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《雫ノ記》11

「あれは、そう、夏安吾の始まる前ですから……四月十一日と記憶しております」

 こう言って迦陵丸は話し始めた。

「父から荷が届きました。その中にあったこの(うちぎ)を自慢したところ、福寿はたいそう気に入って、ぜひ貸してくれとせがまれました」 ※袿=小袖

「で、貸したのか?」

 清顕が少なからず驚いて聞き返した。

「贈られたばかりの品だろ? おまえだって一度も袖を通していないのに? なんと気前が良いこと!」

 だからこそ──自分と福寿丸しか知らない新しい袿(・・・・)のはずなのに、『遠目に見て福寿丸だと思った』と言った仁慶の言葉に迦陵丸は不審を抱いたのだ。遠目ではなく、それを着ていた福寿丸本人と直接会った(・・・・・)者にしか言えない言葉である。

「なるほど。おまえと福寿丸がどれほど仲が良いか、それでわかるというものだ」

 微笑んで頷く検非遺使尉(けびいしのじょう)に迦陵丸は少々バツが悪そうに頬を染めた。

「いえ、貸したのは、その、罪滅ぼしの意味もあって──」

「え?」

 この話、中々奥が深そうである。


          +


 話は迦陵丸の父から荷が届いた日より、更に数日遡る。

 その日、仁和寺(にんなじ)では寺を上げて遅い春の野遊びを楽しんだ。

 その際、余興として〈割子遊び〉が催された。


「〈割子遊び〉?」

 首を傾げる成澄に、すかさず清顕がその博識を披露する。

「〈割子遊び〉とは、(あらかじ)め僧侶たちが割子を地中に埋め隠して、それを稚児たちに探させる、他愛なくも微笑ましい遊びです。割子には菓子や珍味など、豪華な料理を詰めて、それを掘り当てさせて稚児を喜ばすのです」 ※割子=弁当、重箱


 寺内で人気を二分する、〈天童〉の福寿丸と迦陵丸。勿論二人もその余興に誘われた。

 さて、この日、いち早く割子を掘り当てたのは迦陵丸だった。

 だが、迦陵丸はガッカリした。その割子が恐ろしく軽かったせいだ。

 背後の森陰に他の稚児たちが近づいて来る気配を察した迦陵丸、咄嗟にそれを埋め戻した。


「何故だ?」

 成澄が問う。稚児は答えて、

「他の──もっと良いのを掘り当てたかったのです」


 この遊びに精通していた迦陵丸は、割子は、もっとズッシリと重い方が良いと知っていた。

 こんなハズレは他の奴に当たればいい。

 実際、この日、迦陵丸は御馳走のぎっしり詰まった割子を手に入れることができた。

 一方、自分がこっそり埋め戻した例の割子を掘り当てたのが福寿丸だった。

 彼とて、その軽さは気づいたはずなのだが、こちらの天童は先に朋輩がやったように埋め戻すことはせず、不平も言わず素直にそれを自分のものとした。

 それを知って、何となく後ろめたく、後味の悪い迦陵丸だった。


          +


 そう言うわけで、父から届いたばかりの新品の袿に感嘆し、誉めそやす福寿丸を見て、割子の埋め合わせというのでもないが、快く貸与えたのだ。

「福寿丸の嬉しがりようったらなかった! あの笑顔がまだ目蓋に焼きついている。その時はそんな福寿を見て私も晴れ晴れとした気持ちだったけれど──」

 迦陵丸は薄桃色の唇をキリッと噛んだ。

「そうか? あんなに喜んだのは、それを着て誰かに会いにいくためだったのか? 特別の誰か(・・)に……?」

「誰だと思う?」

「私が知るものかっ!」

 検非遺使尉はそれ以上訊くのをやめた。



 寺からの帰路。

 仁和寺の寺域はその上古、醍醐天皇の御幸(みゆき)が、『道狭く輿(こし)が通るのが危険』として中止されたほどの僻奥の地である。

 とはいえ、皐月、白月の月は皓皓と明るく、馬に長けた検非遺使の二人にとって何ら苦もなかった。

「輪郭が見えて来たかな?」

 勢い良く馬を責めながら成澄が呟く。今日は行きも帰りも早駆けと決めていたから、さざら丸は帯同しなかった。その分、存分に馬を飛ばすことができる。

「福寿丸が会いに行ったのは誰だとお思いですか?」

 離されまいと巧みに手綱を繰って、ぴったりと並走しつつ清顕が訊いた。

「それはわからないが……但し、これだけは言える。寺内の人間ではないな」

 成澄は断言した。仁慶に問い詰められて福寿丸は『殿御』と言った。

「なあ? 〝殿御〟は僧侶には使わない呼称だろ? 違うか?」

「そうですね」

「一方、聞き取れなかったという、思わず叫んだ際の言葉……あれは何だったのだろう?」

「栗、とか瓜──食べ物(・・・)の名の件ですか? あれは完全に仁慶の聞き間違いでしょう。逢引きに行こうという者がそんなこと口走るはずがない」

「いや、そうとも言えんぞ。福寿丸は朝から臥せっていたというからな。腹が減っていたのかも」

「まさか」

 思わず笑った後で、真剣な顔に戻って清顕は言った。

「ともあれ、ここまでわかれば、もう中納言殿に報告してもよろしいのでは?」

「え?」

「福寿丸が何者かと会って、その後いなくなったと言うことは──これは、やはり、成澄殿が当初から懸念していた通り〝駆け落ち〟です。中納言からも、そして、寺側からも一応の納得は得られるかと思います。そして、これ以上の捜索は無理だと承知してくださるはず」

 清顕は正直、この〈天童失踪事件〉から上官が解放されることを切に望んでいた。

 この種の仕事は成澄には似合わない。中原成澄には、やはりこうして──夜の闇を裂いて疾走するような──豪放で爽快な任務が似合う。陰湿で淫靡なこの手の仕事はダメだ。

「居所まで探し出すのは無理というものです。だって、心を通わせた者同士が示し合わせて逃げた以上、もう京師(みやこ)になどいないに決まってる」

「それはどっち(・・・)のことを言っているんだ?」

 成澄が訊いてきた。

「天童と殿御か? 検非遺使と遊女か?」

「勿論、両方ですよ!」

 言った後で、清顕は口を閉ざした。ややあって、前方の道を睨みながら、

「成澄殿は幾度も恋をしたことがおありだからご存知でしょう? 一体、〈恋〉とはどういうものなのですか?」

「?」

 成澄は手綱を緩めて速度を落とした。馬を並べて後輩の顔を覗き込む。月明かりでも頬に朱が射しているのがわかった。

「そうです。先日、迦陵丸に笑われた通り……私は未だ恋をしたことがありません。と言うか、何を恋というのか皆目わからない」

 成澄はニヤリとして、

「それが、〝恋を知らぬ〟と言うことさ!」

「と言うと?」

「うん。恋と言うモノは理屈じゃないからな。『これは恋だろうか?』などと言う余地も猶予も与えぬ。稲妻のように貫かれる。少なくとも、俺はそうだな」

 だからか? また、稲妻のように去って行った……

 遠い思い出に沈みかける成澄を後輩の屈託のない声が再び現実に連れ戻した。

「ああ、それは、つまり、〝一目で恋に堕ちる〟と言うことですね? なるほど。書物ではよく見かけるのですが。ほら、柏木が女三宮を垣間見る場面。それから、夕霧が紫の上を野分の後の、屏風の打ち倒れた向こうに透かし見て──」

 成澄は苦笑した。

「また書物か! おい、清顕、おまえの悪いところはそこだ。現実に踏み込まなければ、いつまで経っても本当の恋などできんぞ」

 博識の若者は大きなため息をついた。

「でも、現実にはそのような場面に遭遇する幸運なんてほとんどない……」

「そんなことはないさ! 例えば、そう、この間の橋姫だって、恋をする絶好の機会だったではないか!」

「橋姫? 誰です、それ?」

「四条の橋の上で牛車の簾を巻き上げてやんごとなき御姿を顕した姫のことさ! 忘れたか? 橋姫が嫌なら撫子姫と呼んでもいい。撫子の重色目だったからな。とにかく──おまえだってその場にいた。つまり、あそこで恋をする機会は充分にあったのだ!」

「え? あ? それは──」

 清明の狼狽ぶりは尋常ではなかった。成澄は悪戯っぽく目を細めて焚きつける。

「美しい姫君だった! 年の頃もちょうどいいし。そうだ、今からでも遅くない。あの姫の身元を探って──お手の物だろう? これぞ検非遺使の特権だ! 文の一つも届けたらどうだ? 得意の(いにしえ)の相聞歌など記して?」 ※相聞歌=恋歌

「や、やめてください! わ、私は、そ、そ、そんな真似……」

 いよいよ火を噴くほど真っ赤になる清顕。

「やれやれ、これじゃ御室の稚児にからかわれるわけだ」

 (つき)の大樹の下に馬を止めると成澄は懐から朱塗りの笛を取り出した。

 肌身離さず持ち歩いているそれ。この笛のことは使庁でも知らぬ者はいない。

「さっきのは冗談さ、気にするなよ、清顕」

 先刻とは打って変わった真摯な声で成澄は言った。

「焦ることはない。恋はしようと思ってできるものではないからな。かくいう俺も、実は恋は今まで一度だけだ。次はいつになるのやら……」

 強装束の片袖を抜いて、成澄は笛を吹き始めた。

 日頃、田楽屋敷で聞くのとは全く違うその音色に清顕は目を瞠った。

 幽く、儚く、柔らかな調べ……

 御室の山の辺を黄金の煙のように棚引いて成澄の奏でる笛の音は天に昇って行った。

 博識を持って成る清顕でさえその曲名は知らなかった。

 御室の山に住むという天狗どもなら――

 きっと囁き交わしていたろう。

 あれ、〈想夫恋〉が聞こえる。人間にしてはなかなか上手に吹き鳴らすものよ、と。




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