8 血の味
一行は馬車を降りた。
陽は傾きつつあった。燃えるような夕陽が六人を照らす。いびつな起伏の目立つ丘陵地帯が目の前に広がっていた。様々な場所にかつての文明の名残が見て取れる。三百年前の残骸か、あるいは神魔戦争以前の代物か。
ひときわ高い丘の上に、廃城が聳えていた。夕陽を背に黒く陰ったその城影は、何かいわく言い難い禍々しさを放っていた。いや、それは城だけではない。この丘陵自体に濃厚な〈魔〉の気配が立ちこめている。近くに街はない。街道からも外れている。そういう場所には魔物が棲みつく。
警戒を露わに、ヴォルフラムは術式剣を取り出す。
「しまっとけよ」アニーシャルカが見咎める。「武器は必要ねぇ」
「安全な場所だとは思えないな」
「まあ、危険地帯だからな」その言葉とは裏腹に、アニーシャルカはなんの警戒もせず歩き出す。連なるロイクとツァギールも同様だ。
「安心しろよ。少なくともわたし等と一緒にいれば危険はねぇ」
訝しみながらも、ヴォルフラムは剣を懐に戻す。隣で警戒態勢に入っていたディアナとアステルも、武器から手を離す。サツキに会いたきゃ勝手な行動はするなと、馬車の中でアニーシャルカに釘をさされている。「とてつもなく危険な状況が待ってやがるぜ」そう言ってアニーシャルカは嗤った。「だがな、武器は抜くな。特にあの女の前ではな」
彼女の言葉にロイクは嘆息し、ツァギールは鼻を鳴らした。
ヴォルフラムは頷くしかなかった。
あくまで主導権はアニーシャルカたちにある。彼女は案内人。ヴォルフラムたちはあくまでも客。今はこの女を信用するしかない。
一行は赤く染まる丘陵を進んでいく。
何かが起こるわけではない。魔物の姿は見られない。だが、間違いなく気配がある。黒く悍ましい〈魔〉の臭いが漂っている。
「どうしてサツキって野郎はこんな場所に住んでいるんだ」怪訝そうにヴォルフラムが問う。
「さあな」アニーシャルカは肩をすくめる。「人間が嫌いなんだろ」
「だからって、普通こんなところに住んだりする?」気味悪そうに周囲を眺めていたディアナが、誰にともなく呟く。「何もないじゃない」
「サツキくんは静かな場所が好きらしいからね」ロイクがディアナに笑いかける。「案外、居心地がいいのかもしれないよ」
「そういう問題じゃない気がするけど」
「あの男が何を考えているかなど、わかるわけがない」夕陽に眼を細めながら、ツァギールは忌々しげに吐き捨てる。「人間や亜人どころか魔物ですらないんだぞ、アレは。考えるだけ無駄だ」
「魔物、ではないのか」驚いたようにアステルが呟く。
「じゃあ一体何なわけ?」
ディアナの問いに、しかしアニーシャルカ、ロイク、ツァギールの三人は答えない。淡々と歩いて行く。
「なんで黙ってる」ヴォルフラムが眉を顰める。「これから会う男について、もう少し教えてくれてもいいだろ」
「どうせ言っても信じやしねーよ」アニーシャルカが嗤う。「それにもうちょいしたら会えるんだ、アイツの正体は自分で確かめろよ」そこまで言ってアニーシャルカは立ち止まった。
廃城の聳える丘の裾野に到着していた。
一行の前方で、ふたつの人影が佇んでいた。その人影は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
こんな場所には不釣り合いな、盛装の男女だった。
ヴォルフラムの眼に剣呑な光が宿った。あれはどう考えても人間ではない。肌が白すぎる。目鼻立ちが整いすぎている。何より血の臭いがする、死臭がする。吸血鬼だ。それも立ちのぼる魔力の質からいって、上位級。
アニーシャルカの隣に並び、ヴォルフラムはその横顔を鋭く睨む。
「危険はないんじゃなかったのか?」
「その通り。アイツ等は危険じゃない」アニーシャルカは警戒心の欠片もない様子で二体の吸血鬼に声をかける。「よう、お出迎えとは気が利いてるじゃねーか」
「アニーシャルカですか」男の方が静かに呟く。「久しぶりですね」
「ロイクとツァギールもいるわ」女の方が一行の顔を順繰りに眺める。「知らない顔もいくつかあるようね。お客様かしら」
「ご名答」
「アニーシャルカ、貴女の推薦ですか?」男の方が真剣な口調でそう問い、
「それともロイクかツァギールの推薦かしら」女の方がそう引き継ぐ。
「全員だ」アニーシャルカが言う。「三人全員の推薦だ」
「なるほど、そういうことでしたら」男が頷く。
「どうぞ、お通りください」女がにっこりと微笑む。
ふたりは左右に退いた。
一行は吸血鬼の脇を通り過ぎる。
「あの吸血鬼ども、あれはなんだ」ヴォルフラムは振り返る。彼等はいまだに先ほどの場所に佇んでいる。
吸血鬼、とりわけ下級種は人間との共生関係を築くことがままある。血魔と違い彼等は人間や亜人が転化したものだ。生前の記憶から社会性を発揮し、国やギルドに籍を置く吸血鬼も少なくない。だがエルダーともなればその力は絶大、精神も完全に魔物となり、存在でいえばヴァルコラキに近くなる。ゆえに共生関係などありえない。よほど利害が一致した場合に限り、一時的な協力関係を築くのがせいぜいだろう。
つまり、先ほどのエルダーヴァンパイアとアニーシャルカとのやり取りは、本来ならあり得ない。あれではまるで仲間同士のようだ。
「いったろ、わたし等は眷属扱いされてんだよ」ヴォルフラムの疑問を見てとったアニーシャルカが答える。「眷属同士の殺し合いは御法度だ。アイツ等は門番みたいなもんでね、この城に許可なく近づいてきた奴等を皆殺しにするのがアイツらの使命だ。わたし等といなけりゃ一戦交えてたところだぜ」
一体何の眷属なのか。ヴォルフラムたち三人は疑問に思う。だが聞いたところで無駄だ。アニーシャルカは「すぐにわかる」としか答えない。
緩やかな丘を登っていく。草木はまばらだ。空気が重くなる。精霊が震えている。この地は澱んでいる。至る所にうち捨てられた堡塁や崩れた防壁の残骸が散見される。夕陽が傾いていく。影が多くなる。闇が濃くなっていく。
ディアナがヴォルフラムの腕を叩く。
「ねぇ、ここってまるでさ」
「ああ。俺も思ってたところだ」
ふたりは古代遺跡群を思い出していた。中心に古塔の聳え立つ、死霊の居城。ここにはあの地に似すぎている。
今にも崩落しそうな城門を潜り抜けた。アニーシャルカたちは立ち止まった。ヴォルフラムたちも歩みを止める。眼前には朽ち果てた前庭が広がっていた。かつては噴水や花壇で飾り立てられていたのだろうが、今ここにあるのは、残骸と闇、そして不気味な気配。
庭園に蔓延る影の中で、何かが蠢く。
「動くなよ」アニーシャルカが警告する。「抜くんじゃねぇぞ」
その言葉を遮るように〈魔〉のざわめきが響きわたる。この場所には女王の魔法が仕掛けられている。庭園に一歩でも足を踏み入れた瞬間、その召喚術式は作動する。あらゆる場所に亀裂が走る。空間が開いていく。ある場所からは黒い外骨格に身を包んだ蟲の群れが踊り出す。またある場所からは全身にぬめりをおびた蜥蜴たちが這いずり出る。そして一行の正面に大きく口を開けた空間からは、褐色の、巨大な、獰猛な番犬たちが何匹も、その姿を現す。
黒鎧百足。
毒霧蜥蜴。
多頭獄犬、さらには上位種、五首の狂獄犬。
王国ギルドおよびオルマ多種族連盟が危険度8から9に分類する恐ろしい魔物ども。
それらが庭園を埋め尽くしていく。
魔物は一行を取り囲む。
唸り、蠢き、牙を剥く。
アニーシャルカの警告を無視するようにヴォルフラムは再び術式剣に手を伸ばした。ディアナも同様、槍に手をかける。これはもはや冒険者としての条件反射だ。危機に対するこの反応速度があったからこそ、ふたりは今まで生き残ってこれた。それにこれだけの脅威を前にして武器を取るなというのは無理な話だ。ここまでの魔物の軍勢、おそらく先日の軍蟲に匹敵、いや、質をみればそれさえ凌駕しているかもしれない。まともに相手をすれば間違いなく死が待っている。だが、彼等は聖銀級。どれだけの危険であろうと、武器を捨てる理由にはならない。
今にも武器を抜き放とうとしたふたりの腕は、しかし。
黒い手甲に包まれた手に阻まれた。
「ダメだ」アステルは背後からふたりの腕を取った。「彼女の言うとおりだ。抜いてはならない」
アステルは獣人に備わった本能の鋭さによって、何かを感じ取っていた。
「彼の言うとおりだよ」ロイクが頷いた。「この場所で剣を抜くのは自殺行為だ。早まっちゃいけない」
「さっさと得物から手を離せ。あの女が来る前にな」ツァギールが鋭くふたりを睨んだ。「貴様等亜人の巻き添えを食うのは御免だ」
「噂をすれば、だぜ」アニーシャルカが廃城を見上げた。「女王様のお出ましだ」
軍勢の動きが、不意に止まった。眼前の侵入者への関心が消え去っている。
金属を擦り合わせているような、耳障りな鳴き声が響きわたった。
赤く爛れた空で黒い影が渦巻いている。
蝙蝠だ。大量の蝙蝠が一行の正面に次々と降ってくる。不気味な哺乳類の群れはその身体を絡め、混ざり合い、黒い人形を形作っていく。
魔物たちはゆっくりと、頭を垂れた。その姿はさながら神前に跪拝する聖職者のようであった。蟲や蜥蜴にはあり得ないほどの厳粛さがその姿勢に現れていた。
蝙蝠の群れが霧散した。
ひとりの女が、そこに立っていた。
蒼白い肌。凄絶なまでの美貌。闇そのもののように背後に広がる、長い黒髪。
ヴォルフラムの肌が粟立った。精霊が猛り狂っている。女から立ちのぼる黒い魔力に、うなじの毛が逆立つ。ディアナも同様だ。奥歯を噛み締め、震えを抑えている。
イビルへイムを前にした時の絶望感。ザラチェンコと対峙した時の戦慄。それらと同等の圧力。
「ふざけるな、アニーシャルカ」ヴォルフラムの口から悪態がこぼれ出た。「どういうことだ、説明しろ」
「見たまんまだ」アニーシャルカは肩をすくめる。「あの女を納得させられればサツキに会える」
「アレは、なんだ」
「わかってるだろ、血魔だ」
「そういうことを聞いてるんじゃない」赤い羽根は血魔と戦ったことがある。凄まじい死闘の果てに、ヴォルフラムたちはその魔物に打ち勝った。だから血魔のことはわかっている。上級吸血鬼以上の再生能力と魔力を備えた恐ろしいアンデッド。だが、眼前の女は、あまりにも。
「アレは、超越魔物だろうが」
「そうだ、祖なる血魔だぜ」
「どういうこと?」ディアナが割り込んだ。「ルーツ・ヴァルコラキはアンタ等が討伐したんでしょ?」
「死んだと言った覚えはねぇな」
「じゃあ、アレが」ヴォルフラムはブラックリスト序列第三層の刻まれている化け物の名前を口にした。「クシャルネディアか」
ヴォルフラムは女に目をやる。彼女は傍らのケルベロスの頭を撫でている。それから周囲の微動だにしない、完全な服従を示している眷属たちの姿に満足したように微笑をこぼしてから、一行に視線を向けた。
「珍しいわね」
温度という物を一切感じさせない、氷のような声が響いた。
「貴方たち三人が一緒に此処を訪れるなんて、どういう風の吹き回しかしら」
「客人を連れてきました」ロイクはそう言うと、一歩脇へ退いた。アニーシャルカとツァギールも位置を変える。ヴォルフラム、ディアナ、アステルの三人が女王の視界に入る。
「貴方が客人を連れて来るなんて久しぶりよね、ロイク?」
「はい」
「アニーシャルカ、ツァギール」クシャルネディアの蒼い双眸がふたりに向けられた。「貴方たちもいるということは、この亜人たちは貴方たちの客人でもあるということかしら?」
その問いに、ふたりは頷く。何気ない風を装っているが、その内心は明らかに緊張している。ロイクも同様に、表情が強張っている。だが、それも仕方がない。この場所に客人を連れて行くのは危険なのだ。特にその理由がサツキへの謁見となると、その危険度は飛躍的に上昇する。もし客人がクシャルネディアのお眼鏡にかなわなければ、当然その瞬間に客人は殺される。そして紹介者はその巻き添えを食う可能性があるのだ。クシャルネディアは三人を気に入っている。いずれは血を受け入れさせ、正式な眷属にしたいとも思っている。だが、所詮人間だ。超越魔物からすれば虫けら同然なのだ。くだらない客を連れてきてクシャルネディアの機嫌を損ねれば、どういう結末が訪れるのかは決まり切っている。
だが、彼等は三人を連れてきた。いや、違う。アステルを連れてきたのだ。
あの日、ホテルの正面玄関でツァギールと刃を交えたミノタウロス。その実力は、間違いなく本物だった。十闘級と第八殲滅騎士団、彼等だからこそわかったのだ。眼前のミノタウロスがどれほどの研鑽を積み重ねてきたのか。どれほどの狂気に身をゆだねてきたのか。アステルの斧捌きにすべてが現れていた。
だから、連れてきた。
「このデカブツが、サツキに会いたいらしい」
アニーシャルカはアステルの肩を叩く。
アステルは一歩前に出る。分厚い膜のような感覚が身体にのしかかる。クシャルネディアの魔力装甲。ヴォルフラムでさえ近づくことを躊躇するその圧力を、しかし意にかえさぬように、アステルはもう一歩踏み出す。
クシャルネディアはアステルの巨体を睨めた。
生物としての本能的な恐怖がアステルの胸中で鎌首をもたげる。
今この場で狩人の側に立っているのは彼女だけだ。それ以外はすべて餌でしかない。クシャルネディアの視線には絶対的捕食者の残忍性が宿っていた。
だが、アステルはひるまない。
こんなところでひるんでいては、あの魔女に辿り着くことはできない。
「サツキという男に会いたい」
「なぜ?」
クシャルネディアの発する残忍性が、さらなる重みを増す。
だが、アステルは臆さない。真剣な眼差しで、クシャルネディアを見つめる。
「頼みたいことがある」アステルは視線を逸らさない。「私はある女を追っている。目的は復讐だ。その復讐を果たすために、手を借りたい」
「復讐など、ギルドにでも頼めばいいでしょ? そんなくだらない要件のために私に時間を割かせたのだとしたら、些か不愉快よ」
「彼でなければ、駄目なのだ」
「どうして?」
「サツキは、魔獣狩りと互角に渡り合ったと聞いている」ホテルで交わされたヴォルフラムとアニーシャルカの会話。その内容に一番驚愕したのは、アステルだった。彼は超越魔物と魔獣狩りの戦いを、誰よりも間近で目撃している。のみならず焦土のただ中で、あの獣と対峙している。あの人狼がどれほど凄まじい戦闘能力を有しているのか、アステルは誰よりも知っている。「だから、此処に来た」彼は静かに、だが、力強く告げた。
「私が追っているのは、獄炎の魔女。ジュリアーヌ・ゾゾルルだ」
城内は朽ち果てていた。壁には亀裂が走り、天井が抜け落ちている箇所が散見される。だが、造り自体はしっかりしており、崩壊の兆候はみられない。陽が沈みかけているとはいえ、城内は異様なほど薄暗い。おそらくこの地に染み込んだクシャルネディアの魔力が、緞帳のように陽光を遮っているのだろう。
一行は警戒しながら薄闇の中を進んでいく。
すでにクシャルネディアの許しは得ている。
「血が欲しいわ」
魔女の名を聞くと、クシャルネディアはアステルにそう要求した。
「血?」
問い返したアステルに
「そう、貴方の血よ」
血中には多くの情報が含まれている。魔力、感情、記憶。血は嘘をつかない。すべてを語る。血魔にとって血とは、相手を見定めるうえで重要な意味を持つ。
だが、誰にでも血を求めるわけではない。ジェラルドをはじめ、これまでアニーシャルカやロイクが連れてきた貴族や高官が何人か、此処を訪れている。彼等は礼儀を心得ていた。多くの献上品を馬車に積み込みクシャルネディアの御前に膝を折った。そして絶対の服従を誓った。何人かはサツキへの拝謁を許された。だが、それは非常に簡易的なものであり、彼等がクシャルネディアに許されたのはサツキの姿を一目垣間見るだけであった。忠誠を誓おうと、どれほどの金銀財宝を献上しようと、所詮は人間だ。血を喰らう価値など、ない。
彼女が血を要求したということは、それだけアステルに興味を抱いたということだ。
「わかった」アステルは極大の斧を引き抜き、眼前に突き立てた。手甲を脱ぐ。刃で掌を切る。血の滴る拳をクシャルネディアに差し出す。
白い指先が、一滴の血を掬い取る。クシャルネディアは口に指を運ぶ。薄い唇から、獣のような二本の牙が覗く。青ざめた舌が血を舐め取る。
「憎悪、執念、そして悲哀」クシャルネディアは微笑んだ。「非常に好ましい味ね。気に入ったわ」
クシャルネディアは踵を返す。
眷属の群れが亀裂に帰っていく。
「最奥にある礼拝堂に来なさい」
そう言って、彼女は霧散した。
一行の歩みが、止まった。
眼前には開け放たれた扉があった。扉の向こうには薄闇が漂う。
「クソッ、どうなってんだよ。この前来たときより酷くなってやがる」
「確かに。なんでこんなに殺気だっているんだろう」
「ただそこにいるだけでコレか。だから僕はここに来たくないんだ。あの化け物の近くにいると精神がすり減る」
三人は口々に毒づき、吐き捨てる。
「なに、この感じ」ディアナが呟く。その顔は歪んでいる。「一体この先に何がいるってわけ」
「わからない」答えるヴォルフラムの顔も、険しい。オルマ魔術協会から神聖な王冠を授かっている彼だ。魔術師の中でも随一の第六感を持っている。そして彼は精霊使いでもある。精霊はいたる所に存在し、精霊使いは彼等を通して様々なことを知ることが出来る。つまりこの中にあってもっとも感知能力に秀でているのはヴォルフラムなのだ。
そんな彼が「わからない」と言わざるを得ない。
魔力と精霊が感じられないのだ。眼前の扉の向こうから漂ってくるのは、異質な気配だけだ。こんな気配ははじめてだ。イビルへイムやザラチェンコ、先ほどのクシャルネディアの放つ悍ましい〈魔〉の圧威とは明らかに違う。より恐ろしく、より重々しい。魔獣狩りから感じた獰猛さが、一番近いか。だが、やはりそれとも異なる。魔獣狩りの放つ殺気はひたすらに兇暴だった。その根底にあるのは獣の、狼の苛烈な闘争本能だ。そこには匂い立つほどの生の躍動が感じられた。しかし今ヴォルフラムの肌を撫でているこの殺気は、それとは真逆の性質を漂わせている。この殺気には生がない。生き物の気配が微塵も感じられない。まるで岩や鉄のように無機質だ。だがそれでいてその中には、血や死といった、生命の暗い側面を強く感じさせる臭いを内包してもいた。わからない。異質すぎる。あまりにも禍々しい。
もしこれがサツキの気配だとすれば、確かに人間ではない。魔物でさえない。一体、これは。
「入りなさい」
闇の向こうからクシャルネディアの声が響いた。
硬直した一行の中で、最初に動いたのはアステルだった。
重々しい圧威を掻きわけ、扉を潜る。ヴォルフラムがそれに続く。他の面々も歩き出す。
室内は暗い。壁の亀裂から差し込む残照によって、わずかに室内の様子が見て取れる。かつては壮麗な礼拝堂だったのだろうが、今は城内同様荒れ果てている。至る所に闇が蔓延っている。
部屋の奥にクシャルネディアが立っていた。
その隣に、それがいた。かつては祭壇だったであろう残骸に腰掛けている。
「もう少し近くに」
クシャルネディアが命じる。
一行は近づく。
異質な殺気が濃くなる。
夕陽が沈みきる直前の、一条の残照が祭壇の男を照らした。
灰色の髪。右腕に刻まれた数字。
ヴォルフラムの胸が騒ぐ。彼の中で何かが繋がりそうになる。
陽が完全に沈んだ。室内は薄闇に戻った。
闇の中に赤い双眸が浮かび上がった。
その瞬間、ヴォルフラムの中にある考えが浮かんだ。
それはほとんど直感といってよかった。これまでのアニーシャルカの話しぶり、まるで従者のようなクシャルネディアの行動、そして眼前の男の姿。
「馬鹿な」思わず彼は呟いていた。「ありえない」
そう、ありえない。ありえるはずがない。アレはすでに滅んでいる。
ある程度の階級に進んだ魔術師や冒険者なら、一度は書物でその存在について読んだことがあるだろう。まして聖銀級なら、知っていて当然だ。三百年前の種族全面戦争、その中期から後期にかけて投入されたテオスセイル世界連合軍の切り札。圧倒的な魔力と身体能力をもってあらゆる種族、あらゆる魔物、さらには人類、そして竜どもを殺戮した異種族殲滅用生体兵器。まさに魔導生体技術の極致。その中でもNo.11の数字を持つ個体は、隔絶した戦闘力を有していたという。赤い翼を纏い、赫刃を手に、圧倒的な力ですべてを蹂躙したという鬼神。唯一、黒竜に匹敵すると恐れられた、赤い化け物。
生体兵器にはいくつかの身体的特徴がある。強化骨格の適応段階において生じる常軌を逸した激痛、それにより頭髪から色が抜け落ちる。
超高密度魔力の滞留により赤く染まる眼球。
右腕に刻印された識別番号。
サツキという男はそのすべてに当てはまる。
眼が闇に慣れてきた。月ものぼっている。ヴォルフラムはもう一度サツキを見る。灰色の髪。赤い眼。そして右腕の数字。
No.11。そう刻まれている。
隣でディアナが息をのむ。彼女も気づいたのだ。
「正解だ」アニーシャルカがヴォルフラムの肩に手をかけた。「信じられねぇだろうけどな」
「本当なのか」
「お喋りは要件が済んでからにしようぜ」
「だが」
「静かに」クシャルネディアが囁いた。表情は柔らかいが、その声には有無をいわせぬ迫力が漲っていた。「サツキ様の御前よ、誰が言葉を交わしていいといったの?」
ふたりは口をつぐむ。
「俺に用があるのは何奴だ」
不意にざらついた声が一行の耳を打った。
赤い双眸が彼等を見ていた。無機質な、それゆえに怖気をふるうような視線だった。
「私だ」答え、アステルはサツキの前に立った。
何という威圧感。アステルは奥歯を噛み締める。魔獣狩りと同等、いや、それ以上か。
「お前がそうか、獣人」サツキはアステルの全身に眼を向け「魔導甲冑か」と嗤った。「連合軍が使っていた強化外骨格ではないな。神魔戦争の遺物、おそらく戦神ダイダロスの鎧か。なかなかおもしろい物を持っている」サツキの顔から嗤いが消える。感情の読めない表情で、口を開く。「お前は俺の〈剣〉が初めて迎え入れた客だ。クシャルネディアはお前に価値があると認めた。俺が会うほどの価値があると」
「光栄だ」アステルは拳を握りしめる。「ならば、引き受けてくれるか」
「クシャルネディアが俺に告げたのは客が来るということだけだ」赤い視線がアステルを射貫く。「話を聞いてやる。内容如何によっては、手を貸してやらないこともない」
「本当か」
「俺に二言はない」
その通り。サツキは約束を違えない。必ず誓いを果たす。
サツキは首筋の呪印に触れる。何かを確かめるように。
押し黙るミノタウロスを睨め、
「さっさと、話せ」
ざらついた声がうながす。
赤い瞳は、ただアステルだけを見ている。
*****
「これほどの超越魔物が一堂に会するとは、壮観だな」イビルへイムの哄笑が闇の中に響いた。「今日此処に、地獄に堕つ五芒星、その同胞すべてが集ったというわけだ。素晴らしいじゃないか」




