野馬台詩 2
何事も冷静沈着、別の言い方をすれば疑り深い兄の田楽師は指定された待合場所に先回りしようという魂胆である。隠れていて、一部始終──彼の言葉を借りれば『ありのままの真実』を見てやろうという腹積もりなのだ。この方が秋津丸の正体や本音を看破し易い。万が一、逢引の口実だったら許さない。その場で飛び出してとっちめてやろう。
今更ながら婆沙丸は兄の悋気が可笑しかった。が、苦笑を噛み殺しつつ明日は自分も一緒に兄について行くことにした。狂乱丸も流石に一人では心細いはず。
二人は〝二人で一人〟という──多分、母の胎内にいた時以来の──感覚から抜け出せずにいた。
いつも二人でいる時が一番安心できる。
これは婆沙丸とて同じだったから、双方、相手が自分を必要な時は何を置いてもその願いに沿うのだ。
翌日、約束の場所、|市原野〈いちはらの〉。
ここは京師の北の外れ、鞍馬街道に沿った草深い山間の地である。
秋津丸が指定した小さな祠から、やや離れた繁みの中に田楽師兄弟は身を潜めている。
「……いくら何でも早過ぎはしないか? こんな処で待ち続けては虫に食われるばかりじゃ」
「シッ! 静かに」
「なあ? ここから少し行ったら……小野小町の墓がある補陀落寺だろ?」
蚊に食われた腕を掻きながら婆沙丸、
「せっかくだからさ、帰りにお参りしていこうか? 百夜通いをせずとも兄者の恋が成就するかも知れぬぞ?」
「いいから、黙ってろ、婆沙」
「だって、兄者は例の深草少将は成澄のような男だと思ってるんだろ? まあ、篤実という点では当たっているかも知れぬが、俺に言わせれば、成澄はもう少し──」
さっきから軽口を叩きっ放しの弟を真顔で兄が遮った。
「おい、今、叫び声がしなかったか?」
「え?」
涼しげな海賦文様、紫苑の色目の袖を翻して草叢から飛び出す兄。
文様は同じ、色目は月草の弟も続いた。
果たして──
堂内の薄闇に重なり合って影が蠢いている。
「何をしている!」
「──?」
田楽師の玲瓏な一喝に、影の一つが飛び退る。背後の扉から逃げ去った。
「あ! 待てっ!」
訳がわからないまま、反射的に婆沙丸は追った。
しかし、山育ちの足を持ってしても逃げた輩を捕まえることはできなかった。その後ろ姿を熊笹の波の果てに見失ったまま、諦めて引き返す。
「兄者?」
堂内で兄は呆けたように佇んでいた。
足下に横たわる美童が水面に映る兄の写し絵のように見える。
その不吉な連想を頭を振って打ち消してから、婆沙丸は訊いた。
「それが、例の──?」
「ああ、秋津丸じゃ」
「死んでるのか?」
聞くまでもなかった。美童の首には細い紐が巻き付いたままで、その紐よりもさらに細く口元から一筋、鮮血が床に滴っている――
「もっと早く来れば良かった。そうすれば俺の悋気も少しは役に立った。人の命を救えただろうから……」
頻りに悔やむ狂乱丸だった。
約束の刻限通りにやって来た検非遺使はこの惨事を見て、まず田楽師を慰めた。
「そう自分を責めるな、狂乱丸」
薄ら寂しい堂に一人侍る美童に狂って、通りすがりの下郎にでも襲われたのだろう。秋津丸の垂髪は千々に乱れ、衣も無残に裂けている。
「兄者! 成澄!」
先刻よりずっと遺骸の傍らで、膝を突いて何やら熱心に覗き込んでいた婆沙丸がここで小さく声を上げた。
「手を見てみろ! こやつ、何か握っているぞ……」
職業柄、死体の扱いに慣れている成澄が慎重、且つ決然と少年の固く握り締めた拳を開いて行く。
骨の折れる音を耳の良い田楽師兄弟は聞くまいと努めた。やがて──
手の中から現れたのは小さな紙片だった。びっしりと五言句が書き連ねてある。
《 東海姫氏国 白龍遊失水 宭急寄胡城 黄鶏代人食 黒鼠喰牛腸
猿犬称英雄 星流鳥野外 鐘鼓喧国中 青丘与赤土 茫茫遂為空 》
「……これは何だ?」
「……どういう意味だろう?」
顔を見合わせる双子の田楽師。
屈強な検非遺使は烏帽子に手をやりながら苦々しげに呟いた。
「有雪の出番だな? 俺はこの手のものにはカラッキシ弱い……」




