《雫ノ記》10 ★
御室・仁和寺、数多ある塔頭の一つ。
僧・仁慶は夕方の勤行を終えて自坊に引き上げて来た。妻戸を開けて、思わず息を呑む。
これは、観音菩薩の化現なりや? 美しい稚児が薄闇の中に端座している。
「おまえは──迦陵丸? な、何事か? 勝手に私の室に入るとは……!」
稚児の膝の前、据え置かれた青い袿に目を留めて、更に声を荒らげた。
「そ、その上、断りもなく他人の私物を探るとは! いかに大阿闍梨の覚えめでたき稚児とは言え、やっていい事と悪い事があるぞっ!」
迦陵丸は動じなかった。
「他人の物ではありません。これは、私の袿なれば」
「え?」
「もっと言えば──これは、私が福寿丸に貸し与えた袿にございます」
たおやかな顎を上げて迦陵丸は決然と言い切った。
「それがここにある不思議。その理由をお教え願いたく存じます」
刹那、仁慶は僧衣を翻して戸口へ走った。が、手をかけるより早くカラリと妻戸が開いて、二天と見紛う屈強の検非遺使が行く手を塞ぐ。
「観念しろ、仁慶!」
「おまえが〝遠目〟に見たという〝福寿丸と思しき稚児〟の袿を、何故、自分で持っているのか。我々も大いに興味がある。今一度詳しく話してもらおうか?」
「あ、──」
仁慶はヘナヘナと床に尻を突いた。
一頻り泣きじゃくった後で、僧は掠れた声で訴えた。
「私じゃあないっ! 私は本当に福寿丸の行方など知らない! 失踪の件には全く関わりはないんだ!」
「僧侶のくせに往生際の悪い奴だ!」
清顕は大いに呆れた。僧の腕を捻じ上げながら、
「いなくなった稚児の着ていた袿をこうして隠し持っていた以上──誰がその言葉を信じると思う?」
「だから、言い出せなかったんだ! 私が何かしたと疑われるに決まっているもの!」
仁慶が涙ながらに語ったのは──
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確かに、福寿丸が失踪したと思われる四月十八日の昼過ぎ、仁慶は寺内、円堂の付近でこの稚児を見たのだ。そして、ちゃんと言葉を交わした。
── 福寿丸、待て!
── これは……仁慶様?
── 朝から具合が悪くて臥せっていると聞いたが? 何処へ行く?
稚児は唇を噛んで顔を伏せた。
── 答えられんのか? ハハァ、さては逢引きだな? お仕えする維厳様の目を盗んで大胆な。
── 後生です。お通しください。
── させるか。維厳様に突き出してやる!
── お許しを! どうか見逃してください。殿御が……私を待っているのです……
── 殿御だと? 聞き捨てならぬ。仮病を使ってまで会いたいというそいつは何者だ?
自分にはつれないくせに。愛しさ余って憎さ千倍とはこのこと。
逆上して、取り押さえようとする仁慶。だが、間一髪、福寿丸は何事か叫んで身をかわした。
── □□!
── あっ、福寿……?
稚児は疾風のごとく緑滴る双ヶ丘の山裾へ駆け去って行った。
仁慶の手に残ったのは、抜け殻のような青い袿だけ。
☆文様〈青海波〉です。カスピ海の波を表しているとか……
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「そのまま追わなかったのか?」
「はい。見る見る小さくなって行く影を見て諦めました。でも、戻って来たら責め立ててやろうと、この袿はその際の証拠の品として自坊へ持ち帰ったのです」
興味を覚えて成澄が訊く。
「福寿丸が駆け去る時、叫んだ言葉とは何だったのだ?」
「ですから、それが聞き取れなくて……」
「肝心なところだぞ!」
清顕が重ねて質した。
「人の名ではないのか? 殿御とか言う相手の、本当の名前──」
「かも知れません。でも、人よりは物かも」
「?」
検非遺使たちは顔を見合わせた。
「どう言う意味だ? 物の名とは?」
「だから、本当に聞き取れなかったんです。こっちも熱くなっていたし、短い、一瞬の叫び声だったから。強いて言えば……栗とか瓜とか……そんな感じ」
「おまえ! この期に及んでふざけているのか?」
真っ赤になって詰め寄る清顕、その足元にひれ伏して僧は拝むように両手を合わせた。
「お、お許しを! 御仏に誓って私は嘘は言っていません。福寿丸にだって指一本触れていない! どうか、どうか、信じてください!」
「どうします?」
清顕は上官を振り返った。
「引っ立てて行って──真実を吐くまで責め立てますか?」
「その必要はない」
成澄は首を振った。
「この男は真実を語っているのだろうよ」
眼前、声を振り絞って泣いている僧は小心者に見えた。
実際、福寿丸に何らかの危害を加えたのなら、罷り間違っても自分から目撃談を話すはずはない。言わなくても済んだことを良心の呵責に耐えかねてか、思わず中途半端に口走った感がある。
それこそ小心の証だ。だが、〝気が小さい〟と言うのは、言い方を変えれば〝優しい〟ということ。
些細な悪行すら胸の内に収めきれず漏らしてしまった仁慶が、これ以上大きな嘘を隠し持っているとは成澄には思えなかった。
「放してやれ」
ワッと叫んで仁慶は脱兎のごとく宿坊を飛び出して行った。
「いいんですか? あやつはきっと、二度とここへは戻って来ませんよ」
「いいさ。それでなくとも左獄は罪人で溢れている。たかが嘘の証言をしたくらいで引っ捕えていてはキリがない」
それよりも、と成澄。青い袿を愛おしそうに撫でている迦陵丸に視線を転じて言う。
「おまえにこそ、もう少し詳しく話を聞かねば、な?」
つくづく成澄は目の覚める思いがした。
なんと人はその身の内に深い井戸よろしく、様々な秘密を隠し持っていることか!
先日の水浚え人といい、今日の僧といい……
と言うことは、あることを知りたいと思ったら、どんな些細なことでもよい、もっと積極的に周囲の人間の話を聞くことこそ肝心なのだ。
思えば、最初から『最も仲が良い』と公言しているこの少年に、今日までに自分が訊いたことは〈天童〉についてだけではないか? これはあまりにも迂闊過ぎた!
主の逃げ去った宿坊に成澄は改めて腰を下ろした。
「迦陵丸よ。おまえがその袿を福寿丸に貸した際の経緯を、できるだけ詳しく話してくれ」
清顕は、さっき僧が逃げた折り、開け放したままになっていた妻戸を静かに閉ざして、月明かりと堂塔の影たちをそっと室から締め出した。




