悪酒
都内にある居酒屋。
個人の店舗としてはそこそこの規模で、カウンター、テーブル席の他に合計三十畳ほどの座敷席がある。
今日はある会社の営業部がここを貸し切っていた。
木下はその主役だ。
齢六十になる彼は今日、職場から定年という形で退職していく。そのために設けられた送迎会の席である。
彼は一通りの部下達から挨拶の酌を受け、今は小休止、一人で熱燗を煽っていた。
四十年ほど前に就職して、思えば長いような短いような職場生活だった。
そういう調子で物思いに耽っていると、
「部長。お酌、よろしいですか?」
と、一人の若い女性から声をかけられた。
営業部に派遣されているOL、山槻だ。
「山槻君。僕はもう、部長じゃないよ」
「あ。……ついうっかり」
木下は部下だった遠野に部長業務を譲り、自分は嘱託として彼の指導にあたったのはつい数週間前の出来事だ。
「なかなか、簡単には「木下さん」になりません」
山槻が未だに間違えるのは仕方ない。
彼女にとって、木下は三年間「部長」だったのだから、そう簡単には直らないだろう。
「そのうち慣れるさ。もっとも僕は居なくなるけどね」
そう言って木下は山槻の酌を受ける。
老年の木下と若い山槻は仲が良かった。
外回りの多い営業職で、連中はみな出払い、事務職が主だった業務の部長とOL、二人だけのオフィスの時間が長かったからだ。
ギクシャクした会話から入り、木下は仕事を教え、山槻からパソコンを教わり、自然と互いの世代に理解を深め、職場での会話はよく弾んだ。
外の人間からたまに「不倫ごっこ」などとからかわれたが、別段、男女としての親密というわけではなかった。強いていえば、山槻は人なつっこい性格だった気がする。
「今日はずいぶん静かなんですね」
普段なら宴会の音頭を取るのは木下の仕事だ。
職場に人が大勢居れば、シモの話題もよく振っていた。
大人しくない大人だったかもしれない。
「マァ、僕だって感傷にはなるよ。
君の年より長い時間を過ごした場所を離れるんだから」
と木下が言うと、
「らしくないですね」
と、くすりと山槻は笑った。
「ま、飲みなさい」
向かいに座った山槻に、今度は木下が酌をやった。
「慎んで」
などと冗談めかして言い、山槻は杯に口をつける。
彼女が酒に強い。そんなことも木下はよく知っていた。
普段見慣れた山槻はカッターにチョッキというOL然とした格好で、たまの宴会には私服を着用するため新鮮だったが、今日は、艶やかな口紅といい、肩の透けてる上着といい、やけに華やかだった。
「どうしたんだい?
今日はまた、ずいぶんきれいじゃないか」
自分のために少し気合いを入れてくれた――などと自惚れるほど、木下は若くはない。
「このあといい人とでも会うのかな」
「いませんよ、そんなの」
山槻が笑む。
酒のせいか、火照った頬が男心をくすぐった。
「そうかぁ。でも君も、二十四になる。
僕の息子だって、君の年には二歳の男の子を連れていたよ。
仕事熱心なのは良いが、男を見つけるのに執着したらどうなんだい?」
「まぁ。余計なお節介ですよ」
「最後の晩だ。ジジイに説教をさせてくれ。
仲の良かった君だ、なんだか気になって名残惜しい。
本当のところ、彼氏でもいるんじゃないかい?」
「いいえ。さっぱり」
木下の見立てでは、山槻はそこらの女より顔も良いし頭の回転も速い。
それを見逃すとは、若い衆はずいぶんは損をしている。
「だったらなおさら……」
「そんなことより」
木下を遮るように、山槻は問いかけてきた。
「木下さん、どうして急に辞める事にしたんですか?
この間まで「定年がなんだ、俺は生涯現役だ」なんて張り切っていたのに」
「ああ……」
定年を迎えた木下を会社は引き留めた。嘱託としてもうしばらく、営業部を支えて欲しい、と。この就職氷河期と言われる不況の最中、新しい人間を雇い教育するくらいなら、古株でもコストの掛からない人材を重宝したかったのだろう。
だが木下はそれを断ってしまった。それにはある事情がある。
木下はためらったが、今夜限りという想いもあり、山槻に話してやる事にした。
「もうすぐ大学を卒業する孫がいるんだ」
「あ。国公立を卒業するんですよね」
木下は頷いた。そういえば彼女にはよく自慢をしていた気がする。
「あいつがね、この間帰省してきたときこう言ったんだ。
『じいちゃんたち団塊の世代が、僕らの壁になっている。いつまでも職場に居座るから、就職は冷え込んで、保険も年金も僕らに負担をかけ過ぎているんだ』
……ってね」
直後に夕食は波乱になった。
それを聞いた息子は、「懸命に働いてきたじいちゃんたちに生意気なことを!」……と、孫に平手をくれてやり、それが発端で取っ組み合いが始まったのだ。
甘やかして育てた息子と思っていたが、ちゃんと目上を尊び、父親の威厳を見せた様はどこか誇らしかった。
「酷いこと言うわ」
「いいや……。
あの子の言っていることは間違っちゃいない」
自分たちに敬意をはらってくれた息子も世代問題を突きつける孫も、決して間違ってはいない。だから木下は大人しく、職場に別れを告げる事に決めたのだ。
「それでも、言い方があるわ。
仕事もしたことないくせに、理屈ばっかり並べるなんて」
「おいおい。今から『最近の若いモンは……』かい?」
木下は苦笑いした。
十年も前は自分の常とう句だった言葉だ。それがちょっと前、どこかの遺跡のメッセージに『最近の若いモンはなっとらん』と書いてあった、などというニュースを聞いて急に恥ずかしくなり、自粛した。
「やだ。おばさん呼ばわりしないでください」
「ははは。そう言ってるうちに年をくっちまうんだよ。
サァ、僕はずいぶん喋ったぞ。
今度は君の番だ。男を探す決心はついたかい?」
「またその話ですか。うーん」
困った顔をした山槻は、ちょっとしてこう言った。
「私、今まで部長が居たから、そんなに男に興味がわかなくて」
「うっ」
運悪く酒を口にしていた木下は、
その一言で咽せてしまった。
「ぶ、部長!? 大丈夫ですか!?」
焼酎が気管支に入ると、ずいぶん辛い。
少し悶えた後、木下は言った。
「……ふぅ。君がタチの悪い冗談を言うから」
「いいえ。冗談じゃないですよ」
にこりと笑い、山槻が言う。
「私、小さい頃祖父に引き取られてた時期があって……そのせいですかね。
おじいちゃん子なんです。だから、部長と話してるとなんだか安心しちゃって」
「いや君、それは恋愛とは別物だよ。
……それから僕は部長じゃない」
あ、と山槻は口に手を当てる。
「やれやれ。先が思いやられるよ」
そう息をついてから、木下はやらしく笑った。
「君がもし本当に僕に気があったら、もっと早く言ってくれれば、職場を楽しく過ごせたんだがね」
すると山槻は物怖じしないばかりか、笑ってこう返した。
「木下さんと話せなくなると、寂しくなります」
木下はその笑みに、年甲斐もなくどきりとしてしまい、隠すように杯を煽った。
山槻に会うために、嘱託の件、受けても良いかもしれないな。
ふとそんなことを考えている自分に気付く。
飲み過ぎたらしい、酔っているんだ。
悪い酒だな。嗚呼、まったく、悪い酒だ。