2 聖都の守護者
【2】
夜気が薄まる。
にわかに空が白みはじめる。
払暁が近い。
城壁塔に佇立するベリアルは、城壁内を見下ろした。
薄闇の中からセイリーネスの街並みがぼんやりと立ち上がる。神聖さの象徴たる白色で統一された景観は、暁暗の只中にあっても淡く輝いているように見える。街は静寂に沈んでる。少し前ならば、この時間帯であろうと商業区画や歓楽街には光が灯り、活気立っていた。商業区画では朝早くから働き手や各国から訪れた商人たちが立ち働いていたし、歓楽街では魔導学院の学徒たちが酒を酌み交わしながら魔術論に花を咲かせていた。夜の街、いわゆる娼館通りもあった。聖都を訪れたことのない人々は、聖都を厳格な法と秩序により統制された宗教国家だと思い込んでいる。その印象はあながち間違いではなく、確かに他国に比べれば歓楽は控えめではあるが、しかし他国の人々が考えているほど、セイリーネスは堅苦しい国ではない。セイリーネスが禁じているのは、神への冒涜。酒も同衾も罪ではない。それらは人の営みというものだろう。節度をもって行われるならば、一向に構わない。
そう、だから本来であれば聖都の中心部には明かりが灯っていて然るべきだ。
だが、今の聖都は水底のような静寂に沈んでいる。
十日前、〈神の代理人〉は聖都の準戦時下態勢を決定した。
出入国の制限。〈騎士団〉による聖都防衛力の増強。〈教会〉による戦時下演説。〈賢者院〉による聖都結界の術式変更、および強化。神の代理人は必要だと思われる対策を打ち出し、迅速に事をすすめていた。
この十日間で、聖都には物騒な空気が広がっていた。
聖都を出歩く人々の姿はまばらになった。
いつもなら終日賑わうはずのル・シャイル広場は閑散としていた。
学院通りは寂しげだった。
そして明け方まで賑わうはずの歓楽街は、閑古鳥が鳴いている。
この静寂は、セイリーネスが意図したものではない。
もちろん準戦時下である以上、国民の聖都出国は基本的に禁じられている。だが、それ以外の行動制限を、神の代理人はほとんど設けていない。セイリーネスを覆う静寂は、国民たちの自発性によるものなのだ。
皆、不安なのだ。
聖都建国以来、はじめて布告された準戦時下宣言だ。
皆、恐れている。
セイリーネスを狙う、超越魔物の影を。
ベリアルは視線を城壁外へと転じる。
沈黙の聖都とは打って変わって、城壁外は明け方とは思えぬほど多くの人影が認められる。
聖都防衛の為に配置された騎士たちだ。治安維持や紛争鎮圧、魔物の監視などの目的のため各地へと派遣されていた神聖騎士団は、ヘル・ペンタグラムに抗するべく、続々と帰国している。わずか十日の間に、聖都防衛へ当てられる騎士たちの数が三割ほども増えている。このまま順調に帰国がすすめば、セイリーネスの戦力は大幅に強化されるだろう。
防衛に参加しているのは、騎士ばかりではない。
整然と並ぶ隊列には、外套姿の者たちも目立つ。
教会と賢者院に属する魔術師たちだ。セイリーネス防衛の為に、彼等も日々研鑽を積み重ねてきた。最前線に立つ騎士たちにとって、光魔法を操る魔術師たちの存在は非常に心強いだろう。
騎士の鎧も魔術師もローブも、すべて神聖さを表す純白を基調としている。
だが、白い隊列とは別に、暗い色合いの隊列の姿も見受けられる。
全員が、紫紺のローブを羽織っている。背に、金糸で紋様が縫い描かれている。火、水、氷、雷、闇、そして光。その紋様には六属性の意味合いが込められている。
魔術王国の実働部隊〈六属性魔術集団〉だ。
セイリーネス同様教会の〈神〉を信仰するシュラメール魔術王国からすれば、セイリーネスはまさに聖地に等しく、魔術王国から巡礼に来る信者は数限りない。さらにはシュラメールの魔術師たちはセイリーネスの賢者院に絶大な憧憬を抱いている。聖都はロスト・テクノロジーの総本山だ。すでにそのほとんどが残っていないとはいえ、賢者院傘下で魔術を学びたい学徒たちは数多く、王国の魔術師たちは魔導学院入学を目指し、しのぎを削っている。
シュラメールにとって魔術と信仰は絶対だ。
ゆえにセイリーネスへの忠誠は、篤い。
ヘル・ペンタグラムからの宣戦布告を聞き知ったシュラメール魔術王国は、すぐさま聖都への派兵を決定した。
数日前に到着したシュラメールの兵たちを、セイリーネスは歓迎した。
『すでに第二部隊もこちらに向かっています』兵を率いて来た魔術王国の隊長は恭しく敬礼をすると、ベリアルにそう告げた。『一両日中とまでは行きませんが、数日もすれば到着するものと思われます。それだけではありません。物資も、糧秣も、必要とあらばどのような支援も我々シュラメールは惜しみません。なんなりと仰ってください』
セイリーネスの状況は、すでに世界各国に知れ渡っている。
この先、様々な国々から支援の手が差し伸べられることになるだろう。
「ありがたくはある」ベリアルは頭上を見上げる。幾本かの曙光の筋が、空を貫いている。うち一本が、ベリアルを照らし出す。白金の鎧が、柔らかに輝く。兜から鉄靴にいたるまで緻密に彫刻された宗教的装飾が、光の中に浮かび上がる。聖都の二大守護者に相応しい姿を見せるベリアルは、しかしその威容とは裏腹に、悲しげに首を横に振る。「しかし、厳しいだろうな」
「何の話だ」
不意にかけられた声に、
「援軍のことだ」
振り返ることもなく、ベリアルは応える。
鉄靴を響かせながら、白銀の聖騎士が堕天使に並ぶ。
「シュラメールの申し出はありがたくはある」ベリアルは嘆息し、再び首を振る。「しかし、敵はヘル・ペンタグラムだ。超越魔物の力なら、私と君がもっともわかっているはずだ」
「雑兵など無意味か」にべもなく、アルトリウスは斬り捨てる。
「そこまでは言っていないが」
「気を遣うな。貴殿の言いたいことはわかる。シュラメールの兵たちも、我等が騎士団も、奴等を前には為すすべもないだろう。聖都の護りの要は我々ふたりとシャルルアーサ、そしてこの結界だ」アルトリウスは虚空を見つめる。一見すれば何もない、しかしその実あらゆる魔を討ち滅ぼす神の魔力が張り巡らされている。「〈聖剣の護り〉こそセイリーネス防衛の、もっとも重要な支柱だ」
「言い換えれば、結界さえ破られなければ、我々に敗北はない」
「その通りだ」
「だが、ヘル・ペンタグラムは宣戦布告を叩きつけてきた」ベリアルはアルトリウスと同じように、虚空を見つめる。「奴等は、何かしらの策を用意している。〈賢者院〉は何と?」
「はかばかしくはないようだ」
現在、賢者院は聖剣の護りを突破する方法を検討している。三賢者はもちろん、聖女シャルルアーサまでもが加わり、巨塔に備わったロスト・テクノロジーを最大限活用し、ヘル・ペンタグラムの結界突破の方法を検討している。だが、いまだその方法は判明していない。
『情報が不足しています』
先日、賢者院を訪れたアルトリウスに、シャルルアーサはそう告げた。
『ヘル・ペンタグラム、その全容が把握されていない以上、ここが限界かもしれません』
ヘル・ペンタグラムはいまだ闇の奥底に潜み、その全容を顕していない。これまで騎士団は全世界に〈使徒〉と呼ばれる監視者を放ち、超越魔物の動向を追っていた。だが、元来が世界の裏側で暗躍していた魔物どもであり、その動向は杳としてしれなかった。運良く超越魔物の痕跡を掴んだとしても、その情報を持ち帰ることのできる使徒は、ほんの一握りであった。その一握りの情報が、数ヶ月前、ジュルグ帝国から送られた。『超越魔物の魔力残滓を確認。調査する』その連絡を騎士団が受け取ったのと刻を同じくして、帝国辺境都市ヤコラルフが壊滅した。
ヤコラルフの壊滅を、ジュルグ帝国は〈精霊暴走〉による天災だと宣布している。だが、セイリーネスはその言葉を信じていない。精霊の暴走程度で六万人が住まう大都市が崩壊するわけがない。間違いなく、超越魔物が関係しているはずだ。
都市崩壊後、使徒たちからの連絡は途絶えている。おそらく、彼等は巻き込まれたのだ。その亡骸は、いまだヤコラルフの残骸の下に埋もれているのだろう。
セイリーネスはヤコラルフ跡地の調査を希望したが、帝国はその申し出を撥ねのけた。
ジュルグ帝国は傲慢なまでに誇り高い国家だ。彼等にとってもっとも重要なのは面子であり、たとえそれが聖都であろうと、干渉されることを何よりも嫌う。まして自国民に多大な犠牲者の出た大規模災害だ。これから先も、帝国がヤコラルフへの立ち入りを許可することはないだろう。
同じような理由でセイリーネスの干渉を嫌う国が、ユリシール王国だ。こちらも大国である誇りゆえか、あるいは自国が闇市場の温床である後ろめたさからか、セイリーネスの入国を却下している。騎士団としては、始祖クシャルネディアの領域を踏査したかったのだが。
思えばこの数ヶ月で、超越魔物に関する重大事件が連続している。
そのうちのふたつ、ヤコラルフ壊滅とクシャルネディア討滅を調査できなかったのは騎士団にとって致命的だった。
さらにはひと月ほど前に、オルマ領ゼルジー地方の一帯が、跡形も無く消し飛んだ。広大な森林地帯といくつかの小村が、常軌を逸した殺戮と破壊に呑み込まれた。
被災規模、被害者数、目撃情報から察するに、超越魔物が絡んでいるのはまず間違いないように思われた。
排他的なジュルグ帝国やユリシール王国と違い、オルマ国は友好的だ。
騎士団は大規模な調査隊をゼルジー地方に送り込む計画を立てていた。
そんな矢先に、イビルへイムが宣戦布告を告げた。
計画は立ち消えとなった。
そう、だから情報が不足している。
ジュルグとユリシールの調査を強行するべきであった。
あくまでも秩序を重んじるセイリーネスの、悪い面が出てしまった。
超越魔物による被害がここまで連続している以上、その背後でヘル・ペンタグラムが暗躍しているのは明らかだというのに。上手くいけば、ヘル・ペンタグラムについて最新の情報を得られたかもしれないというのに。
やはり三百年続く平和が原因か。争いのない穏やかな時の中で、セイリーネスは緩んでしまっているのか。
「結界を破ることは不可能」アルトリウスは呟く。「今のところ、それが賢者院の見解だ」
「構成破壊の可能性は?」
「ありえないようだ。聖剣の護りは結界自体が術式干渉遮断の性質を備えている。いくら向こう側に魔導師級の術者がいようと、結界の構成を破壊することはできない」
「ならば、やはり奴等の狙いは物理的な結界の突破か」
「いや、それこそあり得ないだろう。魔物では、あの結界に触れることすらままならない」
「聖都防衛は完璧、か」
「表面状はな」
その言葉に、ベリアルは押し黙る。兜に覆われていてその素顔は窺いしれないが、ベリアルが思考に沈潜していることはその様子から明らかだ。
アルトリウスにはベリアルが何を考えているのかわかる。
結界を破壊することは不可能とする賢者院の見解は、間違いなく正しい。現在、この世界に聖剣の護りを打ち砕ける存在は、ひとりとしていない。
だが、かつては存在した。
千二百年前の神魔戦争、神を殺した竜血族の頂点〈黒竜 ゾラぺドラス〉
三百年前の種族全面戦争、赤い翼を纏い殺戮の限りを尽くした生体兵器〈竜殺し №11〉
そして。
「此度の一件、奴が関わっていると思うか」静かに、ベリアルは口を開く。「思えば逆五芒星とは、奴の象徴でもある」
「ギグは死んだ」聖騎士の鋭い一瞥がベリアルを射る。常に冷静沈着なアルトリウスの雰囲気が、異様な迫力を湛える。
それは、怒りだ。遺恨にも似た暗い情動だ。
「奴が病に斃れたのは、神の代理人が確認している。我々も奴の神去りに立ち会っただろう」
「だが、死後処理が完璧であったとは云い難い」
「灰に還すべきだったと?」
「赦されるなら」
「教会が赦しはしない。賢者院もな」
「君もか、アルトリウス」
「一個人としてならば、賛同する。だが天使として、何より神聖騎士団騎士長として、やはり肯んじることはできん」
教会、賢者院、騎士団をして〈神の代理人〉と呼ぶが、真に代理人と呼べる存在は勇者をおいて他にいない。どれだけ残忍であろうと、どれだけ邪悪であろうと、聖剣に選ばれたその瞬間から、あの男は地上における神の剣と成った。その身に逆五芒星を刻んでいようとも、教会はあの男を崇めた。凶剣によって行われた兇行を、賢者院は黙認した。現世において、奴は〈神〉そのものといってよかった。ただ、騎士団だけがギグの存在に懐疑的だった。勇者の有り様に異議を唱え、その危険性を訴えた……いや、違う。本心では、教皇も、三賢者も、そして聖都の民すべてが、あの男の有り様に疑問を抱いていた。だが、それを口に出すことは憚られた。勇者の否定は神への背信に他ならない。敬虔なる信徒たちには、叛意を抱くことなどできなかった。
だからこそ、奴の死に教会は、賢者院は、騎士団は、安堵した。
ギグ・ザ・デッドの亡骸を前に、全員が神への感謝を祈った。
強大な存在は死後、復活する危険性を秘めていた。
その身に膨大な魔力を宿していればいるほど、死によりその魔力は腐敗し、瘴気を孕み、魔性を帯びる。
〈蘇りし者〉。
聖都は、それを恐れた。
「ギグの亡骸は、荼毘に付すべきであった」ベリアルの脳裡に、勇者の舌に刻まれた忌まわしい痣が浮かび上がる。忘れることのできぬ哄笑が、耳朶を震わせる。
復活させてはならない。
蘇らせてはならない。
死者を蘇らせない方法は、火葬。
「奴の血肉を、その魂そのものを、灰に還すべきであった」
だが、前述したように、それは赦されない。
勇者の火葬は、神を焼却することと同義。
そんなことは、赦されるはずがなかったのだ。
「奴が復活したのではないか?」
「あり得ん」アルトリウスは断言する。「そうならない為に、我々は奴の亡骸を封印したのだ」
死してなお聖なる魔力を宿す勇者の死体は、腐ることも崩れることもなかった。
死者を蘇らせない方法、ひとつではない。解体と保存も転化を防ぐ。
神の代理人はギグの屍体を幾つにも切断し、各地へと散らしたうえで、封印を施した。
「だがこの数十年、我々は封印の観測を怠っていた。ギグの亡骸を覆っていた結界が解かれた可能性は、十二分にある」ベリアルは威儀を正す。兜の眉庇から覗く堕天使の眼に、熱が籠もる。「もし奴が復活していれば、そしてヘル・ペンタグラムの側についていれば、聖都の結界は間違いなく崩壊する」
否定の声を、アルトリウスは発しなかった。
その可能性については、彼自身、すでに思い至っていた。
ゆえに沈黙を余儀なくされた。
聖都の二大守護者は薄れゆく暁暗の只中に佇立していた。
眼下で騎士たちが行進する。いくつもの隊列。時折聞こえる玲瓏な響きは、鍛錬中の騎士たちが剣を打ち鳴らす音だ。
視界の端で様々な光が輝く。光、火、雷。魔術師たちも習練に励んでいる。
彼等は、聖都防衛に尽力している。
ふたりはその光景を見つめていた。
どれだけの刻が流れたのか。
不意に聖騎士は踵を返す。
「私は北西側の城壁を視察してくる。こちら側は任せる」
「まだ答えを聞いていないぞ、アルトリウス。聖都の結界は、崩壊すると思うか」
「貴殿の仮説が正しければ……ああ、そうなるだろう。聖剣の護りは消え、聖都は戦場と化し、すべてが崩れ去る。おそらく全面戦争に引けを取らぬ殺戮が、此処を舞台に繰り広げられる」
「そうなった時、君はどうする」
「知れたこと」アルトリウスは歩き続ける。「神聖騎士団の使命は、ただひとつ。神を讃え、聖都の民を護り、そして」アルトリウスの声が、先ほど同様、異様な怒りを孕む。あらゆる闇を憎む聖騎士の素顔を晒し、彼は振り返る。
それは神聖騎士団の使命ではない。
それは天使の使命。狂信者が自らに課した、信仰の有り様。
アルトリウスは断固と言い放つ。
「私はただ、神の敵を滅ぼすまでだ」




