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検非遺使秘録 §伝説の『白蛇天珠の帝王』とコラボ作あり§  作者: sanpo
雫ノ記 〈全20話〉

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《雫ノ記》 8


「申し訳ありませんでした」

 礼堂を辞した後、せっかく赴いたのだからと広い寺領を一通り巡察し始めた途端、清顕が身を正して深々と頭を下げた。

「何がだ?」

 驚いて成澄も歩を止める。

「何も知らず生意気を言いました。これで──つくづく思い知りました。私にあるのは書物の知識のみで、実際の寺院の何たるかを全く理解していなかった……」

 新入りの検非遺使は長駆を更に屈めて叩頭した。

「私は、現地にさえ来れば、いとも容易に真実が明らかになると考えておりました」

 中納言邸を辞する際、『厄介なことになりそうだ』と顔を曇らせていた上官の心境が漸くわかりかけてきた。ひょっとして、成澄殿は天童失踪と聞いた時点で、その行方を探すのが至難の業だと察していたのではあるまいか?

「検非遺使として力量の違いをまざまざと思い知らされました。こんな未熟な私が、早く御室(おむろ)へ行け、などと一端(いっぱし)の口を聞いたこと、今更ながら恥じ入っております」

「いや、言ってくれて良かった!」

 成澄は朗らかに笑った。こういう時のこの男の笑顔は素晴らしい。

「事実、俺は逃げていたのだ。おまえの言った通り〝先送り〟にしていたのさ。どうも、こっちの世界(・・・・・・)は苦手でなあ。俺のような単純な輩には手に負えぬ。畢竟(ひっきょう)、俺たち検非遺使が力を発揮できるのは京師(みやこ)の俗人世界と言うことか」

 神妙な顔つきで成澄は言い添えた。

「そう考えてみると──なるほどな? 有雪が言った〈天狗〉も今回ばかりは的を射ているのかも……」

「では、即刻、戻りますか? その〝俗人世界(みやこ)〟へ! ここにいても、もうこれ以上大した話は聞けそうにありません」

 すっかり辟易して若者は言う。

「待て」

 咄嗟に成澄が制した。

 彼方、見晴かす大内山の稜線。新緑に浮き上がる数多の鐘楼、堂塔の影……

 あちらが金堂、こちらは北院薬師堂か。成就院の屋根も仄見える。それら堂宇を掻き抱くようにして翡翠色の池がひっそりと揺蕩(たゆた)っていた。

 その水の(はた)、風景にそぐわぬ摺衣姿の男が一人佇んでいる。

「あ! あれは──さざら丸?」

 清顕は眉を寄せた。

「あやつ、従者の分際で勝手に寺地を彷徨(うろつ)くとは……ちゃんと門前で待つよう叱ってまいります」

「いや、よせ」

 珍しくきつい調子で成澄は後輩を制した。

「俺が行く。おまえはここで待て」



「さざら丸?」

 振り返った水(さら)え人の顔を見て成澄は驚いた。

 常に表情を変えないこの若者にしては珍しく、双眸に深い悲しみの色が揺れている。

「どうかしたのか?」

「あ、これは……申し訳ありません。懐かしさについ、フラフラと……」

 さざら丸は地面に膝を追って詫びた。

「どうぞ、お許し下さい」

「そんなことはいい。それより──おまえ(・・・)、ここを知っているのか?」

 検非遺使尉(けびいしのじょう)の声はあくまで優しかった。

「懐かしいと、言ったな? ここへ来たことがあるのか?」

「昔のことでございます」

 水浚え人は不可思議な物言いをした。

「私はここで命を失いかけ……そして、命を拾ったのです。或いは、ここで、ほとんど死に、再び生まれたと言うべきか……」

「それは? どう言う意味だ?」

 随身は唇を引き結んで、今一度主人を見上げた。

「お知りになりたいですか? 私のような下臈の話など、本当に?」

 成澄は視線を逸らさなかった。先に顔を背けたのは水浚え人の方だった。

 息を一つ吐くと、やがて、決心したらしく口を開いた。

「このことを他人に話すのは──そう、成澄様で二人目です。実は、私の母は私が五つの歳に、私を抱いてこの池に身を投げたのです」

「──まさか」

「霜月の頃……薄ら寒い黒月の晩でした。母は本望通り溺れ死にました。が、私は幸か不幸か生き残りました」

「馬鹿者! 〝幸〟だったのだ! 〝幸〟に決まっておろう?」

 さざら丸はハッとして顔を上げた。

「……私を救ってくださった御方もそのようにおっしゃいました」

 どうも自分は母の腕から摺り抜けて、無我夢中で岸へ向けて泳いだらしい、と水浚え人は言った。

「そこのところは自分でもよく憶えていないのですが。兎に角、そうやって藻掻いていた時、水音を聞いて駆けつけた、あちら、成就院の若い僧侶に助けられました。ご自分の僧衣を脱いで震えている私を包んでくださった。『良かった、良かった』と涙を流して言っておられたのを、これはハッキリ憶えています。

 その御方の涙が私の顔へ零れ落ちて──変なものです。私はその時、ぐっしょり濡れて雫だらけだったのに。そっちの方は全然気が付かず、その御方の涙だけがくっきりとこの身を流れ伝うのがわかりました。

 以来、私は、ご存知のように水に浸かって生きて来ましたが、あの日被った涙ほど清らかで心地良い水を体に感じたことがない。尊いお坊様でしたのに、素性も定かではない、私のような子供一人の命が救われたことを、あれほど喜んでくださるとは……」

 その後、母の死骸を池底から浚いに来た水浚え人の(おさ)に自分は引き取られたのだと言って、さざら丸は話を締め括った。

 寺内の池で入水者(じゅすいしゃ)を出すと言う前代未聞の不祥事。門跡寺院にあるまじき不浄の事とて、この件は厳重に秘され外に漏れることはなかった。

「おまえを助けたその僧侶は、今もこの寺内におられるのか?」

 もしいるなら、さざら丸も会いたいだろう。自分もぜひ会ってみたい。そう思って、成澄は訊いた。

 さざら丸は即座に首を振った。

「私が十の歳、もっと修行がしたいとおっしゃって高野山へ登られました。その後、私などが口にするのも勿体無い、偉いお坊様になられました」

 そこまで言って、いったん言葉を切った。水面に風が渡るように密やかな微笑が顔いっぱいに広がる。

「ですが、ここを去られるまでは、幾度となく私を呼んで尊い御仏の教えを聞かせてくださいました。

 高野へ登られる前の晩も、せめてお別れを言いにと駆けつけた私に、貴重なお時間を割いて会ってくださった……」

 思えば──さざら丸が微笑むのを成澄は、今、初めて見たのだった。

「そうか、そんなことがあったのか……」

「はい。私のような者に、分け隔てなく接して、お心を砕いてくださったのはその御方と……それから、貴方様だけです」

「俺は、別に──特別なことはしていない」

 ここに至って、成澄は顔を背けた。照れと言う以上に、そういうことを言われるのが嫌いな質だった。

 随身から視線を移して、改めて眺める池の面。そこには寺院の伽藍や塔、鐘楼、数え切れない御堂の影が逆さまに映って、宛ら、水の中にもう一つの美しい世界が眠っているように成澄には思えた。



「やっぱり、寺に出向いて良かったな!」

 帰り道、馬上で成澄は満足気に呟いた。

「は?」

 馬を並べていた清顕が怪訝そうに首を傾げる。

「ここでしか聞けぬ、貴重な話が聞けた」

 徒歩(かち)で付き従うさざら丸に目をやって成澄は思う。きっとあの男もあの風景の前でしかあの話は語らなかったろう。

(今日、あそこ(・・・)でなかったら俺は金輪際、あんな話は聞けなかった……)


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