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《雫ノ記》18

「やめろ! これ以上……馬鹿な真似はよぜ! さざら丸!」

「……さざら丸(・・・・)だって?」

 黒馬の鞍の後ろで迦陵丸は訝しげに目を瞬いた。

 水に浸かっているとはいえ、降り注ぐ朝陽の下、眩いばかりのその人は貴人のいでたち──立烏帽子、桜の直衣(のうし)二藍(ふたあい)指貫(さしぬき)──絵巻から抜け出たような麗しい公達ぶりである。なるほど、これなら大納言の姫君が心奪われても何の不思議もない。

「馬鹿な。よく見ろ!」

 成澄は食いしばった歯の間から吐き捨てた。

「あれは全て俺の装束だ!」

「ええっ?」

 馬から飛び降りると成澄は水の中のさざら丸に向かって叫んだ。

「さざら! おまえが貴人に化け、姫を(おとな)い出したのは、俺が田楽屋敷に居を移してからだな? 運ばせた俺の装束を従者という立場を利用して、おまえはこっそり盗み取ったのだ。

 そうして、それを纏って夜毎、姫の元に通った。姫を騙し、遂にはこうして──誘い出すために」

何だって(・・・・)?」 

 迦陵丸は驚きの余り、蔵の上で身動(みじろ)ぎもできない。

 尤も、驚いたと言えば、空が白み、成澄が馬を急がせる道が見え始めてから、ずっと少年の頭は混乱しっ放しだった。


   ── この道は我が寺への道? では、検非遺使が目指すのは御室(おむろ)仁和寺(にんなじ)……


「で、でも、まさか、水(さら)え人が貴人の姿になる(・・・・・・・)なんて……そんなこと……」

 所詮、源姓の少年には理解できないことだった。

 この時代、出自と装束は絶対不可侵の掟、越えられない壁、永久不滅の(ことわり)である。

 庶民、貴人、舎人、随身、僧侶、武者、芸人、そして、非人……

 生まれ落ちたら今生、変わることのないもの。

 それが、身分であり、その身分を一目で顕す装束こそ、絶対の真実だった。

 だが、現実に即して言えば、同じ身体を有する〈人間〉である以上、成り代わることは可能なのだ。

 いったん別の装束を身に纏えば、その瞬間から、容易に別人に成り得る(・・・・・・・)。 

 身分を超越できる(・・・・・・・・)

 ただ、敢えて誰も、その禁忌を犯すものがいなかったまでの話──

「そ、それにしても……(もとどり)も結うことを禁じられている非人が? その頭に貴人の烏帽子をつけようなんて大それたこと……一体全体、どこから思いついたんだ?」

「そんなに不思議か 天童殿? 大日如来が、同時に阿弥陀如来であるのなら、水浚え人が公達であってもちっとも可笑しくはあるまいよ」 

「さざら丸──」

 検非遺使以上に、御室の稚児は仰天した。

「な、な、な……何と言う罰当たりなことを……!」

「おや? 私の言葉のどこが間違っている? 大日如来が西方極楽浄土では阿弥陀如来の姿を採って顕れるのだろう? だが、その御身に違いはない。私もそうだぞ!

 たとえこのいでたちでも、内側の自分を変えたつもりはない。外見で惑わされるなら──それは惑わされる方が悪いのだ」

「そんな──」

 たじろぐ稚児を水浚え人は嘲笑った。

「私は覚鑁(かくばん)様の教えを(じか)に聞いた者! 誰よりも賢くて正しいあの御方が真実を私に教えてくださった!」

「ならば、その覚鑁がこんな真似をしろと言うたのか? 娘を惑わし、拐かす──こんな卑劣な真似を?」

「何だと?」

「さあ、姫を放せ!」

 卒然と言い放って成澄はさざら丸へ躙り寄った。

「方便なら後でゆっくり聞いてやる!」

「我が君?」

 ここに至って、流石に姫も状況の異様さに気づいたらしい。身を預けた若者と、(こわば)った顔で近づいて来る屈強な検非遺使を交互に眺めやる。

「いくら成澄様とて……あの御方を汚す言葉は許さない!」

 白皙の面に朱が散る。さざら丸の形相が一変した。

「覚鑁様は賢いばかりでなく、どれほど慈愛深い御方であったか、おまえ等は知らぬな?

 覚鑁様は、俺の父が貴人であること、そして、その貴人の父がおぞましい殺生戒を犯した下種(ゲス)であること、全てご存知だった。俺が包み隠さず明かしたのだ。何故あの夜、俺が池で溺れていたか、母が水底に沈んだのか、その本当の理由(わけ)を知った時、覚鑁様は何とおっしゃったと思う?」

「さざら丸──」

 水浚え人の面貌は恍惚で金色に照り輝いている。

「『父を責めるな』だ。そうして、こうもおっしゃった。『父の罪は全て、この覚鑁の罪である』……!」

 それは同じこの池の端、水の際で交わされたのだった──


 明日、高野山へ旅立つ若き僧・正覚坊覚鑁と水浚え人の少年の影が水面に揺れている。

 少年は信じられない言葉に耳を疑った。


   ── え? 今、何とおっしゃいました、覚鑁様?

   ── おまえの父の罪は私の罪だ。

       だから、責めるならこの私を好きなだけ責めるが良い……



「覚鑁様は俺の畜生道に堕ちた父を庇い、その罪さえ御自分が担うと宣言された!

 それを聞いた時の俺の気持ちは言葉になどできない。俺は一瞬で救われる心地がした。

 こう言えばいいか? 紫雲棚引き、千の花が降る西方十万億土の彼方に至る心地と?

 あの時、俺は自由になったのだ! 解き放たれたのだ! 俺の内側に巣食っていた、煮え滾る実父への憎しみも、置いて行った母への恨みも、天涯孤独の寂しさ……情愛の渇きも……

 それら全て一瞬にして洗い流された……!」

「さざら丸?」

「まして、父の罪を自分の罪とおっしゃることは、それは、御身が父であると言うのと同じ。

 以来、俺は外道の父に代えてあの御方を真実の父としてお慕いして来た。

 あの御方のおかげで俺は、何処にいてもどんな境遇でも、満ち足りて心安らかだった。清浄に暮らして来たのに。──だが、その覚鑁様は(・・・・・・)どうなった(・・・・・)?」

 さざら丸の見開かれた瞳は真っ青に耀いて、もはや人の色ではない。澄み過ぎている。かつてその澄んだ色を愛でた成澄ですら戦慄した。

「覚鑁様は虐め抜かれて……詰られて……石持て追われた。遂には不遇の内にお亡くなりになった。いや、違う。あれは──殺されたのだ! おまえ等全ての、無知で恩知らずの下種どもに弑逆(しいぎゃく)されたのだ!」

「そ、それは違うぞ、さざら丸よ。おまえは誤解している。落ち着いて俺の話を聞け。迦陵丸、おまえからも覚鑁様の最期について正しく教えてやってくれ。先刻、俺に話したあれを──」

「無理だ……もう遅い……」

 稚児は激しく首を振って、

「どんな言葉もあやつには届かぬ。あやつは、とっくに……間境(まざかい)を超えているもの……」

「──」

 豪気を誇る成澄の背中を冷たい汗が流れた。

「わかったか、下種ども!」

 動きを失った岸辺の人間たちに向かって、水の中からさざら丸は叫んだ。

「だから、俺はやる! やり遂げるぞ! 誰にも邪魔はさせぬ、これは俺の──追善供養(ついぜんくよう)だ!」

 さざら丸は両の手を姫の首に巻きつけた。

「俺は本当に〈美しい国〉を造る! 覚鑁様も……母者だって……お喜びのはず……!」

「やめろっ── さざら丸!」





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