練り、武器を構え、薄闇に煙る東南を睨みつけている。
先ほどまでは毛ほども感じられなかったが、今は不気味な魔力が平地の向こうから漂ってくる。魔物だ。敵が近づいている。魔力の濃度がどんどん高まっていく。不快な、粘り着くような魔力がクラウスの肌に纏わりつく。確かに強大な魔力だ。伝令のいうとおり、相応の危険度の魔物に違いない。
同時に、エリーザの言葉の意味を理解する。何かが、不自然だ。何かが、隠れている気がする。漂う魔力の奥の方に、途方もなく黒く、昏い、〈魔〉の気配が潜んでいる気がする。
「気味がわりぃな」
同じように感じたのだろう、忌々しそうにゲルトが吐き捨てる。
「なにか潜んでるよね」エリーザがゲルトを見やる。「なんだと思う?」
「そうだな……アンデッド、か?」
「わたしもそう思う」
「間違いなくアンデッドだ」クラウスが頷く。魔物がさらに近づいたことにより、隠れていた気配がより鮮明となった。こういう気配には覚えがある。過去の任務で対峙し、死闘の末、その魔物を打ち倒した。ゲルトとエリーザとはことなる六星ふたりと共に、クラウスはその〈闇王〉を討滅したのだ。
クラウスは断じる。「この気配は血魔だ」
暁暗を打ち払うように、曙光が街道に差し込んだ。
夜が、明けた。
同時に、彼等の前にその魔物が現れた。
凄まじい速度で地を這っていた魔物は、紫紺の隊列を前に、立ち止まった。
苛立たしげに蹄を地面に打ち鳴らす音が響いた。威嚇するような嘶きが、街道の隅々にまで轟いた。
陽光に照らし出されたその魔物を、クラウスは睨む。
馬だった。それも、ひどく巨大な、黒い馬だ。
巨躯馬と呼ばれる馬がいる。荷馬として重宝される、非常に力の強い、名前の通り大きな体躯の馬だ。
体格だけを見れば、目の前の黒い馬はギガントホースに酷似している。
だが、それだけだ。
「おぞましい……」
紫紺の隊列から、そんな呟きがあがった。
同感だった。
数多くの魔物を屠ってきたクラウスの眼からしても、眼前の化け物の異形さは、ぐんを抜いていた。
興奮したように血走った瞳。乱杭のように口腔から飛び出す牙。そして、その脚。蜘蛛を思わせる関節肢が八本、その胴体から生えている。それぞれの脚は独立しているかのようにあるものは突き上げられ、あるものは痙攣し、あるものは地を踏みならしている。蟲と哺乳類が融合したかのようなその姿はあまりにもおぞましく、歴戦の六星をして眉を顰めさせるほどの、冒涜的な迫力があった。
「〈蜘蛛脚の黒馬〉か。見るのははじめてだぜ」ゲルトが湾刀を引き抜いた。
「噂には聞いてたけど、本当に気持ち悪い形してるね」嫌悪に身を震わせ、エリーザが長杖を構える。
「気をつけろ」懐から取り出した短杖を強く握り、クラウスは魔力を練り上げる。「スレイプニルは危険度9の中でも最上位の魔物だ。油断をすれば足下をすくわれる」
身構える三人だが、しかしその視線は、すでに異形の黒馬を見ていない。
彼等の意識は、その後方へと向けられている。
馬車があった。
王族や皇族が所有しているかのような、過剰なまでに飾り立てられた、盛装馬車であった。しかし、明らかに人が乗るために誂えられたものではなかった。スレイプニル以上に、その外観はクラウスの眉を顰めさせた。外装を飾り立てる彫刻、車輪にまで張り巡らされた意匠、そのすべてが、唾棄すべきものであった。
人骨、亜人の生皮、様々な魔物の四肢、何のものとも知れぬ生首……
死の芸術。闇の外装。
屍により彩られた魔の車輌。
その車輌の輓馬こそが、スレイプニルなのであった。
クラウスの心拍数が、ゆっくりと上昇していく。
ゲルトとエリーザも同様だ。炎刀の剣豪は柄を握る指先に力を込め、水獣使いは静かに生唾を呑み込む。
スレイプニルを輓獣として使役するなど、あり得るのか?
超危険指定魔物に属する凶悪な魔物を、奴隷扱いするなど、あり得るのか?
「闇王では、ない」
クラウスの呟きに、ふたりは頷く。
闇王とスレイプニルは、同格の魔物だ。
魔物の主従関係は、一方が圧倒的な力を有していなければ成立しない。
『今、聖都周辺では何が起こるかわからない』
先ほどのエリーザの言葉を、クラウスは反芻する。
その通りだ。聖都はヘル・ペンタグラムに狙われている。
ヘル・ペンタグラムは、超越魔物の集団。文字通り、膨大な魔力と圧倒的な戦闘力を有する、化け物の中の化け物。
闇王では、ない。
それすらを凌駕する、血魔。
そのような存在は、超越魔物をおいて他に存在しない。
不意に、スレイプニルが動き出す。
クラウスを含むその場の全員が、身構える。
が、スレイプニルに敵意はなかった。ゆっくりと、並足で黒馬は車輌を牽引し、紫紺の隊列の真正面に、車輌の扉を向ける。
そして、頭を垂れる。
八本の蜘蛛脚を器用に折り畳み、黒い体毛に覆われた巨体を地に伏せ、静かに、絶対的な服従を示すように、額づく。
馬車の扉が、ゆっくりと開いていく。
闇が、溢れる。
濃く、重く、昏い魔力が、立ちこめる。
陽が遮られ、周囲は再び、薄闇に包まれる。
「私の歩みを阻む無礼者は、一体どこの誰なのかしら」
艶やかな声が響いた。
ぬるりと、闇の中から、それが現れた。
クラウスのうなじが、粟立つ。
ひとりの女が、そこに立っていた。
蝋細工のように蒼白い肌。闇の中にあっていっそう際立つ、濡れ羽色の毛髪。あまりにも均整の取れすぎた、異様なまでの美貌。
艶然とした微笑を、女は紫紺の隊列に向ける。
否応なしに見る者を魅了する蒼い瞳が、妖気を湛える。
「へぇ」些か驚いたように、女は感嘆の声を発した。「どのような不心得者が道を塞いでいるのかと思って出向いてみれば、意外ね。なかなかどうして美味しそうな魔術師たちじゃない」
色の失せた唇の端で、血に餓えた犬歯が鋭く光る。
青ざめた舌が、口腔から覗く。
「歩みを止めたかいはありそうね」
美貌に、凄絶な魔の翳が射す。
「なんだありゃあ」そう溢したのは、ゲルトだった。手の中の刃が燃え上がる。炎の付与術。その姿はまさしく〈炎刀の剣豪〉と呼ぶに相応しい。湾刀を正面に構え、不敵な面魂で、ゲルトは吐き捨てる。「とんでもねぇ化け物だな」
「ヤバいよ、あの女」エリーザは長杖で地面を打ち鳴らす。途端に彼女の足下に水が滾々と溢れ出し、次の瞬間には、その水は人の形をとっている。水魔法を自在に操り、水流を使い魔のように使役することから〈水霊使い〉の二つ名を授かるエリーザ。彼女はさらに二体、水霊を召喚する。「本当に、かなりヤバい。魔力量の底が見えない」
クラウスは無言で短杖を振る。
周囲の温度が下がる。
杖の軌跡が、燦めく。
〈氷瀑〉の異名通り、クラウスは氷魔法の使い手だ。
彼の前方で、無数の氷の礫が生成される。
「とてつもないな」クラウスは正面の女を睨みつける。「これほどの魔物に遭遇するのははじめてだ」
冷静な表情の裏側で、クラウスは滾り立っていた。
恐怖はある。不安がないといえば嘘になる。
だがそれ以上に、試したくある。
眼前の女は、間違いなく通常の魔物とは一線を画する。
匂い立つ魔力、放たれる威圧感。
奴は、超越魔物だ。
クラウスが超越魔物と遭遇するのははじめてだ。それはゲルトとエリーザの両名も同様だ。奴等は世界の闇に潜み、その全貌は杳として知られていない。六星として数々の魔物を撃滅してきたクラウスたちであるが、ついぞ超越魔物と会敵したことだけはなかった。
だから、試してみたかった。
自分がどれだけ戦えるのか。どれほどの力を身につけているのか。
その好奇心は、六星魔術師の自負だった。
私なら、眼前の女と戦える。私の魔術なら、超越魔物にも届く。
残りのふたりも、同じような考えだった。
彼等は、何もわかっていない。
クラウスは、ゲルトはエリーザは、何ひとつわかっていない。
この世界の住人は、超越魔物を侮っている。いや、おそらく彼等に見くびっているという意識はないのだろう。現に臨戦態勢に入ったクラウスたちは、すでに限界まで魔力を練り上げている。彼等は自分たちの力を傲ってなどいない。生き残るために、眼前の魔物を屠るために、全力を尽くすつもりでいる。
だが、それこそが間違いなのだ。
所詮は人間である彼等が、超越魔物を倒せるなどと。
この世界の人間は、わかっていない。あらゆる集団、組織、そして国家は、理解していない。
だからユリシール王国の十闘級たちは始祖を討ち取ろうとした。
ジュルグ帝国周辺国家は魔獣狩り討伐を依頼した。
この世界には、自分たちならば超越魔物を倒せると傲るギルドや軍隊が多くある。あるいは倒せずとも、退けられると。超越魔物の出現率、その情報の欠乏具合を考慮すれば、そういった浅はかさは、あながち責められたことではないのかもしれない。しかしシュラメール魔術王国は事情が違った。彼等は理解して然るべきだった。〈獄炎の魔女〉ジュリアーヌ・ゾゾルルという化け物を、シュラメール魔術王国は輩出している。超越魔物の恐ろしさを、彼等はわかっているはずなのだ。
あるいは、それゆえか。
シュラメールは、魔女の存在に触れたくないのだ。自分たちの国から、それも聖都同様、神を信仰する自国から〈ジュリアーヌ・ゾゾルル〉などという汚点を生み出してしまったその恥辱に、その背信に、眼を瞑っていたい。
人間は忘却する生き物だ。文献の封印、証言の改竄、事実の曲解……とどめようと尽力しなければ、歴史など容易く解けていく。魔術王国はそのような道を辿った。そして百年の余は、歴史を忘れ去るには、十分に過ぎる。
ゆえに、クラウスはわかっていない。
ゲルトは、エリーザは、理解していない。
超越魔物というものを。
その力、おぞましさ、その恐ろしさを。
すべては、一瞬の出来事だった。
三人が臨戦態勢に入った、その直後だ。
クラウスの顔に、何かが降りかかった。熱い。咄嗟に頬に触る。錆臭い、ぬるついた液体が指先を濡らす。血だった。
驚いたクラウスはゲルトとエリーザに顔を向ける。
彼同様、驚愕の表情を浮かべたふたりが、クラウスを見返している。
ふたりの顔にも血が滴っている。いや、顔だけではない。頭髪が、四肢が、その衣服が……全身が、血にまみれている。
しかし、その血は自分たちのものではない。
彼等の躯には、傷ひとつみられない。
では、この血はどこから?
背後から、小さな呻き声が聞こえた。
反射的にクラウスは振り返る。
驚愕に、その眼が見開かれる。
数秒前まで、そこには紫紺の隊列が整列していた。魔術王国の実働部隊、六属性魔術集団が戦陣を構えていた。六星には劣るにしろ、派兵された魔術師たちは全員が三から五の星を授かる精鋭たちだった。強大な魔物を前にしようと、おくれをとるような弱者はひとりもいなかった。
そのはずだった。
紫紺の隊列が、宙に浮いていた。
が、それは錯覚だった。
隊列は浮いているのではない。地面から突き出した黒槍に、刺し貫かれていたのだ。
その槍は、間違いなく魔法だった。クラウスはこの形状の槍を見たことがあった。闇魔法【漆黒の槍】だ。吸血鬼および血魔が好むこの術は、凄まじい破壊力を秘めた上位魔法だ。
そう、上位魔法なのだ。
クラウスは、驚愕していた。彼だけではない。ゲルトも、エリーザも、吃驚を禁じ得なかった。
眼前のすべてが黒い穂先に埋め尽くされている。
隊列を刺し貫くその槍は数十、いや、数百はくだらない。
これだけの上位魔法を同時に発動するなど、一体どれだけの魔力が必要になるというのか。いやそれ以上に、これだけの大規模魔法を一瞬で発動させるなど、一体どれだけの技量が必要になるというのか。
滾々と迸る鮮血は地面を覆い、溢れ、三人の足下に広がっていく。
血の海。彼等はそのただ中にいる。
背筋が、怖気立つ。クラウスは振り返る。女の躯から、凄まじい魔力が立ち上っている。量も、濃度も、先ほどまでとは比較にならない。おそらく、この魔力こそが、この女が生来から纏っている魔力なのだろう。
女が、嗤った。
先ほどまで女は、高貴な血筋の者に特有の、得もいわれぬ気品を漂わせていた。その気品はおぞましい魔の気配に、可憐な一輪の花を添えていた。認めたくはなかったが、クラウスは女の名状しがたい美貌と高貴さに、崇高な感情さえ抱きかけていた。
その感情は、しかしこの瞬間、霧散した。
面差しに変わりはない。
その眉目は、完璧な黄金比の中に収まっている。
だが、その表情は、狂暴だった。
牙を剥くように嗤うその顔つきは、間違いなく抑えきれぬ獣性を宿していた。
「なぜ貴方たちが生かされたか、わかる?」女は優雅な身振りで足を踏み出す。闇のような髪がたなびく。蒼い舌が、唇を舐める。「貴方たちがもっとも美味しそうだったからよ。血というものはね、鮮度こそが命なの。その頸筋に喰らいつき、刺し貫き、直接啜ってこそ、その味に酔いしれるの」
女の瞳が、妖しげに光る。
魅惑眼の予兆。
血の血族の得意技。
クラウスはチャームアイへの対処が遅れた。経験と知識から、その技をもっとも警戒しなければいけないことはわかっていた。チャームアイの発動前に、防御魔法を張っておかねばならなかった。
六星たる彼の反応が遅れたのは、やはり相手がこの女だからか。はじめて遭遇した超越魔物の魔力、その圧威に、気圧されたからか。
クラウスは死を覚悟した。
だが、彼の身はチャームアイによって縛られることはなかった。
不意に女が、その身を翻した。
クラウスは虚を突かれた。
唐突に背を向けた女の真意を測りかねたのもそうだが、何より、次に女のとった行動が信じられなかったのだ。
女は馬車に向かい合い、右手を胸元へ当て、恭しく頭を垂れた。
馬車の奥から、人影が現れた。
女から立ち上る黒い魔力によって、周囲は仄暗い。さらには乗車口から漂い出る粘り着くような闇が拍車をかけている。ゆえに馬車近くで立ち止まった人影の姿を正確に捉えることは、クラウスにはできなかった。彼にわかったのは、人影が男であるということ、その頭髪が薄い灰色だということ、そして男からは、魔力というものを一切感じないということだけだった。
人間にしか見えない。だが、あの馬車から現れた以上、人間であるはずがない。
「如何なさいましたか」女が顔をあげた。
「お前の〈居城〉は魔力を遮断する」
ざらついた声が、闇の中に響いた。
「〈六層結界〉と〈空間遮断〉によって形を整えておりますので、完璧とはいえませんが、おおむねすべての魔力を遮断する造りとなっております」威儀を正し、女はゆっくりと男へ近づく。「不都合がございましたか」
「確かめたいことがあっただけだ」
男は頸筋に手を当てる。
「何か、動きが」
「いや」男は頸筋から手を離す。「奴はまだ眠っている」
「復活は、もうしばらくかかりそうですか」
「さあな」再び、男の指先が頸筋に触れる。そこには、黒い蛇がのたくっている。「だが、目覚めが近いことは確かだ」
「〈解呪〉の方は」
「捗ってはいない」
灰色の髪の男と血族の女の会話は、なおも続く。
クラウスはすばやく左右に視線を向ける。
ゲルトもエリーザも、その一瞥の意味を瞬時に理解する。
今しかない。
灰色の髪の男も、血族の女も、まるでクラウスたちに関心を払っていない。あたかも彼等など存在しないかのように振る舞っている。奴等は隙だらけだ。
仕掛けるなら、今をおいて他にない。
勝てるなどと思ってはいない。自信は、己惚れは、先ほど完全に砕け散っている。
だが、クラウスは六星だ。これまで様々な任務につき、凶悪な魔物どもと死闘を繰り広げてきた。修羅場を乗り越えたのは一度や二度ではない。萎えかけた心を、再び奮い立たせる。クラウスは経験で知っている。戦場では、動かない者から死んでいく。嘆いている暇などない。生き残るためには、ただひたすらに戦い続けるしかない。
三人で一気に畳みかけ、隙を作り出し、退却する。
六星魔術師の自分たちならば、できる。
「こんな所で死ぬ気はねぇッ!」吠え声と共に、ゲルトが走り出す。
駆けながら彼は剣を構える。剣の炎が膨れ上がる。周囲の温度が急上昇していく。「焼き尽くしてやるぜッ!」
「援護は任せてッ」エリーザが長杖で地面を打ち鳴らす。
途端、三体の水霊が、すべらかにゲルトの後を追う。
ゲルトとエリーザの顔からは、決死の覚悟が窺える。
その覚悟に呼応するように、クラウスは氷の礫を、矢を、さらには槍を生成する。
ゲルトと水霊たちが灰色の髪の男と血族の女に、左右から迫る。
挟撃を仕掛けるつもりだ。
クラウスは凄まじい集中力で、ゲルトたちの動きを追う。
狙いは外せない。遅れは許されない。ふたりの挟撃に合わせるように、完璧なタイミングでこの魔法を撃ち込む。
時間が緩やかに感じられる。それほどまでに、今現在のクラウスは研ぎ澄まされている。
ゲルトの湾刀が、ひときわ烈しく燃え上がる。
水霊たちの手元で、水の魔力が渦を巻く。
両者は、上位魔法を放つつもりだ。
クラウスは短杖を敵へと擬する。
あと数秒で、魔法は練り上がる。
口火は切られる。
クラウスは短杖を振りあげる。
次の瞬間。
ゲルトの腰から上が、消し飛んだ。
そう表現するより他にない、何か、巨大な戦槌で薙がれたかのように、あるいは爆発性の魔法が直撃したかのように、彼の上半身が後方に吹き飛んだ。血肉が周囲に散らばる。熱を帯びた湾刀が地面を転がり、石畳を焦がす。大量の鮮血を噴き上げながら、下半身が無残に頽れる。
同時に、三体の水霊が圧し潰された。
内側に沈み込むかのように、水霊が空間に呑まれた。危険度七に分類させる高位の召喚獣が、一瞬のうちに跡形もなく消え去った。
「一体、何が起こっ」
言葉の途中で、傍らのエリーザが消し飛んだ。
血霧が舞った。バラバラに千切れた肉片が地面に落下した。
杖を振りあげたまま、クラウスは固まった。
彼には、何が起きているのか理解できなかった。
だが、呆けている時間など残されてはいなかった。
視界の端が、赤く染まった。
クラウスが生成した氷魔法が、跡形もなく砕け散った。
同時に、彼は宙に浮いていた。
身動きが取れなかった。指一本動かすことができなかった。唯一動かせるのは、眼球のみ。クラウスは必死に周囲に視線を走らせた。視界に映るすべてが、薄赤く染まっていた。 ──なんだこれはッ なぜ赤いッ なぜ私は動けないッ! 一体、何がどうなっているッ!!── 恐慌をきたした彼の目が捉えたのは、灰色の髪。
男がこちらを見据えていた。
視界が薄赤く染まっているからそう見えたのか。あるいは、男の瞳自体がその色なのか。
クラウスには、男の双眸が、赤く輝いて見えた。
そして、その男の姿が、彼が最後に見た光景となった。
最後の人間が破裂した。
水瓶をひっくり返したかのように、大量の血液が地面に広がっていく。
潰れ、捻れ、千切れた屍体がその血に押し流されていく。
サツキはその光景を見据えた。
次の瞬間には、彼の瞳からは興味が失せている。
自分が殺した人間たちも、その背後で黒い槍に刺し貫かれた累々たる屍体も、もはやサツキの視界には映っていなかった。
呼応するように、周囲を漂っていた赤い霧が霧散する。
サツキの傍らで、闇のような黒髪が揺れる。
「さすがです」クシャルネディアが感嘆を言葉尻に滲ませ、微笑した。「完璧なまでの魔力操作。私でさえ、魔力のみでこれほどの芸当はできません」
「世辞はよせ」
「本心です」クシャルネディアはサツキの作り出した屍体に視線を向ける。「まさか魔力を制限されている状態のまま、その技を使えるとは知りませんでした。〈赫い手〉というのでしたね」
些か驚いたというようにサツキは眉を顰める。「なぜその呼び名を知っている」
「文献を繙きました」ユリシール王国での数ヶ月間、とりたててやることのなかったクシャルネディアは、自身の領域に引きこもり、収集物を眺めることで無聊を慰めていた。彼女が収集した物、あるいはここ数百年、眷属たちが捧げた供物が、彼女の〈居城〉には大量に保管されている。その中に、消失魔法技術に関する書物が紛れていた。さらには、生体兵器について記されている文書までもが見つかった。それら文献の中に、その呼び名が記されていた。№11が使ったという、その技の名が。
「魔力装甲の攻撃転用、という解釈でいいのでしょうか」
「本来はな」
赫い手とは、三百年前のサツキが魔剣以上に多用していた攻撃手段だ。
〈超高密度多重魔力装甲〉の攻撃転用。
魔剣には及ばぬまでも、その威力は絶大。
サツキは目覚めてから今日まで数回、赫い手を使っている。
ダークエルフの村を強襲した吸血鬼、死の三姉妹。
禁足地で襲い来た多頭獄犬。
これらは赫い手により、握り潰されている。
あるいはクシャルネディアとの戦い、肉体希釈により黒い霧へと姿を変えた祖なる血魔を、サツキは空間ごと圧し潰した。
辺境都市ヤコラルフにおいて、水精霊の身動きを封じたのも、この技だ。ゆえにレヴィアは魔剣から逃れることができず、一撃のもと屠られた。
超越魔物をすら圧し潰し、封じ込める程の圧力。
鬼神にのみ赦された、圧倒的な赤い膂力。
本来の〈赫い手〉であれば、先ほどの人間たちは何ひとつ残っていないだろう。血の一滴さえ、肉の一片でさえ、すべてが握り潰される。あたかも熱せられた鉄板に滴った水滴のように跡形もなく蒸発し、その存在そのものが消え去る。屍体が残っている時点で、サツキが使ったのは赫い手ではありえない。
サツキは力を解放していない。黒竜の呪いを抑えている魔力は、一切使用していない。サツキはただ、現状で扱うことのできる魔力 ――それは一般的な人間ほどの、ごくわずかなもの── を用いて、赫い手の真似事をしたに過ぎない。
目覚めた直後のサツキであれば、この芸当はできなかっただろう。あまりにも強大な力を操ってきたがために、矮小な魔力操作というものに馴染みがなかったのだ。しかし、大は小を兼ねるものだ。封印された状態には、すぐに適応した。最小限での魔力量での身体強化魔方陣、および強化骨格の性能を引き出す術も月日の中で見いだした。何よりも制限時間という枷をはめられた状態での超越魔物との戦い ──クシャルネディアとの戦闘、ガルドラクとの激戦── により、魔力操作への理解が三百年前以上に深まった。
今やサツキは、わずかな魔力量での攻撃手段を手に入れていた。
竜殺しの実力をもってすれば、人間を捻り潰すなど、容易い。
とはいえ、これは赫い手の猿真似。
粗雑な模倣に過ぎない。
所詮、こんなものは。
「児戯だ」
呟き、サツキは踵を返す。
「私たちは、食事をとらせていただきます」
無残な殺戮の現場を取り囲むように、空間に亀裂が走る。クシャルネディアの所有する空間〈永久の澱〉から、眷属たちがその姿を現す。
蠢くおぞましい長虫、黒鎧百足。
不気味な爬虫類、毒霧蜥蜴。
複数の頭部を持つ狂暴な番犬、多頭獄犬。
さらには輓具を外された蜘蛛足の夜馬が、その群れに加わる。
クシャルネディアはサツキの背に小さくお辞儀する。
「申し訳ありませんが、いましばらくの間、お待ちいただければと」
サツキは馬車の乗り口に手をかけ、
「好きにしろ」
言い残し、車輌の奥の闇にまぎれた。
主の姿が完全に消えたのを確認すると、クシャルネディアはゆるやかな歩様で血の海に踏み入る。鉄錆の匂い。死の匂い。しかし血魔にとって、これほど芳しい匂いはない。
蒼白い唇が、つり上がる。
鋭利な二対の牙が、剥き出される。
クシャルネディアに呼応するように、眷属たちが蠢く。百足は大顎脚を打ち鳴らし、蜥蜴は耳障りな鳴き声を放つ。番犬たちは獰猛な唸りをあげ、異形の黒馬は嘶きながら八本の脚を振り回す。
そんな眷属たちを愉しそうに見回し、クシャルネディアは朗らかに言い放つ。
「それじゃあ、朝餐の時間としましょうか」
闇を抜けると、そこには〈居城〉が広がっている。
床には毳ひとつない潤沢な毛皮の絨毯が敷かれ、天井には吊燈火が吊り下げられている。燈火の灯りが照らし出すのは、凝血のように黒みを帯びた薔薇色の壁紙。そして豪華絢爛な調度品、精巧緻密な工芸品の数々。贅を尽くした王侯貴族の城館の一室を思わせる此処はしかし、人の住まう場所ではない。この部屋を構成すべては、スレイプニルの牽引する車輌を飾り立てている品々同様、死の芸術だ。
人、亜人、魔物。
皮、骨、屍体。
ここは伏魔殿。
クシャルネディアが車輌内に創造した、まさに魔の居城。
サツキは室内を歩く。
「何か、問題が生じたのか」
黒い巨体が、床から立ち上がった。
異形の鎧姿。傍らに立てかけられた巨大な斧。兜から突き出された一本の角は、間違いなくミノタウロスのもの。アステルだった。
「敵襲か」
「違う」
「しかし」アステルはサツキの背後に広がる闇を凝視する。高位アンデッドが空間移動に用いる〈魔の回廊〉、その向こうから、夥しい血の匂いが漂ってくる。
「戦いが起こっているのではないのか」
「お前が気にかける必要はない」
「必要なら、助勢する」
「俺の〈剣〉に助勢など必要ない」サツキはアステルの正面で立ち止まる。赤い瞳が、黒い兜を射る。「そもそも、助勢を請うているのはお前のはずだ」
「それは、そうだが」
「大人しくしていろ。クシャルネディアに喰われたいなら話は別だがな」粗雑に言い放ち、サツキはアステルの傍らを通り過ぎる。
あたかも扉が開かれるように、サツキの正面の空間が、左右に割れる。
ふたりがいる此処は〈居城〉の大広間だ。主にアステルとクシャルネディアはセイリーネスまでの道中、この大広間で刻を過ごしている。城内には他にもいくつか空間が設けられ、ある部屋にはクシャルネディアの眷顧をあずかる奴隷が控え、またある部屋には、彼女に捧げられた供物が所狭しと所蔵されている。そうした内のひと部屋が、サツキの為に用意されている。元来から意思疎通に興味がなく、共感能力を著しく欠落したサツキは、ひとりでいることを好む。そんな主の為にクシャルネディアは、彼専用の空間を用意した。
サツキの前に開かれた空間には、闇が満ちている。
その中に、サツキは踏み入る。
〈魔の回廊〉を上回る、掛け値なしの暗闇が、その先には広がっている。クシャルネディアの所有する異空間の中でも最深度を誇る〈深淵〉。そこには、何もない。比喩ではない。本当に、そこには何もない。家具調度はもちろん、床も、壁も、そして光さえも……何ひとつ存在しない。
あるのは闇。
重く、冷たい、深淵の闇。
常人であれば気が狂うようなその場所も、しかし、竜殺しにはよく馴染む。
「直、聖都だ」閉じ始めた空間越しに、ざらついた声が響く。間隙から、赤眼が覗く。「お前は魔女のことだけ考えておけ」
空間が、完全に閉ざされる。
大広間は静寂に包まれる。
アステルはしばらくの間、サツキの消えた辺りを見つめていた。
濃い血の匂いが、香る。
外から漂い来る血臭は、サツキの躯にも纏わり付いていた。
一体、外で何が起こったのか。
今現在、何が行われているのか。
美貌の始祖は、一体何を喰らっているのか。
『本当に彼処に残るのか』
不意に、その言葉が耳朶に蘇る。
短い間だったが、確かに仲間だったその男が、別れ際に口にした言葉。
『アイツ等は化け物だぞ』
「そうだな、ヴォルフラム」
アステルは眼を瞑る。オルマ多種族国家で出会った〈赤い羽根〉の面々の姿が瞼裏に浮かぶ。
ダークエルフの槍使い。黒豹の獣人族。亜麻色の髪をした美しい魔術師。そして口の悪い、エルフ族の精霊使い。
確かに、彼等は化け物だ。
心中で呟き、アステルはゆっくりと眼を開く。
死に彩られた居城が、眼前に広がっている。
此処を満たすのは血と、死と、そして魔だけ。
間違いなく、あのふたりは化け物だ。アステルの追い求める魔女や、彼の前に立ちはだかった蛇の眼の騎士、そしてあの圧倒的な存在感を放っていた人狼と、同じ種類の化け物なのかもしれない。
アステルが助勢を請うた相手は、ヘル・ペンタグラムと何ら変わらない、もしかすれば、それ以上に危険な、化け物たちなのかも知れない。
「それでも」
アステルは拳を握る。
『パパ、熱いよ……』
魔女を、ジュリアーヌ・ゾゾルルを殺すと、あの娘の亡骸に約束した。
だからこそ。
「今の私には、彼等が必要だ」




