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《雫ノ記》19


 さざら丸は姫の首を掻き抱いたまま、池の中央へと曳いて行った。

「クソッ!」

 成澄も弓箭、大刀を投げ捨てて、追って水中へ飛び込んだ。

 姫は既に気を失っているのか抗う様子もない。(うちぎ)が剥がれて流れ去り、黒髪は藻のように揺れて、見る見る水中深く沈んで行く。

「待て、さざら! 姫を返せ……!」


 水中はさざら丸の世界だった。

 太刀打ちできないのはわかっていた。

(だが、何としても姫は、姫だけは救わねば──)

 成澄は水を掻き、水を掻い潜って、ひたすら後を追った。

 何とかさざら丸に追い着くとその直衣(のうし)に手をかけ、満身の力を込めて姫を奪い返そうとした。だが、水の中では流石の検非遺使尉(けびいしのじょう)も思うようにはいかない。

(……か、体が全く……動かない……)

 ユラユラ揺蕩うて、宛ら、田楽を舞っているようだ。危うい高足の舞いもかくや──

 大納言の姫を取り戻そうという、その狂おしい思いだけが空回りして、手足は面白おかしい所作を繰り返すばかり。

(だ、だめだ、息が……詰まる……)

 さざら丸が水中で薄く笑うのが見えた。

(こんな俺を見たら……狂乱丸や婆沙(ばさら)丸も笑うだろうな?)

 途端に、成澄の耳に都で一番と評される田楽師兄弟の打ち鳴らす楽の音が賑やかに聞こえて来た。

 そうか? やっと戻って来たのか、おまえたち? 

 待ちかねたぞ?

 おお! 確かに聞こえる! この懐かしい響き……

 編木子(びんざさら)に、鼓に鉦、太鼓、銅拍子、笛……

(笛?……)

 笛の音が聞こえない。

(俺の、笛── )

 いつ何時(なんどき)であろうと肌身離さず持ち歩いている自分のそれ(・・・・・)──

 考えるよりも早く懐から抜き取って、さざら丸の白い喉めがけて突き立てた。

「────!」

 刹那、姫を固く抱えていた水(さら)え人の腕が解けた。

 成澄は抱え取って、無我夢中で浮上する。紅蓮の水泡がブクブクと泡立って体を包んだ。それを、空いている方の手で薙ぎ払うようにして、なおも上昇しようとした時、成澄はそれを見たのだ。

 赤い泡を吹きながら沈んで行くさざら丸。

 それより、更に下、水の底──

 暗い水底に水中花のように、揺れている塊が一つ、二つ……三つ、四つ……七つ……

 それが何であるか(・・・・・・・・)、目の良い成澄にはすぐわかった。

 いや、目の良さのせいばかりではない。

 成澄は、過去に一度、天承元年の〈十種供養〉を実際に目の当たりにしていたから──


 春は弥生。

 花の匂い、白檀の香り、澄み切った蒼穹、空の色……

 風には御室(おむろ)の山桜が混じっている……

 その花びらよりもなお白く、霞のような幡を高々と掲げて天童が進んで行く。

 導かれるのは聖衆……薬王・勇施の二菩薩と十羅刹女に鬼子母神……

 そして、屈強な二天、毘沙門天と持国天だ……


 今、水底に揺れる二天の、その内の一人の顔を成澄はよく知っていた。

「……清顕!」




 さざら丸が造ろうとしたのは〈水中の来迎図〉であった。

 この凄まじくも奇妙な衝動が、いつ、水浚え人の心に(きざ)したのか、今となっては知る術はない。

 当のさざら丸は喉を突き破られた無惨な亡骸となって御室の池に浮かんだ。

 多分、父と慕う高僧の不遇の死を伝え聞いた時、心の堰が切れ、彼の内の鬱屈が一挙に噴出したのだろう。

 さざら丸の死体のみならず、その日の内に池の底は浚われて犠牲者たちも全員引き上げられた。

 最も新しい犠牲者であった三善清顕は未だ生きているがごとき風貌だったのが、成澄の悲しみをいや増した。

 とはいえ、さざら丸が最後の仕上げに、〈普賢菩薩〉として欲した四条の姫君は無事、父の大納言の元へ返すことができた。


 さざら丸は──彼自身の言葉を借りるなら──この歪んだ〈追善供養〉のために、まず三人の娘を御室の池に沈めた。それは遠く紀州は根来(ねごろ)の地で覚鑁が息を引き取ってすぐ、一月初旬のことだ。 この娘たちは皆、水浚えの際、目に止めていた市井の容色優れた女たちだった。

 四月になって、〈二天〉となすべき屈強な美丈夫を物色した結果、検非遺使の高階康景(たかしなやすかげ)に白羽の矢を立てた。この誠実で仕事熱心な検非遺使が遊女・樟目(くすめ)の相談に乗ってやっていることを知り、この樟目に頼んで誘い出し、まんまと二人とも供養物となした。

 さざら丸は殺した順に池の底に据えて行ったのだが、検非遺使の場合は、いったんその装束を剥いで利用するのを忘れなかった。それを身に纏って稚児の福寿丸と会ったのだ。

 割子の懸想文に興味を覚えた福寿丸は、実際に会って、凛々しい蛮絵装束のさざら丸に一目で心奪われてしまった。

 福寿丸の叫んだ『羽林様!』は蛮絵の獣文様を見間違えて、検非遺使と近衛を取り違えたためと思われる。文様は検非遺使は〈熊〉、近衛は〈獅子〉である。

 そうして、数度の逢瀬の果てに福寿丸は〈天童)として水底に沈んだ。

 その後、さざら丸は四条の橋の上で顔を見る機会を得た大納言の姫を、自らの美しき来迎図の最高位〈普賢菩薩)と思い定めたのである──



「何故、私は免れたのでしょう?」

 後日。

 七月に至って、田楽屋敷を訪れた際、迦陵丸はそう言って頻りに首を捻った。

「だって、さざら丸が成澄様の随身になってから、私はあんなに身近にいたわけだから襲おうと思えばいつでも容易だったはず」

「〈天童)は〝片具〟でいいと判断したんだろうよ」

 〈十種供養〉や〈来迎図〉に置いて、天童は一人でも許されるしきたりがあった。その場合を〝片具〟と称した。これについては、実は早い段階で橋下の陰陽師・有雪が言及している。勿論、偶然だろうが。

「それよりも、さざら丸は〈二天〉を揃えたかったのだ。自分の〈水中来迎図〉を完璧にするためにな」

 結果、さざら丸が狙いをつけたのは清顕だった。先に獲得した高階と甲乙つけがたい屈強な美丈夫ぶり。まさに〈二天〉に打って付けだと。

 成澄は唇を噛んだ。悔やんでも悔やみきれない。

 大納言四条隆房邸の警備に就いていたあの日、さざら丸は東門を守護していた清顕に何食わぬ顔で接近した。油断させて、絞殺した。

 何よりさざら丸が巧みだったのは、その後の処置である。

 さざら丸は時至るまで清顕をそのまま東門に据え置いたのだ。その後、巡察した成澄は迂闊にも、全く異変に気づかなかった。

 あの時、もっと近づいて声をかけていたら良かった。そうしたら、自体は少しは変わったろうか?

 部下に対する篤い信頼と思いやりが仇となった。


   ── あいつなら大丈夫だ。任せられる。

   ── フフ、疲れて居眠りをしているのだな? そっとしておいてやるか……


 そう言えば、清顕はよく俺に苦言を呈していたっけ。


   ── あなたの優しさは、時に任務の足枷(あしかせ)になります、ご注意を! 成澄殿? 


 ああ、本当にな、清顕……






 

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