表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/222

水の精 8

     


「本当に狂ったな、婆沙(ばさら)丸? 昨日までは橋で会った娘とやらを捜し回っていたと思えば、今度は〈水の精〉だと? おまけに、何だ、その格好は……」

 貴人の装束をつけた弟に狂乱丸はそれこそ狂乱の体で詰め寄った。

「田楽師の誇りは何処へやった? 立烏帽子(・・・・)だと? 我等の髪では(もとどり)も結えないのに……!」

 この時代、身分と装束は不可侵の掟だった。

 それぞれ身分や生業(なりわい)に応じて装束が定められていてそれを破る者などいなかったのだ。 常日頃、煌びやかな綾羅錦繍の衣装を誇る田楽師も、傀儡師や声聞師と同じ〈異形の輩〉。

 一生、童形を解けぬ身分──つまりは一人前の〈人〉としてみなされない最下層の(うから)なのである。

 だが、兄の罵倒も何処吹く風。日が暮れるのを待って婆沙丸はその装束(なり)で夜の都へと彷徨い出て行った。


 糸のように細い弦月の夜である。

 月は(おのれ)の貧相さを恥じてか、しょっちゅう雲間に隠れたがった。

 件の〈あははの辻〉を廻ってから、大内裏(だいだいり)の南面する三つの門をうち過ぎる。

 美福(びふく)門……朱雀(すざく)門……皇嘉(こうか)門……

 そのまま進んで西洞院(にしのとういん)に至り、そこから今度は中御門(なかみかど)大路へと上がった。

「もし……」

 呼び止められて振り返る。

 暗闇の中、薄らと浮かび上がった影が一つ。被衣(かづき)姿の女人だ。

 刹那、婆沙丸は、森羅万象、天地神明、(ことごと)くの神仏に礼を叫びたくなった。

 闇の中、自分の袖を引いたその女こそ、紛うことなく、一条橋で出会ったあの娘──

「もし、若殿? 私と同道なさいませぬか?」

 婆沙丸の口を突いて出た言葉は唯一つ。

「会いたかったぞ!」

「あ、おまえ様は、あの時の?」

 娘は頭を振って素早く四方を窺った。

 (さなが)ら、二人のこの邂逅を誰かに見られるのを恐れる風。でなければ、闇に潜む何者かを気にかけているのか?

 それから、むんずと婆沙丸の腕を掴むと駆け出した。

「こっちへ……!」

 勿論、婆沙丸は抗わなかった。

 そもそも、自らこの計画を立てた時から覚悟はできていた。

 娘と再び会うためなら命を賭しても構わない。そして、満願成就、娘と会えた暁には命など惜しむものか!

 婆沙丸は娘が(・・)水の精(・・・)だと(・・)薄々にせよ悟った時から己の命を差し出すつもりだったのだ。


 何処をどう走ったものやら。

 娘は手を引いたまま婆沙丸を一層濃い暗がりへと連れ込んだ。

 被り慣れない烏帽子を打ち、優雅な狩衣の袖を掠って、ガサガサ枝が鳴り、カサカサ薮が(きし)む。

(ここは森だな? しかし、都にこんな森などあったろうか? それとも……)

 この娘は〈水の精〉だから? 物怪(もののけ)だから?

 俺は誘われてとっくに異界へと連れて来られたのか?

 夢とも(うつつ)とも判然としない、あやふやな思いとは裏腹に、自分の手首を掴んだ娘の掌の熱が、これはくっきりと婆沙丸に伝わって来る。


「ここなら大丈夫」

 そう言うと娘は手を離し、慣れた動作で被衣を地面に広げた。

 ポカンとしている婆沙丸をそっと突いて座らせると躙り寄って胸に頭を寄せる。

 実際、婆沙丸が明瞭に記憶しているのはここまで。

 後は頭ではなく体が動いた。

(まずは諸々(もろもろ)の話をしなければならない。)

 婆沙丸は(あらかじ)め手順を考えていた。今回の連続する貴人殺害の真相を見極めるためにも、雅な装束を貸してくれた公卿の息子に宣言した通り、娘に会って真っ先にやるべきことは〈水の精〉の正体の確認……執拗に繰り返される残忍な殺生の理由……

 だが、ええい! そんなのは後だ(・・・・・・・)


 この娘に二十日もの間、想い焦がれ、会いたい会いたいと念じて来た婆沙丸である。

 少年の血は沸騰して、堰を切ったように(ほとばし)った。

 最初は娘に導かれるまま無我夢中。やがていつからか、思う存分、大胆不敵に振舞った。

 娘は柔らかく、暖かく、そのくせせせらぎのように潤っていて、婆沙丸は自分が遠い遠い淵、深い深い淀みに運ばれる心地がした。

 すっぽり嵌って、身動きできない甘美な渦の底へ──



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ