《雫ノ記》17
足が冷たくて、身震いして姫は目を開けた。
「我が君?」
見れば白白と夜が明けている。
戸外のこととて、流石に夜具代わりに掛けた袿だけでは寒過ぎた。
(さて。ここは何処でしょう……?)
物珍しげに姫は首を巡らせて周囲を眺めやった。
遥か連なる山々、乳色の天を射す塔や鐘楼……
(まあ! こんなに水の際だったとは……闇に中ではわからなかった……)
思えば、昨夜は息詰まるほど激しい一夜だった。
愛しい男に誘われるまま、そおっと生まれ育った邸を抜け出し、馬上揺られて深山へと分け入った。
だが、恐ろしいとは露ほども思わなかった。むしろ、この胸の高鳴りはどうだ? 愛する人と同行する、至上の喜びに打ち震えるばかり。
── このまま何処なりと
昨夜、囁いたその言葉に微塵も嘘はない。ああ、本当に、このまま何処なりとお供します……
それにしても──
その、〈愛しの君〉は何処?
「我が君?」
夜中、睦みあった草の褥から姫がゆっくりと身を起こすと、暁の光を浴びて愛しい公達その人が、池の中に佇んでいるのが見えた。
(……池の中?)
そう、我が君の腰より下はスッポリと水に浸かっている──
「ど、どうなさいました? 我が君?」
「思い出していたところです」
姫の問いかけに、公達は振り返って微笑んだ。
「私の母は私の手を引いてこの池に入って行きました。実は、その先に父がいて、やはりこうして、美しい直垂を水に濡らして手招きしていたからなのですが」
姫は小首を傾げて、
「我が君?」
「その時の父の言葉が忘れられない。『おいで』と父は言った。『美しい国へ行こう』。
私は怖かったのですが、母は微塵も抗わなかったな。ほら! それだ! ちょうど今、姫がされているようにウットリと夢見るような眼差しに、火照った手。握っていた母の手の熱を私は憶えている」
「はい?」
姫は足を縮めて撫子の袿を引き寄せた。だが、その瞳は、麗しの公達からけっして離そうとはしなかった。身動ぎもせず見つめ続ける。
「その火照りが伝染って──実際、あの日以来、私の身内で燠のように燃えていて困る。私は始終その熱に悩まされているのですが、こればっかりはどんなに水に浸かっても冷ませないのだ」
「何のお話でしょう? 我が君は何のことをおっしゃっているのです?」
「父の話です」
貴人の若者の照り輝く微笑。昇ったばかりの日輪が光背のごとく全身を縁っている。
「父は美しい公達でした」
そのことなら理解できる。頬を染めて姫は即座に頷いた。
「でしょうとも!」
「こうやって──貴人の装束を纏うと」
両袖を広げて、水鏡に映る己の姿を覗き込みながら若者は言うのだ。
「私は父に再会した気がしますよ。ほら、ここに、あの日私と母を誘った父がいる……」
端女だったに違いない母がどんなに身も心も投げ打って父に恋狂ったかよくわかるというものだ……!
「母はね、その日、父が参籠していると聞いて、私の手を引いて急ぎやって来たのです。私は、それまで一度も父を見たことはなかった。ああ、それから──あんな嬉しそうな母の顔も。来る道々、何度母は私に言ったことか。『おまえにお父様を見せてあげる。美しい貴人なのですよ』……
だが、その美しい貴人の父が、遥々やって来た私たち母子に与えたのは、死出の旅……!」
若者はほうっと息を吐いた。
「父は私たち母子が煩わしかったのでしょう。この世から消し去りたかった。その証拠に、父の死体はなかったものな? どんなに池を浚っても父はいなかった。私と母を水に引き摺り込んで──父は逃げたのだ!」
これはどういう歌でしょう? と姫は思った。
私の知らない物語の一つかも知れない。
けれど、一向に不快ではない。我が君は、声もまた玲瓏として素晴らしいから。
「父がそれを求めたから、母は喜んで従ったのかな? それとも、本気で、父の言う『美しい国』へ行けると信じたのだろうか? そこのところが私にはどうもよくわからない」
公達は水を割って岸に戻って来た。
池の畔でうっとりと自分を見つめている姫に尋ねる。
「あなたはどうです? 私が一緒に行こうと言ったら、私の〈美しい国〉へついて来ますか? そこが何処であろうと?」
「もちろん……!」
姫は豊かな黒髪を揺すってこっくりと頷いた。
漸く繋がった! 心が躍る! やっぱり夢は醒めてはいない。
昨夜来の甘美な夢は、ずっと途切れることなく続いているのだ……!
姫の心からは、ここは何処か、などと言う先刻までの些細な疑問は一瞬に消え失せて、視界は全て、水を迸らせて近づいて来る美しい男で塞がれた。
男は厳かにその手を差し伸べる。
「行きましょう。私の父が指し示したのは、この下……水の底……」
幾千の雫が燦めく白い手。
いつか何処かでこれと同じ光景を見なかったろうか?
やはり、こんな風に光がさざめいている水の際で?
そう、あれは橋の上?
つまり、前世──
姫は躊躇することなく、その懐かしい手に自らの沈香匂う小さな手を重ねた。
「お供します……何処なりとも……」
「そこまでだ! やめろ──っ!」
天地を斬り裂く雷にも似て、静謐な世界が鳴動した。
騎乗のまま突っ込んで来た検非遺使尉・中原成澄である。
☆十羅刹女イメージ転写。携える剣は仏具の一種、見つめる先には普賢菩薩が……




