カスカニカスカナリ 6 ★
闇の中に牛車を止めて数人、人影があった。
「……忠実殿?」
先の関白、藤原摂関家の長、藤原忠実だった。牛飼い童の他、いずれ劣らぬ美丈夫の随身4人ばかり引き連れて叡山の堂宇の前に佇んでいる。
「大方、聞き知ったようじゃの、成澄よ?」
忠実は成澄の両脇の田楽師を見つめた。視線を受けて狂乱・婆沙の兄弟は恭しく礼を返す。
(では、初めから──?)
ここへ来て、漸く成澄は納得した。今回の件で忠実殿が俺を選んだのは、俺が日頃からこれら田楽師や〈異形の輩〉と付き合いが深いせいであったか……
「で、どうじゃ、鏡の隠し場所について少しは見当がついたか?」
忠実も気が気でないらしい。わざわざ出向いて来て進捗具合を知ろうというのだ。常行堂に籠ったままの成澄たちを、日が暮れる中じっと待っていたことからもその心境は窺い知れた。
「これからご自邸へ報告に赴くつもりでした。実は──」
今経っても堂内で、双子が教えてくれた咒文の〝裏の意味〟。
それを成澄はこの場で伝えることにした。懐から紙片を取り出して、翳しながら忠実の元へ歩み寄る。
(おや?)
一瞬、狂乱丸の視線が揺らいだ。
(何だろう? 裏側にも模様みたいなものが……)
だが、呼び止めるには遅過ぎた。長身の検非遺使はその長い脚で風を切り、既に忠実の傍らにいる。
「ご覧下さい。これは恵噲の室の、厨子の扉に挟まれていた紙片です。咒文が記されています」
「む? 灯りを、これに──」
松明を掲げていた随身の一人が駆け寄って紙片を照らす。
《 シシリシニシシリシト ソソロソニソソロソト 》
「この咒文、実は人間の……大便道の尻=シリと、小便道の尿=ソソを囃しているのだと田楽師は言うのです。彼等芸人の間で、そのように伝わっていると」
「何?」
「もしそうだとすれば、まずは叡山中の寺院・僧院・塔頭……全ての〝不浄の場所〟……つまり、〈厠〉を探ってみるべきかと」
「ウウム。よくやった、と謎を解いたことは褒めよう。しかし」
忠実は摂関家に生まれ育った典雅な顔を歪めた。
「我が国の至宝、〈八葉鏡〉を、よもやそのような処に隠すとは──」
「危ないっ!」
一瞬だった。夜目に長けた成澄だけがその影を看破した。
随身の掲げる松明のせいで周囲の闇は一層濃く凝り固まっている。その濃密な闇の内より、綾目もつかぬ同色の影が走って、鈍い光が閃いた。
成澄は身を捩って忠実を突き倒し、抜刀した。抜き打ちに影を薙ぎ払った。
それが同時に行われたのだ
双子たちは動けなかった。
忠実に付き従っていた四人の随身も同様で、何が起こったのか全くわかっていない。
闇の中で、襲った黒い影と、襲われた忠実の喘ぐ声が奇妙に交錯した。
「グッ」
「ううっ……」
遅まきながら、ここで漸く随身たちが地に倒れている主人の元へ駆け寄った。
「あ! 忠実様?」
「忠実様っ!」
「一体──」
成澄の怒号が響く。
「賊じゃ! 見えぬか? 忠実殿に斬りかかったぞ、今!」
双子たちも目を瞠った。
「え?」
「何だって?」
「おのれ──」
成澄は逃げ去ろうとする影を追って走り出している。
「手応えはあった! 奴も傷を負っている……」
叡山の緑滴る闇の中、微かに血が匂った。
「成澄!」
田楽師兄弟も加勢すべく駆け出した。
「灯りは?」
「いらぬ! 却って闇が濃くなるわ! このまま追うぞ!」
目が慣れて来ると双子たちにも成澄が追う影の姿が朧ろげながら見えてきた。
黒尽くめの風体。だからあれほど闇と同化していたのだ。
実際、近づくまで全く気配を感じなかった。
もし、成澄があの場にいなかったなら賊はまんまと前関白を斬り殺していたはず。咄嗟に突き倒したことで凶刀は忠実の腰を掠っただけで済んだ。
一方、襲撃者の方は──
「そやつのどこを斬った、成澄? 手応えがあったと言ったな?」
走りながら婆沙丸が訊いた。
「場所はわからぬ。クソッ、もう少し踏み込んでいたなら二つにぶった切ってやれたものを……!」
「しかし」
あくまで狂乱丸は冷静である。
「前関白を狙うとは大それた輩もいるものよ。しかも、叡山……この聖域でかよ?」
追跡は虚しく終わった。
暫くして、賊を見失った三人は消沈して常行堂の前へ引き返して来た。
「怪我のほどは如何です?」
既に忠実は随身等に支えられて牛車に座していた。左腰を布で覆っている。
「大事無い。浅傷じゃ。いや、成澄、その方がいてくれて命拾いしたぞ!」
前関白は手放しで成澄を讃えた。
「やはり、本物の衛府官人は違う! 検非遺使は〈容貌第一〉と言うが、今日という今日は身に滲みてわかった! おまえは見た目だけではないの?」
「ここは急ぎご自邸へ。私がお送りしましょう」
負傷した忠実と同じくらい血の気の失せた顔で検非遺使は言った。軽口に答える余裕はなかった。
随身の一人を振り返って、
「その方、早駆けにて先に戻れ。薬師の手配をしておくのだ」
「あくまでも穏便にな」
忠実が付け足した。
急遽、忠実を護衛して行くこととなった成澄と別れて、田楽師兄弟も家路についた。
「長い一日になったな。ひどく疲れた……」
松明を持つ手も重そうに婆沙丸が呟く。
「そうだな。前関白の出現と賊の襲撃は我等の今日の予定には入ったなかったものな」
「その上、帰りは徒歩ときた。成澄も成澄じゃ。馬くらい用意してくれても良かろう? 俺はともかく兄者のためにさ。案外、薄情な男よ」
わざとらしく愚痴る弟を兄は宥める。
「それほど動転していたってことさ。前関白が目の前で襲われたんだぞ。いくら成澄が剛毅だからって──うん?」
狂乱丸が突然、足を止めた。
「どうした、兄者? 馬糞でも踏んだか?」
「……血の匂いがする」
この兄の嗅覚には定評がある。
不思議なことに双子でありながら、そして、どこからどこまでも似通っていながら、こと〝匂い〟に関しては弟は全くダメだった。
果たして。
杣道から外れた草叢の中。楊梅の樹の下に蹲っている者がいた。
女だった。
上臈ではない。長い髪を背中で束ねて、丈の短い小袖、足には粗末な草履。
闇を透かして剥き出しの白い脛と腕がくっきりと浮き上がって見える。
血は女のその二の腕から滴っていた。
「おい、どうした? 傷を負うているな?」
松明を翳しながら婆沙丸が質す。
「はい。無様な真似をいたしました」
思いの他、若い声が返って来た。
「毒蛇に咬まれたのでございます。あれほど……扱いには慣れているというのに……」
「蛇?」
兄弟、ハッとして息を飲む。
女の傍らに膨らんだ袋があって、それが絶えずモゾモゾ蠢いているではないか。
その不気味な蠢動の正体こそ──
「おまえ……蛇を集めているのか?」
☆衛府太刀 正式には毛抜形太刀
六衛府官人の武官だけが佩帯したそうなので成澄の剣も多分……




