雀蜂の森
大学生活初めての夏休み。
八月もそろそろ終わりが近いが、大学生の夏休みはまだまだこれからだ。
まだざっと一ヶ月ぐらいの休みがあるのだが、俺はいい加減退屈してきていた。
友人たちとカラオケに行き、海に行き、キャンプに行き、祭りに行き、長期休暇を満喫していたが、夏のイベントと呼べるおおよそのものを消化してしまうと、すっかり暇になってしまった。
今日と明日はバイトも入っていない。
三〇度を軽く超えてしまっている部屋で一人だらだらと寝転がっていたが、どうも身体がなまってしょうがない。
ああ、暇だ。
この暇をどうやってつぶそうか。
こう暑いと頭もろくに働かない。
何か考えようとしても何一つまとまらない。
暑いなあ、でもテレビでは異常気象とか言っていたけどあまり実感はないよなあ。昔から暑かったような気もするし。子供のころは楽しかったなあ。虫が好きだったんだよな。今も嫌いじゃないけど。でも子供ってどうして虫が好きなんだろうなあ。虫って見た目が怪獣みたいだからだろうか。小さい怪獣。怪獣って子供好きだもんな。ん? じゃあなんで子供は怪獣が好きなんだろう。
意味のない思考は続く。
これではいけないと思い、俺は勢いよく飛び起きた。
なんでもいいから身体を動かそう、そう思った。
とはいえなにかいい考えがあるわけではない。
考えた末、俺は虫取りに行くことにした。
十八歳になった大学生がすることではないだろうが、別にすることもない。童心に返ったような気分になりたかっただけだ。幸いにもこの辺りは自然が豊かだ。虫を探すのに苦労はないだろう。
俺はさっそくアパートを出て、自転車にまたがる。ここから十分ほどのところに山がある。そこならカブトムシぐらいはいるはずだ。
俺は虫取り網もカゴも持っていない。必要ないからだ。別に虫を捕まえて育てようなんて考えていない。捕まえたらちょっと観察して、その場で逃がすつもりだった。
脱水症状を警戒して、途中にある自販機でスポーツドリンクを購入した。
準備は整った。俺は山に向かった。
*
山は思った以上に暑かった。木々が傘のような役割をはたしていたので、直射日光は大したことはなかったが、その分、温まった空気が逃げないらしく、とても蒸した。
汗が滝のように流れて、いくら拭いてもきりがなかった。
まるでサウナみたいだった。
スポーツドリンクを口に含む。ぬるくなってしまっていた。まだ山に入って一時間も経っていないのに、俺はすでに後悔し始めていた。
やっぱり部屋で寝ていた方が良かった。
だいたい大学生が一人で山に入って虫取りに興じるなどと、まともな精神状態で考えることではない。
きっとこのうだるような暑さに、頭がすっかりやられてしまっていたのだろう。
なんだか今の自分がとても馬鹿らしくなった。
帰るか。
一度決めてしまうと、帰りたくて仕方がなくなる。
俺は今来た道を戻り始めた。
しかし、歩き始めた俺の目の前を何かが横切った。
それの正体を脳が認識した瞬間、俺の心臓が跳ね上がった。
黄色と黒の毒々しい縞模様。ヴゥゥッという羽音。生理的恐怖感を喚起する見た目。
スズメバチだ。
かなり大きいから、おそらくオオスズメバチだろう。
とっさに立ち止まる。
スズメバチは俺の目の前数メートルのところを飛び続けている。その身体はこちらに向けられており、明らかに俺を警戒していた。
チッチッと何かがこすれるような音がした。目の前のスズメバチが発している。
俺はこの音が何か知っていた。
これは、スズメバチの警告音だ。
スズメバチは巣の近くに敵が現れたとき、顎で警告音を鳴らす。これ以上巣に近づいたら攻撃するぞ、と警告しているわけだ。
これはとてもまずい状況だ。
刺激してはいけない。
もし刺されたら、命はない。
俺はこの山に一人で来たし、誰にも言っていない。単なる暇つぶしだから必要ないと思って携帯電話も持ってきていなかった。
救助を呼ぶこともできないし、夏休み中だから誰も気付いてくれないかもしれない。
俺は呼吸を整えて、冷静になることにつとめた。
スズメバチが飛んでいるということは、この近くに巣があるはずだ。
巣から遠ざかってしまえば何の問題もない。
落ち着いて、刺激しないように進めば襲われる心配はないはずだった。
しかし、自分の目の前を飛んでいるスズメバチは、動こうとはしない。
チッチッチッチッと音だけが止むことなく続いている。
嫌な汗が服の下をつたう。
仕方がない。
俺は反対側、つまり森の奥に進むことにする。
このまま行くと山を登ることになり、いずれは山頂にたどり着く。
山頂には小さな公園があり、町を一望できる。
山と言っても大したものではないし、頂上まで歩いてせいぜい一時間ぐらい。近所ではちょっと知られたハイキングコースだ。
もっともここが賑わうのは春と秋だけで夏はあまり人がいない。利用者のほとんどは高齢者なので、夏や冬のように体力を必要とする季節は避けられるのだ。
近年は猛暑が厳しいので、健康のため、夏休みの間は子供もあまりここで遊ばないように言われているらしい。まともな大人は働いている。
ここにいるのは間違いなく、俺だけだ。
他人の助けなど期待できない。
俺は、森の奥へと進み始めた。
*
うだるような暑さは相変わらずだった。
スズメバチを警戒して、山を登り始めて二〇分ほど。
大量の汗が流れ続けシャツを濡らした。
スポーツドリンクも飲み干してしまっていた。
たしか道中に自動販売機があったはずだった。俺は自販機に巡り合うことを願いつつ、歩き続けていた。
スズメバチは俺の来た道を通せんぼするように飛んでいた。
おそらく俺はスズメバチの巣の近くを知らないうちに通り過ぎてしまったのだろう。とするとあの道から帰るのは難しいのかもしれない。
どうしようか。
スズメバチは夜は活動しないので、夜になるまで待つか。
いや、夜まで待つ必要もないだろう。夕方になれば奴らの活動はストップするとみていい。
奴らが大人しくなるまで、山頂で休憩していよう。
我ながら、なかなかいい考えだと思った。
そう思えばこの暑さも楽しめるような気がしてきた。
そろそろ自販機も見えてくることだ。汗をかいていれば冷たい飲み物もさらにおいしく感じられるだろう。
少し歩くと予想通り自販機が見えてきた。
俺は小走りになって駆け寄る。
あと少し、というところで俺は歩みを止めた。
またスズメバチがいた。
数匹のスズメバチが、自販機の周りを飛び回っていた。
スズメバチの行動範囲は本来、それほど広くない。
先ほどの奴とは違う巣にいる奴かもしれない。
ということは、この山には複数のスズメバチの巣がある可能性が高い。危ない山だ。
自販機のスズメバチは、俺に気づいたようだった。
ヴゥゥゥゥゥゥッと派手な羽音を立ててこちらに飛んでくる。
スズメバチが明らかな攻撃の意志を持って、俺に襲い掛かってきた。
考えている暇はなかった。
俺は道から外れ、脇の茂みに飛び込んだ。
スズメバチから逃げきることなど基本的には不可能だ。
もし助かるとするならば、スズメバチが自発的に攻撃をやめる以外にはない。それはつまり、巣から充分離れて、俺が奴らにとって脅威ではなくなったと判断された時だけだ。
奴らの巣の場所が分からない時点で、どちらに逃げたらいいのかは分からなかった。
しかし俺はそのあたりの判断能力をすでに失っていた。
頭がまともに働かず、身体も十分に動かせなかった。軽い吐き気もした。
熱中症の初期症状だ。
このままでは本当にまずいことになる。
山道から一〇メートルほど離れた地点の茂みに、俺は屈みこんでいた。
スズメバチは俺の頭上で飛び回っている。
どうもこの近くに巣があるらしい。
余計なことをしてしまった。よりにもよって俺はスズメバチの巣に近づいてしまったらしい。
どうするべきか。
俺の取るべき手段はひとつだ。とにかくここを離れなければならない。
俺は屈んだまま全身を始める。とりあえず山道まで戻るつもりだった。
匍匐前進のように移動する。スズメバチが俺に襲い掛かる様子はない。
奴らが俺に気づいている可能性は高いが、警戒はされていないらしい。
一分で、おおよそ一メートル。
刺激しないように気を付けていると、自然と時間がかかる。
一〇分をかけて、なんとか一〇メートルほど前進した。
汗が落ちて地面を濡らす。ぬぐってもきりがない。後どのくらいまでなら耐えられるだろうか。
スズメバチの警告音は聞こえてこない。なんとか逃げ切れそうだった。
よし、少しペースを上げよう。俺は全身から噴き出している汗をぬぐった。
俺は次の一歩のために手を前方に伸ばした。
ザザッという音とともに何か土のようなものを引っ掻いた。
今までに経験したことのない感触だった。
顔を上げる。
土が盛り上がり、山のようになっていた。高さは一メートル以上はありそうだった。
なんだろうこれは。
手で引っ掻いてみると、ボロボロと崩れた。
こんなところで子供が砂遊びでもしたのだろうか。固めてあるようだがあまり頑丈とは言えない。少し力を込めるとすぐに壊れてしまう。
少し深く手を突っ込む。
途端に手の平に激痛が走った。
叫び声を上げて手を引っ込める。今の叫びで上空のスズメバチを刺激してしまったのが気配で分かったが、そんなことを考える余裕はなかった。
スズメバチだ。
スズメバチに刺された!
俺の手のひらには赤い点がぽつりとできていた。それが見る見るうちに大きくはれ上がっていく。
土の中にスズメバチが潜んでいた。
いや、違う。
これは土のかたまりなどではない。スズメバチの巣だったんだ。
俺の崩した部分から次々とスズメバチが這い出してくる。そいつらは大事な巣を崩した俺に対して、明らかに敵意をむき出しにしており、次々に飛び出しては警告音と羽音を響かせた。
俺の手は、すでに二倍ほどに膨れ上がっていた。
早く逃げなければ、俺は間違いなく死ぬ。
しかし、救いを求めるように周囲を見回した俺は自分がもはやどうしようもない状況に置かれていることに気付いた。
巣は、これだけではなかった。
あちらこちらに砂山のような巣が点在していた。そしてそれらをつなぐように地面に盛り上がりができている。どうやらすべて同じコロニーのスズメバチのようだった。
そのすべての巣から、スズメバチが這い出してきていた。
何百匹、何千匹というスズメバチが、俺に対して警告を発している。
羽音がうるさい。
地面が震えているようだった。
青空が、スズメバチで覆い尽くされていた。
「うわああああああああああああああああああ!」
俺は絶叫した。叫ばすにはいられなかった。
俺の叫び声を合図にするかのように、スズメバチが一斉に襲い掛かってきた。
全身に激痛が走った。今までに経験したことのない、想像を絶する痛みだった。
スズメバチが口の中に次々に飛び込んでくる。
口腔、喉、食道、胃が焼けつくように痛んだ。
胃の中で大量のスズメバチがうごめいているのがわかった。
目にも針が差し込まれる。
払いたかったが、もう身体が動かない。
もはや俺には、何もできなかった。
ヴゥゥゥゥゥゥッという不快な羽音を聞きながら俺は意識を失った。
それが俺が人生で最後に聞いた音だった。