花喰い鬼 9
「憐れな……」
婆沙丸は歯の間から息を漏らした。
陰陽師の有雪も頭を振った。
「まさしく鬼に獲り憑かれておる……」
狂乱丸は、恍惚として微笑んでいる姫から背後の検非違使へ視線を移した。
「さあ、成澄、もう充分だろう? これ以上何を聞く必要がある? 早く姫を絡め捕れ!」
ところが、この後、一同が聞いたのはゾッとする音だった。
床に投げ出された大刀の音──
「十六夜姫よ、俺で気が済むなら好きにしろ」
言って、成澄は横臥した。
「な、何だと?」
「血迷ったか、成澄?」
屈強な検非遺使の意外な行動に居合わせた全員、色を失った。
「俺は構わぬよ。こんな俺の……不浄な体で姫を喜ばすことができるなら、それも良い」
床で成澄は笑う。
「俺はもう散々っぱら浅ましいものを見て来た。これ以上見ずに済むなら──今宵、愛した女に殺されるのも一興じゃ」
更に、独り言のように呟いた。
「思えば、今日まで生き永らえたのも、単に俺が自分で自分の命を絶つ勇気に欠けていたまでのこと。そんな愚かな身が姫と契ったのも何かの縁だ。いや、こうなってみると、俺は姫に殺されるために生きて来たような気もする。だから──俺は、姫に殺されても良い」
「何てこった! 成澄? おまえも鬼に獲り憑かれたな?」
橋下の陰陽師は舌打ちして吐き捨てた。
双子たちも半ば驚き、半ば呆れて、口々に叫ぶ。
「おまえがそんな腑抜けだったとは!」
「しっかりしろ! 早く正気に戻れ!」
「俺は正気だ!」
検非遺使は、日頃懇意の仲間に向かって声を荒らげた。
「浮かれ生きているおまえたちに何がわかる? 俺はとっくに……こんな世に愛想が尽きているんだ!
思えば、姫に殺された男たちは皆、至福の顔だった。長いこと、俺はそれが不思議でならなかったが。
今こそ、わかった! 連中は極楽を見たのだ! 十万億土の浄土とやらを愛しい姫に殺されて……
だから──ならば、俺も、この成澄も、姫よ、その可愛らしい足で存分に……蹴り殺してくれ!」
「アーハハハハ……」
雷鳴にも似て、鋭い笑い声が寝所を震わせた。
「あな、嬉しや! 検非遺使様もこう言っておられる。さあ、この上は卑しい下郎どもは去れ! この殿御も私のものじゃ!」
花を飛ばして、床に打ち捨てられてあった大刀に跳びつくや、十六夜姫は鞘を払った。
成澄は固く瞼を閉じたまま微動だにしない。ただ、刃の振り降ろされるのを一心に待っている。
今度こそ、とばかり姫は細い腕を伸ばして成澄の腹へ大刀を突き立てた──
「成澄っ──!」
一瞬早く、狂乱丸の袖が揺れて、手燭が飛んだ。
白閃……
姫の頭が炎に包まれる……
「ギャッ!」
凶行を止めようとして、咄嗟に投げつけた燭の火が姫の頭部に当たり、髪を塗り固めていた飴もろともアッという間に燃え上がったのだ。
手燭は姫に当たった後、弾けて床の成澄の上に落ちた。
「アツッ!」
火の粉を浴びて飛び起きる成澄。
婆沙丸が夜具を引っ掴んで床を転がる燭に被せて炎を消した。
その間にも、姫は──
「熱い……熱い……!」
姫は蝋燭のように三本の角を燃え立たせながら、踊るような足取りで部屋を抜け、縁から庭に転げ落ちた。そのまま蹌踉めきおろめき、月を映して涼しげに澄んだ池へと走る。
やがて、得も言われぬ清らかな水音が屋敷中に響き渡った。
花食い鬼が、自身を池に沈めた音だった。
十六夜姫の乳母は姫の狂気を知っていた。
中秋の名月の夜、最初に源匡房を襲って戻って来た時に全てを察したのだ。
だが、その後も、何に使うかを知りながら大鍋で飴を炊き、辻に牛のいない車を停めて、自分好みの男を漁る姫に協力し続けた。
母の代から使えてきた稲目は、恐ろしくもあり憐れでもあり姫を止められなかったと、引き出された使庁の白石を敷いた庭で泣いて告白した。
さればこそ、姫が検非遺使の中原成澄を引き込んだ時には、流石に今度ばかりは身の破滅だと悟ってあれほど恐れ慄いたのだ。
「おまえたちが一緒でなかったら、俺はあそこで殺されていたろうな?」
後日、月待ちの夜。
一条堀川の田楽屋敷で成澄は率直に認めた。
「だが、あの時は、真実、そうしたかった。姫に殺されたかったのだ。何故って? 口では上手く言えぬ。姫自身も言っていたが、血肉でしか贖えない──そんな感覚がフツフツと沸いてきて俺を虜にした。
身を滅せられることの……目眩く快感……残酷な喜びを覚えて……煉獄の火に焼かれる嬉しさ、とでも言えばいいのか? とにかく、あの夜ばかりは蛾が篝火に飛び込む気持ちがわかったよ」
成澄は庭を眺めやった。田楽師の庭には豪奢な池などなかったが。
「既に俺は姫と契っていたから……死も目合も同一のものに思えた。姫の与えてくれるものは全て貪り尽くしたかったのさ」
一気に盃を呷って、更に成澄は続けた。
「十六夜姫はあの時、俺にとって限りなく美しい、身も心も焦がし尽くす炎だったのだ。実際、燃えてしまったのは姫の方だったが……」
「言うな。もうそれ以上、言うなよ、成澄」
兄の田楽師は、儚げな紫苑色、吹き寄せ文様の袖を振って検非遺使の言葉を遮った。
友の懺悔を聞くのが辛いのではない。姫の名を呼ぶその声を聞きたくなかった。
そこには未だ鎮まらない恋の熱が燠火にも似て、確かに燻っていたから。
「改めて絵解きをするまでもないが──十六夜姫の三本の角は鉄輪を模したものだ」
例によって、人の心の機微などには頓着せず橋下の陰陽師が言う。
「昔物語が好きで精通していた姫は、女が鬼と化す件の話を読んでいたはず」
「〈宇治の橋姫伝説〉……?」 ※鉄輪=五徳。鉄の輪に三本の足がついた、火鉢に載せ鉄瓶をのせる。
「そう。あの中では、女が鬼に化けるとき鉄輪を被って角と為す。鉄輪の足は三本じゃ。それで、鬼になる正当な儀式として、どうしても角は三本必要だった。
とはいえ、小柄で華奢な姫にとって本物の鉄輪を被って男の屋敷へ赴くのは体力的に不可能だ」
「だから?」
感に耐えぬと言う風に婆沙丸が声を上げた。
「代用として? 飴で自分の髪を三本に塗り固めたのか……」
「それにしても」
有雪は珍しく深く溜息を吐いた。
「今も昔も女の情とは恐ろしいものよ。あの可愛らしい姫があそこまでするとは! 目の当たりにした今でも俺は信じられない。ブルルル……今後、恋占いには安易に手を出さないようにしよう」
女に限らぬさ……
狂乱丸は知っていた。
愛する者を失った時……奪われた時……人は鬼になる。
鬼の正体が十六夜姫だと、俺が見破ったのは、あの時、懇意の成澄を盗られた嫉妬に狂って、俺自身、鬼になりかけていたからではないのか?
とすれば──
ひょっとして、飴などではなくて、単に俺は同類の匂いを嗅ぎ取っていただけなのかも?
「──」
夜の闇の奥深く、同じ色の射千玉の髪を三本に分けてそそり立てている自分の姿をそっと思ってみる狂乱丸だった。
松虫の声がして、石塔の上にいつの間にか二十三夜の月が昇っている。
第三話 《花喰い鬼》 ── 了 ──
お気づきのように、一話に一つ、実在した人物か、今に伝わる書物・物語、
歴史上の出来事を絡めています。
次作は……人物です。
今回は不甲斐なかった成澄。果たして……




