水の精 7
年若い田楽師の熱意に圧倒されたのか、藤原雅能は思いのほか快く自らの装束一式を貸し与えることを承諾した。
貴人が田楽師風情に自分の衣類を貸すのさえ破格だというのに、その上この公達はその場で手ずから着方のあれこれを伝授してくれた。
目を剥く舎人たちに命じて香唐櫃ごと持ってこさせると、
「直衣ではなくて狩衣が好みか? ならば、どうかな? おまえにはこの色が似合うと思うが? おお、そうじゃ、狩衣がそれなら、指貫はこれ……」
という具合。 ※直衣=貴人の正装 狩衣=貴人の普段着 指貫=貴人の袴
取っ変え引っ変えした挙句、ついに着せ終えると目を細めて吐息を漏らした。
「……思った通り、これはよく似合う」
確かに。
桜の狩衣、二藍の指貫。 ※二藍=濃い藍色で若者向けの色
垂髪のままとはいえ、公達自ら被せてくれた立烏帽子に至るまで、貴人の装束を纏った田楽師の少年には匂うような色香があった。
「──……」
一方、婆沙丸は婆沙丸でつくづく感じ入ってしまった。
(この公卿の息子といい、検非遺使の成澄といい……貴人でありながら身分に拘らぬ、自由で気持ちの良い人間は至る処にいるのだなあ!)
当世流行の西方億万彼方、極楽浄土とやらまで行かなくても、どうして中々こっちの世界も捨てたものじゃないぞ?
元々、婆沙丸が田楽を好きなのは身分の上下を問わず、皆、一体になれるからだ。
世俗の煩わしいあれこれに拘泥されず、瑣末な一切から解き放たれて舞い歌うあの一時の目眩く幸福感……高揚感……!
一度味わうと癖になる。
実際、家柄も悪くなく将来のある成澄などが田楽に嵌るのもそこら辺に理由があるのだろう。
装束のお礼に、婆沙丸はそのいでたちのまま田楽を披露した。
自分に出来ることはこのくらいのものだ。
抜かりなく予め持参して来た直黒の鼓と自慢の喉に、貴人の姿で舞う田楽とは……!
これを公卿の息子は物凄く喜んでくれた。
「眼福じゃ! いやはや──清瀧会の舞童にも、御室の今をときめく陵王役の迦陵丸にも退けを取らぬぞ! こんな風雅を味わった人間は京師広しと言えどそうはおるまいよ?」
舞い終わった後、遠慮せずまた訪ねて来るよう雅能は言った。自分は物忌の身、今暫くは外に出られないから、ぜひ世間の話など聞かせに来てくれ、と。
「果たしておまえが〈水の精〉と出会うことを祈るべきかどうかはともかく、な?」
ここでふと雅能は言葉を切って庭の棕櫚の木に目をやった。宝前以外で婆沙丸がこの木を見るのは初めてである。
「そうまでして〈水の精〉に会いたがるおまえの気持ちが私には分からぬ。あれは恐ろしい物怪じゃ。おまえは恐しくはないのか?」
「恐ろしくない、と言えば嘘になる。でも──」
田楽を舞って、薄らと汗の滲んだ額に零れる髪を掻き上げながら婆沙丸は答えた。
「何が何でも俺は会いたいんだ。いや、会わなければならない……!」
「……会ってどうする?」
「そうだな」
田楽師は妙な笑い方をした。
「何故、人を殺めるのか訊いてみたい気もします。これは俺の勝手な想像だが──〈水の精〉はそれなりの特別な理由があってあんな真似を繰り返しているのかも……」
意味深な口振りに公達は膝を乗り出した。
「ほほう? 何か思い当たることでもあるのか?」
「俺は死体を目の当たりにしました」
姿勢を正して婆沙丸は言った。
「人をあんな風に惨く殺めるなんて……何か理由があるに違いない。俺は、〈水の精〉が、酷く苦しんでいるように思えて仕方ないのです」
それきり婆沙丸は床に深く顔を伏せたのでその表情を貴人の若者が窺い知ることはできなかった。
「まあ、何にせよ──上手く行くと良いな?」
貸してもらった装束を大切に抱えて婆沙丸は邸を辞去した。