2 ジェラルドの仕事
「まったく、ヤコラルフでは酷い目にあった」
そう毒づいて、バルガスはビールを呷った。
唇の端から溢れたビールが太い首を伝い落ちていく。空のジョッキをテーブルに置き、やれやれといった調子で彼は首を振った。
「あんな仕事は金輪際願い下げだ」
「置き去りにされたんでしたっけ」
金貨を数える手を止め、リアンがバルガスを見た。
「そうだ」大仰に頷き、バルガスはあの地獄のような夜を思い出すように目を細めた。「最悪の一夜だった。いいか、頭のイカれた生体兵器と、これまた同じくらい頭のイカれた人狼が暴れ回る街にひとり取り残され、死に物狂いで脱出しなければならない状況を想像してみろ。最悪だぞ。ああ、本当に最悪だった」
「よく生きて帰ってこれましたね」
「自分でも不思議だよ。死んでいてもおかしくなかった」
「運が良かったんじゃないですか?」
「だろうな。まあ、それも実力のうちだといえなくもない」
「その話、聞き飽きたんだけど」かったるそうにカルネが椅子にもたれた。
「そんなに話したか?」
「呑むたびに話してるじゃん」
「気づかなかったな」
「年取ると同じ話ばかりするっていうよ」
「俺はまだ二十七だ」
「えッ」ビールを飲んでいたリアンがむせながらバルガスを見た。「マジですか。どう考えても二十代には見えないんですけど」
「馬鹿なことを言うな」リアンの発言を鼻で笑い、バルガスは店員が運んできた新しいジョッキに口をつける。「どこからどう見ても二十代にしか見えないだろ」
「自分で気づいてないようだから教えてあげるけど」口元にいやらしい笑いを浮かべながらカルネが言う。「アンタは自分で思っている以上に老けてるよ。三十代にしか見えないかな」
「おいおい」ふたりが自分をからかっているのだろうと思っていたバルガスだが、彼等の顔に浮かぶ微妙なニュアンスを見て取ると、急に真剣な表情になった。「まさか、お前等本気で言ってるのか」
「そうです」
「当然じゃん」
「おいバルガス」
ふたりの返答に被せるように、女の声が割り込んだ。「お前なに簡単にわたしの居場所ゲロってんだよ。玉潰されてぇのか?」
三人のテーブルの前に茶色い癖毛の女と精悍な顔立ちの男が立っていた。アニーシャルカとロイクだ。
アニーシャルカはバルガスの頭を叩くとその隣に腰掛け、罵詈雑言を浴びせかけた。が、ふと違和感を覚えバルガスを見た。いつもならニヒルな笑いを浮かべながら飄々と軽口を叩いて彼女を躱すバルガスが、今は無言でアニーシャルカの話に耳を傾けている。心なしかその顔には憂いの翳が射している気がする。こんな顔のバルガスは前にも見たことがある。彼女が貴族の爺を殴り、その後始末をするためにバルガスとルガル傭兵団の副団長のネルグイがある仕事 ―――のちにバルガスはその仕事を『この世でもっとも屈辱的な時間』と表した――― を終え彼女の前に現れた時に、こんな顔をしていたのだった。
「なんだコイツ」アニーシャルカは訝しむようにリアンとカルネに視線を向けた。「なんでこんなに腑抜けてんだ」
「ショックを受けたみたいです」リアンが答える。
「なんかあったのか?」
「それはね、アニーシャルカさん」
口を開いたカルネを、
「やめろ」
バルガスが制止した。
「コイツには何も喋るな。ろくなことにならない」
「なんだよ、酷ぇ物言いだな」
「お前は酷い女だからな」
「オイオイ、ルガル傭兵団で同じ釜の飯を喰って育った仲だろ? すこしはわたしを信頼しろよ」
「確かにお前とは姉弟同然で育った。だからこそ言わせてもらうが、お前は今も昔もクソ野郎だ」
「オメーもクソ野郎だろ」
「お前ほどじゃない。例えば、俺なら仲間をヤコラルフにひとり置き去りにしたりはしない」
「あれはテメーが猟犬部隊に手間取ってたのが悪いんだよ」
「あいにく俺は殲滅騎士団を撫で切りにできるほど、化け物じゃないんでね」
「あんなの雑魚だろうが」
「言葉に気をつけろ、雷刃」剃刀のような眼をした美丈夫が歩いてくる。猟犬だ。
彼はバルガスたちの隣のテーブルにひとり腰掛け、アニーシャルカの顔を冷ややかな眼差しで睨める。「僕の部下たちを侮辱するような発言はしないことだ。長生きしたければな」
「なんだよ、もう国は捨てたろ」
「国と部隊は別だ」
「騎士の誇りってヤツか?」
「貴様には一生理解できないだろうな」
「あいにく誇りや忠誠とは無縁でね」
「獣のような女だ」
「オメーも同類だろうがよ」
「貴様と一緒にするな」
「そうかい。まったく可愛げのない野郎だな、ツァギール」
「気安く僕の名を呼ぶな」
「呼んじゃ悪いか?」
「貴様に呼ばれるのは不愉快だ」
「いうじゃねぇか野良犬のくせによ」
「まあまあ、言い合いはその辺にして」取りなすようにロイクが口を挟んだ。「彼と仕事の話をするためにここに来たんだろう?」
「アア、そういやそうだったな」
「要件があるならさっさと話せ」かったるそうに椅子に凭れ、ツァギールはアニーシャルカを横目で睨む。「僕を指名ししたんだ。くだらない仕事じゃないだろうな」
「さあな、案外退屈な仕事かもしれないぜ」
「内容は」
「ジェラルドの護衛」そう言ってアニーシャルカは店員を呼ぶ。一同は各々好き勝手に注文をする。店員が遠ざかると、アニーシャルカは再び口を開く。「それもわたしとふたり仲良くな。楽しそうだろ?」
「護衛?」バルガスが口を挟んだ。「ジェラルドが王都を離れるなど聞いてないぞ」
「ジェラルドはどこにも行かねーよ。お前も知ってんだろ、アイツは警戒心が強い。王都を離れるわけがねぇ」
「なら、なぜ護衛がいる」と猟犬。
「人に会うからだ」アニーシャルカが答える。「近々ジェラルドは闇市場の大物と顔を会わせる。その会談の護衛を、わたしとオメーに頼みたいらしい」
「ああ、なるほど。そういうことか」得心いったというように、バルガスが頷いた。「偉大なる伯爵か」
「ご名答」そう言ってアニーシャルカは嗤った。
「なんだい、そのグラン・カウントというのは」不思議そうなロイクの呟きに、
「闇ギルドの名称だ」バルガスが答える。「多種族国家オルマの裏社会の中でも、最大規模の組織だ。数年前にジェラルドの組織と揉めてな、抗争の果てに手を切ったはずだが、どうやら仲直りをしたいらしい」
「オルマか。今回訪問する使節と何か関係があるのかい?」
「関係があるもなにも」アニーシャルカは心底可笑しそうにロイクを見やる。「その使節がグラン・カウントの支配人だぜ」
「まさかッ! 今回派遣されたのはオルマ多種族連盟の副会長、ヨハン・シュハイトルム伯爵なんだよ?」
「まさしく、奴こそが伯爵ってわけだ」
「説明が足りていない。たかだか闇ギルドの会合に、なぜ僕がかり出される」
「そりゃヨハンの右腕がアイツだからさ」アニーシャルカは自然と脇腹に手をやる。数年前の抗争の折、エルフに貫かれた腹部の傷跡は、今も消えていない。かわりに彼女は奴の背中を雷で灼いた。
服の上から傷をなぞり、アニーシャルカは獰猛に嗤う。「十中八九、ヨハンの護衛として現れるのはヴォルフラム・レンギンだ」
「有名人だな」バルガスが口笛を吹く。「オルマ闇市場の最強の暴力装置のご登場か」
「凶悪な精霊使いか」ツァギールは興味深そうに眼を細めた。
「その名前なら、私でも知っているよ」ロイクが言う。「多種族連盟にふたりしか存在しない二重最高階級の冒険者、その片割れだね。確か使節団の名簿に赤い羽根の名前があったはずだ」
クリムゾン・クローバーとはオルマ国の擁する最高峰の冒険者パーティの名だ。精霊使いのヴォルフラムの他にダークエルフのディアナ、獣人のレオパルド、魔術師のオーギュスタが所属し、その全員が連盟最高階級〈聖銀級〉を授かっている。
「そう、クリムゾン・クローバーだ」アニーシャルカはツァギールを見る。「下手すりゃ会合にはクリムゾン・クローバーの全員がヨハンの護衛として現れるかもしれねぇ、そう考えたジェラルドの野郎はわたし以外にも護衛が欲しくなったのさ。で、オメーに白羽の矢が立ったってわけだ。納得したか?」
「一応な」
「ま、どうせ形だけの仕事だけどな」アニーシャルカはつまらなそうにそう言い、どこから取り出したのか指先でナイフを玩ぶ。「王都のど真ん中で抗争おっぱじめるほど、ヨハンもヴォルフラムもイカれてはいねぇ。わたし等はあくまでもジェラルドのお飾りさ」
店員が酒を運んできた。仕事の話はここまでだとでもいうように、各々自分の酒を手に取り杯を掲げ、呑み始める。バルガスたちダムドの面々とアニーシャルカは昔話や馬鹿話で盛り上がり、ロイクは苦笑しながら彼等の話に耳を傾ける。ツァギールだけが静かにグラスを傾けている。
「それにしても」とリアンが不思議そうに口を開いた。「今、オルマ国って大変なことになっているらしいじゃないですか。何もこんな時に使節団の派遣なんかしなくてもいい気がしますけど」
リアンが言っているのはオルマを見舞った超規模災厄級の災害のことだ。十数日前、オルマ領ゼルジー地方の大草原と森林が跡形もなく消え去った。人里離れた地帯だった為に人的被害こそ少ないが、それでも付近で仕事をしていた冒険者や森林に点在していた亜人の聚落、それにいくつかの農村など、奪われた命は数百にのぼるとみられている。一体何が原因でそのような災厄が起こったのかはわかっていない。色々な噂が流れている。黒い炎が吹き荒れていた、膨大な数の何かの影が空を埋めていた、とてつもなく巨大な蛇が鎌首をもたげていた、そしてあまりにも暴々しく、あまりにも獰猛な獣の咆吼があたりに谺していた。
そしてこんな噂も流れている。
その超規模災厄にユリシール王国に向かっていたオルマの使節団が巻き込まれた、と。
「それは事実らしいよ」とロイク。「詳しくはわかっていないけど、使節団はその場に居合わせたらしい」
「それで皇太子の訪問が無しになったってわけか」
アニーシャルカの言葉に、
「そうだね」ロイクは頷く。「オルマからすれば皇族の安全が最優先だ。皇太子殿下は近衛隊と供に首都であるバルシアに引き返した」
「でも使節団は来るんですよね?」リアンが首を傾げる。
「まあ、そこは色々あるんだろう」ジョッキから口を離し、バルガスがにやりとする。「俺たちのように肥溜めで暮らしてる人間には到底わかりかねない、高度な政治的判断ってヤツがな」
「こんな状況だからこそ、ギルド同士の繋がりを強化したい、というのが連盟側の考えだと思うよ」
「政は苦手だ」アニーシャルカは手の中でナイフをくるくる回す。「わたしは単純なのが好きだ。戦いとか殺しとかな」
「確かに君に駆け引きや忖度は無理だろうね」ロイクはため息をつく。「さっきだって私が来ていなければどうなっていたことか」
「わたしは偉そうな貴族が嫌いでね」
「何があった」
バルガスの問いに、ロイクは先ほどのいざこざを簡単に説明する。
「まったく、お前という奴は」呆れたようにバルガスは肩をすくめ、やれやれと首を振る。「政治うんぬんの前に、まず常識を学ぶところからはじめないとな」
「おい、まるでわたしに常識がないみたいな言い方するんじゃねぇよ」
「ないだろ」
「あるに決まってんだろうが」
「ないな」
「道徳もないですよね」とリアン。
「礼儀もないね」とロイク。
「理性もないかも」とカルネ。
「おまけに品性もない」バルガスは驚いたようにアニーシャルカを見つめた。「すまない、こんなことを聞くのは俺としても非常に心苦しいんだが、しかし幼馴染みとして、いや義姉弟としてあえて聞かせてもらう。なあアニーシャルカ、一体お前にはなにがあるんだ?」
「オイ、それ以上わたしをおちょくったらテメー等全員の指を切り取って」
彼女の言葉はテーブルに放られた銅貨の音で中断された。
酒を飲み干したツァギールが冷然と立っていた。
「代金だ」鋭く言い捨て、アニーシャルカに冷徹な視線を向けた。
「仕事の日取りが決まったら知らせろ」
「なんだよ、もう帰るつもりか?」
「これ以上ここにとどまる理由はない」
「少しは付き合えよ」
「貴様等と馴れ合うつもりはない」
吐き捨て、ツァギールはトパーズの扉に向かう。
「根暗野郎だな」そう呟き、アニーシャルカはロイクに顔を向ける。「ヨハンが来るのはいつ頃だ?」
「そんなに遠くはないと思うよ」ロイクは言う。「確か昨日、使節団がユリシール領に入国したと国境砦から連絡が入っていた気がする。数日中には彼等は王都の土を踏むんじゃないかな」
「だとよ。せいぜい楽しみにしておけよ、猟犬」
彼女の軽口には答えずに、ツァギールは扉の向こうに消えた。
アニーシャルカは放られた銅貨をつまみ、猟犬の消えた扉を眺める。
「まったくよ、あんなクソ野郎と仲良くジェラルドの護衛につかなきゃいけないのかと思うと、うんざりするぜ」
「その気持ちは、俺やロイクがお前と仕事をするときにいつも胸に抱いている感情だ」バルガスはアニーシャルカの肩に手を置き、もったいぶったように頷く。「ようやくお前も俺たちの気持ちをわかる日が来たんだな」
「チッ、酔ったお前は本当にウゼェな」
「まあいいじゃないか。似た者同士、気が合うだろ?」
「どうだかな」
そう言って、アニーシャルカは乱暴にバルガスの手を払いのけた。




