水の精 8
「本当に狂ったな、婆沙丸? 昨日までは橋で会った娘とやらを捜し回っていたと思えば、今度は〈水の精〉だと? おまけに、何だ、その格好は……」
貴人の装束をつけた弟に狂乱丸はそれこそ狂乱の体で詰め寄った。
「田楽師の誇りは何処へやった? 立烏帽子だと? 我等の髪では髻も結えないのに……!」
この時代、身分と装束は不可侵の掟だった。
それぞれ身分や生業に応じて装束が定められていてそれを破る者などいなかったのだ。 常日頃、煌びやかな綾羅錦繍の衣装を誇る田楽師も、傀儡師や声聞師と同じ〈異形の輩〉。
一生、童形を解けぬ身分──つまりは一人前の〈人〉としてみなされない最下層の族なのである。
だが、兄の罵倒も何処吹く風。日が暮れるのを待って婆沙丸はその装束で夜の都へと彷徨い出て行った。
糸のように細い弦月の夜である。
月は己の貧相さを恥じてか、しょっちゅう雲間に隠れたがった。
件の〈あははの辻〉を廻ってから、大内裏の南面する三つの門をうち過ぎる。
美福門……朱雀門……皇嘉門……
そのまま進んで西洞院に至り、そこから今度は中御門大路へと上がった。
「もし……」
呼び止められて振り返る。
暗闇の中、薄らと浮かび上がった影が一つ。被衣姿の女人だ。
刹那、婆沙丸は、森羅万象、天地神明、悉くの神仏に礼を叫びたくなった。
闇の中、自分の袖を引いたその女こそ、紛うことなく、一条橋で出会ったあの娘──
「もし、若殿? 私と同道なさいませぬか?」
婆沙丸の口を突いて出た言葉は唯一つ。
「会いたかったぞ!」
「あ、おまえ様は、あの時の?」
娘は頭を振って素早く四方を窺った。
宛ら、二人のこの邂逅を誰かに見られるのを恐れる風。でなければ、闇に潜む何者かを気にかけているのか?
それから、むんずと婆沙丸の腕を掴むと駆け出した。
「こっちへ……!」
勿論、婆沙丸は抗わなかった。
そもそも、自らこの計画を立てた時から覚悟はできていた。
娘と再び会うためなら命を賭しても構わない。そして、満願成就、娘と会えた暁には命など惜しむものか!
婆沙丸は娘が〈水の精〉だと薄々にせよ悟った時から己の命を差し出すつもりだったのだ。
何処をどう走ったものやら。
娘は手を引いたまま婆沙丸を一層濃い暗がりへと連れ込んだ。
被り慣れない烏帽子を打ち、優雅な狩衣の袖を掠って、ガサガサ枝が鳴り、カサカサ薮が軋む。
(ここは森だな? しかし、都にこんな森などあったろうか? それとも……)
この娘は〈水の精〉だから? 物怪だから?
俺は誘われてとっくに異界へと連れて来られたのか?
夢とも現とも判然としない、あやふやな思いとは裏腹に、自分の手首を掴んだ娘の掌の熱が、これはくっきりと婆沙丸に伝わって来る。
「ここなら大丈夫」
そう言うと娘は手を離し、慣れた動作で被衣を地面に広げた。
ポカンとしている婆沙丸をそっと突いて座らせると躙り寄って胸に頭を寄せる。
実際、婆沙丸が明瞭に記憶しているのはここまで。
後は頭ではなく体が動いた。
(まずは諸々の話をしなければならない。)
婆沙丸は予め手順を考えていた。今回の連続する貴人殺害の真相を見極めるためにも、雅な装束を貸してくれた公卿の息子に宣言した通り、娘に会って真っ先にやるべきことは〈水の精〉の正体の確認……執拗に繰り返される残忍な殺生の理由……
だが、ええい! そんなのは後だ!
この娘に二十日もの間、想い焦がれ、会いたい会いたいと念じて来た婆沙丸である。
少年の血は沸騰して、堰を切ったように迸った。
最初は娘に導かれるまま無我夢中。やがていつからか、思う存分、大胆不敵に振舞った。
娘は柔らかく、暖かく、そのくせせせらぎのように潤っていて、婆沙丸は自分が遠い遠い淵、深い深い淀みに運ばれる心地がした。
すっぽり嵌って、身動きできない甘美な渦の底へ──