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《雫ノ記》16


 元々、車宿(くるまやどり)には衛士を配してはいなかった。

 いったん通り過ぎたが、どうしてか気になって、戻って中を覗いた。

 そのまま成澄は凍りついたように立ち竦んでしまった。

「どうかなさいましたか?」

 異常を察して迦陵丸も入って来た。車宿の内に並んだ牛車の一台に検非遺使の目は釘付けになっている。

「これは──この車──」

 紛れもない。これこそ、去る五月二日、中納言邸へと急ぐ成澄と清顕が四条の橋の上で見たあの女車だた。ということは──

(待てよ、では、大納言・四条隆房の姫とは、あの日あの時、厨子を川に落としたあの姫君か?)

「いけないっ──!」

 一声叫んで、弾かれたように成澄は駆け出した。

「あ! 成澄様? ……どちらへ?」

 迦陵丸もすぐ後を追った。

「お待ちください……!」

 成澄は欄干を飛び越えて主殿の渡殿に上がると一目散に東の対屋(たいのや)へ走った。

「成澄様? 一体──」

「気をつけろ、迦陵丸! 水が零れている! ここ……そこにも……滑るなよ!」

「え? え?」


 姫の自室と聞く東の対屋。

 襖障子を引きちぎるようにして開け放った成澄。

 姫の命で、女房たちは夜間は主殿の南(ひさし)の方へ引き下がっているそうで、もとより人影はない。しかし、当の姫は何処だ?

 壁代(かべしろ)御簾(みす)、構わず肩で突っ切って、御帳台(みちょうだい)へと走る。 ※御帳台=四角に柱を立て帳を垂らした台、寝台

「御免!」 

 果たして、そこも空っぽだった。

「やられたっ!」

 成澄はギリギリと歯噛みした。

「これは何事です? 中原殿? ウワッ、たっ……!」

 襖の手前、もんどり打って転ぶ音がした。

「だ、誰だ! こんな処に水を撒いたのは?」

 やっと起き上がって、腰を擦りつつ入って来た父の大納言・四条隆房は(もぬけ)(から)の部屋を見て言葉を失った。

「姫は何処だ? まさか──」

「やられました……この成澄、まんまとしてやられた……!」

「し、しかし、今宵、邸はあれほどの衛士が、それこそ蟻の這い出る隙間もないほど取り巻いているではないか? それを……それを……?」

 濡れた指貫(さしぬき)に蒼白の顔。

「では、何か? 例の通って来る男に……我が姫が……さ、さ、拐われた」

 そこまで言って、大納言は失神した。

 介抱は三三五五集まって来た女房たちに任せて、成澄は再び身を翻して駆け出した。


 大小全ての門に走り、不審な者が通らなかったか質すと、皆一様に異常はないと首を振った。

 最後の東門に至った時、そこに、最も信頼する検非遺使の姿がなかった。

「……清顕?」

 そこだけがぽっかりと周囲の闇と同じ色。(ほら)のごとく口を開けている。門を塞ぐべき屈強の検非遺使の姿が見えない。

 検非遺使もまた、その黒衣よりも濃い闇に吸い込まれたか?

「!」

 微かな血の匂いを成澄は嗅ぎ取った。



「迂闊だった……俺としたことが……」

 振り返って、遠く庭の池に浮かぶ竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船を睨む成澄。

 だが、落胆している暇はない。

「誰ぞ、馬を引けっ!」

 放免の一人がすかさず黒馬を引き渡す。成澄は仔細構わずそれに飛び乗った。

「お待ちを! 私も参ります!」

 砂子を蹴散らして駆け寄ったのは迦陵丸だ。

 一瞬の逡巡の後、成澄は稚児の細い腕を掴んで鞍に引き上げた。

 時ここに至って、成澄にはどうしても(・・・・・)この稚児に聞いておきたいことがあった。

 時間がない。拍車して、問う。

「言え、迦陵丸! 軽かった割子(・・・・・・)を、おまえはどう思った?」

「──」

 成澄の背に少年の息を呑む音が伝わった。

「俺は、その割子の話を聞いた時、引っかかるものがあった。賢いおまえのこと。おまえもハナから気づいていたな?」

 おまえを責めているのではない、と幾分声を和らげて検非遺使尉(けびいしのじょう)は続ける。

「これは俺の失策なのだ。俺がもっと早く──不審に思った時点で問い質しておくべきだった。だから、言え、言ってくれ、迦陵丸。おまえ、最初に掘り当てた軽い割子(・・・・)をどう思った? その中身について、おまえは何だと?」

「……手紙だと」

 遂に稚児は答えた。

「誰か懸想文だとすぐわかりました。だって、あの軽さなら」

「やはり──」

「でも、私は今更関わりたくなかった。その手の、恋の鞘当(さやあ)てはウンザリだ。だから、埋め戻したんだ」

「そして? その結果、福寿丸がそれを得た」

「でも、あいつなら──あいつだって、適当にあしらうと思ってた。みすみす厄介事を背負い込むはずないんだ!」

「だが、そうではなかった?」

「そのことが私には今でも信じられない。たかが歌一つでノコノコ誘いに乗るなんて」

 思わず成澄は振り返って稚児の顔をまじまじと見つめた。

「待て。と言うことは──おまえ、中の文まで(・・・・・)読んだのか?」

「最初の部分だけ」

 迦陵丸は認めた。

「でも、大したことは書いてなかったですよ。そう、大津皇子の歌が引用されてただけで。あんなの何だって言うんだ?」

「おまえが心を動かされなかったのは御仏のご加護だったのだろうよ」

 それが成澄にとって精一杯の慰めの言葉だった。

 件の割子を最初に掘り当て、そして埋め戻したことで、友人に災厄が及んだのを少年がどんなに悔やんでいるか……

 蛮絵の強装束にしがみつくその腕の強さが物語っている。

(福寿丸の身に何かあったらどうしよう……私のせいだ……)

 日夜襲い来る不安と後悔の念。それ故、稚児はこうも必死に──大阿闍梨に懇願してまで寺を離れ、天童探しに奔走した。


   愛別離苦……無去無来……


 大切な人を失う辛さは、成澄もまた、痛いほど知っている。

「今度は私が聞く番です。成澄様、一体、成澄様は何処へ向かっているのです?」

 疾走する馬上、少年は風に負けまいと声を嗄らして叫んだ。

「福寿はどうなったとお考えです? あいつは大丈夫ですよね? それから、大納言の姫や……清顕様は何処に? お教えください! 成澄様はとうに全てがおわかりなのでしょう?」

「──」

 とう(・・)にではなかった。成澄も今、漸くわかりかけてきたところなのだ。

 そして? 目指すとすればあそこ(・・・)しかない……!

(今一度、整理して考えてみろ、成澄!)

 手綱を操りながらもどかしい思いで己を叱咤する。

 手紙を割子に入れたことといい、そもそも、〈割子遊び〉などと言う、寺内の行事を熟知している者でなければ今回の一連の行動は不可能だ。

 寺内の事情に精通していて、稚児を誘い出せる文の書ける者。神仏の知識が豊富で、古い和歌に詳しく、〈羽林の殿御〉……つまり、近衛の若者と見紛う貴人のいでたち。

 ここで注意しなければならないのは、近衛と検非遺使は混同しやすいということ。両者はともに蛮絵の獣文様である──

 一方、最近通って来るようになった〈麗しの君〉に恋した大納言の姫は、四条の橋の上で逗子を落としたあの女車の主だった……!

 そうして、今夜、姿を消したのはその姫(・・・)と清顕である。

(いや、待て、いなくなっているのは姫や清顕だけではないぞ?)

 既に天童が一人、市井の女が四人、そして、屈強の検非遺使・高階康景も……

 今回の一連の騒動で、〈天童失踪〉とそれ以外(・・・・)の行方不明者を分けて考えるべきだと指摘したのは清顕だった。が、俺は、どこかで全て繋がっているように思えて仕方なかった。

「迦陵丸!」

 再び成澄は叫んだ。

「割子の中の懸想文に書かれていた歌とやら、教えてくれ」

「『あしひきの 山の雫に(いも)待つと 我れ立ち濡れぬ 山の雫に』です」

 雫、雫、しずく、またしても……!

 そも、今度の話には、その始まりから水滴が散りばめられている。

 成澄は歯噛みした。

 橋上の雫……姫が連れ去られた邸に点々と散華していた雫……

 そして、遡って、天童が誘い出されたのも雫の歌とは──

「そういえば」

 背中で迦陵丸が暗い声を発した。

「『山の雫』を詠ったこの皇子の姉君もまた、水滴の歌を詠んでいますね?」

「ああ」

 成澄も陰鬱に頷く。

「『我が背子を 大和へやると小夜更けて (あかとき) 露に我れ立ち濡れし』……だろ?」

 まさに、この水滴こそ不吉の極みだ。

 何故なら、斎王・大伯皇女(おおくのひめみこ)が露に濡れて見送った弟は再び生きて帰れなかった……!

 そして? 俺にとって弟に等しい清顕よ……!

「クソッ!」

 成澄は鞭を鳴らした。

 清顕は、姫を拐う賊に気づいて、それを阻止しようと追って行ったのだ。

 今はそうであることをひたすら祈るばかりだ。


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