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《雫ノ記》 5

 迦陵(かりょう)丸がハッとして顔を上げた。

「そう言われれば──なるほど、確かにそうだ!」

 七条油小路の商家には見事な井戸があった。

 五条坊門の貴人邸には当然の如く庭に広い池があった。

 遊女の住まう東京極(きょうごく)界隈は、言わずと知れた鴨川の(ほとり)である。

それら(・・・)はただの偶然だと思います」

 慎重に言葉を選びながらも、きっぱりと清顕は首を振った。

京師(みやこ)には池が多い。川も何本も流れている。つまり、京師に住む以上、その地形柄、池や川のいずれかに(・・・・・)掠っても、それは当然というものです」

「あ、そうか! 清顕様の言うのも尤もだ。考えてみれば、私の寺にも池はある。私も〝水の側に住んでいる〟と言うことになりますね?」

「そうか」

 自分の意見を否定されたというのに成澄は満足そうに微笑んだ。

 成澄は後輩の検非遺使の明晰さを愛でていた。率直に己の意見を述べる態度も。

 書物や古典歌の教養のみならず現実を把握する冷静な視線がいい。そのくせ、白皙柔弱な官人を想像したなら完全に裏切られる──

 この三善清顕は、成澄に劣らぬ六尺を超える上背に均整のとれた体躯を誇る美丈夫なのだ。

 彼のような文武に秀でた逸材が育っている限り使庁の未来は磐石だと成澄はつくづく思った。

 昨今巷に喧伝される検非遺使の腐敗など戯言と笑い飛ばせる。


 そろそろ出発しましょう、と清顕が腰を上げた時だった。

 成澄の鋭い眼差しにぶつかって、一瞬、清顕は身震いしてしまった。

「どうかしましたか、成澄殿?」

「おい! あれを見ろ、清顕!」

「え?」

 促されて成澄の視線の先を追う。

 傍らの池の中に幾人もの人の姿が見えた。皆、水に浸かって忙しげに立ち働いている。

「ああ、池(さら)えですね? そうか、もうそんな季節か……」

 暑さに向かうこの時節、京師では小さな井戸から大きな池に至るまで、〈水換え〉〈水浚え〉が盛んに行われる。それに従事するのは、いつの頃からか西京辺に住まう非人に限られるようになった。

 彼らは水浚えの技術を代々受け継いで、今ではすっかりその方面の技能集団と化していた。ちょうど清水坂の非人たちが京師の死人の運搬や埋葬、咎人の処刑に携わるように。

 そう言うわけで、都に育った清顕などはこの水浚えの光景に季節を強く感じ取った。

「夏が近いのだなあ……!」

 そういえば日吉御霊会(ごりょうえ)ももうじきだ。それが終われば、祇園御霊会、七夕節会(せちえ)と夏の行事が続いて行く……

 片や、成澄の表情には風流を愛でる長閑(のどか)さは微塵もなかった。検非遺使尉(けびいしのじょう)の双眸は先刻から水中のたった一人に照準されていた。

見つけたぞ(・・・・・)! あの男だ!」

「は?」

「先日、四条の橋で姫君の宝物を川から掬い上げた男……! 間違いない」

「まさか──」


 果たして、その、まさかだった。

 呼び出して問い質すと男は素直にそれを認めた。

 清顕は、成澄の目の良さと人の顔貌を見極める能力に今更ながら驚嘆した。

 さて、天下の検非遺使に呼び出されたとあって、何事かと恐懼(きょうく)する仲間をよそに、当の若者は静かに成澄の前に膝を突いた。

「名は何と言う?」

「はい、さざら丸と申します」

「そうか、さざら丸。四条の橋での働きは素晴らしかったぞ! それを一言、伝えたかった。それにしても、よくも臆することなく梅雨時の川に跳び込んだものだ。常人には到底できぬこと……」

「私は常人ではありませんから」

「──」

 一瞬眉を寄せた検非遺使。さざら丸は気にせず低い声で続ける。

「物心ついてこの方、私は水に馴染んでおります。時に水の中の方が地上より心地良いくらいでございます。水底こそが自分の世界とすら思えます。ですから、あの日の鴨の流れなどどうということはありませんでした」

「なるほど。そういうものか……」

 水に浸かっていたところを今しがた連れて来られたせいで、この日もさざら丸はぐっしょりと濡れて幾千もの雫を滴らせていた。その水滴の燦きが、成澄には王子の瓔珞(ようらく)のように美しく、好ましく映った。

「仲間が待っております。仕事に戻ってもよろしいでしょうか、検非遺使様?」

「え? ……ああ、いいぞ」


 その後、大原の鬻女(ひさぎめ)の家へ行って帰って来る間中、成澄は黙しがちだった。

 大原女を訪ねて得た情報は、先の失踪者三名と似たり寄ったりだった。

 つまり、その娘もまた美しい女だった。

 家は高野川の支流、草生川沿いにあり、背後の昼なお暗い森には水神を祀った祠があった。



「さざら丸を呼べ」

 成澄が命じたのは、一条堀川の田楽屋敷に帰り着いた後だった。

「例の──姫君の宝物の件で、何か褒美でも与えるのですね?」

「いや。召抱えて俺の随身にする」

「──……」

 これには清顕も、それから、まだ寺に帰らずに傍らに居残っていた迦陵丸も仰天した。

「俺はあの男が気に入った。実際、昨今何かと身辺が忙しい。従者が欲しいと思っていたところだが──あいつこそ相応(ふさわ)しいとつくづく思い至ったのだ」

「……確かに」

 稚児もゆっくりと頷いて認めた。

「非人とは思えぬ涼やかな男でした。上半身を(さら)して……ほとんど裸同然で働いていたにも拘らず抜けるように白い肌だったなあ! 水を滴らせて岸に上がってくる姿は西国(さいごく)の王子のようでした」 ※西国=印度。菩薩の装束は印度の王子の装束

「おうよ! おまえもそう思ったか、迦陵丸?」 

「二人とも言い過ぎですよ」

 流石に清顕は呆れ顔で苦笑した。

「それにしても、さざら丸にとっては、これはすごい出世ですね? 天下の検非遺使の従者に望まれるとは。そんじょそこらの褒美どころじゃない……」


 

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