《雫ノ記》15
ゆっくりとだが確実に時は過ぎているらしい。
やがて漆黒の闇が広い邸内に染み出す頃──
予め、成澄は大納言に願い出て燎は極力控えさせていた。
これも成澄の策略の一つ。
衛士たちは日頃の鍛錬で常人より遥かに夜目に長けている。今宵、梅雨明けの空に雲はなく、弓張り月の光で自分たちには十分だから、この暗闇を味方として、ノンキにやって来た妻問い男を取り押さえる腹づもりだった。
子の刻に至って、これで何回目かになる邸内の巡察に立った。 ※子の刻=午前0時頃
迦陵丸を連れて、中門を経て東門へ近づくと、清顕が門に寄りかかっているのが見えた。
成澄は思わず微笑んだ。
(清顕も疲れているんだなあ……)
転寝をしているのだ。さもなくば、あのきちんとした男があんな姿勢を見せるはずはない。
急に脚を止めた成澄の背中に勢い良く迦陵丸がぶつかって来た。
「わっ? 驚いた!……ど、どうしたんですか、急に立ち止まって。東門の方で何か?」
稚児は検非遺使とは違い全く夜目が利かないらしい。
「いや、見たところ何も変わりはない」
成澄は新米の検非遺使をもう暫く休ませてやろうと思った。
「ここはもういい。次へ行くぞ」
庭を横切ろうとした途端、、聞き慣れない音を耳にして二人は思わず顔を見合わせた。
「あれは──何の音です?」
「──?」
その音のした方、泉殿の辺りへ急ぎ、走る。
音の出処はすぐわかった。
日中、自由に池を泳ぎ回っている水鳥たちは、夜半、泉殿の下で互いに体を寄せて眠るのだが──
その水鳥たちの羽音だった。池の端に舫ってある船が風に揺れたのに驚いたらしい。
「それにしても、見事な庭ですよね? 仁和寺の庭園も素晴らしいけど、ここも、どうして、中々負けていない」
砂子が敷き詰められた庭……鑓水が流れ込む勇壮な池……
目を凝らして見渡しながら迦陵丸が呟いた。
「確かにな」
舫ってある船がまた凄い。龍頭鷁首のそれである。
龍と鷁の頭をつけた二隻で一対のこの船で大納言は頻繁に舟遊びをしているのだろう。
だが、そんな絢爛豪華な船よりも、成澄はつくづく思うのだ。水面に映って揺れている月と稚児の方が清々しくて美しい。最前、やはり同じように池に影を落としていたさざら丸といい、水辺の人は、何故、かくも美しいのだろう?
ふと思い出して、訊いてみた。
「なあ、迦陵丸よ? おまえは知っているか? 何でも、仁和寺の僧で高野山へ移って、大層名をあげた僧がいるとか」
「ああ! それなら──」
稚児は即座に答えた。
「正覚坊覚鑁様でございましょう?」
それから、身を正して合掌した。
「真に残念なことでございます」
「え?」
片や、成澄、愕然として、今稚児の言ったその名を口の中で繰り返した。
「覚鑁とは……あの覚鑁か?」
いくら無知を公言して憚らない中原成澄とは言え、その名なら知っている。いや、当世、この僧の名を知らない者などいないだろう。
何しろ、覚鑁と言えば──
一時は〈空海の再来〉と讃えられた僧である。
天下を風靡する浄土の教えを密教と融合させる教義を完成させた。それにより鳥羽上皇の信頼を得て、高野山において比類なき地位に上り詰めた。
すなわち、空海開闢の金剛峯寺と自らが建立した大伝法院、両寺の座主を兼務する栄誉を賜ったのである。
が、この破格の隆盛が却って災いした。
他の僧たちの嫉妬と羨望が爆発して統制が効かなくなり、僅か二ヶ月を経ずして両方の座主を辞す結果となった。
「とはいえ、当の覚鑁はそれを恨むことなく、むしろ、千日無言行など、他の者には真似のできない厳しい修行に一層打ち込んだと聞くぞ?」
「その通りです。ですが、覚鑁様のそうした姿勢──暴力を嫌い、誰とも争わない態度が益々敵対者の反感を買い、嫌がらせは激化しました。とうとう法院は破壊され、弟子の僧まで殺される最悪の事態に陥ったのです」
「何と……」
成澄は絶句した。
「皆、僧呂なのだろう? そこまでやるのかよ?」
「──それでもなお」
池の中の月を見つめて迦陵丸は続ける。
「覚鑁様は弟子たちに一切武力で抗うことを禁じました。そういうお方なのです。これは私の父に聞いた話ですが、我が一族の長、源為義殿は覚鑁様に帰依していた縁もあって、身辺警護を申し出たそうです。
けれど、あくまで不戦を貫く覚鑁様はきっぱりと拒否なさった。そうして、遂に高野山を降りて故郷の地、紀州の根来に身を引かれてしまった」
迦陵丸は再び合掌した。
「その覚鑁様も昨年末、彼の地にてお亡くなりになりました」
「亡くなった? だが、まだそれほどのお年ではあるまい?」
「享年四九歳とお聞きしています」
成澄は紅潮して恥じ入るばかりだ。烏帽子に手をやって、
「そうであったか。いや、俺は、一時の名声はともかく……最近のことは全く知らなかった……」
「お気になさることはありません。大概の人がそうです。既に世間は覚鑁様の名を忘れ去っています」
さざら丸が崇め奉るはずだ。改めて成澄は納得した。
よもや、これほどの高僧に、命を助けられ、直接教えを授かっていたとは!
水浚え人の所作がああまで澄み切って清廉なのはそのせいであったか……
「そうか、覚鑁であったか……」
感慨に浸る検非違使の傍らで稚児はそっと息を吐いた。
「西行法師様は覚鑁様入滅の際、『不動明王に化した』とおっしゃったとか。でも、私などの未熟者には、正直、最後の境遇を嘆かずにはいられません。だって、あんな処であんな風にお亡くなりになるべきお方ではない……」 ※入滅=臨終
「──」
この泉殿での会話以降、成澄が寡黙になったのを付き従う迦陵丸は気がついた。
検非遺使尉は歩きながらも何事か深く考え込んでいる様子。
その面差しを盗み見て稚児は思った。
(フフ、この人、如意輪観音に似てるなあ?)
昨年、大阿闍梨のお供をして立ち寄った寺院で見た菩薩半跏像のことだった。
異国風で艶かしいと評判のそれは、天衣がはだけるのも気にせず片足を大地に踏みおろして瞑目していたが。
ほら、ああやって悲しげに眉根に寄せた皺、一途に噛み締めた唇、虚空を見つめる瞳といい、そっくりだ。それにしても──一体何をそんなに思いつめているのだろう?
実際、迦陵丸の話を聞いてから成澄の胸の中でさざめくものがあった。それは、警告の音にも似て──
上流で堰が切れる、その最初の亀裂音。水が揺れ、岩が転がり始めている……
このままではやがて岩は川底を滑ってここへ流れ落ちて来るだろう。迸る、凄まじい濁流と一緒に何もかも押し潰すのだ……
だが、待て。その岩とは一体何なのだ?
俺は何が気にかかるのだ?
こうまで俺の胸をザワつかせるものとは……何だ?
「あ!」
成澄が小さく喘いだのは、車宿の前にやって来た時だった。




