野馬台詩 5
検非遺使の中原成澄から兄、秋津丸について悲しい報告を行けた後、蜻蛉丸は暫く動こうとしなかった。
庭に生えた笹百合の如くその場にじっと佇んで風に弄られていた。
どのくらいそうしていただろう、やがて、深々と頭を下げた。
「そうですか。皆様には色々とお世話をおかけしました……」
「いつかこんな日が来るのではないかと心配していたのです。その通りになったな」
屋敷内に一同を招き入れ、茵に座ってから、改めて蜻蛉丸は言った。
「兄は、弟の私が言うのも何ですが、いつまでたっても幼子のようなところがあって──だから、あんな生き方をし続けたんだ」
元々、両親を幼くして亡くし二人一緒に寺に預けられていた。が、自分は寺に出入りの武士の目に留まり養子にと望まれると嬉々として寺を出た。その養父の下で元服もした。
いつまで寺童でもあるまい、先行きが知れている、と兄の身を案じて意見しても兄の方は生活を変えるのを拒んだ。そっちの暮らしが性に合っていると言うのだ。
「花を数え、月を読み、風の音を聞いて暮らすことを兄は好みました。鳥を呼び、虫を愛で……」
「馬も、でしょう?」
「え?」
婆沙丸の言葉に一瞬、蜻蛉丸は怪訝そうに眉を寄せた。
「兄上はとりわけ〝馬〟がお好きだったのでは?」
「いえ、兄は馬なんか──」
美しい田楽師の一人が指し示した指の先、壁に貼ってあるその絵を、吃驚したように振り返って眺める弟だった。
「ああ、そうか? そうだった、その馬か……」
慌てて頷いてから、蜻蛉丸は口早に話を締め括った。
「そう言うわけで──そんな兄の身を心配して、私は月に何度か兄の住まいを訪れていたのです」
今日もそのつもりで西瓜など下げてやって来たのだ。
「可哀想なことをした。結局、常々有雪が言う通り、俺は無力だ……」
こういうことがあるたびに呟く言葉を、成澄はまた繰り返した。
一同、一条堀川の屋敷へ戻って盃を酌み交わしている。今宵は秋津丸の弔いの酒である。
「……可哀想な兄弟だ」
検非遺使に同意して嘆く婆沙丸。すかさず狂乱丸が、
「美しい兄弟でもある。どこの寺にいたのか知らぬが、二人して稚児だった時はさぞや人気を二分したろうな?」
「そこさ」
割り込んで来たのは陰陽師。
「美し過ぎて何やら妖しい。ありゃ、幻かも知れぬぞ?」
この言葉を聞いて検非遺使も田楽師も一斉に白衣の男を眺めやった。
肩に白い烏を留まらせ、やたらに盃をあおっているのはいつものことだが。目が妙に底光りしている。こういう時この男は一段と奇怪である。
「何が言いたい、有雪? まさかあの兄弟が妖しの類だとでも?」
「だが、秋津丸の方は普通の人間だったぞ」
「だからこそ──死んでしまった。妖しみたいな存在しないものは死にもしないんだろ?」
美童が握りしめていた紙片。その手を開いた時の、かぼそい骨の音を思い出しながら婆沙丸は言う。
「それに、蜻蛉丸だって、今日、確かに庭に立っていたじゃないか?」
「ふふん、庭に立つのは人ばかりではない。蚊柱も、陽炎も、立つぞ。確かに立つぞ?」
「──?」
ポカンとする三人の顔を見回して陰陽師は露骨に舌打ちをした。
「チッ、本当に無学で鈍い奴等よ。これだけ謎かけしても気づかないとはな! ああ、嫌になる。物足らん。こんな連中と酒を飲まなきゃならぬとは」
狂乱丸が素早く盃を奪い取った。
「何、飲んでくれなくとも良い。これは俺たちの酒だからな」
「おっと──」
有雪は慌てて、
「わかった、ちゃんと説明するからそれをこっちへ戻せ。つまり、俺の言いたかったのは……おまえたちに気づいてもらいたかったのは……あの兄弟の名前さ! 面白いじゃないか?」
改めて陰陽師は意味深な目つきで一同を見回した。
「兄は秋津丸、弟は蜻蛉丸と来た。おい、そりゃ、古語で言うところ、どっちも〈陽炎〉の意じゃ!」
有雪は胸を反らせて呵呵笑った。
「どうだ? このこと、おまえたちは気づかなかったろう? 俺はすぐわかった! 学のあるものはこれだから楽しい!」
「くだらん」
言下に狂乱丸。
「何かもっと実のある話かと期待したら──単に名前の話かよ? 兄弟で似た名をつけるのはよくあること。それが何だと言うんだ? 現に俺たちだって、最初、師匠は菖蒲丸と綾目丸にしようかと悩んだそうだぞ」
綾目丸になるところだった婆沙丸も吐き捨てた。
「全く、おまえときたらいつもそうやって役にも立たぬ自分の知識をひけらかす他、能がないのかよ?」
成澄がピシリと言い切った。
「おい、有雪よ? その自慢の博識とやらを大いに活用して、例の秋津丸が握っていた《野馬台詩》に隠された意味を解いて見せろ。それができたなら──その時こそ、俺は心底おまえを尊敬してやってもいいぞ?」
「成澄には悪いが、それこそ時間の無駄じゃ」
宴も果て、酔い潰れて床で鼾をかいている検非遺使に夜具を掛けてやりながら狂乱丸は呟いた。
有雪の方は決して酔い潰れることはない。酒がなくなるとさっさと自室へ引き上げるのが常だった。
「死者の悪口は言いたくないが、秋津丸は成澄の気を引きたくてあんな突飛なことを言ったに違いない」
倒れた酒瓶や盃を片付けていた婆沙丸が手を止めて何か言おうとしたが、兄は遮って、更に続けた。
「現に弟の蜻蛉丸も言っていたじゃないか。秋津丸は寺童の暮らしに執着していたと。だが、住まいを持っていたというのはもう寺からは出たということ。俗人の暮らしをせず稚児並みの優雅な日々を送るためには、純真な恋心にせよ金銭的な下心にせよ、検非遺使の成澄は格好の獲物だったはず」
「ならば、握っていたあの詩は何だったんだ?」
「だから、単に持っていたに過ぎない。あれに特別の意味などないさ。逢引の際のちょっとした話題作り……或いは、単に好きな詩だから、とか」
婆沙丸は同意しなかった。
「待てよ、兄者、蜻蛉丸はこうも言っていた。『兄は花を愛で月を読む』いたく風流な好みだと。そんな奴が、未来記か何か知らぬがあんな訳のわからない詩を好むとは俺には思えない。逢引用の小道具ならもっとマシな、それらしい詩を選ぶさ」
だから、絶対、あの詩には何か特別な意味が込められているのだ。
「──」
珍しく兄弟の意見は分かれた。
謎は田楽屋敷を覆うその夜の、新月の闇よりなお一層濃い。




