《雫ノ記》 6
時を移さず清顕が馬を飛ばしてさざら丸を田楽屋敷まで連れて来た。
成澄の前に据えられて、召抱えられる旨告げられても、この夢のような出世話に、別段さざら丸は表情を変えなかった。池浚えをしていた日中と変わらぬ涼やかな、恬淡とした風情で座している。
それがまた、いかにもこの男らしいと成澄は思って、益々気に入った。
(何より、目がいい……)
俺は、これほど澄んだ目の人間に遭ったことがない。蒼茫として曇りがない。
これは、常日頃、水に浸かり、水に晒されているせいだろうか?
「ところで、早速だが、さざら丸よ、おまえ自身は、今俺たちを悩ませている京師で起こった〈五件の失踪者〉について、身近で何か耳にしたことはないか?」
新しい随身にも失踪者の詳細を説明し、意見を求める成澄だった。
〝五件〟と成澄が言ったことが清顕は気になった。
「天童と女たちの件は分けて扱った方が賢明と思います」
「え? そうか?」
「天童?」
さざら丸は呟いて、成澄の横に座っている迦凌丸に目をやった。
昨日、橋下の陰陽師に見つめられた時同様、仁和寺の稚児は紅潮して顔を伏せた。
ややあって、さざら丸は成澄に視線を戻すと言った。
「いえ。私自身は近辺でその種の失踪者の話を耳にしてはおりません」
「やあ! やあ! これは大した見ものだな!」
縁より覗き込んで呵呵笑ったのは、今帰って来たらしい有雪だった。
この橋下の陰陽師、屋敷の主がいないのをいいことに普段にも増して我が物顔に振舞っている。
黙っていれば端正な顔の前にわざとらしく扇を翳して、
「ほー? 〈田楽狂いの検非遺使〉に〈天童〉に〈水浚え〉ときたか! 都広しと言えども、おまえたちみたいに酔狂な取合せはあるまいよ!」
その夜、かく言う〈巷の陰陽師〉も加えて、都一酔狂な取合せで宴を催した成澄だった。
御室の方へは使いをやって、迦凌丸を一夜留め置く旨、伝えた。
詰まる処──検非遺使尉・中原成澄は浮かれ騒ぐのが大好きなのである。
片や、上官が何故、田楽屋敷に入り浸るのか、新入りの検非遺使・三善清顕は段々わかって来た気がした。煩わしい作法や、身分に拘泥されず、自由に振る舞えるからだ。
ひょっとして成澄は──自分も含めて──貴人や官人などより、今、眼前に集う異類異形の族の方を〝仲間〟だと思っているのかも知れない。ずっと好いているのかも知れない。
「厄介なことが起きました」
渋面の清顕がそっと告げたのは翌日のことである。
「もう一人、失踪者が増えましたよ」
この日、成澄は内裏に所用があって昇段した後だった。
使庁より急ぎやって来た清顕が陽明門裏で捕まえて耳打ちした。
「え? 今度は何処の女だ?」
「それが──」
言い淀む清顕。ちょうどこの時、随身として付き従っていたさざら丸が馬を引いて来た。
水浚え人は、もう何年も検非遺使に使えているように見えた。成澄が与えた美しい摺衣の水干がよく似合っている。
「──今度は男です。しかも、我々の仲間……検非遺使なんです」
「何だって?」
失踪したという検非違使の名は高階康景。歴とした左衛門府官人だった。
勿論、成澄も面識があった。
高階康景もまた、大いに将来を嘱望される若者の一人。家柄も申し分なく、心根の清澄な美丈夫でまさに絵に書いたような検非遺使だった。使庁内のみならず衆人にも人望厚かった。
成澄が思うに、硬すぎるのが唯一の欠点といえば欠点か。 それほど真面目な男である。
「あの康景かよ? 確か兄は近衛府官人だったな?」
「はい。その康景殿です。公には病気療養とされていますが、実は先月の初め頃から所在がわからなくなっているとのこと」
「先月初め? ……福寿丸の失踪と同じ頃だな?」
「やはり、これはまずいですよ!」
「え?」
三善清顕はきっぱりと言い切った。
「『京師中の全失踪者を探す』などと言い出すからこの始末だ! ここは、やはり、天童福寿丸一人に絞って、まずそれだけに専念すべきです!」
いつになく激しい口調で清顕は進言した。
「成澄殿の優しさは、時に仕事の足枷になる。いくら我々が検非遺使とは言え、都中の全ての人々を救うことはできないのです! そんなのは無量光仏にでもお任せして、いい加減、大人になってください!」
「──」
これは成澄にはひどく効いた。相当応えたようである。
時に狼のように見える精悍な風貌が叱られた子犬のようになって地面を見つめている。
更に畳み掛けて清顕は言った。
「さあ! 今日こそは、もうグズグズせずに仁和寺へ出向きましょう! 幸い、昨夜留め置いた迦凌丸を先に帰して、寺にはその旨伝えておきましたから。迦凌丸も向こうで我々を待っているはずです」
「……わかった」
こうして、束帯からいつもの蛮絵の黒衣に着替えた成澄。 ※束帯=正式れ礼服
遂に御室・仁和寺を訪うことになった。




