《雫ノ記》 7
御室・仁和寺は都の洛西、大内山南麓に位置し、寺領二里四方を誇る大寺院である。
仁和二年(886)、光孝天皇の勅願により創建された。
仁和四年には宇多天皇が先帝等身大の阿弥陀三尊を金堂に安置して盛大な落慶供養が執り行われた。
その宇多天皇が皇子・醍醐天皇に譲位後、当寺にて落飾、法皇と成って以降、〈御室御所〉〈御室〉の名がある。言うまでもなく最高の寺格を有す門跡寺院である。
百を超える院家、聳え立つ堂塔は春三月、全山を覆う山桜と、宛ら、覇を競うがごとくである。
その花も散って既にない、天養元年五月四日。
中原成澄、三善清顕、両検非遺使を迎えたのは薄曇りの空に重なる新緑と鳥たちの囀りだった。
予め、中納言から子息の行方探しを依頼された旨、寺側も聞き及んでいるせいもあって、成澄は大阿闍梨以下、福寿丸と関わりのある全僧侶から直接、福寿丸失踪前後の詳細を聞くことができた。
その結果、得た最も重要な事実とは──
最後に福寿丸を見たのが誰で、それが何時なのか、全く明確ではないことだった……!
福寿丸が仕えていた僧・維厳とその近辺の僧や稚児、寺人、諸々の話をまとめると、
四月十七日の夜までは、確かに福寿丸の姿は寺内で確認されている。
ところが、翌朝になると、誰に聞いても途端に曖昧になるのだ。
つまり、十八日の朝、福壽丸は『体調が優れない』という理由で宿坊の自室から出て来なかった。
夕刻、いつまでたっても起きて来ない稚児を案じて維厳自らが覗いた時、既にそこに福壽丸の姿はなかった。それより早い、昼下がりの頃、寺内は辰巳の角の円堂近くを歩いている福壽丸らしき稚児をいた、という僧もいたが、本当に福壽丸本人か、確信はないそうだ。
その稚児は被衣を頭から被っていて顔は見えず、辛うじてその青海波の色模様から福壽丸かと推測した程度らしい。
「何てことだ! せっかく御室まで出向いたのに、これではさっぱり埒が開かない!」
期待を挫かれて清顕は落胆した。大体、人一人いなくなったというのに、僧たちの話しぶりが余りに素っ気無さ過ぎる。
「仕方あるまいよ」
こんなものだろうと大方予想していたので、成澄の方はむしろ泰然としている。
成澄が寺に行き渋っていた理由も、実はそこにあった。寺内での稚児絡みのいざこざは枚挙に暇がない。
「……まさに深い沼を探るようなものさ」
「ああ? だから? この度は水浚えが得意のさざら丸を雇ったのですね? あやつに一度、徹底的に底まで浚ってもらおうと」
意気込んで乗り込んだ清顕としては皮肉の一つも言いたくなるというものだ。
若い検非遺使は、僧たちの何事もあからさまにしたがらない、自己保身に徹した態度や、秘密めいた口調に猛烈に腹を立てていた。
「まあ、皆、この種の話には少なからず身に憶えがあって、それで、疑われたくないのだろうよ」
宥めるように成澄は言う。
「考えても見ろ、清顕。有雪の言葉じゃないが、福寿丸は天童に選ばれるくらい可愛らしかったのだぞ。恋の鞘当や、果ては、奪い合い──きっと日頃からその手の諍いが絶えなかったのだろうよ。その人気の稚児がいなくなったとしたら、少しでも関わりのある僧は誰だって口を噤むだろうさ」
「つまり、周囲の僧は、誰が〈福寿丸失踪〉に加担していても不思議ではないということですか?」
「ううむ、そうハッキリとも言えぬが……」
実際のところ、成澄としては、寺内から、僧侶なり稚児なり、他に誰かいなくなっている者でも見つかれば──と、その辺りを一番期待していた。
それなら『出奔した』と結論づけることができる。要するに〈恋の道行〉〈駆け落ち〉である。
だが、残念ながら寺内で福寿丸以外に姿を消した者は一人もいなかった。
「有雪殿を見くびっていました」
「何ぃ?」
突拍子もない清顕の言葉に目を剥く成澄。
「……有雪殿はご自身が常日頃言っている通りの天下一の陰陽師なのですね? 今回執拗に口にしていた〈天狗〉とは、あれは〈僧侶〉を指していたのか! そう考えれば、なるほど、辻褄が合う」
「おい、清顕、それはおまえの考え過ぎだぞ。あれは本気で〈天狗〉だと言っているのだ。示唆とか、例えとか、そんなこと──」
「こちらでしたか、検非遺使様?」
堂蔵の前で話し込んでいた二人に若い僧が駆け寄って来た。
「大阿闍梨様がお呼びでございます。どうぞ、こちらへ……」
「?」
明確な証言ができない、その埋め合わせでもないだろうが。
案内されて行った本堂は礼堂へと続く脇陣の一室。
そこに、迦凌丸がいた。
刹那、検非違使二人は息を飲んだ。
迦凌丸は天童の衣装を纏っていたのだ。
御室に着いても、一向に姿を見せないと思っていたが──このためか?
「せっかく当寺へ足を運んでくださった検非遺使様に、せめて〈天童〉の何たるかをお目にかけたいと大阿闍梨様がおっしゃいまして。特別の計らいにございます」
威儀師を勤める青年僧は誇らしげに胸を張って天童を指し示した。中央、目を細めて頷いている大阿闍梨。
「いかがでしょう? これで何か、福寿丸の行方を知る手掛かりになれば良いのですが?」
「まあ、〈天童〉を直接見たからと言って……どうにかなるものではないのだが……」
小声で言って清顕は苦笑した。一方、成澄は──
成澄は、あの日に還った心地がした。
眼前の迦凌丸は記憶の中の天童に瓜二つだった……!
左右に分けた髪は角髪に結ってその先を長く垂らし、頭上に燦めく金の冠。
異国風の翡翠色の袍を長く引き、その下に纏った白い下襲の鬼灯のように膨らんだ袖には幾重もの縁飾りがさざめいている。大口袴に曙を織り込んだ表袴を重ね、可愛らしい足には糸革の沓──
そうだ、この足で先導するのだ!
薬王・勇施の二菩薩と毘沙門天・持国天の二天、十羅刹女と鬼子母神、そして尊き普賢菩薩まで……
成澄の脳裏にまざまざと天承元年、当寺、仁和寺で催された〈舎利十種供養〉の情景が蘇った。
文字通り、十種の楽が奏でられる中、菩薩たちの道行が絵巻を見るごとく再現される。
この夢のような舞楽法会を幼い成澄は父に手を引かれて眺めた。
弥生三月、花の匂い……香の香り……
純白の幡を霞のように棚引かせて進む二人の天童……
どんなについて行きたかったことか。
子供心にも、彼等二人の導く先に、西方極楽浄土があると思えた。
その前年の暮れ、成澄は母を亡くしたばかりだった。
そのせいだろうか? 聖衆の中の、菩薩が一瞬、母に見えた。
── いや、まさにあの日、あの列に、母君はおられたのではあるまいか……?
厭離穢土……欣求浄土……
風に乗って舞い散る桜の花びらが成澄の頬にくっついたままいつまでも落ちなかった。
涙に濡れていたせいで……




