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ドラゴンキラー  作者: あびすけ
第四話 地獄に堕つ五芒星編 第三部【聖都落とし】
113/150

序 残しはしない






 少年は〈魔導学院〉から自宅までの帰路を歩いていた。


 様々な学術機関を繋ぐ学院通りは、純白の大理石が敷き詰められている。沿道に立ち並ぶ建物も、すべてが白を基調とした造りとなっている。街並みそのものが白い輝きを放つ此処ここはまさに聖都と呼ぶに相応しく、俗世の気配が欠片もみられない。すべてが清潔に清められ、貧富の差は無く、ここに住む人々は教会の恩寵を平等に享受し、平和で豊かな生活を営んでいる。


 とはいえ、すべてが平等というわけではない。


 家柄や容姿、それに才能。


 差異というものは、必ず生まれる。


 少年が通っている魔導学院は、聖都でもほんの一握りの、魔術の才ある者だけが入学を赦される、最高峰の学術機関であった。そのため他国の、とりわけ〈シュラメール魔術王国〉の秀才たちはこぞってこの学院入学を目指し、日々魔術の習得に励んでいるという。しかし〈神聖都市国家セイリーネス〉に次ぐ魔術大国シュラメールの神童たちですら、魔導学院入学を果たせるのはほんの一握り、まさに天才と呼ぶに相応しい者たちだけであった。


 そんな学院に、少年は弱冠十二歳で入学を果たしていた。


 まさに天才の中の天才。


 未来の魔導師。将来の大賢者。


 周囲の者たちはそう言って少年をもてはやした。


 まんざらでもなさそうに、少年は称賛の数々を受け入れた。


 聖都に産まれ、魔術の才を持ち、最高の教育を享受している。


 少年の将来は明るかった。


 何ひとつ、彼の未来を遮るものなどなかった。


 そう、この日までは。






 少年は学院通りを抜け、ル・シャイル広場へと躍り出た。


 聖都のあらゆる通りが結節するこの中央広場は、いついかなる時でも活気に満ちあふれている。ある一画には露天商のテント屋台がいくつも建ち並び、種々雑多な市場マーケットを形成している。ある一画には噴水や花壇が設置され、憩いの場として人々がくつろいでいる。セイリーネスに住まう様々な人々は毎日ル・シャイル広場に集い、談笑し、語り合う。彼等にとって、ここはなくてはならない場所であった。


 少年は広場を横切りながら空を仰ぎ見た。


 白い巨塔が、天に向かって聳えていた。


〈教会〉〈騎士団〉〈賢者院〉、三つの統治機関が集結する、神聖都市国家セイリーネスを象徴する建築物であった。


 三つの統治機関を総称して〈神の代理人〉と呼ぶ。


 白い巨塔は、その本部だった。


 この塔を眺めるたび、少年は畏敬の念に胸を打たれた。


 塔の表面はなめらかに磨かれ、鏡のように輝き、つなぎ目のようなものが何ひとつ見当たらなかった。石材を積み重ねたのでもなければ、木材を組み立てて造られたわけでもない。まるで鋳型から直接取り出したかのような造りをしているのが、この白い巨塔の特徴であった。セイリーネス建国以前から塔は此処ここに建っていたという。かつてこの建造物は、テオスセイル世界連合が使用していたという。あらゆる魔術攻撃に晒されようとも、またあらゆる物理的な衝撃を受けようとも、塔の表面には傷ひとつつくことはない。そう、この塔はまさにロストテクノロジーの粋を集めて造り出された建造物であった。三百年前の人類は、今ではおよびもつかぬほど高度な技術を有していた。


 少年は聖都でよく見かける馬車を思い出す。一角馬ユニコーン天馬ペガサスの曳く辻馬車はセイリーネスでは一般的だが、しかし三百年前の人類は輓獣ばんじゅうを用いない乗り物を、とりわけ連合軍は魔力機関を搭載した戦車チャリオットを、さらには海や空を渡る為の戦車すら持っていたという。もはや失われたとはいえ、そのような技術が人類の手によって生み出されたという事実は、少年の胸を熱くさせた。


 いつか僕もそういう物を造りたい。


 ひそかに、少年はそう思っていた。


 現在のセイリーネスがテクノロジーの発展に積極的でないのは、少年も気づいていた。


 三百年前の大戦により、技術体系の根幹が失われてしまい、もはや当時の技術の復元は望むべくもなく、たとえ可能だったとして、無尽蔵の資金を投入し、悠々の時間を使い、隔絶した才人を投入する必要がある。それでいて見返りは確約されない。すべてが徒労に終わる可能性さえある。セイリーネスが及び腰になるのも、無理からぬことなのかもしれない。


 だが〈神の代理人〉の腰をもっとも重くしているのは、大戦時のトラウマだった。


 生体兵器だ。


 人造強化骨格。皮膚や筋肉はおろか、血管にまで刻まれた身体強化魔方陣。そして心臓と一体化した半永久魔力生成炉。


 黒竜を殺すために造り出された、魔導生体技術の極致ともいうべき、赤い殺戮者たち。


 彼等は数多くの竜を殺した。異種族を、魔物を、ひたすらに殺した。そして天使を、人類をも抹殺の対象とした。竜を殺すという名目の元、彼等は殺戮の限りを尽くした。とりわけ最初期製造個体オールドナンバーズ、その中でも№11イレブンの数字を持つ個体が、最悪だった。ザルトニア砦で、あるいはサテルメージャの地で繰り広げられた激戦において、連合軍の被った損害の四割は、イレブンによるものと推定されている。魔語グロクス赤い鬼神サツキ・ルドと忌まれた生体兵器は、自軍の被る損害など一顧だにせず、ただ、魔剣を振るった。赤い刃圏の中にあるすべての生命が、ただ、死に絶えた。


 聖都では数字の11が忌避され、あらゆる場所での使用が禁じられている。その背景に在るのがイレブンの記憶だ。


 竜殺しドラゴンキラーと呼ばれた、最強最悪の生体兵器。


 もちろん、生体兵器があったからこそ、今もこうして人類は生きながらえている。


 それは、事実だ。


 ある意味では、彼等は英雄だった。


 そして同時に、彼等は災厄だった。


 御しきれぬ力を、それを造り出すということがどういうことなのかを、三百年前の人々はその身をもって知ることとなった。


 セイリーネスがいまだに技術革新に慎重なのは、無理からぬことなのかもしれない。


 それでも、と少年は思う。


 それでも、いつの日か、僕はロストテクノロジーのような凄まじい技術を造り出したい。その為に、魔導学院に入学したのだから。






 考え事に没頭していた少年は、不意に異変に気ついた。


 音が、消えていた。


 先ほどまで耳に届いていた喧噪が、なりを潜めていた。雑踏の只中にいるにしては、あまりにも静かすぎた。


 少年は周囲に視線を走らせた。


 周囲の人々は立ち止まり、空を見上げていた。


 例外は無かった。広場にいるすべての人間が、空を凝視していた。


 つられたように少年も、頭上を見上げた。その瞳には不安が滲んでいた。


 どこまでも広がる蒼天の一画に、亀裂が走っていた。小さな亀裂に思えた。だが、少年の視界の中で、その亀裂はゆっくりと、しかし確実にその裂け目を広げていった。


 空間魔法だ、と少年は気づいた。次元に干渉し、召喚術や空間転移などを可能とする、超高等術式。セイリーネスでも使える魔術師は限られ、少年も実際に眼にするのは初めてだった。しかし文献をひもとき、学院の授業でも教えを受けている。あの裂け目は間違いなく空間魔法、それも人間や天使の術式ではない。アレは間違いなく魔物の、それも高位のアンデッドが好むとされる〈魔の回廊デモンズ・サモティオフ〉と呼ばれる闇の魔法だ。


 青空を横切るような亀裂は、まるで空に浮かぶ閉じられた瞼のようであった。あるいは、引き結ばれた唇か。


 まるで今にも開きそうだ、少年は思った。


 その彼の考えは、的中した。


 亀裂が、開眼するように、縦に開きはじめた。


 みるみるうちに広がっていく空間の裂け目から、黒い靄が溢れ出てきた。


 瞬間、セイリーネスの上空が、烈しく歪んだ。


 少年は息を呑んだ。


 聖都に住む者は、何年かに一度、ああいう歪みを都市周辺で目撃する。


 神聖都市国家セイリーネスは魔の住人にとって唾棄すべき存在。ゆえに時偶ときたま、無謀にもこの都市に襲撃を仕掛ける魔物が出現する。そういう魔物はしかし、セイリーネスに到達することはない。聖都は三層の防壁により護られている。まずは街を囲う高く、頑丈な城壁。その外側に二層目、魔法攻撃と物理衝撃を弾く普遍的な対外結界が敷かれている。そして三層目、防壁の外縁部に、神の魔力により張られた〈聖剣の護り〉がある。この結界はどのような魔物でさえ、その侵入を拒む。しかも、結界は護るためだけのものではない。〈聖剣の護り〉は神の魔力そのものといって過言ではない。ゆえに魔物は、触れただけで一瞬のうちに灼き滅ぼされる。


 そしてその時の強烈な反応が、結界表層に揺らぎとなって現れる。


 だが、今上空を覆う結界は揺らいでいるのではなく、ぐにゃりと歪んでいる。


 あの靄は、おそらく魔力だ。視認できる程の、暗く、重い、濃密な魔力。


 その魔力の気配に、セイリーネスの結界は前例がない程強烈な反応を示している。


 今まで聖都を襲撃してきた低位の魔物とは、明らかに別物。


 亀裂が、完全に開かれた。


 少年の背筋を、冷たいものが走り抜けた。彼だけではない。この場にいる全員、いや、今空を見上げているセイリーネスの民すべてが、戦慄していた。


 歪む結界越しでも、その亀裂の中に佇む複数の影は視認できた。




 鷲の翼を持つ、獰猛な三匹の獅子。


 巨大な尾を振り立てる、呪いの狐。


 異形の杖を手にする、恐ろしい魔女。


 巨大な大剣を肩に担ぐ、蛇の眼の騎士。


 六本の腕を広げ嗤う、おぞましい蠅。


 二本の刀剣を佩いた、黒い猿。


 そして闇そのもののような漆黒のローブに身を包んだ、死霊。




 セイリーネスが狙われているということは、全住民が理解していた。現在、聖都は準戦時状態化に置かれている。ひと月ほど前、ヘル・ペンタグラムを名乗る組織がセイリーネスに宣戦布告をした。いつもであれば神の代理人は、宣戦布告など魔物の戯れ言と一笑に付す。しかし、今回の相手は無視できる存在ではなかった。ヘル・ペンタグラムを名乗る組織は超越魔物トランシュデ・モンストルの集団だ。一体一体が文字通り隔絶した力を持ち、破壊と殺戮を求め、その内の何体かはブラックリストにその名を連ねている。まさに神と人類に仇なす、世界の敵だ。


 宣戦布告後、セイリーネスはすぐに世界各地に派遣していた騎士団を呼び戻した。


 聖都周辺を警邏する衛兵の数は今までとは比べものにならぬ程増えた。


 城壁には絶えず多くの騎士団が詰め、あの〈堕天使ベリアル〉様や〈聖騎士アルトリウス〉様、さらには滅多に人前に姿を見せない〈聖女シャルルアーサ〉様までもが、時折現れるという。


 セイリーネス中枢の巨塔周辺にも厳重な警備が敷かれ、準戦時状態が事実であることを物語っていた。


 しかしセイリーネスの住人の生活には、取り立てて変わったところはみられない。聖都守護の任を負った騎士団はもちろん、教会と賢者院は張り詰めたような緊張状態にある。しかし物々しい厳戒態勢とは対照的に、市井にはこれまでどおり平穏な空気が流れている。確かに準戦時下態勢移行当初は、不穏な空気が流れていた。住民たちは外出を控え、静かに、あるいは神に祈る生活を続けた。しかし数日も経つと、彼等は普段通りの生活を再開した。いまや住人が不便に思うところといえば、セイリーネスへの出入国が制限されていることくらいか。それとて元来聖都を離れるのを好まないセイリーネスの民からすれば、大した問題ではない。他国との交易が滞るなどいくつか支障は生じてはいるが、それでも住人たちはいつも通りの日常を送っていた。


 戦時下とは思えぬ民たちの平穏は、セイリーネスへの絶対的な信頼に根ざしていた。


 聖都防衛の要である神聖騎士団。


 そこに属する最高戦力、堕天使ベリアルと聖騎士アルトリウス。


 さらには賢者院の擁する聖女シャルルアーサも控えている。


 そして何より、神の加護がある。


 神の魔力によって張り巡らされた〈聖剣の護り〉を突破できる魔物など、存在しない。


 それは絶対的な事実であった。


 ゆえにセイリーネスの民の平穏は、揺らがなかった。

 次元の裂け目から現れた魔物の集団に、少年は恐怖を感じている。


 この場にいる全員が、固唾を呑んで空を見上げている。


 それでも彼等の胸中には、確固たる自信が漲っている。


 奴等には何もできない。神の都であるセイリーネスを冒すことなどできようはずがない。奴等はすぐにも神聖騎士団の手により、討ちはらわれる。


 そうなるはずだった。


 セイリーネスは平和を取り戻し、平穏な日常が戻ってくるはずだった。そして少年は輝かしい未来に向かって歩んでいくはずだった。いや、彼だけではない。空を見つめている人間に、天使に。


 男に、女に、子供に、老人に。


 商人に、学徒に、魔術師に、信徒に、騎士に、セイリーネスの民すべてに、輝かしい未来が約束されているはずだった。


 そう、そのはずだったのだ。


 魔物どもの背後から、その男が現れるまでは。








「至急、全騎士に伝達しろ」背後に控える侍従騎士を見据え、アルトリウスは決然と告げた。「口火は切られた。神聖騎士団の誇りにかけて、セイリーネスの民を護れ」


 侍従騎士は力強く首肯し、駆け出した。


 その背を一瞥したアルトリウスは、再び上空に視線を戻した。

 空に生じた次元の裂け目、そこに立つ九体の魔物。


 結界に阻まれていてなお空間を震わす、膨大な魔力。


 いずれも超越魔物、序列第三層以上に分類される化け物ども。


 異形の超越者。


 その集団。


地獄に堕つ五芒星ヘル・ペンタグラム


 だが、アルトリウスが睨んでいるのは、魔物どもではなかった。獅鷲パズズでも、九尾キュウビでも、魔女マギスでもない。魔人デヴェークでも、悪魔デモンでも、狒狒ヒヒでも、まして死霊リッチでもない。


 聖騎士が見据えるのは、ヘル・ペンタグラムの前に躍り出てきた、ひとりの男。


 その男のことを、忘れたことはない。


 忘れられるはずがない。


 神に祝福され、聖剣に選ばれた、セイリーネスが誇る最強の戦力。


 大戦時、連合に特級戦力第二位とまでいわしめた存在。


「ギグ」怒りに、アルトリウスは奥歯を噛み締める。その視線が、勇者ブレイヴを捉える。「やはり、貴様が関わっていたのか」


「恐れていた刻が、訪れてしまったのですね」凪いだ湖面のように落ち着いた声色が、聖騎士の耳に届いた。「数ある想定の中でも、おそらく最も最悪な展開といっても過言ではありません。聖都は、無事では済まないでしょう」


「シャルルアーサ」アルトリウスは横に並んだ女性に目を向ける。


 聖女シャルルアーサは真剣な、悲痛ささえ感じさせる面持ちで空を見上げている。


「ギグ様がおられるとなると、聖剣の護りは意味を失います。いつ結界が消え去っても、不思議ではありません。戦いは避けられませんね」


「そうだ。聖都は戦場と化す」アルトリウスは背から大剣を抜き放つ。純白の刃が眩い輝きを放つ。「貴女には引き続き三賢者ほか聖都の御歴々の護衛を頼む。おそらく、いや間違いなく騎士団はそこまで手が回らない」


「いえ、私はアルトリウス様やベリアル様と共に、戦います」


 にわかに眼を見開き、


「本気か」


 アルトリウスはただす。


「はい」聖女はつよく頷き返す。


「貴女が出陣するとなると、塔の護りは弱まる。神の代理人が赦さないだろう」


「赦す赦さないの問題ではありません。これから始まるのは、どちらかの存亡をかけた戦いのはず。であるならば、私は戦うことを選びます」シャルルアーサは背後の巨塔に一瞥をくれ「私はあの巨塔を、聖都の御歴々を護る為に魔術を修めたのではありません。私は神の信徒たちを、セイリーネスの民を護る為に研鑽を積んできたのです」


「その気持ちはありがたい。だが」


「アルトリウス様のお考えは察しております」シャルルアーサは真剣な表情で頷く。「私の魔法は、戦闘には不向きです。ご安心を。敵を討ち祓うことだけが戦いではないと、心得ております。私は私の結界術をもちいて、民たちを護ります。それが私の戦いです」


「わかった」


「心強い限りだ」ふたりの背後から、重厚な声が響いた。「君が前線に立ってくれるなら、救える命が増えるだろう。感謝する、シャルルアーサ」


「ベリアル」アルトリウスは振り返る。白金の鎧に身を包んだ友が、そこに立っている。


「はじまったな、アルトリウス」ベリアルは空を見つめる。「あれほどの超越魔物を、まさか一度に見ることになるとはな」


「我々は守護者だ」


「わかっている。共に使命を全うするとしよう」


「それで、ベリアル」アルトリウスの双眸が、鋭くなる。「あの件・・・は、どうなった」


 ベリアルは無言でアルトリウスを見返す。


「伝えたのか」


「ああ」


「それで」


「正直、どうなるのかわからん」


 再び、ベリアルは上空へと視線を転じる。


 超越魔物の、集団。


 その中のひとりを、見据える。


「だが、ひとつだけ確かなことがある」ベリアルは、その魔物を見つめた。漆黒のローブを纏った、死霊魔導師を。「間違いなく今日、この場で、イビルへイム・ユベールは死ぬ」








 ジュルグ帝国領最北部からユリシール王国領に跨がるレイツァル大山脈、そこに連なる山々の中の最高峰、ギガル山。その標高は最も空に近いとされ、中腹から先は永遠の氷雪に閉ざされ、凄まじい吹雪にあらゆる物が凍てついている。そのあまりに苛酷な環境と生還率の低さ、なによりこの山を縄張りとする魔物〈凍豹パンドゥラス〉の危険性も相まって、この山は超越魔物トランシュデ・モンストルの影響下にないにも関わらず、禁足地に指定されていた。


 その禁足地が、血に染まっていた。


 雪の上に、凍豹の死骸が散乱していた。


 強靱な被毛に覆われた白い巨体は、抉れ、裂かれ、喰い千切られていた。


 一匹一匹がケルベロスに匹敵する獰猛な魔物、その群れが、喰い尽くされていた。


 惨状の中心に、その獣がいた。


 腹が満たされ満足したのだろう、獣は眠りについていた。


 ギガル山には常時あらゆるものを凍てつかせる寒風が吹き荒れている。その風はさながら天然の氷魔法、極寒地に適応した凍豹でさえ躯をやすめるとなれば物陰に逃げ、群れで塊り、眠りにつく。寒地の魔物さえ凍死させるほどの吹雪なのだ。


 だというのに、獣は平然と眠りについている。


 寒風になびく銀毛には、霜ひとつ見られない。


 すべてを凍てつかせる冷気に、しかし獣の肉体はびくともしていない。


 どれだけそうして眠り続けていただろう。


 不意に獣の銀毛が、総毛立つ。


 とりわけ頸筋から背中にかけてのたてがみが、逆立つ。


 獣の鼻孔がひくつく。


 獰猛な唸りが、咽喉から漏れる。


 ゆっくりと、獣は瞼を開いた。


 獣の双眸が、吹雪の中で黄金に輝く。


 黄金、それは獣の、人狼の、月の狼マーナ・ガルムの証。


 おもむろに狼は立ち上がる。


 魔の、匂いがした。


 起き抜けの獣は、身震いをする。


 そして、大きく息を吸う。


 また、匂った。


 凶暴で、おぞましい、超越魔物どもの匂い。


 周囲は猛吹雪に閉ざされている。白銀の嵐がすべての五感を封じている。人狼が喰らい尽くした凍豹の血臭さえ凍りつく程の、圧倒的な冷気がすべてを領している。嗅ぎ取れるわけがない。いくら匂いの発生源が超越魔物といえど、その魔物どもが集団だといえど、この状況化で匂いを、遙か彼方で立ち上った魔力の残滓を、嗅ぎ取れるわけがないのだ。


 だが、この獣は嗅ぎ取った。


 人狼は身を屈める。


 太腿が膨張する。脹脛ふくらはぎが張り詰める。両脚の爪が、氷雪にり込む。


 刹那。


 天を貫くような雪煙が吹き上がり、獣の姿が掻き消えた。


 次の瞬間には、狼はギガル山の山巓さんてんに上り詰めている。


 峰は軽々と雲を突き抜けている。ここに吹雪はない。あるのは白熱する太陽と、透き通るような蒼穹のみ。


 狼は地平の先を睨む。


 遮るものは何もない。


 万里ばんりの彼方で蠢く魔物どもの気配。


 今度ははっきりと、嗅ぎ取れた。


 月の狼マーナ・ガルムの唇が、つり上がる。


 空間を揺らめかせる程の殺気が、その身から立ち上る。


「愉しそうなことやってるじゃねぇか」


 魔獣狩りは牙を剥くように、嗤う。


 理由など、いらない。


 理屈など、必要ない。


 狩り、殺し、喰らう。


 壮絶な死闘。凄絶な戮し合い。


「狩りの時間だ」


 ガルドラクが求めるのは、ただそれのみ。








 夜よりも昏い闇が、その一帯を覆い尽くしている。


 闇中にあっても、白竜から立ち上る神聖なる魔力は煌々と光り輝く。あたかも闇を討ち払うかのような自身の魔力を、ミル・カムイは忌々しく思う。この地の瘴気は、黒竜ゾラぺドラスの魔力に由来する。ならばこの闇は、黒竜様そのもの。この闇を受け入れてこそ竜血族ドラグレイドではないのか、この瘴気に呑まれてこそ、守護竜ではないのか。


 だというのに、私の魔力は闇を照らすように、ただひたすらに輝き続ける。


 忌々しい白い魔力。


 憎々しい神の力。


 だが、それでも。


 ミル・カムイは強く、ただ強く、拳を握る。


 この魔力があったからこそ、黒竜様と共に戦うことができた。この力があったからこそ、現在の地位にまで昇り詰めることができた。


 これが私だ。そして私はこの力を用いて、黒竜様の敵を殲滅する。


 なぜなら私は、五統守護竜ガルゾディ・ドラゴンズの一柱、白竜ミル・カムイなのだから。


「〈獰乱の蟲騎士ホロウナイト〉から伝令が入りました」背後から声があがった。カラミットだ。ミル・カムイが振り返ると、カラミットは恐縮したように赤銅色の巨体を地に伏せ、先を続ける。「ヘル・ペンタグラムが動き出したようです。まもなく、聖都落としが始まります」


「そうか」ミル・カムイはゆっくりと頷く。「転移の準備の方は」


「すでにカ・アンクが聖都周辺に〈ゲート〉を設置しております。抜かりはありません」


「ならば出撃の用意をしておけ」


「承知しました。では、この地の守護はいかがしましょう。麾下の飛竜ワイバーンを護衛として残していきましょうか」


「案ずるな」ミル・カムイは悠然と闇の彼方を見据える。「先ほど、奴が目覚めた。この地の守護は、あの者に任せる」


 闇を裂くように、一筋の閃光が瞬いた。


 一拍の間を置き、凄まじい咆号が周囲を圧した。


 稲妻だった。蒼く、獰猛な、雷神の稲妻。


「この雷光、この雷鳴ッ! まさか、まさかッ、あの方がッ!」


「そうだ」ミル・カムイは頷き、五統守護竜ガルゾディ・ドラゴンズ最強と謳われた蟲竜の蒼雷を見つめた。「これよりこの地は、ジンライネルが守護する」

 ミル・カムイは眼を閉じる。


 瞼裏まなうらに、今は亡き守護竜の一柱の姿が浮かび上がる。膨大な水の魔力を纏った、水竜の姿が。


 ジンライネルが覚醒したということは、近いうちに残りふたりも眼を覚ますだろう。


〈白竜ミル・カムイ〉〈雷竜ジンライネル〉〈炎竜ヴォル・カガ〉〈氷竜ヒュルケス〉。


 一柱を欠いたとはいえ、まだ、守護竜は四体いる。


「安心して眠れ、ロタヴェニク。我々がいる限り、何人たりとも黒竜様に近づくこと、赦さん」


 ミル・カムイは眼を開く。


 その瞳が、狂信に燃え上がる。


「我々は、黒竜様の盾」


 そして、同時に。


「我々は、黒竜様のつるぎだ」


 白竜の全身から、聖なる魔力が迸る。


「カ・アンクとベルゼーニグルに伝えろ」ミル・カムイは使命を胸に、カラミットに告げる。「直、私も聖都へ向かう」








 クシャルネディアとアステルは、その室内に足を踏み入れた。


 円形の、広々とした部屋だった。聖都に特有の、発光するような白い大理石が敷き詰められた床と、同じく眩いばかりの白壁が四周を覆い、見上げるように高い天井もまた、白い。だが、誰であろうと足を踏み入れた瞬間に、此処ここが異質な空間だと気づくだろう。室内には窓に類するものは一切ない。調度のたぐいも見られない。無機質で、冷え冷えとした、すべてが純白に閉ざされた部屋だった。


 室内を仔細に見渡せば、その壁と床に微かな魔方陣が走っているのを見て取れるだろう。


 物理強度補強と対魔法防御を付与する、強力な魔方陣。


 しかも、その魔方陣は外からの攻撃を想定して施されたものではない。


 内側からの攻撃を防ぐために、この魔方陣は刻まれているのだ。


 なぜ、そんなものが必要なのか。


 此処が、ただの部屋ではないからだ。


 此処は、牢獄だった。


 その牢獄の中心に、ひとりの男が佇んでいた。


「ヘル・ペンタグラムの出現を確認しました」クシャルネディアは男の背後で立ち止まり、うやうやしく頭を下げた。「これよりセイリーネスは戦場となりましょう。いかがなさいますか、サツキ様」


「やることに変わりはない」


 サツキは振り返ることなく、静かにそう告げた。


「予定通り、お前とアステルは魔女を殺せ」


「承知しました」


「本当に、いいのか」


 そう言って、アステルが一歩を踏み出した。


「貴公にはやるべきことができたと聞いた」アステルはいまだ深々とこうべを垂れる血の女王を一瞥し、その視線をサツキへと転ずる。「貴公には、感謝している。私ひとりでは、この聖都に入ることは、おそらく不可能だったろう。貴公と共にいたからこそ、私は今、こうして魔女を迎え撃つことができる。私には、それだけで十分だ。もし、貴公にやるべきことができたというのなら、そちらを優先してくれ。たとえひとりでも、私は」


「くだらないことに気を回すな」アステルの言葉を、サツキは一蹴する。「お前と魔女の戦いに邪魔は入らせない、そう請け負ったはずだ」


「しかし」


「俺に二言はない」


「それでいいのか」


 問い掛けに、しかしサツキは答えない。


「本当に、それでいいのか」


 再びの問い掛けも、無視される。


 不意に、この沈黙こそが答えなのだとアステルは気づいた。だから彼は小さく頷き、引き下がった。


 転ずるように、クシャルネディアが歩を進めた。


「すでに、眷属たちを聖都に放っております。彼等は目耳となって聖都で起こるすべての事象を、私へと報告します。奴の居場所は、すぐに判明するでしょう。発見次第、マーキングを施します。その刻が来たら、私にお声かけください」


 サツキはゆっくりと振り返る。


 ただ、それだけの動作で、空間が張り詰める。


 魔力は、無い。殺気の一筋さえ、感じられない。


 今のサツキからは、何も感じない。


 だというのに、周囲のすべてが、圧される。


 クシャルネディアの肌がチリつく。アステルの鎧が軋む。


「他の奴等に興味はない。好きにしろ」


 赤眼あかまなこが、血魔ヴァルコラキを射抜く。


「だが、奴には手を出すな」


 ざらついた声が、クシャルネディアに警告を与える。


 その瞳に、狂気が迫りつつある。


「心得ております」クシャルネディアは威儀いぎを正し、凜然たる態度であるじに向かい合う。「もとより手を下すつもりなど毛頭ありません。あの傲岸不遜な死霊リッチは、サツキ様の獲物です」








 眼下に広がるセイリーネスを見下ろしながら、その男は嗤った。


 背後で、邪悪な魔力が渦を巻く。殺意と闘志が、滾り立つ。


地獄に堕つ五芒星ヘル・ペンタグラム〉と呼ばれる、超越魔物ども。


 夜に紛れ、闇に潜み、奈落で蠢いていた化け物どもが、ついに表舞台へと躍り出る。


 獅鷲。


 九尾。


 魔女。


 魔人。


 狒狒。


 悪魔。


 死霊。


 そして、勇者。


 神に選ばれし、大勇者。


 ギグ・ザ・デッドの哄笑が、聖都上空に響きわたった。


 開け放たれた大口から、青ざめた舌が覗いた。そこには、逆五芒星ヘル・ペンタグラムの痣が浮き出していた。


「それじゃあ、始めるとするか」


 白く濁った死者の双眸が、不気味に輝いた。


「ルールはない。好きなように暴れろ」






     *****






「……残しはしない」


 伽藍洞がらんどうの獄内に、その呟きが溢れる。


 囁くほどの小さな声は、幾たびも繰り返される。


 耳に残る、ざらついた余韻が寂寞の内に尾を引く。


 反復される声は、やがて熱と狂気を帯びていく。


 不意に、声が止む。


 サツキは右の掌を見つめる。


 その掌の中心に、№5ファイブの魔力の残滓を感じる。


 錯覚だ。そんなものは、もはや存在しない。


 この手で、握り潰したのだから。


 記憶をなぞるように、ゆっくりと、サツキは拳を握る。


 先ほど、同胞を殺した。


 もっとも長く戦場を共にした男を、殺した。


 そう、ブラムドを。


 №11イレブン自らの手で。


「何ひとつ、残しはしない」


 ざらついた声に、赤い殺意が宿った。


「名も」


 サツキの赫赫たる双眸が、宙を睨んだ。


「血も」


 強く、ただ強く、握り締める。爪が食い込む。肉が破れる。骨が軋む。拳の隙間から、血がしたたる。


「魂さえも、残しはしない」


 まなじりに浮き出す血管と、肌裏を駆け巡る魔方陣が、イレブンの目元に禍々しい紋様を描き出す。


 赤い双眸が、限界まで見開かれる。


 その瞳に映るのは、ただひとり。


 まだ見ぬ、死霊の姿。


 その虚像へ向け、サツキは、ただ、告げる。


「まともに死ねると思うな、イビルへイム」






ヘル・ペンタグラム編 第三部【聖都落とし】

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― 新着の感想 ―
[一言] もう終わりだよこの聖都(´°‐°`)
[良い点] サツキかっけえなぁぶち上がるぜ
[一言] やばい、これは最高にテンションが上がる
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